作品批評は誰のために、そして何の為に(18205文字)
記事の要約
・批評とは「こう見た」を語ったもの
・ファンに嫌われる亡霊批評。
・物語を保存する"再生批評"、『物語そのもの』を扱う虚構批評、自己文脈を極める哲学批評。
・技術を磨くとクオリアが死ぬので注意しましょう。
1)批評とは?
さて「批評」とはなんだろう? 私のようにアニメの視聴者からすれば「作品を大仰に語る」、そんなイメージが批評という言葉にはある。
軽く調べてみると、規範批評・伝統的批評・ジャンル批評・読者反応批評・脱構築批評・精神分析批評・フェミニズム批評・ジェンダー批評・マルクス主義批評・文化批評・ポストコロニアル批評・新歴史主義・文体論的批評・透明な批評・現象学批評etc
こんなふうにキリがないくらいに批評の仕方はあり、その概要をさらってみると作家の意図、時代背景、言語形式、現代思想、社会的通念を言い表すものが多い。
とはいえ批評ではないとされる「感想」もまた、実は「印象批評」という批評の一種でもあったりもする。
理解が及ばない批評理論が多々あるがしかしそれを踏まえて強引に「批評」を一言で言うならば「自分の言葉で"こう"見たを語るもの」だと考えていいんじゃないだろうか。
この定義ならば「このアニメはいけすかない」という印象批評(感想)から、アニメーションに着目し「なぜこの物語をアニメでする必要があったか」と考える表現論、とある思想を引っ張ってきて語る思想論、物語類型を考察する歴史的アプローチ、さらには「この物語は何だったのか?」とする物語論まで全て包括できる。
批評方法は多種多様あれど、各人の「このアニメを私は"こう"見たを語ったもの」―――それが批評ということだ。(本記事ではこの意味で「批評」という言葉を使い、また音楽ライター・高橋健太郎さんの主張を元にしていますhttp://togetter.com/li/301495)
2)ファンに嫌われる批評、好かれる批評
ファンが求めている批評は新しい視点の開拓だと言っていい。
そのアニメは何だったのか? あの展開はどういう意味を持つものなのかといった物語論から、アニメーション演出の妙や、監督の裏話、声優の演技への背景、そんな自分では気付かなかった視点を欲している。
とはいえ「新しい視点」を開拓してくれれば何でもいいというわけではない。あくまでもその作品に即したものでなければいけないはずだ。
だからこそ、作品を主体に置かずそこから別のものを語る批評は嫌われる。必ずしもそういった批評が万人に嫌われるわけではないが、その作品を愛しているファンからすれば唾棄すべきものだろう。
というのも当たり前で主従が逆転した「作品をダシにした☓☓語り」なんてものはファンは求めていない。誰も聞きたくはない。
作品をダシにした思想語り、作品をダシにした政治的批判、作品をダシにしたpolitical correctness的表現の有無なんてものは果てしなくどうでもいい。
故に以下の2つの批評タイプは嫌われるのである。
1、アニメを通じて思想・時代性を語る批評
「現代の閉塞しきった空気がストーリーに反映されている」「フェミニズムの思想がこのアニメから漂う」といったものから、エヴァとオウム真理教をくっつけたり、若者社会がエヴァという作品を生んだという言説も当てはまる。
なぜこれが嫌われるかというと「その作品」について言及しているわけでは無いからだ。
その思想分析はその作品に関係あるのか? その時代分析はその作品に関係あるのだろうか? もちろんファンからすれば関係無いと断言できる。
本当はアニメをダシにして☓☓を語りたいだけじゃないのか、そういう嫌われ方である。
2、他作品を持ってくる亡霊批評
「『結城友奈は勇者である』は『まどか☆マギカ』を超えられなかった」「『まどか☆マギカ』は『エヴァ』を超えられなかった」
「『進撃の巨人』は『エヴァ』の正統後継機作品である」
など。
あくまでこれらは一例だが、当人は関係していると思っていても他者からすれば「比較条件が雑」なため強引に他作品をひっぱって語っているようにしか見えない場合が多い。
幽霊のように何度も何度も登場することから「亡霊批評」と私は呼んでいる。
「ゆゆゆとまど☆マギを比較して語んじゃねえ!」とファンが怒るのは、似ても似つかない作品を持ってきて当該作品を毀損しているように見えるからである。
『ゆゆゆ』は魔法少女モノでもなんでもないし、その世界構造から展開に至るまで特段『まどか☆マギカ』と似ているわけではない。けれど結城友奈を鹿目まどか・東郷美森を暁美ほむらに見立てたり、「希望と絶望」という要素で両作品をこじつけ語り出す人を挙げたらキリがない。
さらに(1)で取り上げた批評と混ざり合い、作品同士を比較し物語の共通項を探っているのかなと思いきや実は社会背景を語りたかっただけならばそれはもう最悪だ。
ただし比較条件が周囲から見て「正当」だと思える場合は、逆に評価されもする。
『ゆゆゆ』であれば今までの「勇者類型」に属する作品での比較ならば納得されるだろうし、『まどか☆マギカ』ならば「魔法少女類型」に属する作品ならば反発は限りなく少ないだろう。喜ばれる場合だってある。
この2つは嫌われる批評だと私は考えている。繰り返すが「その作品に即していない」からだ。
以前ある界隈で「何言っているか意味分からん批評をぶっ潰す」「アニメ批評批評をする」と盛り上がっていたのもそういった作品に即していない批評への苛立ちだろうと思えるのだ。
そしてこの「作品に即している」という部分を更に突き詰めていくと、監督、声優、アニメーターといった舞台裏もまた不要ということになっていく。
作品が好き!という層は上3つを絡めた批評は好きだとは思うが、ここから更に狭まった『物語そのもの』が好き!という層はそんな舞台裏さえもどうでもよくなってくる。
以下の音楽批評の騒動でも、音楽という商品が好きなのか、それとも『音楽そのもの』が好きなのかで批評への接し方が違ってくるのは見て取れる。
このまとめで登場するℊさんは、音楽批評にはその音楽のバックボーンが必要なのは当然だろと言う。(白tweetのみ抜粋)
音楽だけを語るとかどんな文章だよ。カンのレビューで「ドラムがドコドコ鳴ってます。非言語的な雄叫びが入ってます。ビヨーンとか効果音みたいなのが入ってます。10点」って書けばいいんか
もういろんなひとが言ってるけど批評ってのは聞いただけ、見ただけではわからんバックグラウンドとか作品に対する新たな視点を提供するためにやるんだろ。こんなの超基本中の基本だろ。
一連の意見にサナトリウム^q^ さんはリプライの会話で「だから"俺は"批評が嫌いなんだなw」と言い放つ。ちなみに私も同意見で、だから"そういった"批評は嫌いなんだなと改めて再確認できた。
OMSB & KURT VANDANさんも言っているがバックボーンやコンテキストに比重を置かれた批評なんてものはそれらを取り除けば何も残らない。そういうものを求めている人はその音楽に興味があるわけではなく、その音楽の"文脈"に興味があるだけなんじゃないか。
今の流れを見た上で、微熱の記事は酷いけどね。俺等の記事なんかバックボーンとったら何も残らねーじゃん。
— OMSB & KURT VANDAN (@WAH_NAH_MICHEAL) 2012, 5月 9
ここの一連の流れは音楽(商品)を語るのか、あるいは『音楽そのもの』を語るのかの立場の違いだろう。三ページ目部分である。
→激論!音楽批評とは? -高橋健太郎 vs. 微熱王子- (3ページ目) - Togetterまとめ
これはなにも音楽だけの話ではなく、どんなことでも言えるだろう。物語だってそうだ。
『物語そのもの』を愛している人からすれば、その作品を社会的事情が生み出した「物(商品)」として捉えるのではなく、『物語そのもの』として扱い批評して欲しいということである。*1
私は少ししか拝見していないがアニメ評論家の藤津亮太さんの書物が評価されているのは、アニメを主体にしていてかつそこから彼しか導き出せない視点を提供しているからだと思う。
朝日新聞に掲載されていた『輪るピングドラム』の短評はまさに『物語そのもの』に触れているし、周囲を見渡せば「この批評好き」と呟かせるのは間違いなく『輪るピングドラムそのもの』の核心に迫っていたからだろう。
文字数が限られている場所でここまでピンドラを言い表せてしまうのはすごい。
これ朝日新聞のアニメ評(拾い物)なんだけどピンドラの話をここまで簡潔に説明できるのすごいと思った。 pic.twitter.com/IiYClMMkV7
— mora式 (@mora_1227) January 5, 2015
以前こんな記事を書いた。
意訳すれば「『物語そのもの』を語るのにそれに関係ない文脈を持ってくるな」というもの。
違う言い方をするならば「外部文脈を剥ぎとってしまえば、お前達は何も言えてないじゃないか」と非難するものでもある。
もちろんここで言われる文脈を殺すとは、あくまで『物語そのもの』に対してのみに限るものだし、それくらいに文脈というものはかなり意識的にならないと取り外せないものだ。その全てを殺せるわけでもない。コンテキストは私達に絶えず纏わりつき、自分が点上の存在ではなく残念ながら線上の存在だと突きつけてくる。
けれども意識できるものは取り外していいだろう。だからこそ私は作家論さえも要らないと考えている。
「作者」は物語を生み出す装置に過ぎないからこそ、その物語〈=テクスト〉に対する解説を求めても仕方がないのである。何故なら彼らはある世界ある虚構を表現しただけであって、物語〈=テクスト*2〉に対する答えを持っているわけではないのだから。
この「文脈を殺せ」記事は多くの人に見てもらうことになり多様な意見を頂いた。私の中ではこういうふうに考える人はどうせ少ないんだろうなと思っていたし、同意してくれる人なんているのか?とも懸念していた。
何故なら大抵のネットに溢れる批評物は(私からすれば)どうでもいい文脈によって書かれているものが多く、かつそれが一定の評価を得ている市場的価値観があると思っていたからだ。
でも予想に反して、同意してくれる人、あるいは極論すぎる嫌いもあるがという前置きで文脈語りの是非や、他作品を持ってきて語ることはどうなのかと考えてくれた人、文脈しか語っていない批評とか多いよねといったメッセージを頂いた。
もちろん読んで何も発言しない人もいるし、好意的な意見と同じくらいに否定的な意見も貰った。ゆえに単純に文脈否定・肯定どちらが多い少ないは私には分からないが、ただやっぱそう考える人はいるよなということだ。
『物語そのもの』が従な扱いだったり、他作品と直結させていたり、全然関係ない時代性とか語られていたらそりゃファンからすれば一蹴ものである。
『まど☆マギ』語るなら『まど☆マギ』で語れよって思うし、それで語れないのなら何も語ってないんだよ。
とは言え文脈に比重を置いた批評が消えてほしいわけではない。もちろん嫌いだがあってはいい、ただその物語について何も語っていないことを自覚して欲しいかなと個人的には思う。
以下はその時頂いた意見で面白いなと思ったのが、松下さんのもの。
つづき。例えば、美術の勉強を始めた頃先生に突きつけられた最初の(そして永遠に続く)課題は「死んでもキャプション見るな、君はキャプション書く側の人間になるんだろ?」だったけど、先ほどのブログ主にそこまでマッチョな訓練ができるかなあ。
— 松下哲也 『フュースリ論』執筆中 (@pinetree1981) 2014, 11月 22
文脈廃絶を突き詰めていくと、そういった「外部の情報」も対象になると私も思っている。
だから自分が読んでいる作品の批評を書き上げるまでは、誰かの考察や解説、あるいは製作者からの意図の説明や、周囲の批評は断ち切ってしまう。可能ならば当該作品についての会話もなるべくしないために話題の俎上にあげないように注意したりもする。
誰かの考えを聞いてしまうとやっぱりどうしても引っ張られてしまうしそれは私自身嫌なのでこれからも気をつけたい。(もう見ないだろうなという作品考察はもういっかという気持ちで読んじゃうけどね)
んーでね正直なんでここまで文脈を殺すことに拘るのかと言われれば、ほんっとどうでもいい文脈で語られ毀損させられる作品批評が多すぎるからだ。
ここに尽きるし私はそれを許容できないからだよ。
何度でも言うけど"そのまま"でいい。
「黒人女性の解放を歌ったんだって言われてる。ポール自身も、そんなことを言ってたらしいよ。でも、ぼくはそういう考え方があんまり好きじゃない」
「どうして?」
「だって、そんなのひねくれてるよ。そのままでいいじゃんか。
ブラックバードのことを歌ってる歌なんだから」
私もナオと同じく、"そういう考え方"が好きじゃない。
Blackbirdのことを歌っているのにそれが黒人女性のことが背景にあるとかバカじゃないの。なぜ『音楽そのもの』について言及出来ないわけ? いつだってそこの世界は開かれているというのに何故どうしてそんな下らないことを言えるんだよ
「……なんでよ」「何で」「どうして」「何で」「どうして」「何で」「どうして」とSCE_2よろしく理解などしたくもない。
もちろん「見たもの」と「見たものを語る」ことは別のものだ。「見たもの」は語れないし、それを語ろうとしてもそれは「見たもの」ではなくなり「見たものを語った」というふうに落ち着いてしまう。「アニメを見たこと」と「アニメを見たことを言葉で表し語ること」に共通項はなく、そこには大きな隔たりがある。
だからといって、文脈に過剰に依存していいということでも無い。
しかしじゃあ「『物語そのもの』で語る」とは具体的にどういうもので、かつどんな価値があるのか?という疑問が出てくる。
例えば小学校2年生の中村咲紀さんが書いた『セロひきのゴーシュ』の読書感想文がある。
これの前半部分は間違いなく「『物語そのもの』で語る」ものであり、そしてここに心を動かされたならばこの批評タイプの「価値」を示すものだ。
一部分だけ引用しても仕方ないので、Somethingorangeさんの記事に移動して読まれた方が良いと思う。
→小学校2年生の作文に泣かせられたよ。 - Something Orange
『アイドルマスターシンデレラガールズ』で言えば、神崎蘭子の中二病的言い回しを解説したcindereronさんの記事もそうだろう。デレマスそれそのものを好きな人からすれば喜ばれる記事だと思う。
ちなみに蘭子ちゃんはめちゃくちゃ可愛い。
「我が名は神崎蘭子。血の盟約に従い、我とともに魂の共鳴を奏でん。宴の始まりぞ」
→「わたし、神崎蘭子っていいます。同じプロジェクトの仲間同士、一緒に頑張りましょうね。わくわくします!」たぶん、こんな感じです。「宴の始まりぞ」は直訳すると「いよいよプロジェクト始動ですね!」あたりなんでしょうが、意訳して「わくわくします!」にしてみました。
――シンデレラガールズ第2話と第3話、蘭子の熊本弁翻訳 - しんでれ論
あるいは『リトルバスターズ』ならば、「KEY」「麻枝准」「リトバスから見るCLANNAD」で語られているものより、「リトバス考察」と謳われたものほうが圧倒的にが読む価値がある。
来ヶ谷√で理樹が見た夢とは何だったのか? 何故クドの名前の由来はあんな内容なのか? あの場面で流れるSong for friendsの意味とは?
―――そんな時間の限り物語に向かい合った人の物語内で導き出される答えに興奮したことは誰にでもあるのではないか。
「メーカー」「作者」「他作品」が用いられる批評よりこちらのほうが断然に価値を感じないだろうか。『物語そのもの』に新しい視点を開拓してくれるもののほうが読みたくならないだろうか。私はその側だ。
"リトルバスターズは謎が多い作品だからこそ考察が出来るものだしそこに「『物語そのもの』を語る」価値が生まれる。けれど萌えゲー、日常アニメそんな解釈の幅が狭い作品でもそう言えるのか?"
言える。断言できる。
その批評物が他者に認められるかどうかはその人の練度に関わってくることなのでなんとも言えないが、セロ弾きのゴーシュの感想にときめきを覚えたならそういうことだ。*2
少なくとも私は「『物語そのもの』で語ら」れたものは大好きだよ。どうでもいい外部文脈で語られるものより、圧倒的に価値を感じてしまう。
3)再生批評
さて、では私が目指している批評とは何か? それは物語を"圧縮"することに他ならない。
ergを保存するっていうのは、約20-40時間もかかる膨大な量のerg媒体をを出来るだけ・そのまま・コンパクトに記録したいっていう意味。
その記録物を観るだけで「一本のergを短時間で思い出せる」ことが目的ということでもある。
上の記事でも言っているんだけど、私は長年物語の保存方法について試行錯誤してきていたわけね。
全CGを一つの動画にまとめるだとか、プレイ動画を作る、キャラボイスを作成するといった延長線上に「文字で物語を再構成させる」という保存方法に行き着くことになる。言うなれば物語の物語化である。
そんなことを必死でやってきた結果、考察記事、『物語そのもの』で語ること、物語内枠での新しい視点の開拓といったものが副産物として生まれている状態になっている。
"観た"物語を保存する―――という目線で見ると(「物語を保存する」ではなく「"観た"物語を保存する」という部分は大きな差異があるので注意されたし)、これらの記事が何をしたいのかよく分かるはず。自分で言うのも何だけれど記事の構成や書き方は独特であり、ぶっちゃけ何がしたいのかよく分からないという人もいると思う。
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グリザイアの楽園。それは箱庭の少女達が紡ぎだす(14935文字)
こういった語りを「再生批評」と名付けることにする。
今までは読解型感想と言っていたけれど、どちらかと言うとこちらのほうが適切だろう。物語を再生(Play)するような語りであるし、あるいはそうしたいという願望が含まれる批評物のこと。
私は私の為に書いていたので他者にもまた「プレイし終わった物語を再生させているような感覚」を与えられているとは思っていなかったんだけれど、はつゆきさくらの記事の感想を貰うたびにそういうこともありえるのだなと気づく。
記事を読んでくれた方の反応を見るに(その再生批評の練度が高ければ高いほど+その人が所有する『物語そのもの』にマッチングできれば)「新しい視点の開拓」・「再プレイの喚起」の2つの特徴が挙げられるようだった。
そもそも物語の再構築という行程そのものが、「私」というフィルターを通したものであると言っていい。故にある物語事実に触れて語ることが「新しい視点の開拓」となり得るんだろうと思おう。
再プレイ喚起とは、そもそも物語の物語化を目指している批評なので上手くいけばそういう状況も起せられるのだろう。「もう一度プレイしなきゃ」と言ってくれる人多いのでそこは有り難いなと思う。
言うなれば「再生批評」とは、読んだ人の感情を駆動させる回路のようなものだ。魔術回路に魔力を注ぎ込んで魔術を発生させるように、感情によって編まれた言語回路にエネルギーを注ぎ込む(読む)ことで、読者に内在する『物語そのもの』が再生し始める、みたいなね。
とはいっても全て「結果的に」という枕詞がつく。
多くの人に読んでもらえれば嬉しいが、あくまでもこれら感想は自分の為にやっているだけであり結果的にそういった批評物が生まれただけ。ここを忘れてしまうと(つまり他者の為に批評を書き始めると)、外発的動機に心がぶっ潰されるので気をつけないといけないんだろうね。ここは次章で取り上げる。
さて、今後の指針としては「再生批評」を突き詰めるとどうなるか、どうすればより練度を高められるのか。あるいは「虚構」に主眼を置いた批評とはどういうものかというのを考えていきたい。
1、再生批評
再生批評を突き詰めると「批評」という形態を捨てて、「創作」というステージに行くことになると思うんだよね。批評は"世界"を表せないけれど、創作ならば"世界"を再現可能になる。本当の意味で。
とは言っても再生批評が目指すのは、二次創作ではなく、あくまで"世界"(=物語そのもの)の再現でありその手段として物語の再構成が執り行われる。
このRewriteのMADは、まさに私と同じような立場で作られたものではないか?
『Rewrite』という作品の断片的なパーツを繋ぎ合わせ、紡いでいき、再構成し、更には千里朱音に主眼を置いた「誰かが"観た"Rewriteの世界」を表現するまでに至っている。
もうこれは圧倒的。すごいよ。
私が目指しているのはこのレベルなんだけど、ただこれ「文字」じゃ無理な気がするんだよね。
映像はその世界を数瞬かつ具体的に表す事ができるが、文字は長い時間そこに触れていなければいけないし言語では"世界"の表現はかなりの技巧が必要とされる。ここがネックだなと思う。
それに言語での再生批評は、すでに限界な気がしている。はつゆきさくらと同等の再生批評は書くことは可能でも、あれ"以上"は目指せないのではないか? と。(ここのロールモデル欲しいなあ。どっかに居そうなんだけどね……)
とはいえ言語ではない別の媒体である音・映像に手を出してしまうと「"世界"を表現」は出来ても、「語る」ことは出来なくなるのでうーむむ……となっている。
でも物語を保存するという立場に立てば、別段語ることが出来なくても私としては問題ないのかもしれない。
たまに「キャラボイス」の詰め合わせをergをプレイし終ったあとに作るんだけど、ここらへんRemixして映像とぐちゃぐちゃにしてみたいなーという欲求はあるしMAD動画に興味もあるので動機としては十分。おいおいやり始めるかもしれない。「面白そう」という好奇心やっぱ大事。
2、虚構批評
虚構批評とはすなわち『物語そのもの』を主眼に語ることである。
透明な批評(transparent criticism)「作品世界と読者の世界との間に仕切りが存在しないかのようにテクストのなかに入り込んで論じるような方法」と近いものかもしれない。
じゃあ「透明な批評」じゃん?と思うんだけど、ただこれは私がずっとやっている感想と特に変わらないんだよね。
すると追求する必要性はないので、そういうことではなく
例)
結城友奈は勇者である[最終回]。この冷たい世界を受け入れよう、そして
目指しているのは、もう一歩進めた「『物語そのもの』を主眼に置いた語り」。ようは今までの感想記事よりもっと純度を高めた語りというわけで、その為の名称として虚構批評と呼ばせてもらう。
これは『物語そのもの』の延長線上にある考え方と言ってもいい。
『物語そのもの』は外部(現実にいる私達)への繋がれ保たれつつも、独立し確立してしまっている一つの"世界"だと。
そして浅学を承知で語らせてもらえば、これまでの文学理論は、哲学、言語学、美学、民俗学、心理学などあらゆる分野から理論を借りてくることで、印象批評という曖昧模糊で主観的で学問にならない領域から脱却するように客観性を獲得しようとしてきたんじゃないかと思っている。
でもこれは大きな間違いだと思うんだよね。作品をばらばらに分解して研究したいというのならともかく、「語る」場合、そのような方法では虚構は語れやしないんじゃないか。
そもそも物語とは、曖昧で、流動的で、主観的にしか語ることができないもの。虚構である『物語そのもの』に理論を持ってきたって何かがなせるとは思えないんだよね。虚構批評(=物語そのものを論じること)そんなものがあるのか?とか実現できるのか?というのはこの際どうでもいい。そもそも「言語」を使って虚構を語ろうとしている時点で結末は見えいている。
でもなんとかなるでしょ。
その為の手がかりになりそうなのは印象批評と、手前味噌で悪いが再生批評だろうなと感じている。
これらの批評は客観性をベースにするのではなく、本来共感と納得を得られない主観をベースにしているからこそ、「虚構」と相性がいいんじゃないかと考えるわけ。
再生批評もまた虚構批評の一部ではあると思うんだけど、もっとこっちの路線で純度を上げていければ重畳かな。もしかしたら結果的に生まれるこの2つの批評に違いはないのかもしれないけれど、虚構批評と再生批評は「目的」が違うからね。どうなんだろ。
ここはおいおい取り上げていく。
3、哲学批評
哲学批評とは、〈自分哲学〉を用いて作品を語るもの。
これはチェコさんの記事読んでてそう言われればそういう批評あるよねと思い、そう名付けてみた。これもまた極めるとかなり面白いことになると思う。
哲学批評の利点は、たった1つでも独自の視点〈自分哲学〉があれば何でもスパスパ切れてしまえること。これがあればどんな物語でも切り込めるようになるし、語れてしまう。
その人なりの哲学や、何かを語るときに武器となるような自分の軸を持っておくと、東京の電話帳はもちろん、『ONE PIECE』のことも『スラムダンク』のことも、仕事のことも恋愛のことも日々のごはんのことも、たぶんなんでも面白く見ることができます。もちろん人によって、得意な領域・不得意な領域はあるでしょうが、1つの独自な視点、哲学を獲得すると、それでなんでもかんでもスパスパ切れちゃうみたいなところはあります。
チェコさんの記事では〈自分哲学〉がどういうものかという厳密な定義は語られていないが、私が思うにこれは「知識」によるものではなく「実感+思考」をベースにしたものなんじゃないかと考える。
自分の実感から生まれたものを考え続け錬鉄し、強度を上げ、その集積物が〈自分哲学〉と呼ばれるものではないか? と。
もし他者の借り物でいいならば自分哲学と言わず、「他者哲学」と言えばいいしもっと単純に「哲学」と呼ぶのではないだろうか。ソシュールのシニフィアンとシニフィエを使って物語を語るならば、それはもう「ソシュールの哲学」であって「自分の哲学」ではないはずだ。
これは海燕さんの「戦場感覚」という視点が分かりやすい例だと思う。海燕さんのこれはどんな作品でも切り込めると思うし、語れるはず。実際に同人誌『戦場感覚』では『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』『BANANA FISH』『ダイアナ妃の真実』といった一般小説*3から、少女漫画、史実と幅広い作品をこの視点で串刺しにしている。
こういうものを〈自分哲学〉と呼ぶのだと考える。
私だったら、例えば他者廃絶性の視点を磨いていけば切れ味のいいナイフになりえるのかもしれない。今の未熟な練度でも――この言葉は抽象度が高いので――切ろうと思えば何でも切れると思う。
そこから更に「心象風景」「心象強度」「他者読解性」をリンクさせていくことで登場人物の心の在り方を語れるとは思うが、ただその語りの質がいかほどかは想像がつくけどね。
とは言え〈自分哲学〉のメリットはその早さでもある。わざわざ物語を熟読しなくても語れてしまう、一瞬で対象を(自分哲学の領域内で)理解してしまえるのは魅力的だろう。圧倒的な時間短縮が可能になる。
しかし哲学批評のデメリットもまさにここで、その独自の視点で全て切れてしまうのが問題なんだよね。(あるいは全て切ろうとすることが)
これは文脈語りの自己versionと言ってもよくて、「誤読*4」がばんばん発生してしまう。
つまり「物語に内在する文脈」の視点に立てば、〈自分哲学〉はそれを切断してしまう。だから「誤読」になりえるし、そこを無視するのであれば「独自の視点で語る」という魅力になる。
メリットとデメリットが表裏一体なので、自分がどちらを優先するかで使うか使わないか決断できるんじゃないだろうか。
とはいえ磨いておいて損はないと思う。どうでもいい作品にはさくっとナイフで切り込み、好きな作品は時間をかけて読解するという姿勢もありだろう。
それに例え、後者を選択してもいつだって私達は「自分」という文脈からは逃れられないので(もちろん意識できるものは取り除けるけれども)、フレキシブルに対応したほうがいいのかねとちょい考え中。
考え中もなにも私は既にここに足掛けているので、あとはどう折り合いをつけていくかだろう。生きて、考えることを続けていれば〈自分哲学〉は勝手に生まれて強度が高くなっていくものだからねー。基本的には受け入れていったほうがいい。
これねこれ。
哲学批評は、印象批評の「自己」の部分を極めていった先と言っていい。何故なら印象批評が魅力的にうつる記事は、たいていその書き手の視点が独特で、かつ魅力的だからだ。
4)作品批評の練度を上げようとすることの弊害
面白かった―――そんな気持ちを表現したいから人は作品を語るんだと思う。
きっと誰でも最初はそんな感じで、どうすれば自分の気持ちを表現できるか?ということを考えて他者に伝達できるように技術を習得したり、それを補強するため知識や外部要素を持ち込むようになる。
けれど長年批評活動をしていると「面白い作品だったから語る」のではなく、「語るために作品を見る」と変わっていく場合が多い。ブログ然り、同人誌然り、Twitter然りね。
この延長線上に「俺は作品を厳しく評価するんだ」と息巻く人もいる。結局根底にあるのは「作品を厳しく評価している自分に価値がある」と勘違いしているだけだし、そのために作品を消費していく。
あるいは「コンテンツを教養として読む」界隈もここに包括される。「教養として読むSF作品」「教養として読む古典文学」なんてなものは最たるもので、彼らは作品を自分を価値付けるものとしてしか見ていない。
そもそも物語を読んで教養が高まるという言説がちゃんちゃらおかしいんだけどね。教養として読むアニメ、教養として読むラノベ、教養として読むerg―――媒体作品を変えるだけで「コンテンツを教養として読む」ことの滑稽さが表れてくる。*5
こんなふうに作品を評価することに価値を覚えたり、あるいは書いた批評物が世間に評価されてしまったり、もしくはコンテンツで教養が鍛えられるという考えに縋ってしまうと
誰かに評価されるために作品を読むようになる
これは馬鹿げている。『物語そのもの』記事でも言ったけれど、作品は楽しんでこそ、ワクワクドキドキしてこそその存在価値は完了する。
なのに作品を語ることを目的にしたり、分析することに価値を見いだしてしまったら地獄だよ。はっきり云って最悪だ。だってその人にとって「作品」とは自分を価値付ける道具でしかないということになんだから。
楽しむ為ではなく、批評するために作品があるのだとしたら、"銀行通帳の残高"を眺めるのと大差ない。
そうしてクオリアは死んでいき芸術的盲人に成り果てる。偉い学者や知識人でも芸術的盲人がいるというあのお話は、物語を「自分を価値付ける道具」として見れなくなってしまうからだ。
あるいは『文学とは何か』で語られるように構造主義がもたらした〈脱神秘化〉がこれらと同じように私には思える。彼らはそういう姿勢で物語に臨んでいる限り、「記号」「構造」「流れ」としてししか捉えることができなくそれらに芸術性や神秘性は感じられないとさえね。
構造主義の利得とは何か? 第一に言えるのは、構造主義は、情け容赦ない文学の〈脱神秘化〉を代表していることだ。グレマスとジュネットを読んだあとでは、詩の第三行めから打ち合う剣の響きを開くことはもはやむつかしくなる。あるいはT・S・エリオットの「うつろな人間」を読んで、案山子であるとはどんな気分なのかわかったと思うのもむつかしくなる。
文学作品を、それ以外の言語的産出物と同列において、一箇の〈構築物〉として認め、〈構築物〉であるからには科学研究の対象と同様にそのメカニズムを分類し分析できるとする批評の登場によって、気ままな主観的おしゃべりは、駆逐されてしまったのだ。
――文学とは何か
作品批評が仕事になっている人ならば尚更だろう。好きなことを仕事にする*6ことってきっととても辛いんだよ。自分の「好き」が透明になっていくことも判らなくなって、気づいたときには手遅れだったってこともあり得る。
そしてたまごまごさんの記事はこのことを的確に表している。
楽しいんだよ、調理が。
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一時期はこの「調理」が楽しくなりすぎて、「好きなもの」を見失いました。からっぽです。
鬱みたいなもんだろうね。
すっからかん。何をやっても楽しくないし何を見ても面白く無い。
やりすぎはよくない。そういう時は調理をやめて、トマト(好きなもの)をひたすらかじる。
かじってかじってかじりまくる。
たまにきゅうり(別の好きそうなもの)や、あるいは肉(全く別ジャンル)をかじるのもいい。
ふっと、その瞬間に、好きなモノが蘇る。
ぼくは調理のためにトマトを集めていたんじゃない。
トマトが好きだから調理していたんじゃないか。
―どうしても「面白いよ」が言いたいから生きてる - たまごまごごはん
たまごまごさんの場合は、作品を誰かに伝える為に技術を習得したと書かれているが、私ならば触れた作品をもっと楽しくするために技術を磨いていこうということになるんだと思う。
理論や技術を磨くことの是非をきっと忘れちゃいけない。ここを疎かにしてしまったら何のために行動しているのかという意味が消失してしまうし、それは駄目だ。
技術を磨くことは、感情をメルトダウンさせてしまう性質があることを知っておいたほうがいいに違いない。ここは私だって例外じゃないはずだからこそ、強く意識しておかなければいけないんだと思う。
関連記事
ぶっちゃけ私は「批評」は特別に必要なものとは思っていない。もちろんその批評が新しい視点を開拓してくれならば価値はあるし、読むと興奮もする。
しかし絶対になければいけないものだとは思わない。ネットが普及していなかった頃は誰かの感想を読むということを簡単にはできなかったし、そもそもそういう発想さえ無かった。
好きな作品があればそれを周囲の友人にすすめては語り合うといった程度がせいぜいか。それも自分が薦めたもの全てを読んでくれることなんてありないので、必然的に感想を欲するということさえ無かったように思う。読んで一緒に話せればいいよね、とそんな感じ。
基本的に物語って、誰かと共有するものじゃないしね。
私が他者の感想・考察を読み始めたのだってつい最近の出来事だし、それまではもちろんネット上に多種多様な批評物が散見するものの、読もうとする動機はなかった。
単純に考えて必要無かった。私にとってという枕を付けるならば、批評物って別になくちゃいけないものじゃない。無くてもいいんだよ。
だから批評を書いたり、探求するってのは道楽なんだよね。伊達や酔狂でもあると。
そして批評物を追求してくと、前述したようにクオリアが死んでいく危険性を孕んでいるのでやりたい人だけどうぞ、私はあんまり薦めないよ、でも『物語そのもの』を語るものならば歓迎しちゃうっていう感じかな。もう少しネット上にこの批評が普及してくれると個人的には嬉しい。
ということで物語を読み始めた人は、感想なんてて付けなくていいので面白い作品をたらふく読んでいくほうが絶対いいと思うよ。いつかふとした瞬間に「感想書きたくなる日」がくるから。あとはその時に悩めばいいんじゃないかな。
私は「物語を保存したい」という動機でブログはじめて、そのうち「書くこと」の良さを知るようになったなとふとふと思う。これに気付けたのはラッキーだし、宮棟に感謝しなくちゃね。
つまり再生批評も大事だけど、ふっつーーの感想記事のほうが私にとっては何倍も価値がある。万倍もね。それは言いすぎかな。とは言え文字を書くという意味ではない。
整理する。
・批評とは「こう見た」を語ったもの
・ファンに嫌われるのは亡霊批評と作品をダシにした☓☓語り
・『物語そのもの』を扱う批評の方が好ましい
・物語を保存する"再生批評"、『物語そのもの』を扱う虚構批評、自己文脈を極める哲学批評は今後の指針にしていく。
・技術を磨くとクオリアが死ぬので注意しましょう。
それとプレゼントリストを作ってみたので何か贈って頂ければ嬉しいですにゃにゃ
→管理人のほしいものリスト。という唐突な欲望をのこして終わりです。
がをがを。
それでは またね。
→アニメを楽しめなくなるのは「俯瞰高度」が高すぎるせい。高度一万メートルの世界にお別れしよう
→アニメをアニメとして、エ口ゲをエ口ゲだけで見る「物語の内在視点」のススメ。作者なんてものは存在しない(