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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

アニメをアニメとして、エロゲをエロゲだけで見る「物語の内在視点」のススメ。作者なんてものは存在しない(4436文字)

オピニオン best
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※『魔法少女まどか☆マギカ』『猫撫ディストーション』を取り上げるので未視聴者は注意


今現在の(ウェブ上において)作品感想とは「作者」を入れこむべきだ、みたいな考えが透けて見える。

例えば、『宮﨑駿は停滞したのか?崖の上のポニョ』とか『虚淵はなにを目指したのか、魔法少女まどか☆マギカ』とか『ヤマカン爆死、フラクタル』といった具合に――その物語とは何ら関係ない作者を持ってきては作者の意図探しを始めだす。こう伝えたかったのではないか、こう創りたかったのではないか、そういう作者の内面を忖度する妄想には枚挙に暇がない。

酷いものになると作者の「人間性」にまで絡めた唾棄すべきものもあったり、「ポニョは◯◯のオマージュだった」とか「まどか作品の元ネタは☓☓だった!」と他作品を持ってくきたりもする。そんな当該物語を当該物語として見ることができていない記事にはだいぶうんざりするものだ。

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確かに。物語に付随する外部情報を知ることは知的な楽しさがある、けれども「それは分かったけど、肝心の「物語」としての評はどこにあるの?」と思えて仕方がならない。物語だけを指し示した感想はなく、外部文献を参照することでしか『まどか☆マギカ』を語れないのだとしたらなんだかなあ……という気持ちでいっぱいであり、結局のところその人は何かを持ち寄らねば語れないことを露呈していることになる。

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そこで、「物語を物語だけで見るのはどうか?」というススメを書いてみようと思う。

私的には今から語る「物語だけ」で語っている感想や、「作者を切り離した」評論記事が増えたら嬉しいのだが、さて。









1)「作者」を切り離す


作者を切り離すとは、「作品に作者なんて存在しない」という姿勢で物語を見ることに他ならない。

例えば『魔法少女まどか☆マギカ』だったら、脚本家である虚淵玄氏に一切言及しないで、「まどか☆マギカの世界のみ」で視聴することになる。虚淵氏の真意とか、最も伝えたかったこととか、どういった境地を目指して作ったかなどそんなことは考えず、取り除き、劇中を見渡すことになる。

すると、こういった疑問を覚えるだろう。

  • なぜ鹿目まどかは奇跡を願うようになったのか?(最終話) 
  • 今まで平穏な日常を送ってきた彼女が、その決意をするまでに必要だったものは何だったのか? 
  • 暁ほむらは神まどかと別れる際、なぜ最後の最後で必至に引きとめようとしなかったのか?
  • 新しく作り替えられた世界で、なぜほむらは「赤いリボン」を髪に結びつけているのか?


そういった数多の疑問に対しもちろん「作者」は持ち寄らず、「物語の内側」のみで考えて、決着をつけようとする。それについて語り、語る際も「物語の枠内」のみで語っていく。

例えば、まどかが奇跡を願ったのは「誰かの祈りが間違いだなんて思いたくないよ」と思ったからだとか、その決意に至ったのはさやかやほむらの血を血で洗い骨を骨ごと砕くような魔女との闘争を見たからだと、そしてインキュベータことキュウべえによって、過去から今にいたる全ての魔法少女の命の軌跡を目撃したからこそ、全ての魔女を救済する奇跡を願い、暁美ほむらが新世界で、赤いリボンを結びつけているのはまどかの意志を引き継いだ証だ、と答えることもできるだろう。

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こんなふうに物語を見ることを(私の感想の錬度はどうであれ)、「物語の内在視点で見る」と呼んでいる。




2)分からないところは、物語内で全て提示されている。



アニメやエロゲを最後まで観ても、「うーんよく分からなかった」という場面も多くある。

例えば『ギャングスタ・リパブリカ』では、一見しただけではこの作品に出てくる登場人物たちの行動は意味不明に違いない。

時守叶は猫を助けることを「悪」といい、学校にあるキッタナイ銅像をピカピカに洗浄することもまた「悪」だと言い放つしそしてそれがどういう意味なのか?十全には説明されない。またヒロインたちの「思想」は正確に描写されえず、彼彼女らは何を考えていたのか、何を考えた上での度重なる対話で、対立だったのか?を捉えるのは難解だろう。それが本作において重要な点であるにも関わらずだ。

――叶は、禊は、希は、こおりは、ゆとりは、一体何を言っていた? こいつらはなぜこんなにしてまで相手を傷つけてまで自分の思想を語っていたんだ? という疑問は付きまとう。

ギャングスタ・リパブリカ[アダルト]
ギャングスタ・リパブリカ



しかし分からないからって、すぐに「ライターの裏話」や「作者のインタビュー」や「監督のあとがき」などを見たりはもちろんしない。分からない部分があった。でもそれは物語内で全て提示されているのだから、この枠内で読み解くことで疑問を解消できる姿勢で臨むのである。

実際問題、物語内では納得できる要素が提示されておらず、考えるヒントのようなものもなかったということもあるかもしれない。でもそれが "あったか" "なかったか" なんてどーでもいいのだ。

(1)でも言ったとおり、内在視点で物語を見ることは作者は存在しえない。ならば、もう他に頼るものはなにもなく、あるのは「物語だけ」である。ならば「全て提示されいるから謎は読み解くことができる」という前提で物語と接することでしか前には進めない。

違うふうに言うならば、作者や外部文献に頼らず、物語をつぶさに点検して自身が納得できるものに辿り着くことが「内在視点で物語を読む」ということになるだろうか。

ただどうしても考えても分からない時は、外部文献(=元ネタ・モチーフなど)を参照すこともアリだとも思う。しかしこれはおまけ的な要素であり、外部文献に「すぐ」頼ったり、自分が知っていた知識をもって「すぐ」◯◯のオマージュだ!だとなんでもかんでも繋げて見る姿勢は内在視点には存在しない。

「物語を物語だけで見る」というのはそういうこと。出来る限り物語の内在で見、内在的に語りゆくことをモットーにする。

物語はすでに完結しているのだから。




3)内在視点とはどこまでも「閉じる」方法



作者や外部情報を参照することで物語を読むことを「広げる」方法だとするなら、内在視点は「閉じる」方法と言っていい。

この「内在視点」が感想を書くさいに取り入れられていないのは、(おそらく)ここにある。物語を物語だけで見るということは、それ以外の要素である「作者」「原典」「小ネタ」「時代背景」といった外部情報を排除することだと先に言った。しかしそれは半ば「意識的に切り離す」ことをを行わなければ出来ないものなのだ。*1


作者――作品――読者】 


多くの人は、この三要素をシームレスに行き来し、繋げて見ているはず。作者―作品―読者に明確な隔たりはないのではないだろうか。

だから作品を語るさい、作品を独立して語ろうとはせず、作者といった外部情報が入り交じる語りが多くなってしまいがちなのだ。この三要素を強く意識しなければ、単体での「作品だけ」という見方は難しいのだと思う。




4)閉じた切った先になにが待っている?



すべてを閉じ、物語を物語として扱ったとき、なにが待っているか?

それは物語の価値を増大させることに繋がるかもしれない。自身の中で、物語の価値を引き上げる行為であり、それが虚構/噓という要素を消滅させ、「世界に実在する真実」という意味を与えることになるかもしれない。

作った人もいない、外部的な情報に依存しない、設定という概念もないのだから、それは当然「実在する」ものとして捉え始めるに違いない。それはもう虚構という枠を超えて、自身の中で「ホンモノの出来事」になりえたとしても不思議ではない。


「ただのモノに『意味』が与えられた時、そこで初めて粒子の固まりでしかないこの宇宙は『世界』になる」


――七枷結衣/『猫撫ディストーション


『猫撫ディストーション』の七枷結衣の言葉を借りよう。

本来あらゆるものに意味はないと七枷結衣は言う。絵も歌も小説も機械もすべては粒子の塊であり、点の集合体でしかない、もちろん人間でさえ肉と骨の固まりでしかないと歌い上げる。

とはいえ、私達はそんなただの粒子のカタマリにすぎない絵や歌や小説や機械に、「好き」「嫌い」「愛しい」といった気持ちを抱いていく。

つまりただのモノに、『意味』を感じている。

ではなぜ『意味』を感じるのか?


「悪魔や神という『意味』は、それが意味を持つ人間にとって世界に実在する真実となる」

「彼らはそういう世界を『観て』いるからだ」


――七枷結衣/『猫撫ディストーション


つまり、ただのカタマリに『意味』を与えるのは私達次第ということ。


私達がどう"観た"か、どういうふうに"観る"かで、『意味』は激しく変動していくのである。ピグマリオンが人形に魂を込めたように彼にとっては愛すべき存在だった。しかし第三者から見ると、ただの土塊(人形)を愛している狂人にしか見えないように、またフランス圏では、蝶と蛾に区別はなく、ひとくくりに「Papillon(パピヨン)」と呼ぶそうだ。あっちの方からすれば、私達がチョウ目の生物を「蝶」と「蛾」と分けて呼ぶことに違和感があるかもしれない。

日本は羽根が美しいチョウ目の生物を"蝶と観た"、羽根が汚らしいチョウ目の生物を"蛾と観た" 。こういうふうにチョウ目の生物の『意味』を区別しそれぞれに言葉を与えた、ということになるかもしれない。

もちろん物語にも同じことが言える。どう観るか、どう観たかで意味は変わる。内在視点とは物語を「世界に実在する真実」として、それは「あえりえた/あった」ものと自分に組み込む見方と言って相違ない。



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――鹿目まどかは『どこにでもいるが、どこにもいない』。

姿はなく実態はない。けれども彼女の『意味』だけが世界のあらゆるところに遍在し、存在を感じ取ることができる。

――"ただのモノに『意味』が与えられた時" 

私達は彼女を"いる"と認識したとき、そこではじめて鹿目まどかは世界に実在する真実となる。「意味」を持った概念となる。実際にいるかのようの扱い始めるのだ。

それは神さまや悪魔といった存在とそう差はないだろう。
         




まとめ


内在視点で物語を見るとは


・作者なんてものは存在しない
・作品で全ての要素が提示されている
・内在視点は閉じた見方、ゆえに物語の価値を増大させる


という作品との接し方である。





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*1:無意識にやってのける人もいますよね。小さいころなんてみんなそうだったんじゃないかと思います。