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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

アニメをアニメとして、エロゲをエロゲだけで見る「物語の内在視点」のススメ。作者なんてものは存在しない(4436文字)

オピニオン best
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今のウェブ上では、アニメやエロゲといった物語の感想には、「作者視点」が入り混じっているものが多いです。


とくに話題になる記事は、だいたいそんな感じです。


―――宮﨑駿は停滞したのか? 『崖の上のポニョ
―――虚淵はなにを目指していたのか『魔法少女まどか☆マギカ
―――ヤマカン爆死『フラクタル

など。


酷いものになると、作者の「人間性」にまで絡めた唾棄すべき感想を見ることもあります。

アニメを語るとき「監督の人間性」に触れる人に嫌悪感を覚える (1446文字)


更に「ポニョは◯◯のオマージュだった!」とか「まどか作品の元ネタは☓☓だった!」とか、そういう「物語を物語として見ることができていない」評論系記事にはだいぶうんざりです。

確かに。物語に付随する外部情報を知っていることは、知的な楽しさがあります。けれども「それは分かったけど、肝心の「物語」としての評はどこにあるの?」と思ってしまうんですね。


物語だけを指し示した感想はなく、外部文献を参照することでしか「まどか☆マギカ」などを語れないのだとしたらなんだかなあ……という気持ちでいっぱいです。


▼詳しくはこちらで。

作品を考察することは「☓☓のオマージュだ!」と言うことではないというお話。(1570文字)


そこで、「物語を物語だけで見るのはどうですか?」というススメを書いてみようと思います。

私的にはこういった「物語だけ」で語っている感想や、「作者を切り離した」評論記事が増えたら嬉しいです。




物語の内部で見るということのススメ






1)「作者」を切り離す



作者を切り離すというのは、「作者なんてものは存在しない」という姿勢で物語を見ることです。


例えば、『魔法少女まどか☆マギカ』だったら、作者である虚淵氏に一切言及しないで、「まどか☆マギカの世界のみ」で語ります。

虚淵氏の真意とか、最も伝えたかったこととか、どういった境地を目指して作ったかなど、そんなことは考えません。取り除きます。要りませんから。


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「作者」を切り離した上で、「物語」だけで見る。すると、こういった疑問を覚えると思います。


最終話で鹿目まどかがなぜ、奇跡を願うようになったのか? 

今まで平穏な日常を送ってきた彼女が、その決意をするまでに必要だったものは何だったのか? 

暁ほむらが神まどかと別れる際、最後の最後で必至に引きとめようとしなかったのか? 

新しく作り替えられた世界で、なぜほむらは「赤いリボン」を髪に結びつけているのか?…………。


そういった「物語の内側」のみで考えて、それについて語る。語る際も「物語の枠内」のみで語っていきます。


まどかが奇跡を願ったのは、「誰かの祈りが間違いだなんて思いたくないよ!!」と思ったからです。決意に至ったのは、さやかやほむらの血を血で粗い、骨で骨を砕くような魔女との闘争を見たから。

そしてインキュベータことキュウべえによって、過去から今にいたる全ての魔法少女の命の軌跡を目撃したからです。

暁美ほむらが新世界で、赤いリボンを結びつけているのはまどかの意志を引き継いだ証です。


―――とこんな感じでしょうか。(以下、参考記事です。まどかを私はこう見ましたよーと)

「魔法少女まどか☆マギカ」総括__これは祈りの物語。(11613文字)


『叛逆の物語・まどか☆マギカ』__全てを否定したこの結末に、どれほどの価値があるんだろう?(7381文字)


(私の感想の錬度はどうであれ)こんなふうに物語を見ることを、「内在視点で見る」と私は言っています。





2)分からないところは、物語内で全て提示されている。





アニメやエロゲーを最後まで観ても、「うーんよく分からなかった」という場面も多くあります。



例えば、新編・叛逆の物語「まどか☆マギカ」。この物語ではラストのほむちゃんの行動が、とても謎すぎました。全てを破棄し全てを終わらせた上でほむらが幸いに至ったのかと言われれば、全くもってそんなことないでしょう……。

―――けれど、暁美ほむらは最後の最後で"起こした"。


このことが今なお私には分かりません。なんであんなことしちゃったんだろうもっと別のやり方があったんじゃないのかなと……ぐるぐる考えちゃいます。*1

(未視聴の人のために、かなり曖昧に書いています。)


また例えば「ギャングスタ・リパブリカ」。「悪」を目指し、「悪」の練度を鍛え世界を変えていく物語。

一見しただけで、この作品に出てくる登場人物たちの行動は意味不明です。時守叶という主人公は、猫を助けることを「悪」といい、学校にあるキッタナイ銅像をピカピカに洗浄することもまた『悪』だと言い放ちます。

この物語では、最後まで「悪とは◯◯だ!」と明確に詳細に明言されません。曖昧なままによく分からないままに終わってしまいます。

ギャングスタ・リパブリカ[アダルト]
ギャングスタ・リパブリカ


また、ヒロインたちの「思想」は、正確な言葉として明かされません。『ギャングスタ・リパブリカ』では女の子たちがなにを考えているか?がすごく重要な点であるにも関わらずです。


禊は、こおりは、希ちゃんは、ゆとりは、一体何を言っていた?

こいつらはなぜこんなにしてまで! 魂をかけてまで!! 相手を傷つけてまで自分の思想を語っていたんだ?!! という疑問は必至でしょう。



でも分からないからって、すぐに「ライターの裏話」や「虚淵氏のインタビュー」や「監督のあとがき」などを見たりはしません。


分からない部分があった。でもそれは「物語内で全て提示されているのだから、この枠内で読み解くことで疑問を解消できる」と私は思っています。


これは「姿勢」です。


実際問題、物語内では提示されていなかった! そんな要素全然無かった!ということもあるかもしれません。でも、それが "あったか" "なかったか" なんてどーでもいいんです。


(1)でも言ったとおり、内在視点で物語を見ることは、作者は存在しえません。ならば、もう他に頼るものはなにもないのです。あるのは「物語だけ」なんです。


ならば「全て提示されいるから謎は読み解くことができる」、という前提で物語と接することでしか前には進めません。

作者や外部文献に頼ることをせず、物語をよくよく見て、何回もリピートし、つぶさに点検して答えに辿り着く姿勢が「内在視点」で考察するということです。


ただどうしても考えても分からない時があります。そんなとき外部文献(=元ネタ・モチーフなど)を参照することはアリだと思います。

しかしこれはおまけ的な要素であり、外部文献に「すぐ」頼ったり、自分が知っていた知識をもって「◯◯のオマージュだ!」だとなんでもかんでも繋げて見る姿勢は、内在視点にはありません



「物語を物語だけで見る」というのはそういうことです。出来る限り物語の内在で語りゆきます。だって物語はすでに完結しているのですから。





どこまでも「閉じる」視点



作者といった外部情報を参照することを「広げる」視点だとするなら、内在視点は「閉じた」視点です。


この「内在視点」が流行ってない点は、(おそらく)ここにあります。


物語を物語だけで見るということは、それ以外の要素である「作者」「元ネタ」といった外部情報を排除するからです。それも半ば「意識的に切り離す」ことをを行わなければ出来ません。*2


作者――物語――読者】 


多くの人は、この三要素をシームレスに行き来し、繋げて見ているはずです。作者―物語―読者に明確な隔たりはないのです。


だから物語を語る際、作者といった外部情報が入り交じる語りが多いんでしょう。この三要素を強く意識しなければ、単体での「作品だけ」という見方は難しいんだと思います。





閉じた切った先になにが待っている?


物語以外の情報をすべて廃絶します。すべてを閉じていきます。この先になにが待っているか?


それは物語の価値を増大させることに繋がります。自身の中で、物語の価値を引き上げる行為といってもいいでしょう。


物語だけを見ることで、虚構という要素を消滅させ、「世界に実在する真実」という意味を与えていきます。


当然ですよね。作った人もいない、外部的な情報に依存しない、設定という概念もないのです。それはもう虚構という枠を超えて、自身の中で「ホンモノの出来事」になります。



「ただのモノに『意味』が与えられた時、そこで初めて粒子の固まりでしかないこの宇宙は『世界』になる」

―――七枷結衣


七枷結衣ちゃんの言葉を借りましょう。


本来あらゆるものに意味はないと七枷結衣は言います。絵も機械も歌も小説もすべては粒子の塊であり、点の集合体でしかない。人間でさえ肉と骨の固まりでしかないと指摘します。

でも、私達はそんなただのモノにすぎない『塊』に、「好き」「嫌い」「大切」「憎い」「愛しい」といった気持ちを抱きます。


つまりただのモノに、『意味』を感じている。

なぜ『意味』を感じるのか?


「悪魔や神という『意味』は、それが意味を持つ人間にとって世界に実在する真実となる」

「彼らはそういう世界を『観て』いるからだ」

―――七枷結衣


つまり、ただのモノに『意味』を与えるのは私達次第ということです。


私達がどう"観た"か、どういうふうに"観る"かで、『意味』は激しく変動してきます。ピグマリオンが人形に魂を込めたように、彼にとっては愛すべき存在だった。しかし周りから見ると、ただのモノ(人形)を愛している狂人にしか見えなかったでしょう。

またフランス圏では、蝶と蛾に区別はなく、ひとくくりに「Papillon(パピヨン)」と呼んでいるそうです。あっちの方からすれば、私達がチョウ目の生物を「蝶」と「蛾」と分けて呼ぶことに違和感があるかもしれません。


日本は羽根が美しいチョウ目の生物を"蝶と観た"、羽根が汚らしいチョウ目の生物を"蛾と観た" 。

このことでチョウ目の生物の『意味』を区別しそれぞれに言葉を与えた、ということです。



物語も同じです。どう観るか、どう観たかで意味は変わりきます。内在視点とは、物語を「世界に実在する真実」として、それは「あえりえた/あった」ものと自分に組み込む見方です。



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―――鹿目まどかは『どこにでもいるが、どこにもいない』。

姿はなく実態はない。けれども彼女の『意味』だけが世界のあらゆるところに遍在し、存在を感じ取ることができる。


"ただのモノに『意味』が与えられた時" 私達が彼女を"いる"と認識したとき、そこではじめて、鹿目まどかは世界に実在する真実となる。「意味」を持った概念となる。


それはまるで神さまや悪魔といった存在ですよね、ほんと。
         




まとめ


内在視点で物語を "見る" ことは、

・作者なんてものは存在しない。
・物語で全ての要素が提示されている
・内在視点は閉じた見方。ゆえに物語の価値を増大させる。


という「物語」との接し方です。作品を作品だけで考え、解き明かし、語ります。






*1:はやくDVDを買って何回も見直したいですね……

*2:無意識にやってのける人もいますよね。小さいころなんてみんなそうだったんじゃないかと思います。