作者は物語を生み出す〈装置〉でしかない。

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 ――作者は物語を生み出すだけの装置でしかない*1

私はこれに同意する。「作者」の意図によって物語のテーマが決められるわけじゃないし、絶対的な答えが決定づけられるわけではない。

「作者」は物語を生み出す装置に過ぎないからこそ、その物語〈=テクスト〉に対する解説を求めても仕方がないのである。何故なら彼らはある世界ある虚構を表現しただけであって、物語〈=テクスト*2に対する答えを持っているわけではないからだ。

以前読んだ物語を読み返しては当時は気づかなかったような物語的意図に気づくこともあるだろうし、ある時代、ある文化、ある民族によってはその物語から見出すテーマや答えも自ずと変わってくる。

魔法少女まどか☆マギカ』を祈りの物語、約束、友情、悲劇として見たり、あるいはerg的ループ作品のパロディ・魔法少女モノ系譜の出来損ないとして見る人だっている。10年後には同姓の純愛物語として読む人が増えているかもしれないし、シュールなギャグ作品として受け入れられているかもしれず、他国では寓話として読まれたって不思議じゃない。

そんなふうにして物語〈=テクスト〉は読む人によって様々な「そう"感じ"た」という主観的真実を生み出しはじめる。どんな読み方もどんな解釈も可能だからこそ、そこには客観的真実なんてものは介在しなくなる。

 

 

 

ただ物語にはファクト(事実)があるため、ある解釈の整合性・納得感が欠けていることもある。解釈に正しさはないが、その解釈を納得できるかは問題になってくる。

ここを勘違いして納得できない解釈を「その解釈は客観的真実ではない」とし、正しい/正しくないの立場から反論が出てくるのを度々見かけるが

しかし「客観的真実」とは何だ? 

おそらく「作者」がその物語に込めた一定不変の意図が存在するはずだ、あるに違いないという考えによる主張だろう。その物語には絶対的な答えがあるという見方であり、唯一の正しさを求めるものだ。

私に言わせればそんなものはただの幻想に過ぎないが、仮に一歩譲ってそれが実際に"ある"としよう。

しかしそれは一体どうやって証明するんだ?

「作者」は言語や絵を用いて、言語や絵の先にある、既成の何かでは表現できないものを物語として生み出している。既成の枠組みを超えたそれらは「テクスト」と呼ぶべきもので、あるいは「イデア」と呼ばれるものであり、これをひとたび「解説」や「批評」という言語を用いてその物語が何なのかと説明した時点で――既成の何かでは表せないものを物語に転換したのに言語を用いて語ってしまえば既成の枠組みに戻ってしまう――それは私達と同じ"この物語は何だ?"と考え説明する読者群と変わらないのである。

つまり「作者」がいくら自前の作品を解説しようともそれは一つの読み方、一つの解釈の提示でしかなくなる。言語にてその物語〈=テクスト〉の絶対的な答えを取り出すことが不可能ならばそもそもそんなものは存在しないのだ。

文学批評において作者の意図を解明しようという試みは(=作者の伝記を読み漁り彼らの思想背景を洗い出しそこから物語の一定不変の意図を見出すことは)作者を解明しているだけであって作品を解明しているわけじゃねーだろ!と蹴り上げられて終わったと聞く。今でもなおそんな馬鹿げたことをしなければいけないのか? 勘弁してよ。作者のやりたかったことは作者が伝えたかったことはというそんな"作者解釈"はもういいでしょ。*3

 

 

なんて言うのは物語解釈でもなんでもない。

さらに言えば、作者が「これは『現実へ帰れ』って意味だったんです」と言ったらその物語の本質をそういうものだと位置づけるわけ? 自分が見た物語の有り様を信じるのではなく作者というただの他人が言った言葉を真に受けて鵜呑みにして「これはこういう物語だったんだ」と言っちゃうわけ? そして誰かの別解釈を見かけたら「作者はこう言ってたんだからそれ違うよ」とか言っちゃうわけ? 

それただの思考停止でしょ。

ようするに作者を引き合いに出して語る批評文物ってのは、「物語の事実」ではなく「作者」が最重要であり、「作者(=インタビュー/コンテキスト)」持ち寄らねば当該物語に対して何も言えない者のことだ。物語を物語るときに、自身が観測した物語についてではなく、赤の他人の意見を優先するあたり何がしたいのか理解に苦しむ。

いずれにせよたった一つの答えでもって回収されるほど物語は貧しいわけじゃない―――なんてこと私達が一番よく知っているのにね。忘れちゃった?

エリザベス・ギルバートは語る。人間に創造性は備わっていないと。

 

古代のギリシャとローマでは― 信じられていませんでした 人間に創造性が備わっているとは…

創造性は人に付き添う精霊で― 遠く未知のところから来たのです 人間の理解を超えた動機から… 古代ギリシャ人は 精霊を"ダイモン"と呼びました ソクラテスは ダイモンがついていると信じていた 遠くから叡智を語ってきたと…

ローマ人も同様でしたが― 肉体のない創造の霊を"ジーニアス" と呼びました 彼らは "ジーニアス(天才)" を― 能力の秀でた個人とは 考えなかった。あの精霊のことだと 考えていました アトリエの壁の中に生き― ハリーポッターの妖精ドビーのように… 創作活動をこっそり手伝い― 作品を形作るんです

素晴らしい! 先ほど話した"距離"が存在します 作品の評価から 心理的に守られるものが… そういうものだと 人々は信じていました 古代のアーティストは 守られていたのです たとえば 過剰な自惚れから どんなに立派な作品でも 自分だけの功績ではない 霊が助けたと 知られていたからです 失敗しても 自分だけのせいじゃない "ジーニアス" が ダメだったんです この考えは 長らく西洋に浸透していましたが―

ルネッサンスが全てを変えました とてつもない考えが現れた 世界の中心に 人間を置こうではないかと 全ての神と神秘の上に… 神の言葉を伝える謎の生き物は 消えた… 合理的人文主義の 誕生です 人々も信じ始めました 創造性は 個人の内から現れるのだと 史上初めて― 芸術家が "ジーニアス" と呼ばれるようになりました "ジーニアス" が側にいるのではない

これは大きな間違いですよ たった一人の人間を― 男でも女でも 一人の人を― 神聖で創造的な謎の― 本質で源だと 信じさせるなんて 繊細な人間の心には 少し重荷では? 太陽を飲めと 言うようなものです 歪んだエゴでしょう それが 作品への過剰な期待を作り― その期待へのプレッシャーが― 過去500年 芸術家たちを殺してきたんです

 

 ―エリザベス・ギルバート "創造性をはぐくむには" | Talk Transcript | TED.com(太字は引用者がつけた)

 

 

これは作者の心的重荷を和らげるため「天才は人ではなく、ジーニアス」という考え方を提示しているものだが、私はこれを読者側からも適用したい。

つまり「作者」は"ジーニアス"の代弁者ということだ。これが示すものを作る手足であり、神の啓示を伝える預言者のようものであり、芸術と文化を生み出すだけの装置でしかない。

故に繰り返すが、いい加減、物語の答えを作者に委ねるのは終わりにしたらいいと思うよ。

もう一度前向いて『物語そのもの』と向き合いなよ。

 

 

 

「わかるかい? 悠くん、君が自分で思い出す。それが重要なんだよ。それがこのセカイの約束だ」

 


――夏目鈴

 

 

 

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*1:戯言遣い』に登場するいーくんの他者に対する態度に零崎人識が指摘する場面のもじった意見――「お前は大嘘つきで、お前は真実以外の全てを語る。 なぜならお前はどう見ても人間が好きだというタイプではない。 人間嫌いなんてもんじゃない。 お前は人間を憎んでいる。」 「そうでもないさ。好きな人間ならいっぱいいる。 人間が映し上げた映画、人間が作り上げた音楽、人間が描き上げた絵画、人間が極め上げた料理、人間が組み上げた車や飛行機、人間が学び上げた学問、人間が紡ぎ上げた物語、どれをとってもすばらしいものばかりだ。」 「お前は映画が好きで音楽が好きで絵画が好きで料理が好きで車や飛行機が好きで学問が好きで物語が好きなだけだ。 お前が映画と音楽と絵画と料理と車と飛行機と学問と物語が好きだというのは、 逆に人間をなんともみなしていないということだ。 人間を芸術と文化を産み出すだけのセコい装置としかみなしていないということだ。そんなものの見方は壊れている。」 「壊れている?」 「欠陥製品だ。」 「それは言い過ぎだと思う。まるで狂気だ。」 「じゃあお前は人間が好きか?」 「・・・・・・・・・。」by零崎、いーくん

*2: "テクスト"っていう言葉は語感と肌触りがあんまり好きじゃないから、あんまりこの言葉を使いたくなかく個人的には違う単語で言い表そうと思いもするが、きっとテクストと言う方が言いたいことは伝わるのかなとも思うのでこの表現を取る―https://kotobank.jp/word/テクスト論-186000

*3:「物語の楽しみ方」として作者について考えることをやめろという話ではなく(もちろん好きな人は好きにやればいいし私にそれを止める権利なんてものはない)けれど作品考察、物語解釈と謳うのであればあれば作者を持ち出してくることは疑問でしかない。