《物語そのもの》とは?

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(1)《物語そのもの》の定義

 

《物語そのもの》とは文字や絵等で構成された表現物を読んださいに生まれる観念と定義します。

例えばアニメ『true tears』は絵、音、文字で表現された映像データですが、それを視聴した際に生じるtrue tearsそのものはそのアニメから浮き上がって独立したものということになります。

浮き上がった『truetearsそのもの』は触れることは出来ませんし、文字通りどこにも・あそこにも・ここにもありません。けれど『truetearsそのもの』はあらゆるところに偏在し、私達の心の中にちゃあんとあるのです。

これを違う言い方をするならば、虚構・イデアと言って差し支えないでしょうか。抽象的な概念ですが、物語を読んだことがある人ならば直感的に理解できるものだと思います。

 

「てめえなにすんだよ」

「うるさいのよばーか!」

「はぁ?」

「バーカバーカバーカバーッカ!!」

「戯言ほざくんじゃないわよぉ!虚構は確実に存在するのよ!」

「存在するわけないだろ、何処にもないから虚構なんだろ!」

「あるのよ」

「ねーよ」

「あるわよ!」

「ない!」

「ある!」

「ないったらない!!」
「あるったらある!!」


「だったら教えてくれよ、虚構ってのはどこにあるんだよ!」

(ぼすっ)

「ここよ」

「フィクションはここにある」

 

 

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――灯代、安藤(異能バトルは日常系のなかで

 


異能バトルは日常系のなかで』の灯代がいうように、フィクションは"自分の中"にあるのです。

これは表現物を通じて一人一人が感じ取るものなので、逆に言えば一人一人が想い描く《物語そのもの》は違っているということになります。

例えば『Angel Beats!』というアニメはその展開、キャラクターの行動、内容は誰がどう見ても同じであり、それは動かせない事実として存在します。

しかしそんな事実の連続するアニメを見たとしても、個人の心の中に生まれる『Angel Beats!そのもの』は違っていきます。「音無しの行動が醜くて仕方がないなんだよあの自己中野郎」⇔「音無しの行動が一途で泣けてしまう」とゆうように対極の感じ方だってありえますし、「Angel Beats!はやさしい物語だったよね」と言えば「全然優しくないし、やさしいという言葉は似合わない」作品と同じ所感を抱くことさえ珍しいです。

こんな風に同じ表現物を見ても、各人の印象が違うのは、各人が表現物を読んだ際に生まれた《物語そのもの》が違うからに他なりません。

 



『Angel Beats!』_生きて満足して死ぬってことは素晴らしい

 

 

 

(2)物語の解釈の多様性

 

先述したように、各人の《物語そのもの》は違うため作品に対するあらゆる印象を受け取ることが了承されます。

世間が美しいと認めている作品をセミの死骸を踏み潰した有り様だったと捉えてもいいわけですし、『orange』第一話の主人公の行動は劇中内では「善」だと描かれているわけですがそれをこうこういう理由で偽善的行動であると訴えてもいいわけです。

つまり作品において「正しい答え」というものが存在しないということですね。

「作者の意図」といった言葉を見聞きすることはありますが、作者の意図を聞いてさもそれが作品の第一義だったんだ、これが絶対的な答えだったんだ!なんて見方は存在しなくなります。

あらゆる作品にあらゆる解釈の多様性が生まれるのが《物語そのもの》の見方であり、また解釈に優劣はあるものの解釈に真偽はないとする立場と言っていいでしょう。

 

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(3)《物語そのもの》と現実の事象はイコールではない


物語を現実に即して考えることがあると思います。

例えばエヴァなら当時の閉塞した空気ゆえに生まれたとか、『緋弾のアリア』の薬莢の処理がおかしいとか、アニメ『艦隊これくしょん』の弓を射る時の動作が違う! あれは弓道じゃない!というヤツです。

《物語そのもの》の考え方からすれば、その物語は現実から独立した存在なので必ずしも「現実=物語」とはならず、どちらかというと「現実≒物語」というふうに捉えます。

艦隊これくしょん』ならば、結果として加賀さんは弓を射ては遠くに飛ばしているわけですから、艦これの世界ではそれが"正しい"と見ます。

もちろん現実ベースにした批判全てダメというわけではなく、私が言いたいのは最初から艦これの世界が変だと決めつけるのではなく、まずは物語の論理を肯定した上で批判する姿勢が大事だといいたいのです。つまり自分の世界認識・現実への解釈を疑うということが物語を捉える上で大切な視点になるのです。

例えばテレビドラマ『まっしろ』のCMを見て「今じゃナースキャップを導入してる病院少ないよ」とか「ヒールありえないよね」というツッコミを覚えても、ああこれは別世界線の話なんだよねと捉える感じです。

例えばテレビドラマ『明日、ママがいない』では「こんな酷い児童福祉施設はありえない!」という抗議が殺到しました。確かに一話を見ると施設長は杖を振り回し子供たちを怯えさせ、その子供たちを人間扱いしません。「飯を食いたければ泣け(彼曰く芸を覚えてご飯にありつけとのこと)」と怒鳴ることもしゅっちゅうあります。

これを一部の視聴者は「こんな施設は存在しない」「こんな職員はありえない」と指摘するんですが、その指摘自体私からするとおかしいということです。《物語そのもの》は現実世界とイコールではないので、そこにどんな "ありえない" があっても不思議ではありません。むしろ虚構だからこそあっていいのです。

そんな「現実に即していない作品」という指摘に反論するかのように、児童養護施設で育ったたま&ぽちさんは「反抗的な目つきをすると殴り飛ばされた」といったご自身の施設での経験を語っています。

もちろん『明日ママ』を見てありえないと感じる部分もあると言っていますが、現実に即している部分部分もあるとも。全文は以下で(「明日、ママがいない」について|はばたけ! 養護施設出身者

《ここで言いたいのは『明日、ママがいない』は「ドラマなんだよ、現実に即してなくてもいいじゃないか放映しろよ」ということではありません。なぜならこの明日ママ問題は放送コードや表現の自由、スポンサーの問題などいろいろ絡んでくるので「放映」するに足りるかはこの言い分だけでは頼りないそしてそこを話したいわけではない》


明日、ママがいない オリジナルサウンドトラック

 

こんなふうに現実的に考えて "ありえない" なんていう指摘は、結局自分の狭い「現実認識」に照らし合わせて考えているだけです。自分が知っている世界、常識、当たり前だと思っているものは決して当たり前ではないことも気づかずに、それをベースにして批判することのおかしさがここにはあります。

しかし、そうは言っても私達は自分の「現実認識」と照らしあわせてその物語を読み解こうするのも事実です。ここが「現実≒物語そのもの」の「≒」と言いたい部分です。その"世界"を認識するためにはどう抗っても「自分」という拠り所が必要になってしまう。

だからこそロールプレイは難しい。

自分とは違う現実があり、自分とは違う常識があり、そこでは自分とは違う誰かが考えて、その人が何を言うかをトレースしなければいけないのですから。

ユリ熊嵐』や『腐り姫』を読んで「あーもうわかんねー!」となるのは、あの世界が自分の世界とは別物だからです。この2つの世界観は、世界ルールの「基礎的」な部分が自分の生きている世界とは大きく違う、からこそそこを捉えるのにものすごい時間が必要とされる。

erg『好き好き大好き!』では、女の子を拉致監禁した挙句ラバースーツに着替えさせ「ラバー人形」として愛でようとする物語です。

大好きな女性を無理やり側に置こうとする主人公の心理を、理解できる人間はごくごく一部でしょうし――現在の社会的通念上の――正常な人間ではこの行為を正当化できないでしょう。納得できるかと言われれば納得しにくい思考形態です。おそらく感情移入さえも難しい。

そんなふうにロールプレイは難しいんです。

 

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故にいくらロールプレイングが難しく、出来ないからといって、「この物語は現実に即していないからダメだ」なんて主張は、《物語そのもの》は外部(現実にいる私達)への繋がれ保たれつつも、しかし独立し確立してしまっている一つのシンボリックな"世界"だとする立場では許容されることはありえません。

またある作品を評価する上で「制作背景」「開発予算」を考慮することも唾棄します。

詳しくはこちらで。

舞台裏、制作背景、開発環境は「作品を評価」する上で何ら関係がない。無価値だ。

 

 

 

(4) 《物語そのもの》同士の接続

 

ある作品とある作品を接続して語ることは多くあると思いますが、《物語そのもの》の立場で鑑みるならば《物語そのもの》同士の接続ということになります。

例えば原作『CLANNAD』と京アニ制『CLANNAD』は、物語の内実は一緒でも、「ADV」という作品外形によって生まれた《物語そのもの》と、「アニメ」という映像媒体で生まれた《物語そのもの》は違うわけですから両者を同一に見做すのではなく、差異あるものとして見つめることも可能です。

またそれにともない両者の差異性を指摘し、原作の《物語そのもの》は果たしてアニメで描くことができたのか?という視点もありだと思います。

逆に両者はゆるやかに繋がりが保たれているけど、実質は独立した存在なのだから単体で見ることを促すことも出来るでしょう。

 

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(5)《物語そのもの》を書きつけるアニメブロガー

 

「感想」とは自身の心に内在する《物語そのもの》を書きつける行為であるというのが私の持論です。

その物語をどう見たか? どう感じたか?を語る批評であり、(感想は批評ではないと言われることがありますがこれもまた批評の一種なんですよね。私も最近知りました)しかして印象で語るため客観性が低いし市場的価値も低くなりがち。

書き手の感受性・共感性を理解できないと、その感想を読んでも数多の読者は納得することが難しいため、大勢から評価される印象批評は生まれにくいのだとも思います。

アニメブログで多い形式はアニメチャプターをばーーっと貼り付けて、そこに少しだけ自分の感想を書き留めるやつで

↓こゆの

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これって彼らなりの印象批評なんだなと思います。

「言語」ではなく、印象に残っている「絵」を貼り付ける。この時、どの絵を選んだか? どういうふうに絵の順番を繋げていくか? そこにどんなコメントを寄せるか? で視聴時に生じた自分の想いを残しているんじゃないかな。

「言語」じゃ自分の印象って絶対的に書き留めることは不可能ですからね……だから文字は少なくて、チャプターの量がめっちゃくちゃあるんじゃないのかなって考えてます。

もちろんその印象は誰にも伝わらないけど――でもある意味でアニメ(=《物語そのもの》)に誠実です。

そして本来絶対無理だと分かっている言語で《物語そのもの》を必死に書き付けている人を見ると私はすごい!と感じるわけです。だって観念である《物語そのもの》を言語に変換してしまう時点で、欠損・変質は免れませんしそんな茨の道を歩みながら、他者にも分かる「その人の《物語そのもの》」を見せられるとくらっとくるわけですよ。もう最高。

私がよく「物語単体で語ることについて」みたいな記事を書くのは、そういうった一人一人の世界観の差異を読むのが好きだからというのもありますが、それら感想、批評、語りが物語にちゃんと則しているものだからという理由も大きいです。

現実の何か(概ね関係ないもの)に繋げて語るのではなく、《物語そのもの》に即して語ることは大事。だってあなたが"観た"のはそれでしょ? 違うの? え違うんだ。ふーん。

ゆえにそこに社会的意義、政治的側面、作家性、文学上の価値、歴的位置、時代性を持ち込んでくるのは好きになれません。アニメを「物」扱いするのではなく、《物語そのもの》として扱ってほしいということですね。もちろんしたい人だけすればいいと思いますが。

ちなみに私が透明な批評、再生批評が好きなのもここに一因はありそう。

 

作者は物語を生み出す〈装置〉でしかない。

 →作品を語るときになぜあなたは「外在的文脈」を使うんですか? 

 

 

 

異能はカッケえだけでいい!

 

物語は誰かを勇気づけ、信念を伝えたり、製作者の意図があるわけでもないです。自分を幸せにしたり、不幸にするためでもないし、教養のために読むものでもありません。

極論すれば、私が言及している「物語がもたらす心的効果」や「物語を解釈」することさえも本当はどーでもいいんです。どーでもいい。

じゃあなんの為に存在するのか? 『異能バトルは日常系のなかで』はその答えを示してくれています。

つまり

 

 

《物語そのもの》はそこにあるだけでいい!!!

 

 

「俺思うんだ」

「異能ってのは人を傷つける為の力じゃない そして誰かを幸せにする為の力でもない」

「じゃあなに?」

(中略)

「異能は最高にカッケえんだよ」

「そしてただカッケえ、だけでいい」

「うん」

 

 

――安藤、千冬(異能バトルは日常系のなかで

 


そう異能はカッケえだけでいい! という安藤の言葉を私はそういうふうに受け取りました。異能は――そして虚構は――人に幻想を、夢を、それらがこの現実には"あ"ると示してくれるだけでいいのです。

ワクワクドキドキしながらそれらがここにはあると私達が "感じ" られるだけで物語の存在価値は完了します。

大事なのは物語を感じるのではなく、《物語そのもの》を感じることです。物語という構造物・パズルフレームではなく、それを見た時に生じる観念に触れることが出来なければいくら物語を読んだって仕方ありません。

目の前の物語を「偽物」だと感じるならば尚更に。「噓」だと断定するならば必然に。それは銀行通帳を見ているようなものです。いついつにどれくらいの金額が振り込まれたか、今いくらの蓄えがあるのか、そういった「記号」や「構造」「流れ」でしか物語を捉えることが出来ない事実。物語世界に登場する人間に「存在感」を持つことさえ無理ならば、物語を読む必要なんて欠片もないでしょう。

参照→『芸術的盲人』とは、物語を読むこと=銀行通帳の残高を眺める無感動な人間

 

冒頭で「《物語そのもの》は物語を読んでいる人ならば直感的に理解できるはず」と言いましたが、しかし出来ない人もいると私は仮定しています。とても少ないでしょうが。

スロウハイツの神様』もまた《物語そのもの》の実感がある/ないで評価が変わってくるものだと思いますし、ペトロニウスさん、海燕さん、ルイさんの本作に対する意見も腑に落ちます。

(太字は引用者がつけました)

 

ちなみに、オジさんが、面白さが全然わからなかった、とコメントをくれたのですが、そのポイントは「ここ」だと思います。『スロウハイツの神様』で、心を揺さぶるのは「十章 赤羽桃花は姉を語る」と「最終章 二十代の千代田公輝は死にたかった」なんですが、ここの部分に対して自分の内面にあるものと共振がなければ、ただのご都合主義の物語になってしまうと思います。これは「読み方」の問題ではなく、「魂に共振する部分があるかないか?」という部分なので、技術的に習得することはできないので、オジさんの内面のテーマとは重ならない部分なのでしょう。

 

――『スロウハイツの神様』 辻村深月著 この絶望に満ちた世界を肯定できると力強く断言すること - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために

 

 

 あなたは物語に人生を変えられた経験があるだろうか。小説でも、漫画でも、映画でも、あるいは演劇でも何でもいい、ふとふれてみた何かの物語に、心奪われ、魂を鷲掴みにされ、夢中になって追いかけ、そして深く感動して涙した、そういう経験があるだろうか。

 もしあるのだとしたら、あなたは既に「こちら側」の人間であるに違いない。現実より美しい虚構があることを知り、事実より貴重な物語があることを知った、夢と現実とを分かつ線の「こちら側」の住人。

 

 

――【無料記事】リアルな物語とは何か。『ぼくらの』と『スロウハイツの神様』で考える。(4610文字):戦場感覚blog:ゆるオタ残念教養講座(海燕)

 

 

本作の感想文は、GoogleAmazonを調べればたくさん見つかるのでしょうが
この実感が「ある」人と「ない」人では、
はっきりと見て分けられるほどに、感想は異なると思います。
既にこの出会いを人生で果たしている人は…
いや、果たしているだけでダメかもしれない。
最中にいる時深くその事を実感し、
喪失した時深くその事を再認識し…
そこまで何かを誰かを刻み込んだ人は、この作品のパズル・フレームなんて
とても語る気にはならない。語っても、そこに留まってはいられない。
僕はそう思っています。

世界はそれが「ある」のです。
実体験者として、そこは断言できる。
その人にとって、どんな形をしているかはわからない。
どこにあるのかもわからない。
けれど、世界にある。
それはつまり、そんなものに出会い得る「世界は美しい」という事でしょう?



――辻村深月『スロウハイツの神様』この上なく幻想、この上なく真実 ひまわりのむく頃に/ウェブリブログ

 


魂に共振する部分、「こちら側」、世界にはそれが「あ」るという感覚―――私だったらそれは「《物語そのもの》が現実を塗り替える実感」と言うかもしれません。もしかしたらお三方の主張は私は読み違えている可能性もありますが、しかし《物語そのもの》を感じられるかどうかで『スロウハイツの神様』が魅せつけるものを受け取れるものだと思いますから。

参照→物語は人生をぶっ壊し『オーバーライド』する力がある。Fateは文学CLANNADは人生って言いたくなるのもこの体験があるからこそ

 

 

 

さて、以上で《物語そのもの》という概念についての説明は終わりです。こういう考え方もあるんだぜ、と思ってくれれば幸いです。

そして問いましょう。一度くらい考えてもいい事柄と思います。

 

あなたは物語をどういうふうに観ていますか?

 

と。

 

 

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スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)