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「好き好き大好き」のレビューを4つ書き分ける

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*11635文字

ゆるふわ√3さんの本を書き分けた記事がおもしろかったので、自分も挑戦してみます。今回はノベルゲーム『好き好き大好き!』をタイトル通り4つに書き分けレビュー。

具体的な方法はゆるふわ√3さんのものを参考に、多少自分好みのものにしました。特に「書評」の項目に関しては「どういう文章を想定しているのか」いまいち自分には分からなかったので、再生批評という名目で語ろうと思います。

 

  1. 要約:本作の要約
  2. 読書感想文プレイしたゲームに対し、どのような体験が得られた方を主観的に語る
  3. 読書案内:本作を主観と客観を交え、どのような魅力や見どころがあるか紹介する
  4. 再生批評:本作を再生し新しい視点を切り拓こうとする語り。


「レビュー」って語源的に再び(re)見る(view)つまり「見直し」という意味なので批評(Criticism)と同義だと思うんですが、今回は「意見」もまたレビューとし1~4全ての項目を括ってみます。

関連:SEOによって「考察」「書評」「レビュー」の意味が劣化した

 

 

 

1.要約(好き好き大好き)


1998年にメーカー・13cmから発売された『好き好き大好き』。主人公がヒロインを地下監禁するところからはじまるダークな展開に加え、鮮血、倒錯的なセッ久、ラバーフェチ、救いようのない終幕が点在するところが「元祖鬱ゲー」と呼ばれる所以だろうか。

プレイを初めてから終わるまで陰鬱であり、じめじめとし、昏く愉悦的である。このため人を選ぶ作品にもなっている。 

 

 

 

2.読書感想文

 

現OS・フルスクリーン・バックログに対応した『好き好き大好き』を付録にした月刊誌メガストアが2014年に発売され、私はラッキーと思って購入した。ちなみにプレイしたのは2015年2月。

ロットアップした作品はたいてい価格がプレミア化してるので中々手が出せないんですよね、メガストアさん有難う。

さて、まず本作品をプレイしていると、あれ…なんだか…ラバースーツが好きになってきてる?…という感慨を覚える。「ラバー」つまりゴム製品に対しての嗜好なぞ持っていなかったのに、主人公・長瀬渡のラバーへの愛着に触れていくとだんだん自分もゴムの手触り、匂い、着心地に案外悪くないかもしれないなと思い始めてくるのだ。幻視するラバースーツはそんなに悪くなさそうだった。本物はどうか知らない。

そしてプレイ中盤に差し掛かると、とにかく文章が"痛み"を伴ってくる。内蔵にナイフが突き刺さるような、、、特にみるくの胸部にマチ針を突き刺していくシーンはひたすらに辛かった。アレは心がおかしくなってくるよ! 文章を読み込むたびにみるくの胸部への痛みがこちらにも伝播してきて死ぬかと思ったよネ! 胸に針とか痛いイタイタイ。

そこから他者性の廃絶、現実と理想のズレ、コミュニケーションの拒絶から肯定が絡み合いながらさまざまなEDに行き着いていくのは、なるほど『好き好き大好き』がヤバイヤバイと言われているのもわかった。

ただ、やはり"当時"においてという枕がつくんだろうなという感じか。

個人的には2015年時に照らし合わせると、そんなにヤバくないなという印象である。本作のヒロインを「ヤンデレ」と括りたくはないのだけれど、(分かりやすく言うならば)そういった耐性があるプレイヤーには少し物足りないかもしれない。

とはいえこの作品のどろついた、アンリマユのような、汚染された精神性を飲み干せるならばその限りではないだろう。

 

 

3.読書案内(ブックガイド)

 

本作は人を選ぶ作品なのだが、ではどういう人間ならばオススメできるか? 


機能毎に分解し評価する


ノベルゲーのレビューサイトでありがちな「機能毎に評価する」手法を取ってみる。(このブログではこれ全くやらないんですけどたまにはいいかもしれない)

最低評価が★、最高評価が★★★★★とし、各項目ごとに簡易的な説明を加えていく。


・グラフィック:★★★

現在(2015年時)のヴィジュアルノベルの立ち絵・塗り・CGの品質と、1998年に発売された本作を比べるのはあまりにも酷なのだけどやはり「2000年代前のノベルゲー」という雰囲気を醸すものになっている。

とはいえ別段プレイに支障をきたすほどのグラフィック(立ち絵/塗り/CG)というわけではないが、特別「ヒロインの見た目可愛い!」と唸るものではないというのが個人的な感想だろうか。

しかしあるワンシーンのCGはとてもいいものだ、ということを付け加えておきたい。あのぷっくらした赤みがかった頬の蒲乃菜のCGはイイネ。


・サウンド:★★★

専門的なことは分からないが、"音の数"が少なく感じられ物足りないサウンドだが、そこさえ文句を言わなければギターによる楽曲自体は劇中の雰囲気を強くすることに役立っている。それと劇中曲は全部で8曲となっており、これを少ないと見るか十分と見るかは人によるかもしれない。個人的には特に気にならなかった。


・システム:★★★

(システムとはプレイ中の操作時のストレスの無さ、演出、立ち絵の差分などを包括した項目となっている)『好き好き大好き』は可もなく不可もなくという感じであり、突出したシステム面の良さが特別ないという印象。セーブ・ロードの画面はリスト形式になっており若干操作しづらいが文句を言うほどでもないし、演出自体も言葉にしたくなるほどのものでもない。


・ストーリー:

ここの評価は差し控えたい。というのも"この記事"で書いたもの全てが『好き好き大好き』の評価だと受け取ってほしいからだ。再生批評の項まで読んでどこに筆者が価値をもち、重きを置いているか、評価を下しているか、を感じ取ってくれれば幸いである。

……というと何の参考にもならないので、↓を読んで本作が自分に合うかどうか参考にしてほしい。



①倒錯的なシーンが好き


本作では、ヒロインにラバースーツを着せた状態でコトに至るシーンから、嬲る傷つけるなどの暴力的な肉の重ね合い、果てにはそれ以上のものがある。

普通のシチュエーションでは満足できない人には、『好き好き大好き』の奇妙でインモラルなシーンに食指が動くかもしれない。

 

②鬱ゲーが好き


鬱ゲー。つまり救いようのない物語や、人間のキッタナイ精神性にまみれた作品を嗜好する人は『好き好き大好き』もまた好きになる公算が高い。Nitroplusの『沙耶の唄』のような方向性の純愛、劇中のうす昏さが好きな人は『好き好き大好き』もまた馴染むかも。

 

 

③汚染された精神性の嗜好


感想文の項でも言ったが、劇中に内在する精神性にマッチングする人は驚異的にハマるものだと思う。つまり汚染された精神性を飲み干せるならば、ということだ。

この方向性としては『腐り姫』を挙げられるだろうか? もちろん全体としての大まかなざっくりとしたものだし『好き好き大好き』と『腐り姫』は全く似てないんだけども、この「どろっとした精神性」という意味では近いものがあると思っている。

当たり前だが本作は萌えゲーを求めている人、ハッピーエンド希求者にはススメられない。シナリオゲーが好きって人も今現在プレイしたらそこまで胸に迫る作品ではないかもしれないのであまり期待値を上げないほうがいいだろうか。

ただ今なら1300円ちょっとで買えるので好奇心でプレイするのも全然アリだと思う。 というか私がそれでしたので。

[好き好き大好き]メガストア 2014年5月号

 

腐り姫
ライアーソフト’の第六弾。インモラルAVGと銘打たれ伝奇的なストーリー
【DMM】 

 

ここからは【好き好き大好き】のネタバレ注意

 

 

4.再生批評

 

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長瀬渡は祖父が亡くなったことを機に、天城蒲乃菜をこの世界から救い出そうと決心する。

このうす汚い世界に蒲乃菜が身を晒している事実に、彼は耐えられなかった。

だから祖父が死んだことで空き家となった塾ビル、その地下室に蒲乃菜を閉じこめラバー人形へと仕立てあげた。外界との接触をあらゆる方法で断ち切っては、食事の世話から何まで彼女のために尽くそうとする。

 

ボクには耐えられなかったんだ。
君がこの薄汚い世界の只中に、その身を晒しているなんて……。
ボクは絶対に忘れないよ。
あの日の苦痛を。
君の涙を。

 

――渡



「あの日の苦痛」とは、電車内で起きた事件のことだ。蒲乃菜がふとしたことで不良に絡まれ恥態を晒し、けれど乗客の誰もが止めようとせずそのショーを好奇心まじりの目で見ていた忌まわしい過去。

 

この電車の日に、渡はある種の"納得感"を覚えてしまったんだと思っている。

人は法律、常識、さまざまなものを守って社会的に生活している。社会的な間違いと正しさを学校教育や人とのふれあいで学び、他者を害すことは悪だと示され利になることは善だと刷り込まれてきた。

例えその理屈が十全にわからなくとも、刷り込みによって倫理と法で定められたことを出来る限り守ろうとするのが衆生だ。ただそういった社会的な正しさは、時に実感にもたらされる"納得感"によって越境することがたびたびある。

 

今回でいえば、渡はいままで法律に触れるようなことはしてきてなかったはずだが、電車で乗客の誰ひとり少女を助けようとしないことを目の当たりにし、「天城蒲乃菜をこの薄汚い世界から救い出さなくてはいけない」ことがひどく正しいもののように思えてしまったんだろう。

例えそれが社会的に悪とされる行為であっても、実感によってもたらされた強い"納得感"は理性や知性なんて軽く吹き飛ばしていくものだから

 

だったらボクが、蒲乃菜をボクだけの蒲乃菜にしたっていいじゃないか。

ボク以外の人間達には、ボクも蒲乃菜も、どうでもいい存在なのだ。

ボクだけが、蒲乃菜を大切に思うんだ。

他の誰も介在しない、ボクだけの世界の中で。


――渡

 

それは我がままで独善的で自己陶酔な願望でしかない。渡ひとりがその願いを持っているけれど、当の蒲乃菜はそんなのこと一度だって望んではいない。

渡が「君をこの世界から助けようと思う。どう思う?」といった趣旨の発言をせず、蒲乃菜になんの確認もしないまま、無理やり誘拐したことからも彼はこの事を悪いことだと思ってないと見て取れる。

蒲乃菜がなんど「家に帰りたい」「ここから出たい」と叫び、泣いて鬱屈した姿を見せても、"でもね、ボクと君は一つにならなくっちゃいけないんだ。もう、それは決められている事なんだ……。" という渡。

あまつさえ「なぜ彼女はボクの気持ちを分かってくれないんだろう」と繰り返すのは、裏っ返せば「彼女は自分を受け入れてくれる」という前提を持った発言でもある。

蒲乃菜を外界から救い出し(隔絶し)、愛情をささげ優しくすること(結果的に蒲乃菜の自由を剥奪すること)は渡にとって正当性のある行為なんだろう。

だから正しいことをしているのにその正しさを受け入れてくれないから「なぜ?」という疑問が湧くのだ。

 

それがボクの、望みなんだ。

蒲乃菜をさらい、閉じ込めた。彼女の自由を奪ったボクだから、ボクは蒲乃菜を大切にしてあげる。

だけどそんなボクの気持ちを、蒲乃菜はいったいいつになったら理解してくれるのだろう……。


――渡

 

信じないっ! そんなの絶対、信じられないっ!! あなたの言葉なんか…絶対に信じないっ!! 私を見ようともしないクセにっ!!

そんな狂ったような蒲乃菜の叫びに、ボクの胸は締め付けられる。
ボクはあんなに蒲乃菜を大切にしてきたのに、蒲乃菜の心が欲しくって、あんなに優しくしてきたのに、それは全て無駄な行為でしかなかったのか?

ボクの気持ちは、蒲乃菜にはこれっぽちも届いていなかったのか?

 

――蒲乃菜、渡

 


もちろん蒲乃菜はそんなの理解するわけがない。

学校の帰りに襲われ気づいたらゴムゴムとした、大事な部分にスリットがはいった、いやらしいラバースーツを着せ替えられた事実。暗い地下室に押し込められ、誰とも話すこともないまま終わる日だってあるこんなさみしい日常を強要する長瀬渡の自分勝手な気持ちを理解しろといわれてはいそうですかと頷けるわけがない。

繰り返すが渡はこう思っているだろう。蒲乃菜のことをこのキタナイ世界から助け出し、さらには甲斐甲斐しく日々の世話までやってきたのだから自分の気持ちを受け入れてくれるだろうと。

両者はスタート時から、おそろしいほどにコミュニケーションの齟齬が発生している。気持ちも価値観も全く共有できていない。

それも当たり前でとくに長瀬渡の場合は、他者の価値観でものごとを捉えることはせず、自分の価値観のみで世界を見ているふしがある。

本来我々は自己の価値観をひろげることで擬似的な客観視を可能としている。「私はこうされたらウザいけどあの人は好きなんだろうな」とか「ボクはラバースーツが大好きだけど彼女は嫌いかもしれない」といった他者の視点で物事を見ることができている。

これは自分の内的世界に他者が内在化し他者視点が汲み込まれていることに他ならない。けれど長瀬渡の場合、"あの電車の日"からこの他者視点が希薄になりかかっているのてはないだろうか。だからこそ自分の気持ちが蒲乃菜に届かないことを歯がゆく思うのだ。

どうして? と。

もしこれが現社会的に正常だとされる人間だった場合、(例え)拉致監禁した相手に「なぜ自分の気持ちは届かないんだろう?」なんて思わない。受け入れてもらえないくらいのことを自分はしたと判断するからだ。天城蒲乃菜の恐怖・苦しみを共有し少女の視点を汲むことができるからこそ、そんな独りよがりな思考にはならない。

こう踏まえると長瀬渡の心的状況は他者が内在しない、まさに日が差さない、他人が出入りしない「地下室」のようでさえある。

エンディング7(渡、瑠香、莉果死亡)のラストシーン。莉果は屋上へ行こうと誘うが、この時になりはじめて渡は「屋上」というものを認知したようだった。

 

うっとりと空を見上げながら、莉果がニコリと微笑んだ。

ねえ、渡君。今でも屋上、上がれるの?

屋上? 屋上って何の事だい?

いやだ…覚えてないの…………?

このお家、屋上あったじゃない……

そんなの知らないよ。ボクは空なんか見なかった。いつだってボクは床を見て……その下にいる蒲乃菜だけを見つめていたんだ。

屋上なんか、知らない。

空なんか知らない。

 

――渡、莉果

  

裸の莉果が、ボクの手を取る。ずっと涙を拭ってばかりの濡れた手を、柔らかくて小さな手が握り締める。

ねえ、行きましょうよ……屋上……

いやだよ。ボクはそんな所行きたくないよ。ボクは地中にもぐるんだ。土龍みたいに、地蟲みたいに、土の中に潜るんだ。

コンクリートに覆われた、日の射さない地下のお部屋の、ボクの大好きなラバー少女の所に行きたいんだ。


――莉果、渡

 

この場面はいわば「地下室=渡の内的世界そのもの」を強く示すものだろう。

それは日が射す屋上(=外界)に興味を示さず拒み、また地下(=内的世界)に篭ってはダイスキな蒲乃菜を愛でようとする。さらにそんな彼女にダイスキなラバースーツを着せて外に出ないように縛り上げる密室空間。

一応、この地下室には蒲乃菜という人間はいるものの、渡は彼女を"他者"としてではなく"所有物"のような接し方をしている。

何もせず・身体にも触れず・会話も求めず、ただ「そばにいて欲しい」と言ったのも、蒲乃菜を地下室(=渡の内的世界)に取り込むことこそが長瀬渡の本意だったのではないか。天城蒲乃菜という少女と精神的に繋がりたいのではなく、自分の心の中に取り込みたいという願望。

こう考えれば、渡が蒲乃菜とコミュニケーションを積極的に取ろうとしなかったことや、自分の気持ちを蒲乃菜は受け入れてくれるだろうという自己中心的な考えも納得できる。

大好きな少女はもう自分の心の中にいるのだから、自分のモノなんだから、わざわざ会話なんてしなくても通じ合えると思っているのだろう。

 

つまりこの塾ビルの地下室は、長瀬渡の内的世界(=己が望む理想)を現実世界の地下室へ反映した結果と言っていい。

 

 

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この「理想を現実世界に重ね合わせる」というのは、何も渡だけではなく、瑠香、莉果、みるく、蒲乃菜といった人間も行っている。

例えば、瑠香だったら莉果の心を独り占めにしたくて渡を攻撃的にあしらうといった些細なものから、「ずるい」「置いてっちゃヤだ」といい渡を屋上から突き落とした莉果(ED7)、一度外の世界に戻ることができたにも関わらず渡との地下室の蜜月を忘れられず何度も塾ビルに入り浸ってしまう蒲乃菜(ED1)、自分の部屋に渡を監禁したみるく(ED8)、はたまた蒲乃菜に独占されることに耐えられなくて渡を殺してしまったみるく(ED6)といった具合に

みんながみんな自分の理想を現実に重ねあわせその"ズレ"によって苦しんでいる様が現れている。

 

これからもあたしはあなたを護ってあげる……。

誰にも邪魔はさせないわ。
絶対に、邪魔はさせないわ……。

みるくの手が、これ以上ないほどの優しさで長瀬渡の頭に触れ、血にまみれた冷たい身体を抱き起こしていく。

あなたは、もうあたしのもの……。
あたしだけのもの……。


そしてここは、あなたとあたしだけの世界……。 



――みるく(ED6ラストシーン)



特にみるく達の行動は狂気的であり、一見理解不可能のように思える。しかし彼女たちは自分の思い描いた理想を現実に反映しようとしただけだ。

そしてその願望が叶わなければ、しかし、けれど何としてでも叶えたい理想を突き詰めた結果が「想い人の監禁」「〃の殺害」「外界への拒絶」といったインモラルな結末に至ってしまったんだろう。 

 

―――好き好き大好き


ED6のみるくを見てわかるとおり、彼女はもう自分だけしか見ていない。渡の気持ちは無視し自分の気持ちだけを貫き通した結果があれだ。

このような心的状態は、個人の内的世界から他者が"廃絶"されたものだと見ている。つまり内的世界に他者が内在化しておらず、他者視点でセカイを捕らえられず、自己の価値観・視点だけでしか価値判断できなくなっている状態のことだ。違う言い方をすれば自意識のバケモノだろうか?

みるくは目の前の長瀬渡を見ているのではない。自分の心の中にいる(観念化された)長瀬渡を見て、好きになっているだけである。故に現実の渡を殺しても平気なんだ、悲しくなんてならない。

『好き好き大好き』が描いているのは、好意感情を突き詰めた結果ではなく、自意識が膨張し破裂していく人々の心なのではないか。

 

 

 

自意識のゆく末

 

あらゆるエンディングに至るまえの、序盤の、長瀬渡は「他者性が希薄」という状態に留まっている。ただふとした弾み、何かしらのキッカケによってその内的世界に存在する他者性は消失し廃絶することもある。

ED3(蒲乃菜、死亡)では、渡は現実世界にまるごと内的世界を重ねあわせようともし、みくるに殺され亡くなった蒲乃菜も、彼の心にかかれば蘇生し一緒に日常をすごす隣人となり果てる。

このENDINGはまさしく完全に内的世界から他者が廃絶され、長瀬渡は楽園を手にすることが出来た。彼が欲しかったのは、自身が描く理想であり、観念であり、そこに現実的な肉体や、生身ある人間、社会など要らなかったと主張しているようでもあった。

 

ボクが暮らすこの部屋で、ボクの大好きな女の子が静かに微笑みながらボクの事を見つめている。

蒲乃菜は何も言わないけれど、ボクと彼女の間に、言葉なんかいらないんだ。

蒲乃菜はじっと、ボクを見ている。

ボクのミルクを飲み干して、ボクの体液を飲み下して、新たな命を得た蒲乃菜が、静かにボクを見つめている。

この蒲乃菜は、もう壊れてしまうような事はないんだ。みるくだろうが誰だろうが、もう誰にも彼女を傷つける事なんて出来ないんだ。

だってこの蒲乃菜は、ボクにしか見えないみたいなんだから。

可愛い蒲乃菜。
君はボクだけの物だよ。

誰にも見えない。誰にも触れられない。空気にだって触れられる事の無いボクの蒲乃菜。

恐ろしい死神から守り抜く事が出来た、ボクの蒲乃菜。


君は、ボクだけの物なんだ。


ボクと君は、この密閉された空間の中で、御伽話の王子とお姫様のように、いつまでもいつまでも幸せに暮らしていけるんだよっ……。


――渡(ED3.蒲乃菜、死亡)

 

ED3は昏い雰囲気を漂わせているからか、不気味な終幕と感じられる人もいるかもしれない。

しかし見方を変えれば一個人の人間が行き着く結末、幸せとしては破格なものになっている。大好きな女の子は自分のことを好いてくれていて、言葉を交わさずとも意思疎通ができるし、なにより蒲乃菜は誰にも触れられることはなく永遠に独占できる。永遠に死なない。永遠に自分の側に居続けてくれる。それは現実では絶対に叶うことのないアルカディア

またED4も理想(=内的世界)を顕現したものになっている。ED3との違いは内的世界と現実がレイヤーのように「層状態」になっているか、それとも現実は現実、内的世界は内的世界というように「分断」されているかどうかだ。

いずれにしろ、この2つは個人が他者廃絶性を獲得してしまったENDだと言える。「理想は現実に持ってくるのではなく、理想は"理想の中"で叶えられるべきだ」とも取れる最後で個人的には一番好きなエンディングだ。

このように他者性が希薄な状態から突き進んでしまうこともあれば、逆に他者性が復活する場合もある。 

 

「もう……キツすぎますってばぁ。先輩がラバーフェチって……気持ち悪ぅいっ!」

――みるく

 

みるくの「先輩気持ち悪ぅいっ!」という外界からの声を聞くことで、長瀬渡の他者性は復活し"客観的"に物事が見れるようになることもあった。自分が他者からどう思われていて、自分の行動はどういったものなのかを正しく認識できるようになった。

EP1(蒲乃菜、ラバーフェチに)では、みくるのラバーへの嫌悪を聞いた渡は「ラバーフェチは気持ち悪い」と認識し、ひいては蒲乃菜にしてきた事も「やってはいけなかった」と判断できるようになる。そして悩みながらも蒲乃菜を家へ帰すことを決断した。(ただ彼女は帰宅はせず地下室に居ることを望むのだが)

そしてED2(蒲乃菜、帰宅)では、ちゃんと蒲乃菜と向き合い、対話し、コミュニケーションを蜜にすることで少女の気持ちを汲むことができるようになった渡は蒲乃菜に隠してきた嘘を包み隠さず告白しようとする。

 

ボクは、なんて馬鹿だったんだろう…。こんな事をしでかして、それで少女の心を得ようとするなんて…。ボクがした事なんて、ただ蒲乃菜を傷つけてしまう様な事ばかりなのに。

ボクはいったい、どうしたらいい?

いったい、どうすれば…どうすれば、ボクは…ボクはいったい、どうしたらいいって言うんだ……


――渡(ED2)

 

ボクが嘘をつき続けていた事。ボクが蒲乃菜に嘘の生い立ちを教えて、彼女の同情を得ていた事。そんな事全部を蒲乃菜にちゃんと正直に言うんだ。


こんな事を言ってしまえば、ボクはまた蒲乃菜に嫌われてしまうだろう。いくら穏やかな蒲乃菜だって、今度こそボクを軽蔑してしまうかもしれない。それでもどうせ、ボクが蒲乃菜に好かれるなんて事は、ボクの都合の良い幻想だって解ったんだ。それならば、これ以上蒲乃菜に嘘をつき続けて、その事でいつまでも後ろめたい思いを続ける必要もない。

 (中略)

このままボクが何も言わなければ――蒲乃菜に余計なうち明け話なんかしなければ、蒲乃菜は電車の中でのボクの姿なんか思い出したりする事もなく、ボクは蒲乃菜に『嘘つき』だなんて思われないですむかもしれない。


だけど、ボクは決めたんだ。蒲乃菜に本当の事を打ち明けようって。

 

――渡(ED2)



つまりここで何が言いたいかというと、他者性が廃絶しかかっているとき重要なのは「外界からの価値判断を知ること」、そして「他者とコミュニケーションを取る」ことに尽きると思う。

この2つによって自分が自意識(=という名の地下室)に引き摺りこまれそうになっていても、ちゃんと外界に踏み出すことが出来るようになる。決して、独りよがりな空想世界に安住することはない。

そうして渡はED2で気持ちが通じ合った蒲乃菜に対して「守ってあげたい」と思うようになる。彼女を傷つける全てから保護したい、それは地下室に監禁した時の衝動ではない別物だとも告白してる。

これは彼女と意思疎通をおこなうことで今までに無かった「蒲乃菜の視点」を汲めたからかこそ、自身の内的世界にいる(観念化された)蒲乃菜ではなく、目の前に、現実にいる、美化されてない天城蒲乃菜という人間を好きになった感情への違いだ。

ED3(蒲乃菜死亡)では内的世界にいる観念化された蒲乃菜を好きになるが、ED2(蒲乃菜帰宅)ではそういった幻想が剥落し生身の蒲乃菜を好きになる。

 

ボクはそんな、美しい少女の姿を見つめ、身体の奥底から湧き出してくるような、感動にも似た衝動を感じていた。

この少女を、蒲乃菜を守ってあげたい。彼女をボクの腕に抱き、他の全てから、彼女を苦しめ、傷つけようとする全てのものから、保護してあげたい……。

それは、ボクが蒲乃菜を捕らえ、この地下室に閉じ込めた時に感じていた衝動とは、似て非なるものだった。


――長瀬渡(ED2)

 

筆者はこのED2が、『好き好き大好き』の中でいちばん“綺麗”なエンディングだと感じる。長瀬渡が自分の理想を蒲乃菜に押し付け、けれど彼女と会話していく過程で少女の気持ちを理解し他者性が復活する。その一連の流れがとてもよい。

ifストーリーであるED11(あの時をもう一度) では誰も彼もが不幸にならず、当事者である長瀬渡と天城蒲乃菜はつつがなく幸いを得る。けれどこれじゃダメなんだ。

渡の根本的な問題である「誰も信じられない」ことを乗り越え、蒲乃菜と深く接続しようとし、信じようとし、自分のきったない心を晒して、相手の答えを聞いて痛かったり苦しかったりして、他者との信頼と裏切り、繋がりと理解の行程を歩むからこそ―――自意識で創り上げられた『自分にとって都合のいい蒲乃菜』という像から、削ぎ落とされた『生身の蒲乃菜』を捉えることが出来るようになる。その果てに(独りよがりではない)一人の少女と深く繋がり合えるからこそこのED2は美しいのである。 



長瀬渡が心の地下室から踏み出したあのシーンにこそ、この物語の価値が表出しているのだと。

 

 

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好き好き大好き―――それは少年と少女が自意識に引き摺り込まれ、懊悩し、愉悦し、狂気し、外界へ踏み出す物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書き分けをやってみて


書き分け自体は難しくはありませんでしたが、再生批評の項目はいつもどおり(この程度でも自分には)難しくて一瞬投げ出そうかと思いました汗。今回の『好き好き大好き』の《物語そのもの》と自分との"距離"がいつもよりあって、あまり接触せず、ある程度離れたところで書いているという印象でした。書いているというよりは、眺めている、捉えているという感じでしょうか。

距離が遠いと文章自体があまり好みではなくなってくるんですけど、これ以上は近づけないから仕方ないかーと。この文章にでる"距離感"でその作品が自分にとって面白かったかどうか分かるなあと、距離が遠いと"どうでもいい"感出ちゃうと思いますので余計に。

もし書き分け項目を増やすとしたら「精神分析批評」「現象学批評」「文化批評」「マルクス主義批評」なんかを追加してやってみたいですね。もちろん「やっぱりこんな批評じゃダメだわこんなの書きたくない」と頭を抱えて投げ出しそうではありますが……(遠い目

特にマルクスは鬼門。批評技術も難度高いですが、そうではなく、その方向性が私にとって毒すぎるんですよまったく。やっぱり透明な批評(transparent criticism)の方向性が自分には合っているんだろうなあ。

いろいろ長くなってしまったのでそろそろ終わります。以上です。

 

 

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