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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

2015年に「アトラク=ナクア」をやっても退屈なのはもう古典だからだ

オピニオン アトラク=ナクア
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*ゲーム『アトラク=ナクア』の内容に触れてるので、気にする人は回れ右

 

名作と謳われたノベルゲームが10年後、20年後の市場で受け入れられるかと言ったら難しいだろう。(個人単位ではなく「市場」という括りであることに注意)

その作品が当時の市場で評価されたとしても、その評価された部分は時代が流れれば当然古く――正確にいえば古く感じるように――なる。

 

「新しい作品外形の提示」「その媒体では珍しかった技法」「新ジャンルの開拓」「新機軸の打ち立て」

 

その価値は際立っていればいるほど、多くの人間は影響を受け、心を揺さぶられ、当然その偉大なる作品のイイ部分は抽出され濃縮したものが手を変え品を変え次々に創造されていく。何故なら人は常に"新しい"価値を目指すものだからだ。

この「新しい価値」というのはその媒体・その市場に今までなかった(別媒体にあった)物語類型、構造、要素を取り入れる事も含むし、また作品の「外形」の進化も含まれる。わかりやすいのは音楽の音数の向上や、CGの解像度、色数の大幅な増加、それに伴うBGM・ヴィジュアルの高品質化などが挙げられるだろう。ここには演出面も包括される。

そして、そこから数十年後の読者は、「過去作の強みを凝縮した」最先端の作品を味わっているわけであり、過去に名作と評価された作品と現行の名作を比べてしまえば前者を薄味に感じられるのも無理はないと思う。

 

多くの人に影響を与えた過去の作品・描き手が、一般化しすぎて元祖と認識されなくなる問題 - Togetterまとめ


↑もそんなお話だ。

注意しておきたいのは、「当時の新しい価値を開拓した作品として評価」されることと「今の時代の価値観で評価」されることは違うものだということだ。

昔の偉大な作品が今この瞬間・この時代・この市場のトップに君臨できるかはまた別のお話なんだよね。

 

 (まったく同じ文脈というのは↑で取り上げたtogetterのお話からという意味)



CDBさんのツイートで登場する、大学生の方は「今の時代でAKIRAを評価」していて、CDBさんは「当時から今までの流れでAKIRAを(価値の開拓者として)評価」しているのだろうなと思う。

 

そういった過去から今への潮流を若い世代に「開拓者への評価」を情報共有することは大事だけれど(共有しなくなったらその開拓者への評価は評価されなくなってしまうので)、ただその情報を共有しても結局は「開拓者としては偉大、でもこの作品を今見て心揺さぶられるかと聞かれればそうでもない」という返事になるものではないかとも思う。

所詮文字で共有される情報というのは「言葉の世界」のお話なので強い納得感に欠け、そうなんだ、で終わってしまう。知識・文脈のお話はときたまEUREKA体験と直結することもあるけれど基本的には物語体験でえられる感動と比べればちっぽけなものである。

今さら『ロミオとジュリエット』や『桃太郎』を読んですげえええなんだこれーー!!と興奮なんて出来るわけがないのだ。しかしそれらの作品が偉大ではないと言いたいのではなく、ただ現在の古典のイイ部分を濃縮した現行作品にふれていれば当然「退屈」に感じてしまうというお話である。

 

 

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アトラク=ナクアの古典化

 

さて何が言いたいかというと、先日『アトラク=ナクア』(1997年)をプレイしたのだけれど、正直なところ楽しい作品ではなかった。

「主人公が蜘蛛の化け物」「永遠の命による課題」「同性同士の交じり合い」「人間を傀儡にして事に及ぶ」「敵対者との衝撃的な因縁」の要素が絡むこの物語は――――はじめてプレイするというのにどこか知っていて、どこか見飽きたものだった。

もちろん作品の外形は言わずもがな、今のノベルゲームと比べれば音楽・グラフィック・演出は一段も二段も三段も劣るし本作はもう過去のものだなと思わせる様式を見せつけてくれる。ボイスはざらつき、CGの解像度粗く、場転といった演出はしょぼい。

1997年当時からすればアトラク=ナクアの中身と外形はノベルゲーム市場において「すごく」「新規性」に富んでいた作品だったかもしれないが、2015年現在からすれば上述した要素はすでにありふれたものになり当時の新鮮な部分は「見飽きた」作品のひとつになってしまっている。

 

ピンとこなければ、『Φなる・あぷろーち(2004年)』や『あかね色に染まる坂(2007年)』といった萌えゲーの王道物語を2015年に再プレイして面白いと思えるかどうか? 考えてみればいいと思う。

当時は横暴なヒロイン・ツンデレヒロイン・可愛い妹に萌えた人もいたかもしれないが、今ではそれらを上回る魅力的なヒロインはたくさん出てきているし、そしてそれに出会ってしまったが為に、今プレイすれば「霞んで」しまわないだろうか。

「ヒロインと恋をして波瀾万丈な学園生活」といった型は年代を経るごとに改良や進化を重ねていくので――『大図書館の羊飼い(2013年)』等は萌えゲーの行き着いた先と言えそうだ――そりゃ現行作品に触れていれば約10年前の「ヒロインと恋をして波瀾万丈な学園生活」作品を薄味に感じられてしまうのも無理はないと思う。

 

『アトラク=ナクア』の魅力の1つに、「不老不死による希死」といった異形の蜘蛛が人間味溢れる情動を発露していくものだと私は思っているが、しかしこんなの『コードギアス』『隠の王』『化物語』でさんざんにやっているし、2015年にプレイすれば「今更感」が拭えない。

 

もちろん10年前、20年前の作品だからといって必ずしも誰もが退屈だと感じるわけではなく、その人によってはめちゃくちゃHITする作品もあるだろう。けれどここで言っているのは「現行作品に触れていると数十年前の作品は古典に成り果てやすい」であり、退屈に感じやすい傾向にあるのではないか? と言いたいのだ。

それもそのはずで、繰り返すが、時代の変移によって、作品の外形から中身の新規性・独自性は瞬く間に普遍的なものになり有り触れたものとなる。これはもう間違いない。

この時、まず真っ先に普遍的なものになるのが作品の「外形」であり、「外形」が放つ直接性による感動だ。

比べるのも酷だが、『ギャングスタ・リパブリカ(2013年)』や『Rewrite(2011年)』、『はつゆきさくら(2012年)』の音数が多い高音質なBGM群、1280*720解像度のCGの綺麗さ、2ndOPが実装された物語構造、可変式テキストウインドウ、滑らかなアニメーション、コミック的アイコンの演出を体験してしまうとむべなるかな……。

となればアトラクに残るのは「内容」での勝負しかない。しかし内容面からしても、本作の要素を強引に分解すれば今となってはサブカル市場で見飽きた上述した5つの要素でありその結合体でしかなくなってしまう。

 

 

 ・参照

 

 

 

アトラクに限らず、現在ノベルゲームに足を踏み入れた新規者が『ONE』や『kanon』をやったとしてそこに滅茶苦茶昂奮するほどの楽しさがなかったとしても全然不思議じゃない。

当たり前だ。物語に "変わらない" 面白さなんてない。

だからこそある物語はその先の時代で「どこもやっている部分だよね」「見飽きた展開」「古い表現」と言われるようになってしまう。

もちろんここで言っているのはあくまでも「傾向」であり、あらゆる読者がそう感じるというものではないが。


そして昔の名作が「リメイク」されるのもこの為だろう。つまり現時代・最先端の「作品の外形」を得るために作り直すのだ。

外形である「音楽」「ヴィジュアル」「演出」などを刷新することで、現時代に合わなくなってきている過去作品の外形を、現時代に適合するために作り変える。古臭くなった様式をひっぺ剥がし、今生きているプレイヤーに手にとって貰うためにリメイクという行為はある。

物語の内容に大きな変更を強いられることがあまり無いのは、そこを書き換えてしまったら「タイトル」を借りた別作品になってしまうからだが、しかし「外形」は原作を無視していないレベルならば大幅に書き換えてしまってもよい。作品の内容の魅力を最大限まで引き上げられる外形を得たとき、そのリメイクは「成功」だと見做される。


そう考えると、リメイクという行為はある作品が古典化してしまったが故の救済処置であり、現代で蘇らせる方法なんじゃないだろうか?

なぜならこれは「過去にプレイした読者」ではなく「まだプレイしていない現代の読者」に向けているし、そして引き込もうとしているからだ。

 


・参照 YU-NOフルリメイク始動。

 

 

 『アトラク=ナクア』を知ったのは、(今はもうギャルゲーをやられていないみたいなんですが)昔はすごいギャルゲーやっていた方がSNS上で本作を絶賛していたことがキッカケだった。

私からすると語ってきたように本作はピンとこなく、「きっと1997年前後からすればすごい作品だったんだろうな」と思った次第である。

そして今現在のノベルゲーム市場で(過去の潮流を無視し)アトラク=ナクアを『作品単体』で評価した場合、厳しいものになりそうだとも感じられた。


以上を踏まえこの記事で言いたいことは、「過去に名作と謳われても『今現在』プレイして名作級の面白さかどうかは別である」ということだ。

語り継がれるほどの作品として「名作」なのかもしれないが、心を揺さぶるほどの熱量を秘めているか、面白いと声を大にして言えるかという意味での「名作」にはならない場合が "多い" ということだ。

数十、数百年年以上経過しなくても現代では10年ちょっとで、ある作品は素早く古典化してしまうのかもしれない。現代ではものすごい勢いでコンテンツは生産され過剰生産され、さらにプロとアマの垣根はなくなりつつあり供給者は一段と増えているし、またノベルゲームを包括するサブカル市場は発展し続けているのだからこうなるのも無理はないのかもしれない。

 

   ◆

 

それと批評空間の点数を見る限り2010年以降でもアトラク=ナクアに90点以上をつける人がちらほらいることから、その人が受容してきた作品の数々によっても(ここでいう)古典作品が楽しめるかどうかは変わってくるのだと思う。

(前提として90点以上をつけた人はアトラク=ナクアを『作品単体』で評価していると見立てている)

すなわち、『アトラク=ナクア』の潮流の先を行くノベルゲーム(またはアニメでも漫画でも映画でもなんでもいい)作品をあまり摂取してこなければ、当然18年前の作品でも「すごく」「新鮮」だと感じられる場合もあるだろう。『Forest』なんかは十年以上経っても、この方向性の先を超していく作品があまり出てきていない(?)ことからこのままいけば後十年はメタフィクションノベルとして興奮と感動を与えるゲームとして出張り続けるかもしれない。

もしそうなるならばやはり素晴らしい作品である、いやあったなと確信する。

 

 

おわり

 

今回、やはり作品と出会うタイミングは重要であると再認識させられた。

生活環境、精神的状況、心の余裕、趣味嗜好、今までどんな作品を摂取してきたかで出会った作品への官能的美による体験は変わってくるし、もちろん楽しめたかの評価も変動するに違いないのだから。

願わくば―――2015年ではなく、2000年頃に『アトラク=ナクア』をプレイしたかったなと思う。

 

 

 

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