ある一部の芸術作品が提供する快楽に、我々の感性が追いつけないことが度々ある。

腐り姫
Liar-Soft (2002-02-08)

それは本当に稀少だが、ある一部の芸術作品が提供する快楽に我々の感性が追いついていけないことがしばしばある。

一見それは作品の出来が悪かったように思えるかもしれないが、誤りであり、その作品を受容する「読者」の問題である可能性を留意しなければならない。

もちろんその見極めは難しいが―――「うまく理解できない」「感情移入できない」「なんだか凄そうな作品だってことはわかるんだけど」そんな気持ちを抱いたとき目の前にある作品の溢れだす快楽に我々が感応できていないヒントになる。

 

(前略)だがいつの時代にあっても、芸術の目的は窮極においては快楽を与えることにある。ただし、ある時代の芸術が提供する快楽の形式に、感性がついて行けるようになるまでには、時間がかかるかも知れない。

 

――スーザン・ソンタグ『反解釈』(1971年竹内書店) p.335

 

1998年に発売された『好き好き大好き』は主人公がヒロインを拉致監禁、あるいはヒロインに監禁殺害されてしまう元祖ヤンデレゲーがある。

これは伝聞だが、当時のプレイヤーはいわゆる「ヤンデレ」というものに慣れていなく本作は相当気持ち悪がられたらしい。しかし2015年現在ではヤンデレヒロインを愛でるプレイヤーは多く、その歪んだ愛ゆえの行動を「いい」と思える感性が我々には育まれるまでになっている。

むしろ2015年に『好き好き大好き』をプレイすれば、わりと王道(?)なヤンデレヒロインを見て退屈に思ってしまう読者もいるかもしれない。

 


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さらにこれと同種の「人肉を喰べるヒロイン」「ウン☓食うヒロイン」もまたアブノーマルな属性を持ったキャラクターであるものの、(アニメ読者は慣れてないかもしれないが)erg界隈だとそれなりに許容はされていて好きな人もちらほらいたりする。(もちろん苦手な人もいるだろうが)

あとは「寝取られ」もそうだろう。寝取られとは、自分の妻あるいは恋人を他の男に抱かせたり・奪われたりするシチュエーションを目的にした作品のことだ。

通常、愛している恋人が他の男と体を重ねるなんて言語道断だ!許せない!そんなゲーム楽しめるか!と憤る人もいるとは思うが、しかしそういった状況を楽しめ、快楽、趣味にまで発展した読者が多くなった為か一つのゲームジャンルにまでなっている。

そんなふうにある種の「芸術的快楽」を受け入れて「気持よく」読者が感じられるには時間がかかる場合がある。

それはその作品を生み出した市場全体・時代全体という大きな枠組みから、個人個人の小さな枠組みの中でもありえよう。

 

 

現代の最も興味深くて創造的な芸術は、普通の教育を受けた人間には"手が届かない"。それは特殊な 努力を求め、特殊な言語を語るのである。ミルトン・パ ピットやモートン・フェルドマンの音楽、マーク・ロスコフランク・ステラの絵画、マース・カニンガムやジェイムズ・ウェアリングの舞踏――こういうもの が味わえるようになるには、感性を特に鍛えることが必要である。そして、十分な鑑賞力がつくまでの困難さと時間の長さとは、少なくとも物理学や工学を修得することの困難さに比べうる。(種々の芸術の中で、小説についてだけは――少なくともアメリカにおいては――こういう作品の例が見当たらない)。


――スーザン・ソンタグ『反解釈』(1971年竹内書店) p.326

 


ソンタグが言っているのはかなり高度化した作品のことだ。

だが私はノベルゲームやアニメといった媒体もまた、引用文に少なからず当て嵌まるだろうと睨んでいる。さすがに物理学を修得するまでの困難さは無いとは思うが、ある作品を「よい」と思えるにはある程度の感性を鍛えなければいけないだろうし、鑑賞力が身についていない場合も往々にして存在する。

例えば『Forest』という「不思議の国のアリス」「ピーターパン」「ナルニア国物語」というありとあらゆる童話を引用し物語を物語るまこと奇妙なADVがあるのだが、これにハマれるかどうかは読者にかかってくる傾向が強い。

なぜなら、この作品はプレイヤーが今まで経験した物語の数や質によってその楽しみ方が変わっていくからだ。Narrative体験が少ない時期に、芸術的感性が育まれていない時期に、『Forest』をプレイしてもこの作品の外形が与える愉悦を読者が享受できないのだ。

それは作品のメッセージ性などという陳腐なものが理解できないというお話ではなく、この作品が突きつける直接的な快楽を味わえないというお話である。そしてその快楽に触れたものは生涯プレイしたノベルゲームの中でTOPであると宣言しうる者も多い。

 

 

 (Forest・DL版)

Forest
..
 

ADV『腐り姫』もまた、この作品が与える不安や愉悦を受け取れるかは読者の感性にかかってくる。

ちなみに私は精神を消耗させられるだけで(それは日常に支障をきたすほどの)不安を受け取りはしたが、喜びや快楽を受け取ることは出来なった。これは本作の出来が悪いのではなく私の感性がまだ充分に育まれていない時期にプレイしたからだろう。

これは何も『腐り姫』を弁護したいのではなく、本当にそう思えるのだ。

最終的な『腐り姫』への満足度がどうであれ、プレイした者は直感的に感覚的に『腐り姫』がとんでもない(負の)豊穣さを備えている作品であると感じるだろう。

 

 

腐り姫
 
 

そういえば先日視聴した『グラスリップ』もまた、アニメ視聴者の多くがついていけない作品であった。中にはついていける者もいるしその魅力を受け取った者もいるが、全体的な傾向としてはそうは言えない。

この事をグラスリップが駄作であるからだ、と述べる者もいるが私はそうは思わない。


そうではなく『グラスリップ』が与える快楽に、これまた我々の感性が追いつけなかっただけなのだ。あと5年もすればその良さを我々が受け入れられ再評価される日もくるのではないかと考えている。

よく「グラスリップは難解だ」という声を聞くがあの作品は「お話が難しい」のではなく――私自身難しいとは感じられなかった――映像で表現されているその"直接性"を感じるのが難しいだけなのだ。

その作品の外形が与える直接性を感じることが難しい、、、そのことをうまく理解できないがため、ストーリーラインに注目してしまい、「お話が難解だ」という言葉に置き換えてしまうのではないだろうか。

私もまた『グラスリップ』が提供する快楽を受け取れなかった側の人間ではあるが、あの作品が空っぽではなく――むしろ硝子の透明性を帯びた――なにやら秘めた作品だぞ?ということだけは感じられる。

これまた「ヤンデレ」と同じく2014年前後のアニメ読者が視聴するはまだ早かった。もうすこし準備期間が必要だったんだと思う。

 

 

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さて。いままで 「芸術作品が提供する快楽に我々の感性がついていけない事がある」ことを語ってきた。

ただし「作品の論理構造が破綻している単なる駄作」、「短い期間で古典化し退屈に感じる傾向になった作品」、「読者の感受性の問題が大きく占める場合」という様々なケースを見落としてはならない。

その作品が "ほんとう" に我々の感性が追いついていない作品であるかは慎重に見極めなければならないだろう。


了.

 

 

 

ギャングスタ・リパブリカ

『ギャングスタ・リパブリカ』もまたそういった傾向が強い作品かもしれない。