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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

作品を語るときに何故あなたは「外在的文脈」を使うんですか?(7601文字)【完成版】

オピニオン best
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 新世紀エヴァンゲリオン (14) (角川コミックス・エース)
*2014/11/22に書いたものをブラッシュアップしたものになっている。本質的に言っていることは同じ*1 

 

 

作品と文脈の主従関係が逆転した語り


アニメやラノベやエ口ゲから舞台、映画、演劇。

そういった物語性の強い作品*2について語るとき、歴史的観点、時代背景、イデオロギー、作者といった「外在的文脈」を何故あなたは使うのか? 

物語はもう既に完結し閉じられているというのに、なぜその作品とは関係ないものを挟みこみどうでもいい文脈でもって語らなければいけないのか。

(:ここで言っている文脈とはその作品に存在する文脈のことではなく、その作品とは全然関係ない、適切ではない、要素要素を使うことを指している狭い意味での文脈のことだ)

ポニョは宮﨑駿が目指した◯◯だったとか、エヴァは当時のアダルトチルドレンについて表されたものだったとか、白い巨塔は封建的な機構と人間関係を描いたと作者解説を読んでなぜそういう物語だと言い断言するのか。

本歌取り? 外在的文脈を用いて語らないと考察を尽くしていないから?違うでしょ。楽だからだよ。

外在的文脈を用いて語るのはインスタントでお気軽でお手軽なものだからだ。

いくつかの同著作品を読めばその作者を含めた語りなんて誰だってできるし、アニメを100本も見れば業界論だって平気な顔で語れるようになれる。

内実に全然詳しくないのにね、業界に通じてるわけでもないただの一般人なのにね、でもアニメーターの年収はどうだとか、アニメ制作現場の構造がどうだとか、それがこのA作品では如実に表れているとかネットで齧った知識で語っちゃうんだよ。

エ口ゲ『Phantom』『沙耶の唄』をプレイした人が『まどか☆マギカ』を見ればすぐに「虚淵玄が目指したかったもの」だと語っちゃうように。でもそれは『まどか☆マギカ』とは全然関係ないものだ。


現在(2014年11月)、虚淵玄脚本の『楽園追放』という映画が公開されているのでネットでは近々そういう記事が投下されることだろう。

もちろんその語る内容の質の高低は書き手に依存はするけれど、ただ文脈を用いれば作品をお手軽に語れるってのは実感したことあるでしょ。

ね。そういうことだよ。

 

 

自分の好きな作品について語ろうとするとおそらく何も言えないという状態になっちゃわないだろうか。「虚淵玄というキーワドをなしでまどか☆マギカ語るの辛いな」とかね、そんな感じに。

だからこそネットに散見する作品考察や作品語りは、既存文脈を使ったもので溢れかえっている。自分が知っているもので解釈することは楽ちんだものね、うんうんわかるわかるよ。

そうして作品を作品として語ることは誰もしなくなっていくわけだ。著者がこう言っている~~だとか、この作品は☓☓のオマジュだ~~とかばっかりになっていく。

なんだこれ?

 

 

 

更に言えば、製作者の人間性と絡めた作品批評はもっとも唾棄すべきものだろう。

この人は戦前の生まれでとか、薬物中毒の経験があって母子家庭で育ったからこういう作品を描くことができた―――なんつー意見は作品批評でもなんでもなくただの人間批評だ。会ったことも喋ったこともない製作者に妄想を膨らませて、その人の内面を忖度して語るのが作品批評ってなわけ?

作品を<主>として扱わず、外在的文脈という<従>で語ることのどこらへんが作品語りなのかもう一度考えてみていいと思う。


作品と外在的文脈の主従関係が逆転したものが果たして作品批評なのか、感想なのか、考察なのか、語りなのかを。

 

そりゃ、外在的文脈というのは知識の積み重ねにより生まれるものってのはわかる。作者を含めた作品語りをできるのだってその作者傾向を知識として蓄えたからに他ならないし、膨大な知識を関連させながら話せることはある意味凄いことだし、それはそれで楽しいものだろう。


しかし文脈で作品を紐解くことは、その弊害として、その作品とはなんの関係もない話をぶちこんで語るのも常だったりする。

作品を作品として見ることはなく、自分が知っていること、自分が語りやすい文脈で話すことは決して作品を語っているわけではない。

 

それは作品を語ったのではなく文脈を語っただけでしかない。

ここを履き違えるから、「作品考察」を著者や関連作品で連動させるべきという人が出てくるんだろうね。

 

関連記事


作品を考察することは「☓☓のオマージュだ!」と言うことではないというお話。

そして間違っても文脈で読み解くことが、"本気の考察"だなんて呼んじゃいけない。エヴァを考察するならエヴァの枠内で考察しろ、まどかを考察するならまずはまどかの中だけで考察しろ。

作品の枠内で"考え察し"もせずに、外部情報である作者などを用いて語ることのどこが"考え"ているんだ? 考えて察するという行為は、既に知り得ていたことを持ち寄って解明することではないんだよ。

文脈を使った読解なんてものはただの知識の連想ゲームにすぎないし、目の前にある作品を見て考えているのではなく、自分がすでに知っているものでちょこっと頭をひねったものでしかない。

「考える」というのは、自分の中にある知識の枠組みを可能な限り取っ払った状態で結論を出すことだ。つまり(作品を読解することに限れば)、文脈を殺すことに他ならない。

 

参照:アニメをアニメとして見る「物語の内在視点」のススメ。作者なんてものは存在しない



私はこの"知識の枠組みを可能な限り取っ払った状態で結論を出すこと"を「閉じる読解」と呼んでいる。

外在的文脈を用いることで作品を著者・歴史・関連作品へとひろげて拡張するものだとしたら、「閉じる読解」はそれらを可能な限り取っ払った上で作品を読み解く方法だ。

意図的に外在的文脈を外すのである。

もちろん自分が持っている文脈すべてを取り除けることは出来ないが、その作品とは明らかに関係ない要素は自分の意思で外して考察することは可能だ。

「著者」「あとがき」「解説」「時代背景」「歴史的位置付け」「イデオロギー」……という要素要素を取り外していくことで「作品を作品として語る」ことはできる。*3

そしてもし「本気の考察」というものがあれば、閉じる読解で物語を内在的に読み解いたあとに、その上で、文脈をつかった外在的な読解をする2重の考察のことだろう。

 

f:id:bern-kaste:20141204165314j:plain

 

 

今まで語ってきた内容は「自分のことが大事」かで反応も変わってくるだろう。理解や共感もずいぶん違うんじゃないかな。

それも当たり前で今まで「文脈を持ってきて作品を語るのが当然」と思ってきた人に、「文脈なんて重要じゃない」なんて言ってもはいそうですねとはならないだろうからね。

でも何度だって言おう。

物語を語るさいに、読解するさいに文脈なんぞいらない。作者も歴史もイデオロギーもすべて殺せ。

 

「黒人女性の解放を歌ったんだって言われてる。ポール自身も、そんなことを言ってたらしいよ。でも、ぼくはそういう考え方があんまり好きじゃない」

「どうして?」

「だって、そんなのひねくれてるよ。そのままでいいじゃんか。ブラックバードのことを歌ってる歌なんだから」

 


――さよならピアノソナタ

 

f:id:bern-kaste:20141204164328j:plain

 

 

 

 

おまけ。

 

 

 

既存の文脈を使う引き出し型と、使わないアジェスト型

 

作品を楽しむ方法について、「引き出し型」と「アジェスト型」に分類した興味深い記事がある。すこし引用してみようと思う。

続・作品の楽しみ方 「引き出し型」/「アジャスト(調整)型」 - Togetterまとめ

 

 

 

 

(できれば元記事にいって流れを汲み取るとよりいいと思う。引用に際して人物名称が記載されたものを引用しましたが該当ツイートはなくてはならないものだと判断。気を悪くされたら申し訳ない)

 

ここで言われている「引き出し型」とは文脈や知識がないと物語を楽しめない人のことであり、アジェスト型は作品にのめりこむほどの熱意があり文脈に頼らなくても(深く考えようとせずに)楽しめる人のこと。(しかしここでいう「楽しめる」というのはアジェスト型の1流や1.5流にのほうが深く楽しめるということであり、引き出し型の人が全くもって作品を楽しめないということではないことを強く言っておく。あと2流とは言ってもそれは「引き出し型として突き抜けた人」という意味で賛美に近い。)

あるいは「物語の読み方を増やそう」とするタイプか、「順応力を高めて」物語に耽溺するタイプのどちらかだ。

この後いずみのさんは2つの分類に対する詳細な内容を語らず、かわりに哲学さんがタイプの解釈を残している。おそらくこういう解釈でいいんだとは思う。 

 

哲学さんの解釈を元に考えると、アジェスト型は既存文脈に頼るのではなく、感性的に作品に接する者なんじゃないだろうか。その物事の本質をすうっと感じ取り理解するというのは、感覚的なものを連想とさせる。

ここから私の解釈になるんだが、アジェスト型というのは幼少期に持っていた「一回性の回路」のことだろう。小さい頃、今思えばつまらないことでも楽しんでいたし、それを本気で享受していた。

大人が見ればチープな映画でも楽しめていたし、箸が転がっただけでも笑い、些細なことで傷つき泣いて、友達のちょっとした優しさに笑顔をほころばせたりもしていた。街のなかを冒険と称し闊歩し、友達を引き連れて公園に落ちているペットボトルの蓋をまるで宝物のようにコレクションしていたり、雪が降れば大はしゃぎで外にでて寒いにもかまわず遊び続けたりね。

きっと小さい頃は一回性の連続だったから、些細な経験でも鮮烈な体験となり得た。

一回性は"はじめて"だから意味をなすんだ。始めての経験だったからこそそれは鮮やかなものとなる。

しかし年齢を重ねるとそうはいかなくなってくる。「一回性の回路」は摩耗し動かなくなってくる。そしてそれでもなお、大人になっても一回性の回路、感受を持つ人を「アジェスト型」と呼ぶんじゃないだろうか。

つまりセンス・オブ・ワンダーがある人のことだ。

イデアに触れられるということだ。"イデアに手を突っ込める"人のことだ。凡庸な風景から価値のあるきらきらしたものを見つけ出し、体感することのできる力だ。

一定の対象(SF作品、自然等)に触れることで受ける、ある種の不思議な感動、または不思議な心理的感覚を表現する概念であり、それを言い表すための言葉である。

――センス・オブ・ワンダー - Wikipedia

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物語に感動するには【祈り】こそが鍵になる


私が目指しているのはこの方向性だ。

つまり「センス・オブ・ワンダーを意図的に獲得するにはどうすればいいのか?」ということ。

「引き出し型」でもセンス・オブ・ワンダーを意図的に発生することは一応可能だ。それは知識が連鎖するときに起きる。無関係だと思っていた事柄がふいに連結し、"EUREKA!!!"と叫びたくなる衝動が生まることを一度は誰でも経験したことがあるだろう。

あの瞬間は目の前が燦然と輝き、自分が世界の秘密を知ったような気持ちにさせてくれる。あれはまさに一回性でありセンス・オブ・ワンダーだと思うんだよ。

しかしおそらくここで出てくる「1流1.5流のアジェスト型」とはそれを凌駕する感覚の高さを持っていると見受けられる。

つまり知識が連結しセンス・オブ・ワンダーが生まれるのではなく、感受の高さゆえにセンス・オブ・ワンダーが生じるということだ。

物語に耽溺し、そこにある"イデアに手を突っ込み"。感情がブーストして心がオーバーヒートするようなあの感覚を高い頻度で味わえる者のことだろう。

もしアジェスト型が先天的なもので生涯技術として獲得できないものであるならば、それは夢がない。夢がなさすぎる。できるならば頑張ることで獲得できる方法論があればいいと私は思っている。

まだそれがどういうものなのかは判ってはいないけれど、いつか到達したいものだ。

  ◆

引き出し型を目指すのはそう難しくない。いやま方法論としてね? 多大な作品を読み、勉強し、知識を蓄えるという方向でクンフーを積んでいけばいつか到達できるだろう。

けれどもアジェスト型の文脈での「センス・オブ・ワンダー獲得」については方向性すらもままならない。旅をして経験でも積めばいいのか?日記でも書いて自分を客観的に見つめればいいのか? 些細な日常からきらきらしたものを見つける訓練でも積めばいいのか?

 

  ◆

アジェスト型の心の形を考えれば、どう考えても特殊ではある。

知識は非可逆的だ。つまり「知らなかったから→知った」という状況は引き起こせても「知っているから→知らない」には出来ないのである。

知っている状態なのに、経験を蓄積してきたはずなのに、なぜ一回性が頻繁に起こりえるのだろうか。

ここはすでに自分なりの答えは出ている。つまり「共感力」だ。

物語の登場人物に強く共感できるからこそ(=まるで自分と彼らが同期するくらいに)泣いて笑って感動できるのだ。

例えば私の知り合いに映画を見ていると「違うそっちにいっちゃだめだよ!!」と大きな声で叫びだしてしまう人がいる。

映画の中にいる登場人物たちが間違った道に進み明らかにBADENDに突入だろうというところでの発言だ。そして大きな声で叫びだしたあと「Σ(゚Д゚)ハッ!」としたように恥ずかしくなってもぞもぞしたりね。

何が言いたいかというと、共感力が高い人間は、おどろくほどに物語に耽溺できるということだ。のめり込んでしまうあまり、勢いよく立ったり、叫んだり、泣いてしてしまうのは常だ笑。(ちなみにこれは男性より女性が多いと個人的には思っている。というのも女性のほうが一般的に共感力が高いからだ)

センス・オブ・ワンダーによる感動はとても偶発性が高いよるもので全貌は謎に包まれている。けれど共感力→感情移入によって引き起こされる感動は自分の鍛錬次第で能力を伸ばせるのではないかと考える次第。

 

 

おわり


ちなみにこの記事を書く前に書いてきたのがこれら。

  1. アニメを楽しめなくなるのは「俯瞰高度」が高すぎるせい。高度一万メートルの世界にお別れしよう!! 
  2. 作品を考察することは「☓☓のオマージュだ!」と言うことではないというお話。
  3. アニメをアニメとして、エ口ゲをエ口ゲだけで見る「物語の内在視点」のススメ。作者なんてものは存在しない
  4. 物語解釈の敵であるスキーマに対抗するにはどうすればいいのか?
  5. 「読解モジュール」を駆動させるとエ口ゲーは7倍面白くなる
  6. アニメ声優とかもうどうでもいい、というより興味が無くなってしまった 
  7. アニメを語るとき「監督の人間性」に触れる人に嫌悪感を覚える
  8. 語れるから語るのと、語って楽しいことは別物なんだよ
  9. 私が4年間書いてきた「エ口ゲ感想」の移り変わりと作り方のまとめ

この一年間ずっと語ってきたことの完成版がやっと出せたのでよしよしといった感じです。

 

<関連>

 

*1:以前の記事が見たければどうぞhttp://megalodon.jp/2014-1127-2346-52/eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2014/11/22/120000_1

*2:作品というと範囲が広すぎて見失うのであくまで物語性が強い作品に限定する。絵画や彫刻といった静物は取り扱わない

*3:ちなみになぜ完全完璧に文脈を取り除けないのかと言うと、最後に残るのは作品を見ている"自分"だからだ。自分という最小単位は外せないし、外してしまったらもう何も言えなくなってしまう。作品を語るということは、自分の培ってきた経験や体験や感情とは切っても切り離せない。もしそれさえも――自分さえも――取り除いてしまったら作品語りは「事実を羅列」するしかなくなる。それはあらすじと大差ない。しかし完全に"閉じ"きれないからこそ、この読解方法で作品を読み解いた「語り」は読解者のオリジナリティが現れる。