猫箱ただひとつ

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アニメを語るとき「監督の人間性」に触れる人に嫌悪感を覚える(1446文字)

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劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 1000ピース [新編]叛逆の物語 1000-379

 

 

こんな記事を読みました。

 

会った事もないアニメ監督の人間性を妄想する人って
- 幻視球ノート

 

意訳すれば「アニメを"アニメ"として見て、語ることなく「監督」といった製作者の人間性に言及しているのって気持ち悪いよね」というものです。

 

 


これは私もずーーっと思っていましたね……。Twitterを見渡せば、すぐに「ライターがさー!」「監督がさー!」という言葉が飛び交い、 ブログを巡れば、アニメ感想に、監督という製作者の人間性を直結させ、アニメというコンテンツを語っている記事も多いです。


この人◯◯したことがあるの?
子どもいるの?
壮絶な人生があったから~~~
性格がネジ曲がっているからこういうモノしか創れないんだ――――と。


その製作者の「技巧的」な部分に視点をおいて、そこを語るのはまだ分かります。(←それでも私は好きではありませんが)

けれど上記のように、「人間性」に触れるのは正直、気分が悪い。嫌悪感しか浮かばない……かなあ。……引用記事のとおり、会ったことも話したこともない相手の人生観とか人間性に触れるっておかしくありませんか? 「アニメ」全然関係ないですよ

 

 

君の銀の庭(期間生産限定アニメ盤)

君の銀の庭(期間生産限定アニメ盤)

 


私の持論としては、「
製作者の人間性に触れることを "しなくても" アニメは語れるし、面白さを見つけ」られます。 


ミステリー小説風にいえば、「アニメ(=作品)」だけで全てのパーツ・ヒントは提示されているのです。 人物のホワイダニット、フーダニット、ハウダニット……演出の良さ、展開の素晴らしさなど。

そこから自身の考えを膨らませ、内容について語り、本質を見い出せばいいじゃないですか。 それだけでもう十分に語ることの楽しさ、面白さ、視点を変えることの奥行きの広がりを味わえますもの。

なのに
なぜ、

 

提示されている以外のモノを持ち出してきて、言及する必要があるのか私にはよく分かりません。*1


推測すると、そういった監督主義者・作者主義者と言われる人たちは、作った人の人間性を含めてまでが「全て」なのでしょうか。もしくはアニメ監督に言及すれば、「本質を知った気分になれる」というのもあるかもしれません。

 

 

さよならピアノソナタ (電撃文庫)


私の好きな小説『さよならピアノソナタ』で、ある男の子が、ビートルズの『Blackbird』についてこう言います。

 

「黒人女性の解放を歌ったんだって言われてる。ポール自身も、そんなことを言ってたらしいよ。でも、ぼくはそういう考え方があんまり好きじゃない」

 

「どうして?」 

 
だって、そんなのひねくれてるよ。そのままでいいじゃんか。ブラックバードのことを歌ってる歌なんだから


――――さよならピアノソナタ

 

彼が言った意味は分かるでしょうか。……説明しようと思ったんですが、無粋だなと想いました。だってもうこの言葉まんまですものね、やめおきます。


そしてこの言葉は、私も同意見です。監督(=作者)至上主義者は、アニメを「アニメ」として語ることをしていません。

 


まどか☆マギカ」を語らせれば、虚淵さん

風立ちぬを」を語らせれば、宮﨑駿さん

エヴァンゲリオン」では、庵野さんの名前をあげて語る人たちは、

 

―――私からすれば「作品」ではなく「個人批評」しているだけですよこれは。

 

 ▼

 

 

<参考> 

 

*1:例えば『フラクタル』なんて、監督の名前しか引き合いにだされませんし、アニメ本編で話し合っている人を私はみたこと無いです。