物語は人生をエミュレートし多視点を獲得させる力を持っている

 

記事の内容

・物語は現実を理解するための手助けとなる。
・そして多視点の強化に繋がる
・さらにいろんな感情を知ることも可能。
・8683文字


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さて、「物語を読む」ということはどんな効果があるんだろう? 

思うにそれは他者の人生を内在化することが可能になり、数多の視点をエミュレートすることになるのではないだろうか。自分ではない誰かの魔女や人魚、ドラゴンに猟奇殺人鬼の視点を獲得することでその世界把握の仕方を内部から模倣出来るようになるということだ。

本記事はそのことについて語ろうと思う。

 

 

 

1)物語は内在化する


ある出来事に遭遇したとき、自分が知っている物語と照らしあわせて現実を解釈することってないだろうか? 

例えば、最近私は母校に行ってきたんだけど、その校舎は自分が知っているものとは全くの別物になっていた。耐震化工事により汚くなっていた校舎は壊されぴかぴかの建物に改築されていてた。白かった。真っ白だった。悲しかった。大好きだったくすんだ枯れ葉色の校舎が無くなっていた。


―――何かも変わらずにはいられないんです

CLANNAD』の古河渚の言葉が蘇る。時間はとても非情でいろいろなものを流して大事なものを切り取っていく。綺麗に、あるいは強引に。無慈悲に現実から切り離していってしまう。

この世界はとてもじゃないが、時間には耐えられない。

 

この学校は、好きですか
わたしはとってもとっても好きです

でも、なにもかも…変わらずにはいられないです
楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ。
ぜんぶ変わらずにはいられないです

それでも、この場所が好きでいられますか

――古河渚

CLANNAD

CLANNAD

 

 

そして時間の冷酷さに打ちひしがれていると『そんな風にモノや情報が溢れる方向へと時間の矢は向いてるんだ』と猫撫ディストーションの結衣姉さんの声がrefrainする。

結衣姉さんの言うとおり時間の矢は止まってくれないのだ、だって時間の矢は壊せないから。それが世界のグランドルールでちっぽけな人間にはどうすることもできない絶対不変の掟だった。

 

 

『でもそんなのってないよ!あんまりだよ!』」という鹿目まどかに繋がり、『だったら世界のルールを壊すしかないだろ』と仮面ライダー鎧武に連結した。

ふと笑ってしまった。

おいおいどんだけ物語に接続して思考を働かす気だよ、もっと現実的に考えろよ。世界のルールを壊すなんて話はありえない妄想でしかないし『希望的観測にもとづいて判断すべきじゃない。事実をベースにして考えろよ。それが基本線だ』とギャングスタ・リパブリカのシャールカ先輩の言葉を思い出し、『そんなの理想化された観念。現実には役に立たない』と同作品の凜堂禊は切って捨てた。

 

 

そんなふうに物語の言葉を連鎖させて続けていくと、変わってしまった校舎を見たときに感じていた悲しさは少し和らいでいた。

きっと私は自分が大切にしていた場所は壊れないとでも無意識に思っていたんだろう。あの頃にあった風景や時間はたえずその場所に残り続けていると、この思い出だけはなぜか残り続けていると考えていた。でも違うんだよね、そうじゃなくて全ての事物は変化していくんだからしょうがないと納得していた。そしてここで『Rewrite』の瑚太郎の「仕方ないですじゃすませたくないんだよ。それが大人だっていうのなら俺はずっと子どものままでいい」という趣旨の発言がまたもや脳内で蘇ってくるくるくる回り続ける。

  ◆

例えばある宗教団体の信者に勧誘されたとき二階堂真紅の『私は無宗教だ。無神論者なんだよ。神様とは意見が合わない。そう言った倫理観を語り合いたいなら、相応しい誰かの許へ行ってくれよ』と心のなかでやれやれと思いながら受け流したり、生きることってなに?と相談されたら処女はおねえさまに恋しているで出てきた「生きることに意味があるかじゃなくて、生まれてきて何がしたいかってことでしょ?」という言葉からグリザイアの果実の「人間は頭がデカくなりすぎた。だからなぜ人は生きるのか、などと答えのないことを悩むんだ」と連鎖し神様のメモ帳のナルが言うように「生きることに意味なんてない0だ」という言葉から「生きているだけで幸せだろうが」と朝霧海斗に繋がり、「生きているだけじゃ生きているなんて言えない」とEVER17の慟哭に到達した。

それらはただ言葉ではなく、言葉が引き金となり物語のイメージが一気に溢れだしてくる。当時のプレイしていた記憶なども少しだけ交えながら物語の彼らの感情と私の感情が励起していく。

そうして、その時の状況状況に応じてこれが最適解だろうという答えを選んでいくものだ。生きることって? なにさ?

  ◆

例えば、私が「閉じる読解」と呼んでいる物語を読み解く方法は、完全には閉じきれないものだ。物語を物語だけで見ることは確かに可能だが、それは"自分"という最小単位の枠組みがあってこそだ。これだけは決して"閉じ"ることは叶わない。

けれどもそれでも、それを理解してなおも"閉じ"ようと頑張り続けていればその先に待っているのは矛盾でしかない。矛盾は破滅を生み、やがては狂いに繋がっていく。

でもそれが理想なんだよ、そこに行きたいんだよと考え始める。

すると記憶の奥底から『はつゆきさくら』が彷彿する。

 

「だから……俺は……」

「例え、狂っているとしても、止まれない」

「巡り会えると願って何が悪い。そうれなければ、それこそ、俺は生きてはいけない」

――はつゆきさくら

 

きっとこういう今私が抱いている感情が――矛盾だと理解しつつも肯定して突き進もうという気持ちが――狂いを生み、やがては初雪のようになってしまうんだろうと直感的に理解できる。

私は初雪のこと大好きだし、初雪の生き方を尊重しているから、そんな狂いのある選択を選びそうになってしまう。

でもちょっと待てよと、今度は『ギャングスタ・アルカディア』のシャールカ先輩が口を動かす。

 

「……ちぇっ」

「知ってるよ、そんなこと。
潔癖主義は未来を狭める――なんてな」

――ギャングスタ・アルカディア

 

シャールカ先輩の言うとおり、この矛盾を内包した考え方は可能性を狭めているものだし、自分を壊そうとする行為に他ならない。感情的には理解できても理屈的には選びとってはいけないものなんだろう。

 

ひばり「お前と、友だちの儘付き合い続ける事も、きっと出来るよ。それはきっと楽しいんだろうけれど。……けれど、ボクは探さなきゃいけないんだろうさ。だって、ここに『在った』んだ。……二つとない理由は無いだろう?」

獅童「何を探すんだよ」

ひばり「言ったら笑うよ。馬鹿げた物さ。ボクみたいにやさぐれた奴には似合わない物だ。……だけどね、獅童。在ったんだ。きっと、在った筈なんだ。今のボクには確信は出来ないけれど。皺だらけになって、お前と酒を呑むその日に、きっとそれは証明される」


獅童「気の長い話しだな」

ひばり「勿論、それだけを待つつもりは無いよ。氷細工の溶けないバラを、ボクはずっと探し続ける。嫉妬しちゃあダメだぜ。ボクを選べないお前が悪いんだ」



――Sessions!!~少女を監禁する事情~

 

けれども、もしかしたら私もまた氷細工の溶けないバラを探し続けなきゃいけないのかもしれない。ひばりのように無駄だと判ってもそんなもの無いと言われてもやらなくちゃいけないことがきっとある。

この先は暗い夜道だけかもしれない
それでも信じて進むんだ
星がその道をすこしでも照らしてくれるのを

さあ、旅にでよう

――四月は君の嘘

 

きっとの旅は険しいものとなる。木偶の人形に成り果てるまで心を擦り切れるまで機械のように足を動かなさきゃいけないのかもしれない。でも信じようよ。

[Realta Nua]で彼とアルトリアが悠久の果てで再開したように、あの場所に辿り着けるんだってことを―――。

 

戻ってこい
戻ってこい
私が憧れた有馬公生

響け
響け
響け

私のピアノ

響け
響け
響けっ!

 

 

四月は君の嘘 僕と君との音楽帳
四月は君の嘘 僕と君との音楽帳

 


そんなふうに現実の出来事を「物語」で解釈し、納得したり、理解するための手助けとして使うことを私はよくやる。自分の客観性を保ったりすることも物語によって支えられている節がある。

でもこれってなんなんだろ?っていうのが長年の疑問だった。どうしてこういうことが起きるんだろ、そう思ってた。

それが最近になって「内在化」と言われるものなんだと知った。下記の引用文を見て欲しい。

(以下の文章では「黒子のバスケ脅迫事件・被告人の最終意見陳述」の文章であり筆者が改行と太字を施したものである)

 

乳幼児期に両親もしくはそれに相当する養育者に適切に世話をされれば、子供は「安心」を持つことができます。

例えば子供が転んで泣いたとします。母親はすぐに子供に駆け寄って「痛いの痛いの飛んで行けーっ!」と言って子供を慰めながら、すりむいた膝の手当をしてあげます。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できます。これが「感情の共有」です。

子供は「痛い」という言葉の意味を理解できて初めて母親から「転んだら痛いから走らないようにしなさい」と注意された意味が理解できます。そして「注意を守ろう」と考えるようになります。これが「規範の共有」です。さらに注意を守れば実際に転びません。

「痛い」という不快感を回避できます。これで規範に従った対価に「安心」を得ることができます。

さらに「痛い」という不快感を母親が取り除いてくれたことにより、子供は被保護感を持ち「安心」をさらに得ることができます。この「感情を共有しているから規範を共有でき、規範を共有でき、規範に従った対価として『安心』を得る」というリサイクルの積み重ねがしつけです。このしつけを経て、子供の心の中に「社会的存在」となる基礎ができ上がります。

またこの過程で「保護者の内在化」という現象が起こります。子供の心の中に両親が常に存在するという現象です。

すると子供は両親がいなくても不安になりませんから、1人で学校にも行けるようになりますし、両親に見られているような気がして、両親が見てなくても規範を守るようになります。このプロセスの基本になる親子の関係は「愛着関係」と呼ばれます。

 

――「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース


この引用文を解釈して、さらに、私なりに物語という媒体に落としこんでみるとこうなる。

1つ1つの物語は、1人1人の人生となりえる。

心が空っぽの猟奇殺人鬼、人の不幸を愉悦だと感じる神父、大切な人を守りたいと願った正義の味方……そんな誰かの人生。そんな誰かの人生に私たちは怒ったり涙したり笑ったりすることができる。

つまり彼らと感情を共有していることに他ならない。

彼らが怒れば怒り涙する境遇だったら泣いてしまう。そんなふうに感情を共有し続けているといつかそれは経験になる。例え擬似的ながらも、擬似的な経験を共有できるようになる。このサイクルを通して物語が心に根を張っていくようになる。

これが「物語が内在化する」というプロセスなんじゃないだろうか。

 

物語をただの知識としではなく"擬似的経験"にまで昇華するには、その作品へ読者が感情移入したときに起こるものだろう。

つまり感情移入(感情の共有)が出来なければ、擬似的だろうとも経験になりえないのだ。経験にならなかった物語は、自分の心には内在化しないとも考えられる。

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2)物語は数多の人生をエミュレートする


先は、自分の心の中に物語が内在化することで、現実を解釈する手助けとして物語が顔をのぞかせることがあるということを語った。

今度はもう一歩進んで「物語内在化はエミュレートに繋がる」ということを語っていく。

 ◇

人は、1つ分の人生しか生きれない。

私ならば私だけの人生を。あなたならばあなただけの人生しか人は生きることが出来ない。当然だ。他人と肉体を取り替えっこすることは出来ないし、"自分"という存在からはどんなに頑張っての逃げることができないのだから。

自分はずっと自分だ。他の誰にもなることができないし、他の誰かの人生を歩むこともできない。

すると必ず情報不足・経験不足に陥ることになる。人生はたった一度きりで一つきり――ならば生涯に事実として "起こった" こと以外のものは実感することができないのである。

貧困の家で生まれ育った者は、決してはふかふかのソファで眠る安らぎを知らないし頬が落ちそうなほど美味しいステーキの味を知ることもない。代わりに贅沢極まった生活による退屈・閉塞感によるニヒリズムの苦しみも知ることはない。

美しい相貌を持っている者は、第一印象で好感を持たれることに慣れているしそれを武器に世の中を渡っていく楽しみを知っている。けれどその武器を持っているが故に他者に阻害される苦しみ、人間関係の煩わしさ、性的視線の苦労を知ることにもなる。これは容姿が劣っているものには生涯味わうことのできないものだ。

そんなふうに。
そんなふうに。
そんなふうにさ。

人は自分だけの人生しか所有していない。

しかしそんな1つ分の人生に、多様な人生があることを擬似的ながらも実感としてもたらしてくれるのが「物語」だ。

物語により殺人がいけないことを知りながらも人を殺害しなければいけない苦しみを覚えることだってあるし、絶対の運命によって心が挫けてしまう辛さを知ることもある。エリート街道をひた走って得たものは人生への閉塞感だったり、自あるいは自分を欠陥製品だと嘯いてしまう少年の哀しさを識ることも可能になる。

このことで視野狭窄に陥るような思考をいくらか緩和できるはずだ。

「法を破ったやつは皆悪人」とか「倫理は絶対」なんていった安易な判断は下さないようになり、いやいやこういう考えもあるっしょ?と別回答を提示できるようになりえる。

「犯罪はたしかに悪いことだけれども、でも情状酌量の余地がある犯行かもしれない。ムラ全体でイジメにあっていてその苦痛が加害者に向けられたのかもしれない。一面的には犯人は悪だけれど、本当の悪はその犯人を虐めていた村人全員だったのかもしれない」とか。

「マナーや倫理なんてものは、<自分が必要じゃない>と思ったら破っていいんだよ。逆に自分にとって必要なら守ればいいだけのことさ」とか

「怠惰な社会って最高だよなー。頑張って頑張って働くよりもソファでごろごろするそういう社会も至高じゃないかなあははは」とかね。ごろごろ~

 

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さらにさらにさらに妖怪でも神でも悪魔でもネッシーの立場になれるのが物語だ。多様な人間、多様な種族、多様な存在を知ることで様々な立場から出来事を解釈できるようになる。

 

人間は皆だいたい同じだけど、少しづつ違うし、少しづつ価値観が異なっている。いろんな人間がいて、いろんな生き方があって、今の自分とは違う生き方がありえるんだよ―――


そんなふうに「人間は多様である」ということを物語で学べると思う。

私はこれを「多視点による解釈の拡張」とか「物語によるエミュレート」って呼んでいるけど、ある人は「想像力」というかもしれない。

そう想像力。一つの出来事は決して1面によって決まるものじゃないと理解できること。一つの視点によって物事の価値が決まるわけじゃないってことを実感できることで、いろいろな側面を"視る"方法を知ることで、よりその出来事への理解が深まること。それが想像力。

数多の物語を知っていることは、数多の人生を知っているということである。それが心の中で内在化していれば、数多の人間の視点によってエミュレート(=内部から模倣)してセカイを解釈できるようになる。

つまり、多視点の強化(多様な立場を知る)だ。

 

 

3)いろんな感情を知ることができる


人間は与えられてもらった感情しか表現することが出来ないし、知ることが出来ない。

というのが私の持論だ。

愛情を知らずに育った子供は愛情というものがどのようなものかを知らないまま大人になるだろうし、寂しさゆえに自殺する人の気持ちを知らない人は「そんな理由で自殺したの?」としてその動機を理解できないものとして嘲弄するようになる。

このセカイにはいろいろな動機で行動し、いろいろな感情で現実を生きている人が山ほどいる。自分が知らない動機・感情だって山ほどある。でも人はそんなことはあまり考えない。

自分が知っている感情が全てであり、それ以上はないと思っている。何故かそう信じている。無意識に無根拠にそう思っている。自分が経験してきたものが全てで、自分が見たものが全てだと思っている。

それが例え馬鹿げた考えだと分かっていても、とっさな行動や考えにはそうういうのがありありと滲みでてきてしまうし、分からないものは否定しまうものだし、理解不能なものは攻撃するものだ。

だから自分が知らない感情で、自分が理解しえない行動を取った人を「狂っている」「頭がおかしい」とラベリングする。

ラベリングすることで、よくわからない存在を「よく分かるもの」にしてセカイ理解の手助けとしている。

しかし物語はそんな「よくわからないもの」をもう少しだけ、ほんのちょっとだけ妥当で納得のいく理解に導いてくれるかもしれない。理解不能と理解可能の差を少しでも埋めてくれるかもしれない。

  • 「死にたくない」と思ってしまうのは原始脳による生存本能によるものだけれどそれを抑えつつ「それでも死ぬ」ことを選ぶ感情を私は知っている。
  • 結果なんかどうでもいい。川に流れる棒のように流れのまにまに選択肢を決める惰性的な生き方を私は知っている。
  • 明晰な世界も狂気の世界もないとそう叫ぶ気持ちを私は理解できる。


そんなちょっと考えただけでは分からない理解不能な感情を、知識ではなく擬似的ながらも"実感"として理解できるのってのはじつは結構凄いことだと思う。それが物語の力なんじゃないかな。

 

まとめ

1、物語は現実の理解するための手助けとなる。それは自分の中に物語が内在化しているから起こりえる。

2、物語は多視点の強化(=多様な立場を知る)に繋がる

3、多用な感情を知ることでもある

そして物語の英才教育を施された人がいたのならば、その人は「やさしい人間」になりやすいのではないか?と考えみたりもする。異文化に拒絶を持つことはなく、自分とは違う考え方を拒否する度合いも低く、他者の許容度が高い人間。

木洩れ陽のノスタルジーカ』のしねまのような、、、人の気持ちを心の底から想える、応援できる存在になりやすいんじゃないかな。。ぐにぐに考えてみる*1


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*1:ちなみにこの記事を書き上げたのが9月。それを少し直して11月後半に出すとか嘘でしょ?っていう気持ちが今あったりなかったり。なんでこんなに長く空いてしまったんだなぜっ。ネタは長期間寝かせると大抵投稿しなくなっちゃうものなので、それでも投下したこの記事は珍しいといえば珍しいかもしれない