猫箱ただひとつ

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物語は人生をぶっ壊し『オーバーライド』する力がある。Fateは文学CLANNADは人生って言いたくなるのもこの体験があるからこそ

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人によっては馬鹿げた与太話に聞こえるだろうし、人によっては私にもあるよと言っちゃうような記事。

あなたはどれ?

 

 

 

1)読書環境と物語体験

 

そういえば私の家族は祖父母も親も姉弟も本を読まないの人だ。家に本という本がないし、誰も彼も本なんか読んでいない。もし読んでいるとしたら新聞紙や雑誌、料理本程度のものしかなかった。

本を好きになる子どもってよく親が読書家だったり、家に常に本が置いてあってそれを読む機会が多いから読書の敷居が低くなり読書を好きになると聞くけど、私の場合は全く当て嵌まらなかったなと思う。

ただガキンチョの時分から絵本の読み聞かせだけはさせてもらっていたり、テレビではゴールデンアニメ、人形劇、ドラマ、映画、週に一度はレンタルして頂いたクレイアニメ/ディズニーアニメに触れさせてもらえる環境にいた―――ことも学校の図書館に飽きたらず街の図書館まで出向く理由にはなったのかもしれない。それくらい「物語」に触れるのは自然で当たり前な環境だった。

ただ~3歳しか違わない兄妹は私と育ってきた環境も教育もほぼ同じにも関わらず読書という習慣はまるっきりなく、年齢を重ねるごとに物語に関してさほど興味ない感じになっていったのは本当に面白い。

そんな様を見ていると 

 

「……そもそも、趣味や特技や思想など。本質的に自分で決められるものじゃない」

――シャールカ・グロノマスノヴァ/『ギャングスタ・リパブリカ』

 

 

っていう『ギャングスタ・リパブリカ』の言葉を思い出す。

私が物語を好きになったのは、「好きになりたくて好きになった」わけじゃないのかもしれない。気づいたら好きになっていただけ、趣味も特技も思想も自分で決められるわけじゃなく勝手に決まっていただだけ―――だとしたらこの言葉は深い。

そういえば当時気に入っていた児童文学は『ルドルフとイッパイアッテナ』だった。飼い主と離れ離れになってしまう猫・ルドルフの物語。ひょんな事から東京へ来てしまい『イッパイアッテナ』という奇妙な猫に出会うところから始まるハートフルは動物作品。

 

ルドルフとイッパイアッテナ

ルドルフとイッパイアッテナ

 

 

最初「イッパイアッテナ」の名前を「イッパイア"ン"テナ」と奇妙な覚え方をしていたんだけど、ドラえもんの道具のイントネーションとごっちゃになって憶えてしまったのだろう。そもそも「イッパイアッテナ」自体奇妙な名前なので仕方ないといえば仕方ない間違いなのだけれど、今でもこういう「文字を読み違える」ことはあったりする。例えば"セミラミス"がうまく認識できなくて、"ラ"はどことどことに入るんだっけ?せらみらす?みたいな感じに。『グリザイアの果実』の入巣蒔菜のように時々うまく単語を読めなかったり言えなかったりするあれは私は明らかに言語優位者・聴覚優位者じゃないんだなーと痛感させられる。

この系統でいえば『フレディ』っていうハムスターが主人公の児童文学作品があるんだけど、これも当時「ハムスター目線で観る人間社会」がすっごい面白くてハマってた。

人語を話せないハムスターはどうやって人間とコンタクトを取り、意思疎通を取ればいいのか? 人間だと危険でもなんでもない猫によって命の恐怖を覚える世界に居るっていうのはどういうことなのか? みたいなそんな感覚。

 

フレディ―世界でいちばんかしこいハムスター (旺文社創作児童文学)

フレディ―世界でいちばんかしこいハムスター (旺文社創作児童文学)

 

 

 

また『ローワンシリーズ』も "ここではないどこか" を強く体験させてくれた。特に『ローワンと魔法の地図』はその表紙を見たときにびびっときて、すぐ図書館から借りて読み、続巻を買った。

とても……表紙がいい……。

黄金の草原が靡く場所にいるバクみたいな大きな動物、それを世話している気の弱い少年ローワン、そんな彼が魔法の地図を発見することで紡がれていく冒険譚が今でも自分の心の風景になるくらいに強く刻まれている。目を閉じれば熱線で照り光る稲穂が見える。

 

ローワンと魔法の地図  (リンの谷のローワン 1)

ローワンと魔法の地図 (リンの谷のローワン 1)

 

 

そうやって図書館から借りて家に帰って読み、一日で読み切れなかったら学校の休み時間に食い込ませてまで読んでいた。私はスポーツが好きで、休み時間になったらすぐ外に出て、校庭での遊べるスペースを確保してドッチボールや天下取りをひたすら友達とやるのが日課だったんだけど、それを放り出してまでこれら三作品を読むほどに物語世界に夢中になっていた記憶がある。

スマイルプリキュア』のナオ回で、マジョリーナの魔法によって身体が小さくなっちゃうお話あるじゃないですか。ああいう "今見ている世界を強制的に変更させる" センス・オブ・ワンダー的な感覚が、「猫の主人公のお話」であるルドルフとイッパイアッテナ、「ハムスターが主人公」のフレディにはあると思うんですよね。ローワンシリーズはまさに異世界ですし。

そんなふうに当時、私が求めていた本の傾向はもっぱら「ファンタジー」ものだった。剣と魔法の『2分間の冒険』も好んで読んでいて、自分が住んでいる世界から全然違う世界へとシフトしていく感覚や、"ここではないどこか" を見せてくれる作品を探していた。

逆にいえばファンタジー要素が薄い、日常物、学園物、恋愛小説といった人間関係に強く焦点を当てたものはほんと読んでなかったな……。よく図書室では推薦図書が飾られているわけですが、見向きもしなかったし、そんなことより不思議で面白いものを見せてよ!と渇望していた気がする。

あと通っていた学校の図書館は『はだしのゲン』や手塚治虫の『ブッダ』が置いてあって、学校で漫画が読める!と昂奮していた。『はだしのゲン』は反戦争と教育的な目的で置いているのだろうなと察しはつくけど、『ブッダ』はなぜだろう。これ以外にも手塚作品はうちにはあったような。

そして当時『ブッダ』は読んでもちんぷんかんぷんだったけど、それでも楽しく読むことが出来たのは作品の出来がいいのかあるいは感受性が高い時期だったからか。

 

新装版 ブッダ 全14巻

新装版 ブッダ 全14巻

 

 

放課後で子どもを預かるSystemがあってそこでは『アラレちゃん』や『ダイの大冒険』、『ドラゴンボール』が置いてあったのはどういうことだったのだろうか。学校で無料でマンガが読めるとか半端ないなと子ども心に思っていて、この時にマンガ文化にすごい慣らされた気がする。ただ一部巻数が抜けていたり、最終巻まで置いてなかったりしたところは残念だったけれども。そういえば周りの同級生は漫画は大好きなことはもちろんながら、小説を好きな子も多かった。

クラスのある子が「ズッコケ三人組」を全巻保有しているんじゃないの?というくらいに持っていて、それを興味あるクラスメイトに貸し出して一時期クラスの中でズッコケブームが起きてたなんてことも。(このクラスでは珍しいことに男の子が外に行って遊びにいくことがその時だけ激減していた)今思えばこれは立派なアジテーション活動だなあと。

それとクラスに読書好きの男の子が1人いたんですけど、授業中も読書、怒られても読書、休み時間も読書、給食中も読書、放課後にふと図書館にいくとそこでも読書している彼の存在が、私が本を読む、本が好きなことも一つの要因になっている気がする。なんというかそういう"存在"って特に何もしなくても周囲に影響を与えていくのかなって。あいつが面白そうに読んでいる本なら、私もその本読んでみようかな?という気持ちになっていくってんはあるあるだと思う。あるいは読書に熱中している奴がいると「読書ってそんな面白いんだ」とか「私も久々に本読もうかな」って思う感じに。

ただそういう誰かから作品共有の影響を受けながらも、この時、私はだれかと感想を共有することをあんまりしてなく、感想を言い合うのを小さいころに経験していないとふと思った。別にそれが良いか悪いかではなく、ただしてなかったなーという感慨なんだけれども。

ま、そんな感じで私の物語体験はこんなふうに(ありきたりであふれるほどにありふれたものであり、かつそれを阻害する要因が殆どなかった状況で育ってきたからこそ今でも私は物語が大好きで仕方ないんでしょう。

しかし、幼少期のこの環境だけが今でも私が物語が好きである唯一の原因とは思っていなくて、おそらく"オーバーライド"された体験も確実に関わっているはず。これに出会ってしまったら物語を軽視なんか出来なくなるし、物語を自分の人生の一部のように感じてしまうものでしょうから。

ええ。きっとね。

 

 

 

2)物語(ナラティブ)の力と救済

 
物語によって人生が「オーバーライド」されるっていうのは、自分の人生が "1つ終わる" 感覚に近い。過去・現在・未来が一点に集束して収束し終息していき光に包まれながらも光が止まってしまったそんな世界で身を窶し、自分の歩んできた人生にあった苦渋も嫌悪も倦怠も憎悪も怨嗟すべてが消失する感覚。かわりに多幸感で心がいっぱいに満たされるような実感。そして「これに出会う為に生まれてきたんだ」と錯覚してしまうような瞬間が必ずある。

例えば『キラ☆キラ』で愛しい人の残滓を胸に抱きしめた時、『半分の月がのぼる空』で僕たちの両手が本当に欲しいものと掴めるんだと識った時、『イリヤの空、UFOの夏』では目が覚めたあの日大切なものが何も残っていなかった時、『スプートニクの恋人』で大事なものなんて全て手の平から溢れてしまうんだと分かった時、『グリザイアの楽園』で実存を欠損していた少女たちが克己したあの瞬間を、『スマイルプリキュア』でみゆきちゃんが本当にどうしようもない絶望と対峙した時、『CARNIVAL』でこのクソッタレな世界で生きることを覚悟したとき、『AIR』で晴子さんのあったかさに触れたとき、『リトルバスターズ』で仲間の本音を聞いたとき、『ひぐらしのなく頃に』で古手梨花の絶対の意志の叫びを聞いた時、『うみねこのなく頃』で"やさしい嘘"を見つけた時、『グレンラガン』でシモンが兄貴の意志を受け継いだ時、『明日の君と逢うために』では7年間幼なじみを取り戻す為に頑張ってきたとき、『true tears』で乃絵が最後に到達した風景を見た時、『ノルウェイの森』では死のあっけなさを感じ、『戯言遣い』でいーくんの在り方に胸を痛めて、『この青空に約束を』では静の自立に涙をし、『Angel Beats!』で直井の生前での絶望を感じとり、『Rewrite』でちはやの優しさに触れたとき

――――眼前に真理とでも呼びたくなるような風景が現れ、手を伸ばさずにはいられなくなる。Aletheiaに触れた時、自分の人生がぶっ壊され、修復し、再生し、オーバーライドされていくこの体験は想像を絶するほどの「なにか」が頭の中で起こり、頭の中の「なにか」によって自分という個体さえどうでもよくなっていくものだ。

 

 

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―――

ある人はこれを芸術体験とでも言うんだろう。

またある人は物語によって救われたんだと表現するのだろう。

あるいは……。

 


この力によって、人生を規定され、救われて、涙する人がいっぱいいるんだろう。

というか実際にいるのだ。(太字は私がつけた)

 

 

アニメは所詮娯楽なのだから、それ以上でもそれ以下でもないのだから、深く考えなくてもいい。

そんなもんだと思って付き合えばいいとは世間では良く言われるが、それは確かに事実だけれども、一度でも、人生を救われるレベルの関わり方をしたら、切り離して考えられないというのもまた事実である。

 

――何てコトない毎日が かけがえないの - 隠れてていいよ

 

 

 僕はゲーム中毒だ。 ゲームに時間を費やすとか、夜も寝ずにレベルを上げるからじゃない。 仮想空間の中で人生を変える大きな体験をし、何が現実で何が非現実かを見極める判断力がゲームに冒されてきたからだ。 僕は中毒だ。 現実感覚を失いつつあると気づきつつ、決してやめられない
(音楽)
小さい頃からテレビに映し出される光景に感情移入するようになった。 感情をあおるように計算されたテレビを見続けて20年。なんでもない保険のコマーシャルで泣いてしまうこともある。僕はそうして育った世代の一員に過ぎない。現実世界での経験よりはるかに多くのことをゲームで経験する世代だ

 デビッド・ペリー : ゲームについて

 

 

そこで僕は、本を読みました。生協に平積みされている本を順番に。面白い本もあれば、そうでない本もあったけど、いろいろ手に取りページをめくりました。それはギリギリ自分をつなぎとめるための作業でした。間違いなく、その時の僕は本に救われた。後になって解ったことだけど、それは「物語の効用」でした。 

 

――それでも本を読んだ方がいい理由。 - COPYWRITERSBLOG

 

 

 

 

 

私はこれらの記事に、呟きに、共感してしまう。

一度でもこんな関わり方をしてしまったら、自分というものが大きく規定されていってしまうしこれからの人生に物語を切り離して考えるとか困難だろう。エ口ゲやアニメといった物語を「たかが」と言っちゃうような人とは一生分かり合えないとすら思う。

そして何故人は物語を欲するのか? 物語が必要なのか? に対応する答えに「面白いから」が一つにあるかもしれない。別にそれは否定しないし私も楽しいから面白いから物語を読んでいる部分はある。

でもそういうことをここで言いたいわけじゃない。

物語っていうのは、「思い出」となんら変わらない。物語とはある種の"擬似経験"であり、"実際"にその世界で受け取ったギフトに他ならないからだ。

向こうの世界から持ち帰ってきたものはとても大切なものだし、持ち帰ってきたそれは現実世界で過ごす為に大事なことを教えてくれるものなんだよ。そして向こうの世界は現実と虚構という垣根を超えて、どちらを分け隔てることなくシームレスに繋がっているものだ。

化物語』や『刀語』『戯言遣い』を読んだ後に、『少女不十分』という小説を読むとそういうのがよく分かる。あの小説で出てきた少女Uと主人公の僕、"僕"が"U"に読み聞かせた物語は、まんま私たちが「何故物語を読むのか?」という問いに対する1つの答えだった。

 ――きっと、大丈夫って言って貰うために物語は存在している。

 

 

だから僕は物語を作った。即興で、行き当たりばったりだったけれど、とにかく言いたいことをぎゅうぎゅうに詰め込んで、Uに語った。

大丈夫なんだと。

色々間違って、色々破綻して、色々ダメになって、色々取り返しがつかなくなって、もうまともな人生には戻れないかもしれないけれど、それでも大丈夫なんだと、そんなことは平気なんだと、僕はUに語り続けた。


――『少女不十分』

 

もちろん何故物語は必要なのか?という問いに対する答えはこれだけじゃない。もっといっぱいある。

例えば強い情念を一つ上の概念をシフトさせる為に、死んでしまった者への救済の為に、変更不可能な現実世界を書き換える為に色々に、本当にいろいろな理由があって私たちは物語を必要としているんだと思う。

例えば『はつゆきさくら』では、もう報われることが出来ない自分の気持ちを、「舞台」という物語に託した女の子がいた。この現実世界では救われない情動を救おうともがいた人間の姿がそこにはある

 

「我々は忘れない。けれど、今を、生きるためには、復讐に囚われ続けては進めない。平穏は訪れない」

「自らのうちにある、無念を、義理を、けじめを。いくつもの、心を、殺しながら……何食わぬ笑顔を浮かべて、生きなければならないときがある」

「それが大人というものです。社会に生きるということです」

「それでも、どこかで忘れてはならない。実生活の中で滅び去るしかなかった者達を、せめて観念の世界で生かし続けたいと思うから」

だから私達は、この劇を作り続ける

「置き去りにされた哀れな魂達に、この劇を、捧げ続けるのですよ」

「そうやって今を生きることだって出来るのですよ。創作とは、芸術とは、許さずさまよい続ける想いの救いの場なのです」

 

――はつゆきさくら

 

 

 

 

また『うみねこのなく頃に』では叶うことのない願いを、一つのゲーム盤に託した人間がいた。

その願いを現実で叶えようとするのではなく、なぜゲーム盤の中で叶えようとしたのか? きっともう現実世界では報われることがが無いと知っていたからなんじゃないだろうか。ゲーム盤という物語だけが、彼彼女にとっては唯一の救いだった。

――このどれもに共通しているのは。現実が"オーバーライド"される感覚があるってことなんじゃないだろうか。感情を、憎しみを、現実を因果を、運命を、それらを強制的に書き換え別の思想体系やアルゴリズムに自分自身を変更してしまう好意。そんなとてつもない力が物語にはある。

そして、だからこそ、物語は人の救済足りえる。

治らない病気に対し、ナラティブ(=物語)によって対応するという大変面白い医療記事がある。 

 

 過去を書き変え、現在の自分の状態を書き変えることで、いまを生き、未来を新たに描き直すことができる。医療はこのようなダイナミックな変化を否定しないで、大切にするべきなんです。古典的科学からみることはいい加減にみえるけれど、これは人間の救いなんです。だからこそナラティブに基づいた医療(narrative based medicine)をしなくてはいけない。ナラティブが改善するための研究をしないといけない。私はそう思って研究を続けています。

 

――治らない病気を診ることが医学の神髄だ――人はナラティブによって生きている

 

決して完治することのない病気でも、物語の力によって"観る"世界を書き換えて不幸を不幸ではなく「普通」にしてしまうことが出来るのだろう。

だって物語は現実と等しく、時にそれ以上の重さを持つものなのだから。

本はやっぱり読むべき!? 読書は心身の健康にいいことが判明 「大脳が活性化」「アルツハイマー病の予防」「孤独を感じにくくなる」など

読むと社交性がアップ? 小説がもたらす意外な効用

 

こういうことを言うと物語は虚構だーとか、現実じゃねーと言ってくる人がいるが、でもね、そうじゃない。

水月』という作品の言葉を引用しよう。

 

水月という言葉には、すべてのものごとには形がない、という意味があると言いますわ。透矢さんと同じことを考えた人が、いたんですのね」

「そっか……」

「夢は現、現は夢…」

「現実を月とするなら、夢は水月っていうところかな?」

「…わたくしは、逆だと思いますわ」

「え?」

「現実こそ、不確かな海面そのもの…夢はそこに映った確かな可能性」

月っていう、確かに存在する、だけど手の届かない場所。不確かな僕たちの世界では、それが幾重にも重なり、揺れ動く、水月になってしまう。

漠然とした形をし、無限に広がりながらも確かに存在している別世界――彼女の言う夢って、そういうものなのか。

 

 

――透矢、那波/水月

水月~迷心~

水月~迷心~

 

 

よく言われるけど、夢と現実の境界線なんて曖昧なものだ。胡蝶の夢のように『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のように現実と夢なんていうものはどっちが"本物"かなんて誰にも分からないし、どちらが偽物で本物かなんて証明なんてできない。

夢と現実、現実と虚構、幻想とリアル、光と闇、陰と陽、それらはくるくるくるくる入れ替わり、回り、立ち位置を交換させていく。「ここではない、どこか。今ではない、いつか」なんて場所は現実にもあるし、夢にだって有り得うる。シームレスにシームレスに繋ぎ目が見えないほどに夢と現は繋がっているからこそ、現実は虚構になり得るし、虚構は現実になり得る。

大事なのはどっちが虚構か現実か、偽物か本物かってことじゃなくて、どっちも大切に出来るかだよ。現実も夢もどちらも蔑ろにしちゃいけない。

 

 

CLANNAD

CLANNAD

 

 

CLANNADは人生」そんな言葉がある。この言葉は2chニュー速スレで生まれたらしいが、いやそんな事はどうでもよくて「CLANNADという物語を"人生"と言ってしまうほどの体験があった」この事実が大事なことを教えてくれている。

つまり "たかが"、"空想で"、"虚構で"、"偽物"であるはずの物語で、「人生」を感じてしまう人がいるってことだ。そしてそういうふうに感じてしまう人は案外多いんだっていうことを知っておくべきなんだと思う。

CLANNADのゲームをやった時、私は友達とプレイ感想をだらだらと語りあった。そして互いに『CLANNADは人生』と笑ってしまうような赤面してしまうような恥ずかしい言葉を臆面なく言い合っていたんだよね。それは冗談半分ながらも、でもその言葉が本当は正しくて、真実味を帯びた事実なんだってことを二人とも納得していた。

それは虚構が現実への一部となっていることを認めているということでもある。『水月』が語ったように夢とか現実とかそういった線引は意味がなくて、大事なのは "なにを、どう、観たか"なんだろう。

私たちは観測によって、ある対象に意味を付加させることができる。逆にいえば全ての物事に本来意味なんて無い。無意味で無価値だ。だけれどそこに「意味を与える」ことができるからこそ、様々なものに価値が生まれ始める。

私たちはただの木偶の人形を愛すこともできるし、友達だと思っていた犬を明日にはナイフで裂き殺すこともできる。猫には銅貨の価値は分からなくても、それでお菓子を買えることを人間は知っている。物語を虚構か、あるいは真実として見るかはその人次第ということでもある。

CLANNADは人生』か? 

私は迷わず首肯しよう。あれは"人生"だよ。

 

     ◆

 

レイシアさんはブログで「CLANNADは人生」というコピペについて、2種類の意味があると言っています。

 

CLANNADが人生だとするとEXTRAVAGANZAもまた人生、かな。

……ああっ!ブラウザを閉じないで(ノ∀`)

 

いやでもまぁ実際割と掛け値なしで思っていたりすることなのですが。

このあまりに使い古された、時には嘲笑の対象としてネタにすらされてしまうコピペですが、そこには2種類の意味があると思います。一つは作品を通して得られた思想や感情、価値観によって自身の情緒形成など今後の人生をも変え得る力を秘めている作品であるというもの、そして二つ目は作中に描かれている登場人物が艱難辛苦に抗い乗り越えていく姿に心打たれ、たかが空想の産物である一キャラクターであるとと言って切り捨ててしまうには惜しいと言うもの。

――え、えくすとらばぎゃ(噛んだ - ヒカリ輝くセカイを求めて

 

 

これを読んだ私は、こう思ったのです。ある作品を「自分の人生」と同等の価値があると思ったか、あるいは「空想であるキャラが現実にまで肉薄した人生を有した」と看做したとき、その作品は、その人にとって虚構(=嘘/偽物)ではなく現実(=本物)になってしまうのだと。

 

「誰かに必要とされて、自分の中で確かな存在感を持ってしまった世界は、夢とは言わず、現実と言うはずです」

 

――牧野那波/水月

 

眠っている間に見る不思議なもの、それが夢。

それじゃあ、今この瞬間は夢か?
わからない。
少なくとも、夢を見ているっていう現実だ。

ああ、夢は、別に現実の反意語じゃないんだよなあと、当たり前のことに納得する。

 

――透矢/水月

 


Fateは文学Airは芸術―――なんてフレーズもこの世には存在する。実際Fateは広義の意味でなら文学に当て嵌まるそうだが、それを受け付けない人もいるだろう。あれは文学じゃなくてエンターテイメントにすぎないんだ、と。

でもそんなことはFateで心象風景を書き換えられた人にとっては瑣末なことにすぎない。実際にFateが文学かどうかではなく、そう言ってしまう程に「Fate/stay night』は生涯稀に見る傑作だった」と言いたいだけなんだと私は思うからだ。Airもまた然りね。

ちなみに私もまたFateAirも傑作だと思う。それはエンタメという言葉を超え、私の意識を認識を知覚を世界観を"オーバライド"したからに他ならないからである。

 

これらは全て偽物、おまえの言う取るに足らない存在だ

だがな、偽物が本物にかなわないなんて道理はない

 

――衛宮士郎/『Fate/stay night

 

 

 

Fate/stay night [Realta Nua](特典:「とびたて!超時空トラぶる花札大作戦」& 「とびだせ!トラぶる花札道中記」DL用プロダクトコード 同梱)

 

 

誰にだってあると思う。そんなお気に入りの物語が、決して生涯忘れ得ないであろう大好きな物語が。そんな物語を胸の内に抱えて、己の心象風景が蜜になっていく感覚が。

少なくとも私にとっては『らくえん~あいかわらずなぼく。の場合~』のリアルイモートが言うように「大事なことはすべてマンガから教わったんだよ」と言えちゃうくらいに、大事で大切なものを向こうの世界から貰ってきたと思うよ。

「物語で大事なことを教わったさ」と素面で言えちゃうくらいに。

 

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――亜季/らくえん~あいかわらずなぼく。の場合~

 

そんなふうに自分が見聞きした物語は、現実世界に影響していることを私は知覚できるし認識できる。そしてこれは多くの人が実感しているものだとも思っている。

そして現実に疲れたり、人間関係に嫌気がさし、厭世一歩手前まできたら物語を読めばいいと思う。

それが例え全力の逃避だとしても、現実が辛かったら逃げたっていいし嫌なことがあったら目をつぶったっていい。聞きたくないことがあったら耳を塞げばいいし、『俺たちに翼はない』の渡来明日香がいうように世界が思うようにいかないなら思うようになる世界に飛んだっていい。

 

そしてここはエ口ゲブログ。

ということで最後は『ノーゲーム・ノーライフ』の空たちの言葉で終わりにしましょう。

 


せーのっ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   さあ、ゲームをはじめようか!!!

 

            (ノーゲーム・ノーライフ)