アニメを楽しめなくなるのは「俯瞰高度」が高すぎるせい。高度一万メートルの世界にお別れしよう(5602文字)
アニメが楽しめなくなってしまうのは、何が原因か?
こんな記事を見つけました。これはアニメを厳しく見てしまい、楽しめなくなってしまったおはぎさんのお話です。
以前はアニメを厳しく見ること、厳しく評価する事が良い見方だと信じていました。
(中略) この考えの元、色々な作品を見ては、 「作品Aはダメ。○○な理由で良くない」 「作品Bはダメ。○○な理由で良くない」 と評価を下していきました。
(中略)
でも、自分なりの厳しい見方をし続ける内に、 自分の中にある変化が起こっていることに気がつきました。
「あれっ。新しく見る作品が無くなってきている…」 「最近、アニメを面白く感じられない…」
色々な作品をダメだと評価を下してしまった為に アニメを楽しめなくなってしまったのです。
――失われた何か アニメを厳しく見ること、厳しく評価することについて
おはぎさんもそうだと思うんですが、アニメを楽しめなくなってしてしまうのは作品への俯瞰高度が高すぎるせいだと私は感じます。
俯瞰高度ってなに?
「俯瞰高度」とはアニメを見るときの高さのこと。これはざっくり分けて「内側」「外側」「上空」と3つに区切っています。
内側で見れば作品をより鮮烈に感じ取れるようになります。外側で見れば構造に言及できますし、上空は膨大な作品を比較し検討できます。そんなふうに視聴時の位置によってアニメへの体験が変動していきます。
まだちょっと分かり難いと思うので、アニメを「箱」だと考えてみてください。
この箱はアニメ世界そのものです。箱そのものがアニメであり、物語であります。
この箱を見る位置(=内側.外側.上空)を図で表してみました。
*1内側 *2外側 *3遥か上空
さてここで問います。
あなたはどのような位置でアニメを見ていますか?
アニメの内側で?
それともアニメの外側で?
あるいはそれよりももっと上空でアニメを俯瞰していますか?
◆
ここからは3つの位置で見るとどういうふうにアニメが見えるのか?を詳しく語っていきます。
1)「内側」でアニメを見るということ
「内側」でアニメを見ることは、アニメの世界と一体になって感じることが出来ます。
主人公の痛みと悲しみ、ヒロインの苦痛と後悔、様々な人間の喜びと不幸を自分のものとして感じられるようになるでしょう。ここのポイントは自分のことのように感じられることです。
主人公の腕が切り落とされた痛みは自分のことのように感じられ、大好きなヒロインが死んだらその悲しみを自分のもののように味わうことになります。
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の妹である高坂桐乃に殴られ続ければ「もういい加減暴力振るうのやめろよ……」とイライラしてしまうのは、自分が殴られているように感じ取れるからです。
何故、兄である京介が殴られているというのにあたかも自分のことのように感じ取ってしまうのか?
アニメの内側で視るということは、主人公たちと同じ目線でそのセカイを視ているからなんです。
2)「箱の外側」で見るセカイ
内側でアニメを見るを体験だとすると、「外側」で視るのは観客席から物語を見るということに近いでしょうか。
文化祭の劇のように、あうりは舞台のように、それが「虚構」だとわかりつつ物語を楽しむ方法です。
「外側」では内側では分からなかった情報を取得できます。物語の流れを、構造を、欠陥を、意図を、展開を、演出を、象徴を捉えられます。
このシーンの音楽は素晴らしい
ここの演出には◯◯の意図があってだね?
展開グダりすぎー
ヒロインの言葉は☓☓のシンボルなんだよ。
多くのアニメ批評はだいたいこの視点によって紡がれていて、アニメを1つの「箱」として見つめることでその箱の大きさや色、特徴、欠損などを指摘しているんですね。
さらに言えば多くの人はアニメの「内側」と「外側」を上手に行き来しながら作品を視ているかと思います。アニメで涙を流しながら(体験)、ここのシーンは素敵だなあ……と思うように(構造指摘)。
3) 上空・高度一万メートル
箱の内側から外側、そして上空へ。
アニメを俯瞰する高度をどんんどんあげていくと(3)のような立ち位置で視聴することになります。
この高い視点からは、何が見れるんでしょうか?
それは別々の大きさ・色・形の異なったアニメを、いっぱーい並べて積み上げたりすることが可能になります。
例えば
- 複数のアニメとアニメの比較。
- アニメの歴史を探る
- 監督・作画などの「アニメを作っている」人たちを引き合いに出す。
そうやって巨視的視点からアニメを見る方法がこれです。これは他作品と比較することで、そのアニメの共通性、差異、異質、尖った部分、良い部分、ダメな部分などいろいろ分かってきます。
『らき☆すた』と『のんのんびより』を比較しこっちにはダイナミックな展開が盛り込まれてあるが、そっちのほうでは逆に世界観を縮小しより狭い日常感覚を出しているなど。*1
あるいは10年分のアニメ作品を持ち寄ってきて日常アニメはどう変わっていったのか? あるいは『らき☆すた』は果たして本当に日常アニメなのか? そもそも日常アニメってどんなものを指すんだ?という問題設定をすることが可能です。
さらにはこのアニメが出てきた頃には◯◯との社会実情が関わってきているとか、人の倫理がこう移ろってきていることの示唆だとかを、考えていけます。*2
- 「内側」で見るのが、微視的(ミクロ)視点。
- 「外側」で見るのが、上位的(メタ)視点。
- 「上空」で見るのが、巨視的(マクロ)視点。
というと分かりやすですかね?
さて本題ですよ。
高度一万メートルのセカイに留まりすぎる弊害
アニメがつまらなくなってしまう原因は、高すぎる視点でずっと視ているせいです。
アニメに対する感情移入そっちのけで「演出ガー」「展開ガー」「監督の力量がー」「作画崩壊でアニメーターガー」「歴史ガー」なんてことをずっと考えていたらそりゃ楽しいわけがありません。
アニメの一番楽しい「内側」の部分を見ようとせず、物語構造を思索したり、歴史、文脈、製作者に言及していったいなにが楽しいんですか?
アニメを楽しむことそっちのけで、アニメを作っている人たちやそれをダシにして歴史を語って一体なにが楽しいんですか?
アニメを楽しむんじゃなくて批評することに躍起になって辛い点数をつけることを目的にして一体なにが楽しいんですか?
外側・上空視点はアニメの外殻がよくわかるでしょう。 内側ではは大きすぎて分からなかったアニメの全貌を把握できるようになり、比較する楽しさ、製作者に言及する面白さを味わえます。
しかしこれらの視点でアニメを語っていると、アニメを分かった気になっているだけで楽しいかは別物だと私は思います。演出の意図、監督や声優、作画にずっと言及していればアニメを楽しめる……というよりは舞台裏を楽しんでいるだけです。
アニメに感情移入せず、物語を体感することもできず、ただ上の視点だけでずっと作品を見ていても楽しんでいるのは「舞台裏」であって「アニメ」ではないです。
たしかに。
他の人に、そのアニメの良さを伝えるときはどうしても「外側」や「上空」の視点が必要になってきます。あれは◯◯のオマージュなんだよとか、演出の意図は◯◯でとか言わなければ作品の良さは伝えにくいです。
「内側」視点は自分が楽しむためだけのものなので、これだけでは他者に中々説明できません。◯◯ちゃん可愛い! ☓☓が良かった! 楽しかった! 凄かった! 泣いた! で終わりですものね。
そのせいか「内側」視点の優先度を低くして、「上空」視点だけで見るような人が出てきます。何故なら、この視点は物語構造に言及することが容易になるため、他者に評価されやすい傾向にあるからです。
true tearsとPAWorksを絡めて語ったり、Angel Beats!と麻枝准を連結して語ったりするのをよく見かけますよね、ああいうのです。こういう語り口は多くの人が読めるものなので、市場的価値が高い。
そして故に他者に認められる見方であるため、「外側視点は最良の方法だ!」「上空で見ればこんなにも気づけることがある!」なーんて思ってこれらの視点をずっと採用しちゃうんでしょうね。
しかし何度も言いますが、外側・上空のセカイにずっと留まっていることは、アニメの「内側」を知らないということでもあります。
俯瞰する高度が高ければ高いほどアニメ体験が無くなっていき、だんだんとつまらないと感じてしまうんでしょう。
私は「外側・上空」視点で見ることが、悪いと言っているわけじゃありません。外側・上空の視点で"ずっと”視ているのが悪いのです。
ゆえにこの高度一万メートルの世界から留まるのをやめて、お別れしちゃいましょう。
アニメの楽しむためにはシームレスに視点を動かすこと。
アニメを見るときにはまず「内側」で視聴することに尽きます。まずこの視点で劇中の痛みや喜びを感じ、体験することが何よりもの楽しみ方なんじゃないでしょうか。
内側でアニメを見るが終わったら、次は「外側」「上空」に行き、物語の展開や構造について思いを馳せてみる。 そんなふうにして視点をシームレスに動かせれば、アニメを見て、語ることははもっと楽しくなると思います。
(Q1)わたしはもう「内側」視点でアニメを見れないんですがどうすればいいですか
例えば、もうアニメを「内側」で見れない人がいたとします。そんな人はどうすればいいのか。
私が出せる答えとしては、「監督・声優・作画」について語るのをやめてはどうでしょうか。 つまりアニメの外側について言及するのをやめて、内側視点でアニメを語ってみてはどうかなと。
例えばこんなふうに。
- あのキャラの心情が◯◯だから▼▼なんだよね、痛いほどわかる。
- あの時、腕を切りつけられた☓☓さんは、いったいどんな気持ちだったんだろう……。
といったふうに。あれこれでは分かり難い? ふむ。では即興でハルヒについて内側視点で書いてみます。
『涼宮ハルヒの憂鬱』のハルヒは何故いつも事件ばかり起こすんでしょうね。
「キョン、PCが必要なの!」と言っては他所様の部活に乗り込み簒奪し、「キョン、映画作るわよ!」と言ってはカメラを回し映画製作する彼女のバイタリティは謎に包まれています。
ハルヒは後に言いますが「だってつまらないじゃない」という動機で行動していることがわかります。そう、こんなにも世界はつまらないことで溢れている、宇宙人もいなければ未来人も超能力者もいない……いやいるかも、まだ見たことがなくても世界のどこかにはいるのかも。
そういった「今はとってもつまらない、だからこそ自分で楽しくしていくんだ」という気持ちでハルヒを見ていると、とっても清々しいです。自分の現状に大して文句を言って何もしないのではなく、世界はこんなにもつまらないと諦めて達観するわけでもない。
つまらないんだから自分で楽しくすればいいんだ!という考え方はとってもいいなって私は思います。
てな感じでどうでしょうか。
「内側」はキャラの感情を読解する視点です。あの登場人物は、どういう感情で、どういう気持ちで、どういう想いを持っていたのか。どうしてそういう行動したのか。 そしてそれを見て自分はどう思うのか。
キャラの「感情」に寄り添って、自分と照らし合わせながら見ればいいんです。これを続けていたら内側視点で見るのも容易になっていくんじゃないかと考えます。
(Q2)けどさ、つまらないアニメほど「俯瞰高度」が高くなってしまうんだけど
私も結構あります。「内側」の視点で見たいのに、つまらなすぎて、俯瞰高度がどんどん高くなってしまう、それも自動的に、という作品が。
これはもう仕方ないと思います。自分とそのアニメの相性が悪かったんだと思っていいんじゃないかと。 全ての作品を内側視点で見ることが理想ですが、努力しても出来ないのならばすっぱりと諦めちゃっていいと思います。
まとめ
- アニメが楽しめないのは「俯瞰高度」が高すぎるせい。
- 俯瞰高度とは、アニメを見る視点の高さのこと。
・「内側」で視ることは"体験”するということ
・「外側」で視ることは"観客”になるということ。
・「上空」で視ることは"創造者”になるということ。 - 俯瞰高度が高くなるに従いアニメの構造が分かってくる。
- 外側・上空でずっとアニメを視ていると楽しめなくなってしまう。
- アニメを一番面白く見る方法は視点をシームレスに動かすこと。
- 「内側」で視れなくなった人は、「外側・上空」視点でアニメを語るのは一旦やめよう。
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*1:ここは適当です
*2:時代性を考える場合にはいろいろ気をつけたほうがいいとは思いますが参考にどぞ→批評モドキの見分け方 - xenothの日記