いつまで作家論なんてやってるの?

ファントム ~ PHANTOM OF INFERNO ~ (通常版)

 

 

作家論とはなにか

 

作家論とは、ある著者の作品を複数並べ比較しそこから共通する要素、モチーフ、展開、物語構造を抽出し『アルゴリズムとでも呼べるようなものを取り出す行為のこと。

あるいはそういった『式』を前提として、現行作品はその『式』を「否定した」「発展させた」「使わなかった」「乗り越えた」という論旨になるものだと言っていいでしょう。

例えば、虚淵玄ならば『Phantom』『沙耶の唄』『Fate/Zero』3作品から「不幸のエントロピー」「絶望を描く」という『式』を抽出し、『まどか☆マギカ』ではそれらを打ち破った/乗り越えたというお話になるかもしれませんし、もしくはそういう話でまどマギを捉えようとする事になる。

こういう作家論が必要な人にとっては、アルゴリズム化で数多の物語を連関させて見るのが楽しく時に得難い快楽をもたらすのでしょうが、これは物語を退屈に見る方法と紙一重であり毒を飲み干すのと何ら変わりません。

というのも、作家論によってその作家が書く複数の物語を『式』化してしまえば(アルゴリズムを抽出しているときは楽しいでしょうが)それ以降は "そのように" しか見えなくなるからです。掛けたらずっと外せない色眼鏡を掛けてしまったようなもので、その著者が新しい作品を提示してもその物語のMicroレベルの現象(=物語で起きるあらゆる出来事)より――あるいはそっちのけで――既存の『式』を用いて今回も当てはまっているか否かを見ようとする。

この『式』は一つの知識なので「使う」「使わない」の都合のいい判断はできませんし自動的にそういうふうに見てしまうものです。"使わないそぶり" はできますが、一度知ったら使わないなんて事は出来なくなる。

いわば『式』化によって、作家のあらゆる作品をその絶望的につまらない視点で読まなければいけないという強制力が働いてしまうということ。この点が非情にクソッタレであり、退屈で、毒と言った理由ですね。(余談ですが「物語類型」という読み方も同種の問題を抱えていると言えます)

つまり作家論というのは目の前にある物語を、あるいはまだ生まれてない未来の物語を気安くし、手元に置き、簡単に理解するためのものなのです。それも薄っぺらい理解の元に理解しえたと錯覚する構造になっており、例え難解な物語だとしてもその『式』を使えばあら不思議、その物語が「何であるか」の解はばばっと出てきますが、しかしそれを使っている限り似たりよったりの解しか導けない。

彼らがやってるのは最初から答えが解っているゲームをやっているようなもので――時にその予想が裏切られた時にしか快楽をもたらさない―― バカの一つ覚えみたいに『式』をぶち込み、近似的な解を探し求める姿は理解に苦しみます。

アルゴリズムで物語を見てしまってはもうそれらの物語はアルゴリズムという文脈によってしか接することができなく、まだ見ぬ作品も、ある著者の作品というだけでそう"見做す"ようになる。

こうなると、村上春樹論とか麻枝准論とかタカヒロ論とか元長柾木論とか書いている人は一体何なんだろうなと思わなくもない。その場の一瞬の愉悦の為にその先の未来の楽しみを自分で奪っているようなものですから。そして他者にもまた促している。

となれば「作家論」を書く場合・読む場合、このような側面があることを留意しておく事は大切でしょう。言語化し他者に論理立てて説明するなら尚のこと。

 

一度その『式』を知ってしまったら、知らなかった前にはもう戻れないのですから。

 

それにアニメやギャルゲーといった「チーム」で物語を制作している場合、"たった一人"の脚本家を取り上げるのはおかしなことです。

脚本家一人だけで作品が形作られるわけではないし、ディレクターやシリーズ構成、総監督といった様々な人間が関わって出来上がるのでは? なぜそういった内実を無視して脚本家・ライター「一人」を名指しで語り、あたかもその一人が作品全ての内容を決定したかのように話すのでしょうか? 明らかにおかしいでしょ。

参照→我々はライター買いはしても、ライター批判せずにいられるか

このような幾つもの問題があるにも関わらず、そこまでしてアルゴリズム抽出による作品読解(=作家論)は必要なんですかね? いつまであなたはこんな詰まらないことするんですかね? なぜ周囲に"退屈の毒"を飲ませようとするんですかね? と煽って終わりたいと思います。

 

関連→作者へ「この作品のメッセージは?」って質問をするな

 

 

 

 

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