間違いであることを認めて、肯定を行うこと。下セカ11話
華城先輩の演説を聞いて思ったのは「間違いであることを認めて、肯定を行っている」んだなということ。
以前からこのことに興味を持っていたのだけれど、正直どういうことかイマイチ理解できていなかったように思う。いや、今でも腹の底で理解できているかと言われれば怪しいのだけれど、今回の11話はこう "すとん" ときた。
誰もが「正しさ」を求めている。思想に、発言に、生き方に、カルチャーに、趣味に―――それは正しさという言葉に全肯定・善という意味が含まれているからだろうし、逆に間違いは「間違い」であるからこそ、全否定・悪という意味が付与され忌避される。
もちろんこんな「正しさ/間違い」なんてものは、イデオロギーであったり、倫理であったり、その時代の価値観でしかなく移り変わる曖昧なものだ。
けれどどんな時代でも誰もが正しいというものを欲しがっているように、私には見える。私だって自分のなんらかの成り立ちが「間違い」であったなら「いいや」「しかし」と逆説の言葉を付け足してしまうほどには「間違い」というものを遠ざけていると思う。
でもどうだろう?
間違いであることを認めて――否定する力でもって――肯定を行うことを、もっとちゃんと理解できればこんな対立構造に巻き込まれずにすむようになるのではないか。
―――間違いであるからこそよい
―――正しくないからこそよいものがある
この価値感覚は「なにか」が眠っている気さえする。それがなにか……までは私にはまだ解らないけれど、ラディカルな気付きがあるのではないかと。
「私は下ネ夕になりたい」
「その存在そのものが間違っていて、歪んでいて、悪とされる。けれどそれ故に存在価値があり、人々から求められる下ネ夕そのものに」
「そう、私たち下ネ夕テロ組織はあくまで間違った存在でなければならないわ」
「自分達を正しいと思い込んだまま突き進むんだんじゃ、下ネ夕という概念の存在しない退屈な世界こそが理想だと盲信する人達と同じになってしまうもの」
「そもそも下ネ夕もエ口も間違っていなければ、意味がないものよ」「間違っているから魅力的で、隠さなければいけないものだから昂奮が増して、悪であるから輝いて、歪んでいるからこそ惹きつけられる」
「だから私は」
「下ネ夕という概念が存在しない退屈なこの世界を壊すために『絶対悪』として戦うことを―――ここに表明するっ!!!」
――華城綾女(アニメ・下セカ11話)
正しさは悪がいなければ存在しえない。それはコインの表がなければ裏がないように、正義の味方になりたければ敵がいなければ成り立たないように。
その反対の概念もまた同じで、悪は正しさがなければなりたたないし「悪なり」の価値も宿りはしない。
「価値」とは意味の優劣の表現の仕方だ。しかし、もしも、そこに"優劣"が存在しないのれば? ただただ両点への軸線上の移動が行われているだけだとしたら?
もしそうなのであれば、両点に「属性が付与」されるだけものに過ぎないのではないか。それは社会的には「優」と「劣」という意味付けであり属性なのだとしたらどうだ。
いやこれじゃただの相対的な相殺にすぎない。そうじゃなくて「否定でもって」「間違いであることを認めて」の煌きがあるはずなのだ。
おそらくそれは、、、自身が「劣側」にいることを肯定することからはじまるのか?……。正しくないことを受け入れて、受け止めて、間違いであることを十全に認識したところから、「価値の肯定」(あるいは価値の反転)が始まるのか?
考えがまとまらない。でもあともう少しなんだ。もう少しで手が届きそうな気がする。
(終)