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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

『芸術上の盲人』とは、物語を読むこと=銀行通帳の残高を眺める無感動な人間

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f:id:bern-kaste:20151124163551j:plain*そろそろこの概念について整理する。

 

 

1)芸術上の盲人とはなにか

 

『芸術上の盲人』は「物語を読む」のと「銀行通帳の残高文字列を眺める」ことがイコールでありこの2つの行為に差異がない人間のことだと定義する。物語を読んで別世界の体験に浸ることもなければ感動することもなく、心を揺れ動かすこともなければ、センス・オブ・ワンダーを感じることもない。

ただただ物語を言語構造物として論じたり、文献・歴史的価値・知的体験・知的快楽としてしか面白みを見出だせない人々であり、物語の直接性によってもたらされる熱量の投射、意識を"オーバーライド*1"される体験を感じ得無い人々―――つまり「芸術体験を感じられぬ者」のことである。

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以前この概念をフォロワーさんに提示されて、なるほど、そう考えるといろいろ納得できる事があったのでこの視点について私自身も気にかけるようになった。それまでは物語に感動できない人なんていないと思っていたため、余計にこの見方は新鮮だったことを覚えている。

その際「芥川龍之介」「芸術上の盲人」というワードでお話されていたのを思いだし、先日ネット検索してみると以下のような記事を見つけた。

おそらく『文学観賞講座』が元になったお話だったのかな?と今にして思う。

 

 

 鑑賞上の盲人をつくらないために

5. 文芸的素質のない人は、いかなる傑作に親しんでも、いかなる良師に従っても、鑑賞上の盲人におわるほかはない……。その「鑑賞上の盲人」とは、赤人人麻呂の長歌を読むこと、銀行や会社の定款を読むのと選ぶところのない人のことであります。(中略)これは文学の読めないのよりも、稽古する余地のないだけに、いっそう致命的な弱点であります。その証拠には、ごらんなさい、より文字の読める文科大学教授は、ときどき――というよりもむしろしばしば、より文字の読めない大学生よりも鑑賞上にはアキメクラであります。(「文芸鑑賞講座」)

6. 文芸上の作品をどういうふうに鑑賞すればよいか……まず私の主張したいのは、すなおに作品に面することであります。これはこういう作品とか、あれはああいう作品とかいう心構えをしないことであります。いわんや、片々たる批評家の言葉などを顧慮してかかってはいけません。(中略)とにかく、作品の与えるものをまともに受け入れることが必要であります。(「文芸鑑賞講座」)

 

――芥川龍之介語録

ここからは持論だが、なぜ芸術的盲人になってしまうかのか考えてみると以下の4つが原因だろうか。

感受性(外部の刺激に対する反応量)・「共感力(他人の痛みや気持ちを自分の事のように感じられる力&他人の視点で物事を推量する力)・「ナナミ課題(未経験の事象を信じられる力)この3つを教育過程において獲得できなかった、あるいは後天的に消耗劣化してしまった。もしくは「環境(例えば評論家という立場上あらゆる作品を評論しなければいけなかった/構造批評を採用せざるを得なかった/言語化しすぎてしまう環境にいたetc)ゆえに自ら目を閉じる姿勢を強制せざるおえなくその状態に固定されてしまった場合もあると個人的に考えているが別段根拠はない。ただ私が『芸術上の盲人』について考える時、あるいは語る時、これらを前提として喋っている。ということを忘れないよう記述しておこうと思う。

ちなみにこの概念は、そういう存在はありえるだろうし実際にいるのだろう、というテイストが多い。またかなり人を傷つける言葉なので安易に使えば闘争を巻き起こすのは間違いないが、闘争を誘発させたければこれほど使い勝手のいい言葉もないだろう。発する際は慎重にどうぞ。

 

 

2)知識連関による快楽と、物語体験による快楽は別物

 

もう少し具体的に語りたいことがあるとしたら、「作品がもたらす知識連関や分析による快楽」「作品がもたらす芸術体験」は全くの別物でありここを混同してはいけないということだろうか。

例えば『エウレカセブン』には仏教的要素が多数含まれているのだけれど、それがいろいろな要素と結びつき収束していく様子は昂奮した人も多かったと思う。あれは本作に散らばる仏教的エッセンスを知っていれば起こるものであり、知識連関によるものである。

例えば『SCE_2』を一ヶ月かけて読解した際に訪れる「そうか!そういうことか!!!ひゃっほう!!」と物語の真相に気づけたEUREKA体験は作品分析の果てに訪れるものであり芸術体験ではない。

例えば『Charlotte』を見て、過去のKEY作品を全て穿けそうな「ワン・フレーズ」を発見したときの脳のドーパミンがどばどば出た感覚はもちろん本作が投射した芸術体験ではなく、関連作品を連結させた事で訪れた知的快楽である。

 

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逆にアニメ二期『Fate/staynightUBW』で原作に無かった衛宮士郎が"突き刺さった剣を抜き取る"シーンで鳥肌が立ったり、『四月は君の嘘』で井川絵見が無限の可能性を捨てピアニストを目指したシーンで何故か泣いてしまったり、『僕は友達が少ない』の羽瀬川小鳩の愛らしさに身悶え足をばたつかせたり、『ナツユメナギサ』の遠野はるか√がもたらす理解が追いつかない心が追いつけないでも圧倒的な充足感で満たされ『Angel Beats!』で音無結弦の最期に滂沱してしまうのは知識連関や作品分析によって生じる快楽ではなく―――作品の"直接性"が引き金となる「芸術体験」である。

そんなふうに「作品がもたらす知識連関による快楽」と「作品がもたらす芸術体験」この2つは別物であることに注意されたし。

 

以上で『芸術的盲人』の定義と経緯の説明は終わりとする。

(了)

 

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