「アニメ化」とはつまり原作の批評行為なんじゃないか?(Fate/stay night)

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*Fate/stay nightネタバレ注意

 

 

 

「アニメ化」とはつまり原作に対する批評行為である(4747文字)

 

小説のアニメ化、ラノベのアニメ化、ノベルゲームのアニメ化。それぞれ媒体は異なるものの、まず原作ありきで、その原作をアニメ(映像媒体)へ落とし込むことを「アニメ化」と呼ぶことだと認識している。

この時、原作媒体から映像媒体へただ変換すればいいのではなく、原作を理解した上でそれをアニメで十全に魅せるにはどうすればいいか? という思考の元に行われるはずだ。

でなければ「出来のいいアニメ化」と「出来の悪いアニメ化」という区分が存在することはないし、少なくとも "結果的" に出された作品をもってそれが成功したか失敗したか、原作を理解した上でのアニメ化だったのか?は判断できるだろう。

例えば『Fate/stay night(2006年スタジオディーン制,以下DEEN版)の衛宮邸で行われた土蔵でのランサーVSセイバー戦を思い出して欲しい。大振りで攻撃する剣と槍、やたら「っ」「!!」といった掛け声が発されるものの特別激しい動きはしておらず、闇雲に空中へ飛んだり、意図不明なロングショットを多用したり、止め絵で行われるランサーの猛攻をもさっと凌ぐセイバー。

 

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――『Fate/stay night』3話(2006年スタジオディーン制) 

 

 

あの戦闘シーンを見て「これこそが神話の……そう英霊達の戦い!」と思っただろうか? 原作『Fate/SN』をプレイした者は苦い顔をせずにはいられなかったのではないか? 当時2006年と鑑みても「(今の)アニメはこんなもんだよな」「まあ頑張ってるよ」と半ば諦観していたのではないか?

しかし2014年-2015年にかけて制作されたufotableによるアニメ化(以下、ufo版)は「まさに英霊達の戦い」と呼んで相応しいものだったと思う。

セイバーとランサーの戦闘はまず1合2合と武器を交えたのち、相手の様子を探るように画面が一歩引いて全体を捉える。間ができる。その緊張を解放するようにトップスピードで繰り広げられる連撃による連撃の嵐。

 

 

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――『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』1話(ufotable)

 

 

この度重なる攻撃・回避のあと、ランサーは「卑怯者め、自らの武器を隠すとは何事か!」と目の前の英霊を非難するのだが、間髪入れず叩き切ろうとするセイバー。

あのとき両者には数mの距離があったものの詰め寄るカットなく、ランサーの位置にセイバーは攻撃をしかける。シュン!といった具合に。これが緊張感のある戦闘を生み出し、冗長さを省くことで一瞬一瞬本気の戦闘をしているのが分かると思う。またあの距離を難なく0にしてしまえるセイバーの戦闘能力も垣間見せることもできた。

反面『DEEN版』でも同セリフ・同シーンが存在するのだが、セイバーの攻撃が視聴者目線では遅すぎて緊張感の欠片もない状態だ。

  • ランサー「卑怯者め!(以下略)」→セイバー攻撃動作に移る(2秒)→ランサーの表情アップになる(0.3秒)→止め絵で移動するセイバー(2秒)→攻撃が当たる

という具合であり、アニメーションの質もさることながら戦闘の勢いを殺すカットを着実に積み上げているなあという気持ちを隠せない。

 

 

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――止め絵で移動するセイバー/『Fate/stay night』3話(2006年スタジオディーン制)

 

 

また『ufo版』は空間描写もうまく、被写界深度の浅さ深さ、空気中に散らばる埃、走ることで毛羽立つ土埃によって映像にディティールが与えられている。こういった細部の積み重ねが躍動感ある戦闘シーンに繋がっているのではないだろうか。逆に『DEEN版』では背景はブラーがかかっているかのようにぼやっとしてたり武器と武器がかち合う火花なども安っぽく、重要視されていないのだなと伺える。

『ufo版』はSEの使い方も楽しく剣を構える時、槍を凪ぐとき「ギュィィン」「ヴンッ」と鳴り、また柄を持ち直すという最小動作でも「カン」「ジャキ」と装備それぞれの音素が撒き散らされる。音の面からでも立体感のある画面作りがなされているのが分かる。『DEEN版』でも確かにSEは施されているがそれは必要最低限といったふうでそれ以上でもそれ以下でもない。

それとセイバーの不可視の剣<風王結界>が『DEEN版』では剣の色をただなくして(多少白い時もある)視聴者からも見えなくさせているが、『ufo版』では立体感のある煙のようなエフェクトで表現された。それは本物の魔術が施されているような映像であり、『DEEN版』と比べても、こちらの<風王結界>のほうがより――原作のイメージに沿う――<風王結界>なのではないだろうか。

 

 

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 ――上画像『Fate/stay night』3話(2006年スタジオディーン制)/下画像『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』1話(ufotable)

 

 

こんなふうに両者それぞれ「原作→アニメ化」といった変換作業が行われたが、どちらが原作を再現できているか、原作を理解した上でそれをアニメで十全に魅せるにはどうすればいいか? に成功しているかは一目瞭然である。少なくとも今まで語ってきた「土蔵でのセイバーVSランサー戦」はそう言って過言ではないだろう。

もちろん原作の「テーマ」の部分もアニメ化の出来に大きく関わってくるに違いない。

DEEN版』では原作『Fate/stay night』のFateUnlimited Blade Works・Heaven's Feel、3つの√を混ぜてFate√では出てこない敵サーヴァント、イベントシーン、あるいはオリジナルシーンを展開させながら最終的には Fate√の終わり方で幕を閉じた。

そこには原作にはなかったアーチャーVSバーサーカー戦、キャスター戦があり、3つの√の中で相対的に地味なFate√を多彩な戦闘で盛り上げていたアニメ化だったと思う。こういうオリジナル要素は嫌われがちだが、オリジナル要素が悪いのではなく、その要素がプラスに働かないから忌避されてしまうのである。ここは意見が分かれるところだが私はアーチャーVSバーサーカー戦がみれて嬉しかったし、そこで散ったアーチャーの想いを重ねるように挿入歌『ヒカリ』が流れるところは思わずうるっとしてしまった。だから原作にはなかった「多彩な戦闘」というオリジナルがアニメという「映像媒体」だからこその配慮だと考えれば納得できる。

しかしFate√のキモである衛宮士郎が聖杯(=過去のやり直し)を否定することでセイバーと噛み合わなくなること、その上でギルガメッシュを打倒しセイバーの心の願いを後押しするENDが魅力的に描けていない以上――原作の美しさが表現できていたかと言われれば否定する――Fate√の理解度は低いアニメ化だったと思う。

逆に『ufo版』はUBW√のキモである「衛宮士郎が理想を求め続けた物語」を描くことに成功している。それは20話『Unlimited Blade Works』で分かるとおり士郎がアーチャーに問いかけ、アーチャーもまた士郎に問いかけ、士郎がそれに答えるオリジナルシーンは「衛宮士郎が盲目的に理想を追いかけている」のではなく「彼は彼なりの信念によって理想を追い続けている」ことが明確化された。

アーチャーが辿ったものを地獄と呼び、そしてそれは将来衛宮士郎自身も訪れるものだと理解してもなお、彼は夢を追い続ける。切嗣の夢を借りているだけに過ぎないと知っても尚その憧憬を貫こうとする。マーリンによる王選定の儀式と重なり合う「剣」を引き抜くシーンは "その先に求めていたものが何一つ無いとしても" 求め続けることの意志に他ならない。

これはアーチャーが忘れていた憧憬であり、だからこそそれを愚直なまでに求めている士郎に絆されてしまうのである。最後まで士郎に刃を突き立てられなかったことへの納得感が高まるのである。この2つは原作だと十分理解できる内容だけど、アニメという映像媒体でここまで納得させてくれたのは見事としか言いようが無い。

 

 

 

衛宮士郎:地獄を見た、地獄を見た、地獄を見た……いずれたどる地獄を見た

 

    ◆

 

衛宮士郎:あんたは…その…正しかったな

アーチャー:器用ではなかったんだ

衛宮士郎:多くの物を失ったように見える

アーチャー:それは違う 何も失わないように意地を張ったから、私はここにいる 何も失ったものはない

アーチャー:……あぁ、でも確かに、一つ忘れてしまったものがある

 

    ◆

 

衛宮士郎:最初にその地獄を見た

衛宮士郎:おい、その先は地獄だぞ

(お前は何の為に……俺は何の為に… あの地獄を生き延び見送られたのか?)

 

アーチャー:おい、その先は地獄だぞ

衛宮士郎:これがお前の忘れた物だ

衛宮士郎:確かに始まりは憧れだった。けど、根底にあったものは願いなんだよ

衛宮士郎:この地獄を覆してほしいという願い……誰かの力になりたかったのに、結局何もかも取りこぼした男の果たされなかった願いだ

  

    ◆


アーチャー:その人生が機械的なものだったとしても?


衛宮士郎:あぁ、その人生が偽善に満ちたものだとしても

     ――俺は正義の味方を張り続ける

 

 

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――Fate/stay night[UBW] 20話

 

 

これはひとえに、『ufo版』が原作をちゃんと理解して作られたものだからだと言える。Fate/SNがどういう物語で、何が大切で、何を落としてはいけないのか。根幹はいかなるもので、中心軸はどこにあるのか。そういうことを分かっているからこそ20話士郎とアーチャーの問答シーンを描けるし、また25話の遠坂凛のEND後の続き――かつそれが原作既読者が求めていた情景を――描くことが出来る。

それは制作者が「原作を大事にしました」と言おうが言うまいが関係ないことだ。結果として出された作品がそれに見合わないのならば原作は大事にされていないと判断するしかないし、例え「原作なんて読み込んでいない」と言おうと原作の中心軸を把握して創られていると見て取れるならば「このアニメ化は原作を大事にしていた」と判断するものだ。大事なのは舞台裏の言などではなく、提示された作品から生まれたテクストを視聴者がどのように判断するかに他ならない。

そして私は『DEEN版』『ufo版』に限らず、「アニメ化」はすべからく「批評行為」だと捉えている。

つまり批評とは「ある対象を語ること」だ。原作をアニメ媒体に変換する作業、原作のあるシーンを魅力的に映像化しようとする試み、また原作にはなかった続きを描こうとすることは「原作を対象にしてアニメで語った」ということになる。

Fate√を独自の解釈でアニメで語った『DEEN版』、UBW√を独自の解釈でアニメで語った『ufo版』。

それは原作への理解が乏しければ「語り」が不十分と見なされるし、例え理解度が高くてもそれをアニメ(映像媒体)で魅力的に映しだせないのであれば「語り方」の練度が低いと見なされる。作品に貢献しないオリジナル展開はバッシングされて当然だし、プラスに働くのならば評価すべきだ。

そういった部分を指摘し、言及し、「原作を理解した上でのアニメ化だったのか?」あるいは「原作を理解した上でのオリジナル展開だったのか?」という視点はあっていい。その批評行為が妥当だったかを判断するかはこちらに委ねられているのだから。

 

さて、ということで「アニメ化とは批評行為である」というお話は以上だ。

 

 

 

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