「原作版とアニメ版を比較しない」という見方

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以前お話した《物語そのもの》なる考え方を物語に適用した場合、原作とアニメ化、その2つもまた別物だと見ることができるに違いない。

 

参照→《物語そのもの》とは?

 

 

 

 

原作とアニメ化を別々に見てみる

 

例えば『CLANNAD』という作品は、まず始めにノベルゲーム(以下原作)がありそこからアニメ化(ここでは京アニ作品を指す)へとメディア展開していった。2つのメディアはタイトル・キャラクター・展開がほぼ同じなため「同じ世界」だと私達は認識している気がする。

原作「古河渚」はアニメ「古河渚」と同じだし、原作に登場する「岡崎朋也の部屋」はアニメ「岡崎朋也の部屋」と同じであるというふうに同一だと見做してはいないか。それらの存在は原作とアニメに隔たりは無いと思っているのではないだろうか。

けれどそれは違うのかもしれない。この2つは同じ世界に見えるだけで「別々の世界」なのではないか? という考え方を提示しよう。

例えばアニメ化の出来が非常に悪かったとき――東映劇場版CLANNADを思い出して欲しい――私達はそのアニメに対してこういうふうな言い方をする。


「それはCLANNADじゃないから」


このセリフは原作の魅力をいちじるしく低下させた派生作品によく使う言葉だ。それ本来のCLANNADじゃないから!だからそのアニメを見てCLANNADはこういうものだと認識するのはやめてくれ! と訴えかけるのである。

この時「東映CLANNAD」と「原作CLANNAD」を私達は別物だという見方に自然にしている。両者の世界観は無関係だし、そこに登場する人・物・空間さえも同一だとは見なしていない。

この理屈で言うならば、「東映CLANNAD」と「京アニCLANNAD」もまた別物だし、もしくは『空の境界』の両義式を声優によって「川上式」と「坂本式」と区分けし呼ばれるようにドラマCDと劇場版の両義式――ひいては空の境界そのものは――別々の存在だと言える。

私が言いたいのは、原作が別の媒体で表現されたならばその出来が良い悪いに関わらず「原作の世界」と「アニメ(=別媒体)の世界」は別物だということである。

つまり、原作の《物語そのもの》と、アニメの《物語そのもの》は決して同じではないということだ。

そういう見方があるとでも思ってもらえればいい。

 

 

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この見方をするとどうなるかと言うと、アニメ『とらドラ!』を見ても「原作と雰囲気全然違う……」という感慨も抱くことがなくなる。

何故なら原作とアニメとらドラは別物なのだから、違う世界が展開されていたとしても、両者の雰囲気が違ったとしてもそれは当然なのである。櫛枝実乃梨がアニメだとちんちくりんな雰囲気を出しまくっているが小説ではあそこまでじゃないしプールの回での大河が泣き叫びながら竜児の名前を呼ぶシーンがあんなあっさり終っていいはずないんだ……

また『アニメとらドラ』が好きな人に、原作スキーな人が「アニメもいいけど原作のほうがいいよ」と言い放つ場面はそこら中にある。そんなお節介がましい場面は今もどこかで起きている。対立の火種となることもある。私もよくやってしまう。

でもそうじゃない。

アニメとらドラが好きな人は、アニメ版のとらドラが好きなだけで原作とらドラが好きなわけではない。原作の《とらドラそのもの》と、アニメの《とらドラそのもの》を分けて考えることが出来れば、こういった衝突は慎めるはずだと思う。 

アニメ面白かったなら原作もどうかな?という紹介が悪いのではなく、「いやいやアニメ版は原作の域にも及ばないからアニメでとらドラを理解したと思うのはやめたほうがいい」みたいな紹介の仕方、あるいはそれを滲ませる方法は悪手だろう。

 

 


また《物語そのもの》を軸にした見方をしなくても、『原作kanon』と『(京アニ)アニメkanon』は全くの別物である。

この2つは最後の終わり方が違うだけで――あの一点によって――京アニkanonは原作kanonとは相容れないものになってしまった。

原作kanonでは大事にされている「月宮あゆの在り方」が、京アニkanonでは否定されているこの事実が私はちょっと……って思ったよやっぱり。そこをそういうふうにしてしまえば、原作kanonが描いたあゆの一途な想いが無くなっているとは言わないまでも希薄になるじゃん…ってなってしまったよね。うぐぅ

ここが赦せなくて私はこれまで『京アニkanon』を「これはkanonではないよね」と言ってきた。

 

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しかし今では「《京アニkanon》と《原作kanon》はそもそも "世界そのもの" が違うから当たり前だよなあ」と受け入れてしまっている。

こういうふうに見る事が出来ると「アニメkanon」も案外良いじゃんって思えてくるし、むしろアニメ版は「奇跡の別種の在り方」なんだなあと考えさせてもくれる。犠牲による奇跡ではなく、純潔の奇跡を示すのが本作品だったと私は思えるのだ。

 

余談


近頃の私は、アニメ化は(原作既読者からすれば)絶対的に原作を超えることは出来ないからオリジナル改変でも何でもしてくれ、とすら思い始めていてびっくりだ。数年前の自分だったこんなことを思わなかっただろうに。

というのも、原作を忠実に再現したところで原作の《物語そのもの》とアニメ化で生まれる《物語そのもの》は相容れないのだから無理しなくていいよと、もちろんアニメのオリジナル展開の出来が良ければ重畳である。

参考→名作ノベルゲームを、アニメ化しても原作既読者は満足することは無理かもしれない  

 

この意味で、アニメ『大図書館の羊飼い』一話で「羊飼いとはこうゆうもの」だと本作の「核」をいきなり明かしてきたのも私の中で評価できるかもしれない。

大図書館の原作では「羊飼い」という存在が明かされるのは終盤になるのだが、アニメではこれが羊飼いだ!いいか分かったな!おい首肯しろ!!と殴りつけてくれる感じとてもいいね。原作既読者からするともう全部ばらしちゃうんだと思いました。

 

 

 アニメ『グリザイアの果実』もまた大幅にオリジナルをぶっ込んできたと聞いて(私は4話で切ってしまった)なるほどねーとなった。友達曰く由美ちゃんの回がすごいらしい。きっと昔の自分だったら受け入れられなかっただろうが、けれど今ならば「アニメだもんね、なるほどね、原作じゃないもんね」と消極的に許容は出来そうだ。

「アニメはアニメ。原作は原作。それぞれ独立した世界だから違うのは当然」

そんな視点を持つことは鑑賞時にプラスに働くだろう。お互いを比較してもいいんだけど、"比較しない "という選択肢を持っていることは幅が広がるからね。。特に原作既読者はなぜかアニメ化に期待しちゃうし。

リトバスは何で京アニじゃないんだよ……と私自身一年前ガチで嘆いていたように、もうね「許せない」という感情が強すぎた。でもこの視点を適用するならば――アニメリトバスは原作リトバスと比較しなくても個人的に芳しくない完成度だと思うけど――「許せない」という感情に引っ張られなくなるかもしれない。そこ抜きでアニメリトバスを見てダメならダメでいい。

「原作のヨスガノソラ大好き、でもアニメヨスガノソラの大嫌い」という人も《物語そのもの》の視点を適用すれば(アニメの完成度は置いておくとして)期待を裏切られた怒りは収まるかもしれない。とは言え、抑えようとしなくてもいいんですけどね。

ちなみに私は、アニメヨスガノソラそんな悪くはないんじゃないかなって思ってます。

 

おわり。

 

 

ヨスガノソラ 12話。近親相姦の最果てで、穹たちは何を視る? (4572文字)