猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

管理人の「思考背景」を説明をしていきます。

スポンサーリンク

f:id:bern-kaste:20140212214808j:plain

 このblogで使用される管理人の「造語」と「思考背景」を一つ一つ語っていきます。個人的には面白く読めたらいいなと思っています。

よければ、どうぞ。

 

 

・最終更新日

2014年7月15日
2015年11月12日
2017年2月22日

 

 

 

1)心象強度

 

アニメ『(一期)やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』の雪ノ下雪乃の心のありかた(=自分の内側にのみ価値を置いている様子)を『心象強度』と名づけました。

心象強度とは、外側の影響(=他者・承認・否定)に振り回されない心の度合いを言い表したものです。心象強度が高ければ、友達がいるかいない、集団排斥、他者に非難されようともあまり傷つきません。

なぜなら自分の内側に価値を置くことが出来る人間は、外側にまったく期待していませんから。自分自身がどう思うかどう感じるかが重要で、肝要なわけです。ゆえに「空気」を読むこともなく、自分がしたいように生きることが可能になります。いわゆる「自己完結型」の人間といってもいいでしょう。

反対に心象強度が低ければ、友達の言葉や、他者の期待に振り回されます。期待に応えようとして怯えたり、他者の奴隷のように生きる在り方になるのが常です。『俺ガイル』の由比ヶ浜のように。

この言葉のイメージとしては、己の内側にある「心象風景」が元になっています。心象風景の密度が濃い、外界との境界線がはっきりしている、世界そのものの強度が高いイメージを持った人物がいたら、私は「心象強度が高い」と表現しています。

 

2)他者廃絶性

 

心象強度が極めて高くなってしまい、己の内在世界と外界の世界が0・1になってしまった状態のこと。つまり「自分の世界に"他者"という存在がいない」状態を、他者廃絶性と呼んでいます。

世界にぽつんと1人でいる感覚を知っている、あるいはそんな状況の中で生きている人間のことです。

この言葉が生まれた背景には、『CROSS†CHANNEL』上で問われた「世界でただ1人になっても人間は生きれるか?」から来ています。最果ての荒野で人は1人で生きていけるのか、もちろん答えは否。

ある程度自我が発達した人間は、世界でただ1人では生きていけません。なぜなら「孤独」に耐えられないからであり、誰とも会話せず、誰とも触れ合わずに、1人ぼっちで1年、7年…11年と過ごしたらいつか必ず狂います。

――人は究極的な孤独に耐えらない。

だからこそ他者が廃絶された世界で生きている人間の特徴としては、自我が希薄/人格が破損している/相手に共感することが出来ないなどがあります。当然でしょう。他者という存在がいなければ、自我や感情は発達する必要はありませんし、保つ必要性もない。獣のように食べて、寝て、食べてを繰り返すようになります。

この言葉のイメージは、真白(=ホワイトアウト)な心象風景でぽつんと1人で佇んでいる(最果てのイマの未使用領域&エヴァ最終回など)。あるいは最果ての荒野に1人で立っている風景を思い浮かべます。

また他者廃絶性を「最果ての荒野」と言い換えるときも多いです。


 



3)他者読解性

最果てのイマ PORTABLE (通常版)

最果てのイマ PORTABLE (通常版)

 

 

人間は他者の気持ちを深いレベルで察することのできる共感能力を有しています。隣人が怒っているのか、嬉しいのか、何をして欲しいのか?というレベルまで心を読み解けることができ、かつこの共感能力の延長線上に感情移入という現象をも引き起こせます。(Cf.ミラーニューロン

感情移入とは相手の気持ちになって考え、相手の痛みすらをも自分の痛みとして認識することが可能になることであり、そんな一種のテレパシー能力とでも呼ぶべき強い力を包括して「他者読解性」と呼んでいます。

この言葉は『最果てのイマ』の「社会的複雑性の読解力」から引いてきたものです。イメージとしては……これは特にないですね。

関連記事→感情移入とは「幻肢痛」に似たようなもなのではないか?

 

 

 

4)自己拡大化

空の境界 未来福音 (星海社文庫)

空の境界 未来福音 (星海社文庫)

 

 「自己拡大化」は他者読解性の延長線上にある言葉です。

他人の気持ちを読解でき、感情移入ができ、そして相手を"自分の気持ちになって考える"ことが出来るならば、「自分」という存在が相手にまで拡大化したという考え方です。

自分が自分の肉体以外に拡大していくため、他者・動物・人形・絵などを"自分のことのように扱える"。そういう考え方です。(Cf. 倫理的価値観と自己拡大化の影響

なぜ人形を愛せるのか?  なぜ好きな人を傷付けられたら苛立つのか? なぜ大事にしていた鍵を無くしてしまったら悲しくなってしまうのか? 

――どれも"自分のことのように扱っている"から、悲しんだり喜んだりすると見做します。

「自己拡大化」を突き詰めれば、自分が世界にまで広がっていくということになるでしょうし、つまり自分が世界と一体化する感覚をを味わえるということです。 (地球を自分のもののように扱うガイア教とかあるかもしれません?)

この言葉の由来は特にありませんが、イメージは王が領土を征服していく感じで、王が踏みしめた大地がオセロのように白色から黒色にぱたぱたと反転し、息を吐くだけで周囲の人間が彼に靡く、そんな自我領域の領土拡大というイメージです。

 

 

 

5)イデアに手を突っ込む

 

 

イデアに手を突っ込む」とは、現実には存在しないし見ることも叶わない"感じ"ることしかできない「なにか」を掴みとるという意味です。

それは肉眼で見ることは出来ないアガペー、フィリア、真理、真実といった「イデア界に存在」するであろう観念物などを指します。

この言葉が生まれた背景には、『Sessions!!~少女を監禁する事情~』の「愛はイデア界の住人である」という言葉からきています。愛とは物質的に存在するわけではなく、ただ"感じる"ものですよね。そしてそれを"感じる"為には、イデア界に手を突っ込んで引き抜くしかないのです。(すんごい抽象的な説明ですが伝わってるかな?……)

この言葉のイメージは、『凪のあすから』の2ndOPのひーくんのように頭上にあるきらきらした上位世界に手を突っ込む感じです。

 

f:id:bern-kaste:20140428225306j:plain

f:id:bern-kaste:20140428225312j:plain

 

f:id:bern-kaste:20140428225320j:plain

f:id:bern-kaste:20140510132957j:plain

 

 みたいなね感じです。


 

 

6)実存退廃者

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 

実存退廃者とは、「今ここにいる私をうまく認識できない心の状態」のこと。

現実に生きているのに生きている感じがしない、大地に立っているのに立っている実感が伴わない。そんな心的感覚の延長線上にある「なんで私は生きているんだろ?……」という空虚な疑問を持ってしまう人のことです。

つまり、「生きる動機」が欠けてる人間です。

想像が難しければ、『ノルウェイの森』の"ぼく"とか、『戯言遣いシリーズ』のいーくんとか、『キラ☆キラ』の鹿之助のような人間を思い出してくれればいいかなと。

別に死にたいわけじゃないけど、特に生きる理由が持てないみたいなね。この「別に死にたいほど」に苦しい現実にいるわけではないにも関わらず、「死んでも別に構わない」と思えるのも実存退廃者のポイントです。

なので、ちょっとしたキッカケで簡単に死んでしまう人間と言ってもいいですし、これ以上生きる理由がないからこそ簡単に死へと傾いてしまう。

言葉のイメージとしては、曖昧で不明瞭なぼやけている景色を歩いている様子。あるいは真っ黒いコールタールがべちゃりと身体中を取り巻くような感じです。スマイルプリキュアが絶望に引き込まれてしまったあの世界をイメージして貰えれば分かりやすいかもしれません。

 

 

 

7)ゴールテープ問題


ゴールテープ問題とは、人生において掲げていた大きな目標を達成してしまった後にそこからどう生きていけばいいんだろ?という問いかけのことです。

仕事で定年を迎えた、世界チャンピオンになった、一番叶えたい願い事を叶えてしまった―――ゴールテープを切ったあとも走り続けているなんて馬鹿じゃないの、という意味も込められています。(関連:【自殺者1万人を救う戦い】を観て 

本来なら目的を達成したあとは、再度新しい目的を設定してまたそれを達成することを繰り返すのが人生というものでしょう。

しかし「そんな自転車商業みたいなことを繰り返して何になる?」「一番叶えたいことを叶えてしまったのだから新しい目的なんて無いんだよ」「到達すべきゴールがないなんてありえない!」という考えの元、このゴールテープ問題が生まれてしまうのです。

これもまた「生きる動機が欠けた」状態の人間に使われることが多いです。人生における心からの願いを叶えてしまった人間は、得てしてこういう状態になってしまうんじゃないでしょうか。

この言葉の由来は『きみとぼくの壊れた世界』から取りました。

 

結果の後、結果の後に、僕は、僕らは、一体何をどうすればいいんだろう。ゴールテープの後でも走り続けているなんて、ただの道化もはなはだしい。

 

――きみとぼくの壊れた世界

 

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

きみとぼくの壊れた世界 (講談社ノベルス)

 

 

 

 

8)概念モジュール

 


概念モジュールとは、「創りだした概念を基に感覚機能を手助けしてくれる機能物」のことです。

例えば集中するときに、「心臓にナイフを突き刺す」「頭に銃を撃つ」などといったイメージをトリガーとしより集中しやすくなるように図ったり、あるいは祈るときに聖遺物の手をイメージし自分の行為の強度を高めるときに使われます。

つまり、感覚/行為を「ある概念」に置き換えることで、よりその感覚/行為を使いやすくすることですね。ちょっとここは抽象的な説明ならざるをえないんですが……伝わっていますかね?
これは『レミニセンス』の島津秀隆の"勘"といった感覚が、"姉"という概念に置換されることから着想を得た言葉です。あたかも"姉"という概念を感覚増強のための部品として使っているように見えたので「概念モジュール」と名づけました。

今観ているアニメだと、『ピンポン』のスマイルの「機械化」も私に言わせればこれです。(2014年春)


 

9)言葉の不完全性

 

ギャングスタ・リパブリカ

「言葉」なんてものは、個人個人の主観によって意味が移ろいでゆく不安定なもの。そんなものでコミュニケーションを取るのだから意思疎通を完全にマッチさせることは不可能ですし、自分が体験した主観的な情報や、一次元的な情報(つまり感情)は100%の精度では絶対に相手に伝わりません。

例えば私が嬉しいという感情を発露させたとしましょう、しかしこの感情を相手に伝えるためには「嬉しい」という4文字の言葉を使うしかないのです。あるいは詩的な表現を使って、隠喩を使って、嬉しさを言葉にしても、私が感じた"嬉しい"という一次元的な情報はどうやっても相手と共有できないのです。なぜならそんな伝達方法は現時点ではありませんから。*1

そして私の「嬉しい」という言葉を見た/聞いた相手は、「自分自身が感じた嬉しい」という体験情報を基にして、私が感じたであろう"嬉しい"を読み解こうとするのです。

この方法では近似値としての"嬉しい"を共有することは可能でしょうが、それは相手の"嬉しい"と、私の"嬉しい"が近かいという暗黙の了解が前提となっており、それが本当に近しいのか?は誰にも証明できません。

さらにいえば自分と相手が生きてきた環境が違う、生きてきた過程が違う場合は、より意思疎通に大きな齟齬を生み出してしまうもの。いくら喋っても相手のことを理解できないなんてことも起こりえます。

飢えたことがない人は飢餓で死んだ人の気持ちが分からないし、虐げられたことがない人は差別されることの意味を分かっていないし、少数派が世界から阻害される苦しみは多数派の人間には理解できないものです。

そんな風にいくら言葉を交わしても、絶対的に理解できない領域があるのです。

例えば、ブレーズ・パスカルのこの言葉を読んで涙する人もいれば、ふーんと流してしまう人もいる。この2つの差異は「生きてきた環境」が違うからの一点に尽きます。

大切な事は全て私達の想いの中にある

私達を立ち上がらせるものは

そこからやってくるのであって

満たすすべのない場所や

時によってあるものではない

故に想う事を忘れずに
     
そこにこそ、あるべきすがたがある
     


――ブレーズ・パスカル

 
こういったコミュニケーションツールである言葉の限界を、「言葉の不完全性」と呼んでいます。

造語というほど造語じゃないんですけど、この言葉は『ギャングスタ・リパブリカ』の「伝えられるのは気持ちだけ」という言葉からきました。

 

「……違うんだよ、禊ちゃん。できないの」

「共有できるのは……、気持ちだけ」


――古賀ゆとり(ギャングスタ・リパブリカ)



 
 

 

10)Aletheia

 

 「いろとりどりのセカイ」には「心の中に願いを叶える為の力」という言葉があります。

これは誰もがみな、自分の生まれてきた意味を自分で決めることができ、その上で人生を謳歌したいという気持ちが込めらた彼と彼女達の約束です。

そんな「願い/祈り/叶える/生まれてきた意味/約束/絶対的な真理」という様々な要素をふくんだ言葉を包括し『Aletheia(真理)』と呼んでます。

『いろとりどりのセカイ 』をプレイしていないと意味分からない言葉なんですけど、だいたいは「個々人の絶対的な本質」という意味で使うことが多いかもしれません(関連:.Angel Beats!

イメージとしては、めちゃくちゃきらきらした豊穣な心象風景を想像しています。光り輝くあったかい世界。そんなイデア世界にある真理を。

 

 

 

11)【イマ】(=未来と過去が存在しない認識方法)

 

水月~迷心~
キッド (2004-10-28)
売り上げランキング: 21,692


【イマ】とは「今だけを見続けるという認識方法」のことです。過去も未来も存在しなくて、あるのは今ここにある、瞬間だけ、という意味の言葉。

【イマ】だけを見続けることが出来れば、過去によるトラウマ、未来による不安といったものが払拭され、現在、いま、ここ、を生きることだけを意識するでしょう。現在を一生懸命 "見続け" ようとする認識の仕方、それは刹那的でもありながら、かなり魅力的な方法論です。

今期のアニメだと『ハイキュー』の日向が、この力を備えていると見ています。もしかしたら『古色迷宮輪舞曲』のサキちゃんも。(体験版プレイでの推測ですが)

言葉の由来は(とはいっても造語でもなんでもないですけど)、『水月』の「今だけが確かなことなんだよ」という言葉からきています。

 

 

12)虚無問題

虚無問題とは、「なんで生まれてきてしまったんだろう?」という答えの出ない問題。あるいはそれに類する問いかけのことであり、答えを出してはいけない問いも含まれます。

「何で生まれてしまったんだろう?」という問いは、ぜったいに答えなんて出ません。それもその人が望んでいる「あなたは☓☓を成す為に生まれてきたのです」、なんて耳に心地よい答えなどないと断言します。

あるのは親が勝手に交接して、その人が生まれただけで、それ以上でもそれ以下でもないく、ただの動物が生み出した事実しか残りません。

もちろんこんな答えで満足できないからこそ、「なんで俺は生まれてきてしまったんだろう?」と答えのないことをぐるぐるぐるぐる求めてしまう―――だからこそ虚無的な問いなのです。

――意味のない益体のない無意味な問いかけ

言葉のイメージはメビウスの輪。 どこにもたどり着くことのできない輪っか。

 

 

関連.→藍井エイルに興味が無かったのに、ライブ行ってきました。「Special Live 2013 ~Starlight Reunion~」と生まれてきてごめんなさいという虚無問題について (6785文字)


 

 

13)物語化

 

 

「物語化」とは、現実で失われたものの意味を復活させるという意味です。

死んでしまった人、失われた愛、欠けてしまった手足――――そんな現実では絶対に取り戻すことが出来ないものを、観念の世界でなら、物語の世界でなら生かし続けることができます。

この世界でなら、喪われたものを救済可能になるんです。

例えば死んでしまった人をもう幸せにすることは不可能ですよね。でも観念の世界――天国という世界――でならば死んでしまった彼らを "幸せ" にすることが出来ます。

現実で無残に死のうとも、遥か上空の世界で死者の霊魂が永久に祝福を受け続け、至福の時間が流れゆくこと世界が "あ"るとさえすれば、それを信じられるのならば、その亡くなった人はそういうことになるのです。

現実でもうどうしようもなく失われてしまったものを、復活できる方法はこれしかありません。観念の世界で昇華することだけです。それは例えば劇。例えば音楽。例えば神話。例えば映画。例えば小説。例えばお伽話。例えば絵。例えば彫刻で―――
   

「それでも、どこかで忘れてはならない。実生活の中で滅び去るしかなかった者達を、せめて観念の世界で生かし続けたいと思うから」

「だから私達は、この劇を作り続ける」

 
――はつゆきさくら

はつゆきさくら コンプリートサウンドトラック

はつゆきさくら コンプリートサウンドトラック

 

「わからないかい?

すでに死んでしまったもの、失われてしまったものに対して、なにか意味のある仕事が為せる職業は、この世にたったふたつだけしかないんだ。つまり、作家と探偵だ。作家だけがそれを夢の中で蘇らせることができる。探偵だけがそれを墓の中から掘り返して、情報に還元することができる。

――神様のメモ帳・アリス

 

神様のメモ帳 (電撃文庫)

神様のメモ帳 (電撃文庫)

 

また『Angel Beats!』の日向がユイを救ってあげることも出来たのも、悲しい過去を、幸せな未来に彼が「物語化」することからだと思います。

関連→Angel Beats!10話_ユイの人生を「物語化」し救済したという見方

 イメージは「炎」で、ある何かが"昇華"する、その感覚が火として捉えています。あと「物語化」は、「観念の世界で昇華した」という言葉に置き換えることも多いです。

 

 

14) クンフー論 

クンフー論とは、結果を求めず・過程に楽しさを追求しながら。行為を積み重ねていくこと。

例えばブログだったら、どうすれば楽しく記事を書けるかを注目します。アクセス数やコメント、そういった結果を求めずただただ「記事を書く」という過程がどうすれば楽しくなるのか? という視点でもってブログを運営していきます。

何故「楽しい」という感情を殊更強調するのかというと、楽しいという感情は、この世のあらゆる価値を上回るからです。楽しいからこそ例え難しいことでも挑戦しようと思えますし、楽しいから多少苦しいことでも長く続けることが出来るのです。

楽しく感じることに価値の源泉はあります。つまり、いかに結果という未来を考えず、「イマ」だけに集中できるのか? 物事からどうすれば「楽しみ」を見出すことができるのか? そういう思考方法が出来るか否かで物事の長続きのしやすさに関わっていくと考えます。

関連→クンフー論。それは手段を目的化し「楽しむ」を追求すること(13488文字)

この言葉のイメージは、『Fate/stay night』で衛宮士郎が毎日毎日毎日毎日、コツコツと命を賭けて魔術練習していた風景を想い描いています。ちなみにこの言葉は私が考えたものじゃなくて、海燕さんが造り出したものを借りています。(詳しくは上述記事で)

 


 

15)ナナミ課題

水月 ~Portable~(通常版)

水月 ~Portable~(通常版)

 

ナナミ課題とは幻想を信じられる力のことであり、これが無ければファンタジーは噓の塊に見えなくなってしまうという考え方。

(自分ではない)他者の信念を理解する力を調べる課題『誤信念課題』におけるマクシ課題と、ADV『水月』における牧野那波を組み合わせてこのように名づけてみました。

小さい頃は誰しも「月でうさぎが餅を突いている」「サンタはいる」「ネッシーは実在する」という幻想持っているものだと思いますが、年齢を重ねることでそういった幻想は無いものとし、捨てていきます。

社会的に生活する上で「そんなものはない」と思うのはそれはそれで重要なんですが、これを無意識化のレベル・深層の部分でこれらの幻想を否定してしまうと物語を読むさい障害になりうるかもしれません。

私は今まで見たことがないけど、もしかしたらこれはこの世界に存在するのかも」といったことを信じられるのは重要です。何故なら、信じられなければ、目の前にある物語はただのガラクタと成り果てるのですから。

こういった未知・謎・幻想を信じられるかどうかを「ナナミ課題」と名付けてみます。

――「このアニメ展開もう見飽きたよ」という知識の非可逆性を乗り越えるためにできること(太字は引用者が付けた)

 

 

 

16)願いの同一性

自己を「自己」だと定義するものはなんだろうか?

それは記憶に他らない。記憶という過去の連続性において、時間の積み重ねによって人は自分を「自分」だと定めることができる。

だからこそ「人格入れ替わりの物語」はいつだって「肉体」ではなく「人格(=記憶)」をもってしてその人を "その人" だと見做すのだ。鹿目まどかの身体に暁美ほむらの人格が入れ込まれてしまったら、確かにその肉体は鹿目まどかかもしれないがその精神性、ひいては人間性は「暁美ほむら」だと誰しも見做してしまうのがその理由である。

つまり記憶の同一性によって人は人を識別していると言ってもいい。

しかし、もしも記憶ではなく「意思」が「想い」が「願い」がその人をその人たらんとするならばどうだろう? ある人間を同一だと定める要素が記憶の他にもあるのだとしたらどうだろう?

こういった「願い」を誰かへ受け継がれたならば、その「願い」の所有者は最初に願ったその人だと言ってもいい。同一の存在ってことだ。カミナの生き様を持ち得たのならシモンはカミナであるし、帝都をぶっ壊すというブラートの夢をタツミが引き継いだのならばタツミはブラートひいては"ナイトレイド"そのものであるし、キリストを信奉する群衆、仏陀の教えを忠実に守ろうする人達―――集団としての願いに添って生きる者全てだ。

――水月を踏み台にして考える『願いの同一性』

 

そういう考え方が『願いの同一性』である。

 

 

 

17)《物語そのもの》

 いわゆる "テクスト"(テキストではない) に色々織り交ぜたのが《物語そのもの》という概念になります。

一言でいえば「物語を読んさだいに生じる観念であり、それは私たちの現実世界とゆるく接続しながらも独立したもの」と言えばいいでしょうか。別世界であり、異世界。

そして物語を語る際、私はこのイメージを持ってして語ることが多いです。

《物語そのもの》とは文字や絵等で構成された表現物を読んださいに生まれる観念と定義します。

例えばアニメ『true tears』は絵、音、文字で表現された映像データですが、それを視聴した際に生じるtrue tearsそのものはそのアニメから浮き上がって独立したものということになります。

浮き上がった『truetearsそのもの』は触れることは出来ませんし、文字通りどこにも・あそこにも・ここにもありません。けれど『truetearsそのもの』はあらゆるところに偏在し、私達の心の中にちゃあんとあるのです。

これを違う言い方をするならば、虚構・イデアと言って差し支えないでしょうか。抽象的な概念ですが、物語を読んだことがある人ならば直感的に理解できるものだと思います。

(中略)

《物語そのもの》は現実世界とイコールではないので、そこにどんな "ありえない" があっても不思議ではありません。むしろ虚構だからこそあっていいのです。

(中略)

《物語そのもの》は外部(現実にいる私達)への繋がれ保たれつつも、しかし独立し確立してしまっている一つのシンボリックな"世界"だとする立場

――《物語そのもの》とは? - 猫箱ただひとつ

 

 

 

18)言語の神秘性

世の中には言葉にはしてはいけないものがあります。

それは口にしてしまったら価値が下がるものや、両手に抱えきれない大きさのものを言葉で体のいい形にしてしまう時でしょうか。

例えば物語といったファジーなものは本来なら一言で言い表せないものです。とても膨大な情報で編まれたものにも関わらず、『輪るピングドラム』は■の物語だ――と言ってしまったら「■」から括れなかったものは尽く下に落ちてしまいます。

言葉とは「形」にすることであり、けれど何かを「観た」 ことは単純な言葉に出来るものとは限りません。しかしそれでも「形にできない」ものを「形」にしてしまうのが言語化という妙なのです。

だからこそ秘密は秘密だからこそ意味があるのですし、大切なことならば尚更に誰にも語らず、誰にも話さないほうがいい事ものある。

これは『ひとりぼっちの地球侵略(2巻)』の大鳥希の言葉が分かりやすいので、引いてみます。

「言葉には力がある、この星でもそういう思想はあるでしょう。」

「それってつまりことだ…」

(ピッ)

「!」

(しー…)


「全く同じじゃない。私はいろいろ混ぜて使ってるし。これ以上のことはなにしろ秘密なので教えられないわ。」

「なんで秘密にするんだよ。これくらい別にいいじゃん」

 

「なぜならばね……」

 

「秘密を守りたいの」

「魔法の秘密?」

「ええ。」

「秘密というのはまとっているだけで力をくれるような気がする」

「気がするだけの、お化粧のようなもの。実態はなくともただ私のそばに感じられればいい」

「魔法の力は秘密を保つことで守られるわ、これらは本質が近くて切り離せない」

 

――広瀬、希(ひとりぼっちの地球侵略2巻)→言葉にできる楽しさなんてウソだよ、秘密はまとっているだけで力をくれるような気がする、なあ黒桐、神秘はね神秘である事に意味があるんだ

言語の神秘性――つまりそれは「隠す」ということであり、そのものの「価値」を守ることなのかもしれません。

 

 

 

 環境を取り替えることで人間の行動は変わる

人の行動を決定づける要因は?

と聞かれたら多くの人が「DNA」か「記憶」、あるいは「環境」と答えるだろうか。DNAは生得的行動として、記憶は過去の積み重ねによる行動として、環境は外部の刺激によってもたらされるものとして理解されているように思う。

そして「異世界転生」と呼ばれる物語は、総じて「環境の総入れ替え」が行われおり、その結果として元世界では取ることはなかった行動が主人公たち取るようになるのであると語ったことがあった。

「名前」「身体」「居場所」「立場」「身分」「取り巻く人々」そういった様々な自分を取り巻くものが変われば、その環境に応じて人は思考は変わっていくし思考が変われば当然行動も変わっていくものであると。例え自分を定めるアイデンティティ(記憶)が前世から持ち越されたとしても、その記憶に応じるばかりではない

『無職転生』であればルディという名前、赤子からのやり直し、下級騎士の父親を持つ長男。『本好きの下克上』ならばマインという名前、5歳からのやり直し、平民の親を持ち家は汚く貧乏で本が普及していない世界、というふうに。

人間が環境を捉えることでそこに意味が生じるのではなく、環境が人間を促すことで意味が生まれていくのである。環境が行動を促し、精神を促す、これが異世界転生では顕著に見られる。

異世界転生で得られる教訓は「今までの全てを取り替えることで人間の行動は変わる」という考え方(無職転生~本好きの下克上)

 そういったアフォーダンス的考え方。

この流れでいえば「この世界に生きる価値はあるか?」という問いがいかに無意味で、論点がずれているかわかると思う。私たちは「世界によって」生きる価値を定めているのではなく、「自己を取り巻く人々によって」生きたいかどうか決めるのであると。

関連→世界は私達を愛してくれないし、私達は世界を愛すわけじゃない。(明日の君と逢うために~ざくざくアクターズ感想②) -

 

 

 

《味噌汁の挟持》

 以前、ある音楽プロデューサーこう呟いた。

だいたい「今の日本映画はつまらない」と「神目線」いう人間は、例えば予算のない現場で制作のスタッフがしょぼい弁当をリカバーするために必死で味噌汁作ってキャストやスタッフを盛り上げようとする矜持すら知らない。オレはそんなやつらは一切信じない。勝手にほざいてろ。

それを見た多くの人は否定に回ったことかとがあったのだが、私はその原因を「作品の価値を制作背景の価値と結びつけること」がダメだったのだと考えた。そしてその考え方は唾棄されるべきものとして、そういった振る舞いをする人を《味噌汁の挟持》、味噌汁屋と呼ぶことにした。

関連→舞台裏、制作背景、開発環境は「作品を評価」する上で何ら関係がない。無価値だ。

 

 

 

視点取得限界

視点取得限界とは「他者の視点を汲める能力であり、その取得数の限界は個々人によって異なる」ものを指した言葉である。

取得限界数が多ければ登場人物の視点に数多く合わせることができるし、逆に少なければ特定の人物――例えば主人公――にしか合わせることができない。また主人公にすらも合わせることができない場合もある。

そういう考え方。

(おそらく)この『視点取得限界』なる概念は、「常に」自分の限界数を保てるわけではなく作品によって増減するものだと思われる。

先にいった「1視点」しか持たない者も常に自分の視点でしか作品を眺めるわけではなく、作品によって視点が2つ3つ増えることもあるのではないだろうか。逆に取得限界が「5視点」ならば視聴する作品によって視点が1視点になることもあれば6視点になるということでもある。

主人公の内面がごっそり削られた『白夜行』や、内面にディティールが加えられてもその緻密さが却って混乱をもたらす『去人たち』*1は登場人物たちの視点を取得するのはやや難しいだろう。逆にキャラクター造形が型に嵌った『スズノネセブン!』や『学戦都市アスタリスク』はやりやすいと思う。

とはいえ『学戦都市アスタリスク』 でもクローディアの母親であるイザベラ・エンフィールドの一切私情を挟まず・組織に己の全てを捧げる在り方は読者の理解を遠ざける心的状態と言えるだろう し、キャラクターの心情が理解しにくい『去人たち』でも大神のアリスの為に行動する一点については比較的理解しやすいものかもしれない。

このように作品の傾向によって、もしくは作品内の登場人物によって、個人の『視点取得限界』の境界はゆるやかに動いていくものだと思われる。

 

物語における『視点取得限界』を考える(24463文字)

 

 

 

批評行為

 

「アニメ化」とはつまり原作の批評行為なんじゃないか?(Fate/stay night) - 猫箱ただひとつ

 

批評と創作はある一点において本質的に同じである。(1812文字) - 猫箱ただひとつ

 

 

 

幼年期のコミュニケーション

 

幼年期のコミュニケーションとペルソナスバル/Reゼロ13.14話感想 - 猫箱ただひとつ

 

福音(エヴァンジェリン)

 

 

自己の枠組み

 

『ラスト・ピュリファイ』自己の枠組みから逃れられない人類の末路(感想・レビュー) - 猫箱ただひとつ

 

 

 

 

f:id:bern-kaste:20151112231617j:plain


+++ここからは造語の話ではなく、管理人の価値観について語っていきます+++


 

 

「作品」を語れない人々


監督の人間性・ライターの人間性、を作品に直結させた批評は唾棄すべきものです。

下の記事の引用箇所は音楽の話ですが、これはネットに溢れているアニメ批評についても同様だと言われています。
 

    "自分がそのアーティストが大好きで、精一杯応援して盛り上げたい、という気持ちは音楽ファンとして当然だよね。

    でも、今の風潮って、音楽を音楽として聴き、語ることをしなくなってる。音楽にアーティストの人間性を無理やり直結させて、音楽を語るんじゃなくアーティストのキャラクターを語ってるだけでしょ。それも、実際に会ったこともないアーティストの人間性を"妄想”して、ひたすら幻想を膨らませていくような。    (小野島 大『音楽ライター養成講座』P.106)"


 ――会った事もないアニメ監督の人間性を妄想する人って - 幻視球ノート

私もこれはおかしいと思っていて、作品を製作者の人間性に直結させている批評なんてものは作品批評ではなく人間批評にすぎません。

アニメを語るのであれば「アニメそのもの」で語ればいいはずなのに、それを会ったことも話したこともない人間の人生観とか人間性に触れるのっておかしいでしょうと。

さらに言えば、作家の名前を持ちだして作品語りするのも同じくらい唾棄すべきものだと考えます。例えばジブリ作品の内実を語るのではなく宮﨑駿の名前を持ちだしてジブリ作品を語ろうとしたり、まどか☆マギカを語るはずが虚淵玄の名前を持ちだすことです。

それらに共通するのは、「作家」という根拠を持ち出してこなければその語る内容に妥当性を帯びさせることができないということ。もしも「作中」から根拠を持ってくることが出来るならば当然「作中」から持ち寄ってくるでしょうし、「作家」という要素からその理屈を提示しようとはしないはずです。

逆に作家をダシにする作品語りは得てして、その作品に関係ないor妥当性がないものばかりになちがちなのは作家という「外在的文脈」を使用し、作中における「内在的文脈」を無視しているからに他なりません。

ようするに作者を引き合いに出して語る批評文物ってのは、「物語の事実」ではなく「作者」が最重要であり、「作者(=インタビュー/コンテキスト)」持ち 寄らねば当該物語に対して何も言えない者のことだ。物語を物語るときに、自身が観測した物語についてではなく、赤の他人の意見を優先するあたり何がしたいのか理解に苦しむ。

――作者は物語を生み出す〈装置〉でしかない。 - 猫箱ただひとつ

 

そういった人間批評者、監督主義者を嫌悪しています。「作品」ではなく「人」を対象にし、あるいは「人」を作品の根拠とする在り方がおかしいと思いますから。

作品と舞台裏の主従関係が逆転した感想なんてのは見たくもないし聞きたくもないんですよ。もちろん舞台裏をメインとした感想は"あ"ってもいいし、"あ"ることを理解できる。ただ私の価値観としては肯定しにくい。

逆にいえば、私が好きなのは「作品を作品のままで語っている」ものということになるでしょう。または作品の主従関係が逆転していない感想。

 

具体的に言えば、ADV『木洩れ陽のノスタルジーカ』のワンシーンが分かりやすいかもしれません。

本作では、映画を見てヒロインが一人一人感想を言う場面があります。

一姫という女の子は「それだけしっかりした映画だったということよ……きっと無駄な部分が極力少ない構成だったんだと思うわ」と発言します。それに対して朗という女の子はこう言います。

「そういう難しい技術面の話は良くわかんないけど、すごく暖ったかい映画だったと思ったよ。王さまが娘さんたちにせがまれて、話すのが苦手なのに頑張ってお話を聞かせてあげるところとか、すごく素敵だったし」

f:id:bern-kaste:20151112230324j:plain

――朗 (木洩れ陽のノスタルジーカ)

またフロゥという女の子はちょっと違った感じで、自分の経験と映画体験を照らし合わせたりそれを糧にするような感想を言うんですけど、

(中略)自分が文章を構成することが出来なかった幼い頃のことを思い出した……確かに不思議と、あの聴覚士が私に会話を教えて下さったセレス様に重なるように感覚出来るのだ。それがとても奇妙に思えて、けれど暖かい体験のように感じられる」


――フロゥ (木洩れ陽のノスタルジーカ)

そんな朗とフロゥのような感想が「作品を語る」と言えばいいでしょうか。作品を対象にして、自分が思ったこと、心で感じたことを語る。

「作品それ自体を語る」ことも重要ですが、二人の感想に惹かれるのは「感情」を重要視している点も譲れません。

私は人が克己する姿を見て歓ぶ情を、美しい景色を視て心をふるわす強い気持ちを、そんなプリミティブな感情が好きなので、作品批評においてもその側面が現れているのも好みます。

もちろんこれも行き過ぎると「作品」を対象ではなく「自己」を対象にしたものになってしまうので注意は必要ではありますが。

他には「演出論」「表現論」で映画のカメラワークはどうだったとか、CGの使い方はどうだったとか、音楽の挿入ポイントといった視点による作品感想も好きです。

 以上の理由から、私の作品との接し方はとてもシンプルで、「作品そのものを語りたい・見たい」の傾向が強いです。声優がーライターがー監督がー!といった舞台裏について言及することは少ないでしょう。

もしかしたら雑文や会話のネタとして少しくらいあるかもしれませんが、「作品考察」では無いと思います。そしてそういうスタンスで物語を見ていると思ってくれれば幸いです。

 

 

B)『閉じる読解』

 

閉じる読解』とは、外在的文脈(=監督・ライター・時代性・歴史・オマージュetc)を切り離して、読み解き、当該作品のみで語る方法です。

それは知識を蓄えて物語の解釈を「広げ」ていくのではなく、どんどん「閉じ」ていき作品のプリミティブな姿を模索するやり方。

関連→アニメをアニメだけで見る「物語の内在視点」のススメ。作者なんてものは存在しない


私がここまで「作品をそのままで」語ろうとするのかと言えば、『さよならピアノソナタ』のワンシーンに答えがあります。

「黒人女性の解放を歌ったんだって言われてる。ポール自身も、そんなことを言ってたらしいよ。でも、ぼくはそういう考え方があんまり好きじゃない」

 

「どうして?」

 

「だって、そんなのひねくれてるよ。

そのままでいいじゃんか。

ブラックバードのことを歌ってる歌なんだから」

 


――さよならピアノソナタ


これはビートルズの『Blackbird』について話しているもので、ポールはBlackbirdという曲を黒人女性の開放の為に歌ったと言うけど、でもナオは『Blackbird』は"Blackbird"という曲なのだからそんなのはひねくれた見方だと言っているわけですね。そのままでいいじゃないかと。

私も同意見で、その曲にある作者の意図や思惑なんてどうでもいいんですよ、だって何の関係もないのですから。自分が聴いているのは『Blackbird』だし、ブラックバードについて歌われている曲なんだから、それを対象にすればいい。

ゆえに作品考察するときは、外部情報(=監督・ライター・時代性・歴史・オマージュetc)に頼りませんし、その作品だけで提示されたものだけで、可能な範囲で解釈し、理解したことを記述します。

「与えられた情報を元にして自分なりの結論を導きだすこと」、それが"考え"て、"察する"ってことだと思いますから。

作家や別のコンテキストから根拠を持ってこなければ語れないのだとしたら、それは"作品を対象にした考察"とは呼べなくなるでしょう。

 

(前略)文脈で作品を紐解くことは、その弊害として、その作品とはなんら関係ない話をぶちこんで語るのも常だったりする。

作品を作品として見ることはなく、自分が知っていること、自分が語りやすい文脈で話すことは決して作品を語っているわけではない。

それは 作品を語ったのではなく文脈を語っただけでしかない。

ここを履き違えるから、「作品考察」を著者や関連作品で連動させるべきという人が出てくるのである。

――作品を語るときに何故あなたは「外在的文脈」を使うんですか?



 

C)多様性について


私の思考基板には「多様性」という要素がまあそこそこの割合を占めています。

多様性とは、人間は固有性を備えているが故に、皆「違う」ということであり、私と貴方の価値観が違うように、思考の仕方が違うように、好きなものと嫌いなものが合致しないのと同じように1人1人がバラバラに異なっている。

私はヴィジュアルノベルが好きだけど、嫌いな人もいるでしょう。私はオリーブという食べ物が嫌いだけれども、これが好きな人もいるでしょう。絶対主義を偏愛する人もいれば、相対主義を偏愛する人もいるし、日常的に和服を着て学校に行く人もいれば、腕に刺青をしている人だっているし、自分の性器を焼いて食べる人もいれば、人間嫌いの厭世家だっている。

皆それぞれ違う生き方をしてきて、違う人生を歩んでいるのだから当然。相手と自分の価値観が同一だなんてことは有り得ないように、自分と相手の思想がパーフェクトマッチするなんてことも有り得ません。

そんなふうに皆【嗜好、趣味、思想】がバラバラだけど、バラバラでいいという考え方が多様性を認めるということだと私は思っています。

さらに言えば、自分自身の【嗜好、趣味、思想】なんてものは本質的に自分で決めたものじゃないという考えを取っています。

つまり、生まれてきた家庭、親という絶対者、倫理観を学習してきた学校環境、クラスメイト、元々の能力と素質によって自分の根本は規定されてしまっているということです。

例えば何故私はヴィジュアルノベルが好きなのか? と考えると別に好きになろうとして好きになったわけじゃありません。好きになったから好きになったのです。トートロジーな言い方ですが、そういうことです。自分が「好きになろう」と決めたわけじゃなくて、いつのまにかこの媒体に触れていたのですから。

それと同じように、どういう思想を持っているかというのも本質的に自分で決めたことではないそ、自分で取捨選択してきたように見えて実は、ある環境の元に都合のいいように1つの考えを深めていったということもあるでしょう。

何がいいたいかというと

人間の考え方や嗜好は自分で決めたことじゃない。ならばそれを「変更しろ」と言われても出来るわけがない。そんな言葉は全く持って無意味だ

そう言いたいのです。

自分とは違う相手の考え方がありますよね。例えそれが自分の嫌いなものだとしても、「やめろ」「そんな考え方はするな」「そんなものを好きになるなんてどうかしてる」なんて言説は個人の自由を侵害しているというだけです。

男性が男性を好きになることや、女性が女性に恋をしようともそれを否定する権利は誰にも無ければ、怠けに怠けて怠けの極北を究めソファでだらだらすることが人生の意義という考え方を誰にも咎められません。

相手の「違う」ところを変更させようと躍起になることは、相手の聖域をしっちゃかめっちゃかにすることと同義です。これは闘争しか生まれず、つまり喧嘩になり、最終的には闘争を迎えます。(個人でも国家間でも)

だからこそ、相手は自分とは違う。この「違う」所を前提としてお話しましょうということでもあります。

私はこれを対話の基本だと考えています。

つまり私の意見を聞いたからといって、相手は相手の意見を変えなくていいですし、また話し合いによってどちらか片方の意見を「優れた意見」として1つにしなくていい。

これは自分の意見が正しいとして、相手にその意見に従わせようとしたり強制しようとするのは言語道断であり、自分の意見が相手が汲み取ってもらえると思うことも傲慢な態度になることを指しています。

――いくら自分の意見が正しいと思っても、相手にとって正しいとは限りませんから。

相手との「違い」を尊重するということはそういうことでしょう。例えばネットでは初対面の人に向かって「お前の考えは間違ってるんじゃぼけ!」なるリプライを荒い口調で言っている人がいますが、あれは自分の意見を押し付けているだけです。ああいった攻撃的なリプライは相手の意見を変更させよう、というものでもありますし、いかに自分は正しくてお前は間違っているかと言いたいだけです。

誰かとの対話で私たちが出来ることは、相手の主張を聞くことだけです。相手の意見がどういうものなのか、自分とはどれくらい違うのか、そして何故違っているのか。それを詳しく聞くことだけです。それは相手の意見が納得できようとも、嫌いだろうとも、それ以外に出来ることはありません。

「私はあなたの意見が嫌いだよ」、そういう発言をしてもOKでしょう。ただ相手の意見が嫌いだと言ってもいいけれど、相手の意見を「変更」させることは出来ようがない。
―――ここまでが私の基本スタンスです、が、まだまだ未熟なので基本スタンスに"したい"ってところでしょうか。できないことが多くあります。

また私がなぜ「多様性を肯定」しようとするのかといえば、ひとえに私自身の多様性もまた肯定できる環境であれば自分が幸せに過ごせるなと思うからです。だから他者の多様性も認めようというお話になります。

また状況次第ではこのスタンスからあっさり身を引く場合があります。具体的には以下の時です。

  1. 「相手が私の聖域に侵害してきた」
  2. 「相手に対話する意志がない」

場合はスタンスを変更させていきます。

→「相手が私の聖域に侵害してきた」というのは、私の【嗜好、趣味、思想】を変更しようとしてきたときのことです。この場合は、私は対話する意志を放棄し、敵対し排撃していきます。

つまり私自身も相手の聖域をぐちゃぐちゃにして、相手の意見を強制的に変更しようと試み、破壊し、否定していきます。そこに許容の余地もありませんし、殴るだけ殴ります。やられた分だけやり返します。

するとそこには自然と相互の抑止が働くようになるでしょう。ようするにお互い遠慮して攻撃しないようになる。

→「相手が対話する意志がない」というのは、話し合いをしているように見えてるものの実は相手の劣等感とルサンチマンによる攻撃だったとかそういうのですね。

話し合いだというのにわざわざ強い口調や言葉を使ってきたり、意味もない煽り、下品な態度といったもの。そんな場合は、もちろん敵対し排撃してもいいでしょう。ただ面倒くさい時もある。何故なら相手と争うのってはのは時間を無駄に消費するし、かつ気分がいいものではありません。

だからそういう失礼な相手と接してしまった時は、対話する意志を放棄します。SNSならブロックですし、リアルならばその場から可能な限り離脱するでしょう。無理なことが多いですが、出来る限り相手に「あなたみたいな人ともう話す気はないよ」と伝えます。

参照→管理人のSNS&ブログの姿勢について

 
また親しい人に自分の意見を押し付けたい時ってあると思います。

大切だからこそ、その人の考え方をどうにかさせてやめさせたいそんな状況です。もちろんこれは先に語った内容でいえば、自由の侵害だからしちゃいけないってことになるんですが、この場合は特殊なものとしています。

つまり敵対し排撃される覚悟を持っているのならばいいでしょう。そして相手に寄り添っている(=応援)しているのならいいでしょうという考え方が私にはあります。

ここの先に待っているのは、お互いの尊厳と誇りをかけて話し合いで、傷つくことだってあるし、自分の意見を相手が受け入れてもらえないなんて当然、でもそれでもそれを前提にした話し合いだからこそ「有り」だと私は認められます。

ようするにちゃんと関係を作ってきてくれた人からの意見であれば、踏み込んでもらえるのはありありですよと言いたいわけですね。

 

参考記事としていくつか挙げておきます。よければ読んでみてください。

  1. 「話し合って決める」という幻想 - Chikirinの日記
  2. どっちが正しいか - Chikirinの日記
  3. 「初音ミクがわからなくても別にいい」のが21世紀じゃないのか - みやきち日記
  4. あきまん氏がネット上で立ち向かう『アドバイス罪』とは一体何か? - Togetterまとめ
  5. ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

 

 

 


 

 

おわり


これを読んでるは、このブログに興味を持っている方だと思っているので、そんな読者さんとのコミュニケーションコストを低くできたならば幸いです。

ここまで読んでくれて有難うございました。

ではまたね。

 

 

 こちらもどうですか?

おすすめ記事199選。ちゃくちゃくと追加されます - 猫箱ただひとつ

 

 

*1:遠い未来、他者の概念を伝達できるコミュニケーションツールができるかもしれませんが現在はありません