▼お知らせ
本作の考察記事を書きましたのでよければどうぞ
――お知らせおわり――
(姉さんという言葉を使うとき思いだすのはレントンですよね。え違う)
1)シャーロットの不満は何処に
Charlotte全話視聴終了後、私はこう思った。
「毎話面白く、退屈せず、映像もアニメーションも高水準なアニメだった。多くの人にオススメできる作品だったと言っていいんじゃないかな。満足満足」
「しかし全力でオススメしたい作品かと言われればそうではないし安易に持ち上げてしまうと良くないかもしれない。読後感はわりとあっさりだったし。あっさりが悪いわけじゃないけど、そうだなここは厳しく『秀作』といった感じか」
そんな想いから夏アニメ総括記事では、「まとまりきった秀作」と評したのだけれど、これは擁護といった意識もなかったし、KEY作品大好きなファン*1ゆえの甘めな評価でもなかった。
むしろ厳し目な評価だった。
しかし頂いたコメント、Charlotteの感想を漁ると、かなり不評みたい。もちろんある作品に不満を感じるのは仕方ないし人には作品との相性の悪さなどもある。
でもいくらなんでも「ダメ」という意見が多すぎる。あるいは多いように見える。
私は自分の主観-擬似客観視をもって『Charlotte』という作品を見ても、別段そんなことを感じられずむしろどこが悪いかさえも検討がつかなかった。世間といったら語弊があるけど、アニメファンの幾人からすれば本作はいまいちな印象を持っていることさえうまく把握できないのだ。
「そりゃCharlotteはこういうダメな部分はあるけど、いいところもあるんだよ」とかそういうのじゃなく「Charlotteって良かったよね、不満なんてない」という感想を持っていたがゆえのカルチャーショックにも似た衝撃は大きかった。
ええええーーー!! そんなダメだった?!?!!!
ダメだったらしい。
その不満の多くは「伏線未回収」「つめこみ過ぎ」といった感じだろうか。全部の不満を読めてるわけではないが、この2つがメインだと思うことにしよう。
2)伏線未回収というけれど、それ伏線なのかな?
伏線未回収とは、高城の家庭、次の長周期彗星、友利の兄、逃走したマフィアといったものであるらしいが、私から言わせると「それ本当に伏線なんだろうか?」ということである。
つまり未回収もなにもそれが伏線でないのであれば回収する必要性はなくなるし、ならばそこに不満を持つのは見当違いではないかということだ。
いや、だって、そこに不満を私は感じなかったので余計そう思うよ。高城の家庭は掘り下げられるべきなのか? 彗星のくだりや逃走したマフィアだってこれ以上何か語られるべきものなんてあるのか? なぜ???
ただそれはそこにある――人生に訪れる無意味な出逢いのように――だけだったのではないだろうか。
中には「乙坂有宇が最後に目を治さなかった理由」さえも伏線にあげている人がいて、もうやだこいつら……と頭が痛くなった。あれは単純に考えれば「友利との約束」で十分理解できるし、少し穿った見方をすれば「タイムリープという《奇跡》によって歪めた人生を更に歪めないため」といった見方も可能だろう。
覚えてる? 8話のサラが「人生ってやつは、一度切りのものだろう」に対し、乙坂は「もちろん」と答えたことに。けれど彼はその《一度きりの人生》をタイムリープによってぶっ壊したんだ。
妹・歩未を助けるという選択肢が提示され、それを選んだ時、乙坂有宇の人生にあった《一度きりの人生》いう豊かな意味合いは失われた。
サラがあのバスの中で言っていたことは、「ズルをしたら代価を支払う時がくる。その時は上手くやれよ」だ。
乙坂は奇跡にも等しい力(=ズル)を使い、その果てに熊耳は死に、右目は失明した。それを13話で得た治癒能力で「治さない」というのは彼なりの「人生の代価の支払い」だったんじゃないかい。
右目を治さない(=タイムリープを使わない)というのは、乙坂有宇が"今"この世界で生きる事、この人生をちゃんと歩もうという意志の現れだと読み取れる。
そんなふうに考えれば分かること、考えれば納得できることを考えずに伏線だと言ってしまうこと、あるいは伏線ではないものを伏線だする態度が、自らの不満に拍車をかけているように私には見えてしまう。
――とはいえ人によってそう感じてしまうんだろう。これは作品との相性故にもうそれは仕方ないのかもしれない。
ただそうなるとCharlotteだけを非難するのではなく自身にもその責をいくらか背負いこむとフェアだと思うのだがどうだろう。
※追記・添削
「サラによって有宇だけが記憶を呼び起こせた」ことについて、そして↑を起点にした考察は以下の記事で書いているのでよければどうぞ。
3)詰め込みすぎ
これはある方とお話していて面白い話題であったのが、
つまり「アニメには作品に適した尺があり、Charlotteのような感動(心を動かされる)タイプは1クールではなく2クールといった長いスパンでやるとキャラ愛が生まれ、キャラ愛によって作品に感動しやすくなっていく。けれど1クールという短い期間でさらに物語を詰め込みすぎてしまうと物語の外郭に気を取られる人が出てきてしまいキャラに愛着を持てなかったりしてしまうため感動が薄くなってしまう」
そんなお話だったと思う。(意図を掴み取れてなかったら申し訳ない)
Charlotteはオリジナルアニメであり世界観の全容も後半になってから明かされるものだった。私はこのスピード感溢れる展開は退屈せず面白いという向きをしてしまうのだが、もしかしたら人によるとあまりにも早すぎて心が"追いつけな"かったのかもしれない。
「駆け足だった」「詰め込みすぎ」「2クールだったならば」という意見が散見するのも、そう考えればなるほどなと思う。
『Charlotte』を褒めている人は、おそらくここらへんがプラスに働いた人、もしく気にならない人だったのかもしれない。
4)Charlotteは「反考察」「反解釈」姿勢でのぞむ作品だったのかも
Charlotte視聴前に『反解釈』(著スーザン・ソンタグ)と出会い、そのラディカルな主張に打ちのめされた経緯があって意識的に本作を「解釈しない」姿勢で見ていた。
あれは何を意味するとか、今後の展開はこうなるとか、そういう野暮ったいことをせずに視聴していく。考えずに描写される映像を楽しんでいくのだ。
とはいえ完全に解釈しないわけでもなく、言語化したいほどに言いたいことがあれば言及するという「セルフ・解釈」なる姿勢を採用していた。
ただそれだけの事なんだけど、今思えばCharlotteはこの姿勢でのぞんで正解だったのかもしれない。
最近気づいてきたのだけれど、「解釈したほうが面白い」作品と、「解釈しないほうが面白い」作品ってある。前者はガッチャマンクラウズとかギャングスタ・リパブリカで、後者は思い出のマーニー、水月、猫撫ディストーションとかそういうの。
人によってこの2つの分水嶺は異なるだろうけど、Charlotteは「いろいろ考えて見ていた」人よりそういう解釈行為をせずに、「映像を見ていた」人のほうが楽しめたのではないのだろうか。
だって「伏線」「テーマ性」」っていう言葉がでるのはそういうことでしょうから。ストーリーを"解釈"してしまうと、そういった言葉は出てくるんですよね。
そしてそこが不在だったり未回収だと(思ってしまう)ことで、不満が出てしまうんじゃないかと思います。
アニメ視聴も突き詰めると奥が深いんだなこれが。
参照→『反解釈』を読んで、作品を思想・文化に吸収せしめる批評がまったくもって要らない事がわかる
ちなみに『プラスティック・メモリーズ』に大きな不満を持っていた人も↑の問題と同じなんじゃないかな。
私はあの作品に全然不満がなくて、むしろ世間が抱いていた不満にびっくりした経緯がある。
あれは「ツカサとアイラの個別√の恋愛物語」なだけでしかないと思うんだけれど、何故かそこにギフティア世界を膨らませなかった不満が散見するのはうまく理解できなかった。
なぜそこをふくらませる必要があるのだろう?……これを明確に答えられる人はいるのだろうか。
これCharlotteと同じ雰囲気するなあ……。
おわり
とまあ、Charlotteの評判を見て驚いたお話でした。
レイシアさんのCharlotte感想が気になって仕方ないんですが、ど、どうでしたか!
Charlotte考察
アニメブログ&まとめサイトが過剰にやる考察ってただの「今後の展開予測」だよね?…
せっかくなのでアニメ『Charlotte』の作品対談をまとめちゃいます(19013文字)
考察記事はこちらから
Charlotteの感想記事
- アーティスト本人に会いたいくもならないし、会えたとしてもお断りだ
- ???。Charlotte第11話
- ■■が起こらない世界で。Charlotte第10話
- 世界を「聴く」ことははてしなく遠い。Charlotte第9話
- 音楽は言葉を超えるか。Charlotte第8話
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