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1)作品批判するときに大事なこと
作品批判するとき「やるべきではない」とされるものがある。その一つに自分が見たかった展開が起こらなかった、もしくは自分が期待していたものが最後まで描かれなかったというものである。
Charlotteならば「もっと能力者バトルが見たかった」「Happyendにして欲しかった」「倫理的に許せない場面が多い」「◯◯主義思想が描かれている為ここを和らげるシーンを挿入するべきだ」といったものだ。
それは結局のところ「俺が見たくない物語を見てしまった」「俺が見たい物語が見れなかった」という不満であり、自己を<主体>にした安易な規範批評にすぎない。あなたの為にあらゆる作品は制作されているわけじゃない。
これは私もついついやってしまうが、「あんまりよろしくない発言」だと自覚しているとよいと思う。自分が求めているものと作品が描こうとしているものを同一視してはいけない。
そしてその作品に向き合う気持ちがあるならば「作品が描きたかったことを汲み取り、それを踏まえた上で批判する」ことがしっかりとした批判であり、最良のダメ出しだと考える。
本記事はこの前提に基いて2015年に放映されたアニメ『Charlotte』を批判していきたい。私の内在的スタイルでどこまで出来るか疑問だがせっかく好きな作品でやるんだからハードルを挙げて挑む気持ちで取り組もうと思う。*1
1-1)筆者のKEYプレイ履歴
筆者はゲーム版『ONE~輝く季節へ~』『kanon』『AIR』『CLANNAD』『智代アフター』『リトルバスターズEX』『クドわふたー』『Rewrite』『Rewrite harvest festa』をプレイ済みであり、アニメ『Angel Beats!』、京アニKEY3作品を視聴済みのユーザーである*2
残念ながらまだ『MOON』『planetarian』『AB1st』はプレイできていない*3が、そういったぬるいKEYファンだ。
また『Charlotte』を「まとまりきった秀作」「綺麗に終わりすぎた作品」として位置づけており、もちろんこれは決して良い意味だけを含んだ評価ではないが人におすすめ出来る作品としては評価している。
つまり好意的に受け止めている作品を、批判しようとしているのが本記事なのだ。
参照→Charlotteがこんなにも文句言われるだなんてお姉さんびっくりだよ
なぜ筆者のプレイ履歴を開示したかというと、『Charlotte』を肯定的に捉えているというだけで「普段アニメを見ていない人の意見」「往年のKEY作品を知らないにわか」という無意味なコメントが来ると予想できるからだ。
(というか実際に来た)
2)Charlotteが描きたかったものは視聴者には届いていない
本記事では、以前書いた考察記事を大前提として考える。
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なのでまだ読んでいない方は、まず上記事を読んでから本記事を読み進めてもらいたい。
とはいえ読むの面倒という人のために一言で言うと
つまり『Charlotte』が描きたかったものは「奇跡が必要なかった世界で奇跡を使用してしまった乙坂有宇が"勇気"を手に入れて奇跡を否定するお話」である。少なくともそう仮定して話を続ける。
このため本作は『Angel Beats!』のような強いメッセージ性・テーマ性が感じられる作品だったと思うが、しかし多くの視聴者にそれは届かなかった。ここでいう「テーマ性」というのはじっくり読み込めば分かるといったものではなく、その作品を見た殆どの者が直接的に「感じ」られるもののを指している。
『Angel Beats!』が嫌いな人もいるとは思うが、それでもあの作品が「なにを突き付けていたか」は特別考えずともわかるでしょ? 「ABって何を描こうとしていたの」なんて思わないでしょ?*4
そういう強いテーマ性を『Charlotte』も帯びるはずだった。
しかし帯なかった。視聴者の中には「Charlotteとは何だったの」「テーマが希薄」「何をしたかったのか分からなかった」という意見も散見している。私も当初はテーマ性が不在な作品だと思っていた。
本作は「見せたいなにか」があるのではなく、友利奈緒ひきいる魅力的なキャラクターによる愛しさ、スピード感ある物語展開、美しい作品外形によってもたらされる視聴の「楽しさ」に主眼を置かれたものだと考えていた。
しかし違う。『Charlotte』が「奇跡の否定/勇気を手に入れる」という描きたいものが直感的に分かりやすく描けていたのなら大半の不満は吹っ飛んでいたはずだし、ここを描けていなかったからこそ賛否両論の真っ二つになってしまったのだろう。
残念ながら『Charlotte』が突きつけるはずだったものは、多くの人に届いていないのだ。
3)シャーロットを4パートに分割して何故届かなかったのか?を探る
Charlotteは4パートに分割できる。
①『ズルをする人々(1-5話)』
②『奇跡が起きない世界(6-9話)』
③『奇跡を使用してしまう者(10-12話)』
④『奇跡を否定し/勇気を手に入れる者(13話)』
『ズルをする人々』というのは1話の乙坂有宇の5秒入れ替わりカンニング魔から始まり、友利兄メジャーデビュー(2話)、念写アルバイト(2話)、念動力魔球(4話)、スカイハイ斉藤(5話)、友利リンチ事件(5話)のことであり、彼らは能力を使って何を為そうとし、その能力使用による報いを少なからず受ける1-5話までを『ズルをする人々』パートと呼んでいる。
1話は乙坂有宇が能力で得た名誉と恋人を失い友利にボコられる。2話は空気を振動させる力で様々な音を奏でた友利一希は科学者に見つかり施設収容から精神崩壊し、5話では友利奈緒が秘匿の能力を使ったツケがリンチという形で支払われ彼女が生徒会長でありながらも「周囲から浮いている」理由を迂遠に表現した。
でもこれは"見返せば"わかるものであり、初見では「能力使用=不幸の図式」は視聴者には与えられていない。あくまでも「それやったらそうなるよね」「ヘタすると科学者に見つかって施設送り廃人コースになる世界なわけね」としか思われない。
この視点で他の能力者も見てみると、弓道有働は友利が引き起こした学校での騒ぎによって念写アルバイトをしてたことが知れ渡りみんなから謗りを受けた可能性はあるかもしれない。 ピッ チャー福山は乙坂の略奪によって念動力の力を失っているので甲子園行きは夢に終わり有能から凡俗なピッチャーになり今までの周囲の期待の重圧に苦しんでいるかもしれない。スカイハイ斉藤はハリウッドスターの夢が潰えたことで、夢を失った苦しみを感じているかもしれない。
全てはそういった可能性の「余地」だけはあるが蓋然性は無い。劇中で彼らの「その後の様子」を描かれることもなく、またその後を「想像」させる要素も見せなかった。
そうなるとこの『ズルをする人々』パートは、ただの『能力者を探して問題解決』パート"だけ"にしか見えなくなってしまう。おそらく有宇・友利奈緒・友利一希といったキーパーソンと他の能力者で「能力使用=不幸の図式」を描きつつ、表面上は『能力者を探して問題解決』パートに偽装させたかったのかもしれないが、その試みは上手くいかなかったと思う。
これがとても痛い。
このパートで「ズルをしたら代価を支払う」ことをもっと描いた方が良かった。先述したように他の能力者のその後の様子が少しでもあったら、視聴者は「能力を使うと不幸な目にあうのかも……」と共通理解を得られるからだ。
6人の能力者の「能力を使い何かを為す→後に何か支払う」描写がキッチリあったら、10話で乙坂有宇がタイムリープを使った時に視聴者は「乙坂!!それは使っちゃだめなやつだ!!」と思える。
タイムリープは幸福を呼び込んでくれるもののように一見思えるかもしれないが、そうではない可能性もまた「ズルをする人々(1-5話)」で示唆する必要があったと思う。
すると④の「奇跡を否定し/勇気を手に入れる(13話)」パートが生きてくる。最終話の「ズル(=タイムリープ)はいらない、僕に必要なのは勇気だ」という有宇の決断がより視聴者に伝わっていたんじゃないだろうか。
つまり、ここの①「ズルをする人々」の能力使用による代価の支払いがしっかり伝えられていないから、後の③-④パートの連結がスムーズにいかなくなるのだ。
③の「奇跡を使用する者(9-12話)」で隼翼と有宇に起こる不幸の数々が「ズルをした代価」だということを視聴者は汲み取れていないと、13話で有宇がタイムリープを否定する感動がイマイチになってしまうし、「勇気」の能力を手に入れる部分もよく意味がわからなくなってしまう。
逆に②の「奇跡が起きない世界(6-9話)」パートはちゃんと描けていた。ここは製作陣は誇っていい。有宇が歩未を失った悲しみ、でも現実でその悲しみを拭えない損失感、不条理な現実を受入れて立ち直る有宇をたった3話で見事に描いてしまったのは見事である。
ここの奇跡を必要としなかった乙坂有宇を描けるからこそ、次のパートの奇跡を使用する有宇に対して視聴者が「え、時間跳躍使っていいのかな?……あの日苦しんだ有宇はなくなっちゃうぞ……」とか「この能力で支払われる代価はとんでもないものなんじゃないか?」と思えるからだ。
有宇の意気揚々とした10話の顔、そして視聴者が知っている「ズルをすることで代価が支払われる」ことの不安感。不幸な結末の可能性の増大。でも上手くいくんじゃないか?という希望。
そういった劇中の人物と視聴者の気持ちの"ズレ"による昂奮が10話でなされるはずだったんじゃないか。
けれども「能力を使う=不幸」の図式がうまく視聴者に組み込めていなかったからこそ、②「奇跡が起きない世界」パートが宙ぶらりんになってしまった。
中にはこの②「奇跡が起きない世界」パートを要らない回だったとし、不満を掲げる者もいる。このパートが『Charlotte』においてとてもキモであり、心臓の部分に相違ないのだがそこを分からなかった視聴者が少なからずいる事実は押さえておいたほうがいいのかもしれない。
そして大半の視聴者は10話の有宇の時間跳躍による選択を「良い」ものとして見てしまった。確かに昂奮がピークになる展開だし、もちろん昂奮してはいいのだけど、一抹の不安を抱えさせていなければならなかったように思える。
この10話に視聴者が有宇の時間跳躍によって不安を覚え、そして後の13話で時間跳躍を否定する必要性をしっかり認識できるかが、『Charlotte』が賛否両論になるかの分岐点だったんじゃなかろうか。
もしも次の11話で時間跳躍を使った有宇、弟に時間跳躍を使えと言った隼翼に訪れる不幸の数々を見て視聴者が「……やっぱズルはしちゃだめなのかorz」と思えなかったとしたら、やはり①パートの描き方が弱かった。
熊耳の死や有宇の右目失明は唐突な不幸と見てしまってはダメなのだが……、殆どの人は単なる不幸の産物、突然の不条理としか考えられなかったと思うんだけどどうだろうか。
◆
さらに13話の「勇気」のシーンはあれだけじゃ絶対に何がやりたいのか初見じゃ分からないので最低でも二回、できるなら三回は劇中内で繰り返し てほしい。
「勇気」という言葉を繰り返すのではなく、何故有宇にとって最後の能力は勇気なのか? ズルをしてきた乙坂有宇に必要なものは何なのか? そういったシーンを「最後の能力は勇気だったか」の前に見せることが出来るととても良かったと思う。
ここの④「奇跡を否定し/勇気を手に入れる」パートをちゃんと描くことができれば、勇気と時間跳躍の関連が観てて分かりやすくなるし、「そうか乙坂有宇に必要なのは過去に戻ることではなく今の世界を受け入れる事なんだな」と視聴者の納得感も高まる。
13話の「そうか最後の能力は勇気だったのか―――」という乙坂有宇のワンシーンだけでは(いやグッときましたけどね)、グッとくるだけで何がなんだか分からない人が多くなる。
13話が難しいのは「友利との約束の遂行」と「勇気」が同時進行しているせいで――両者は密接に繋がっているものの――それが視聴者には「別々のもの」に見えてしまって(あるいはどちらか片方認識されず)最終話は何がなされているのか分からなくなっている印象がある。
だからこの2つの要素が強く結びていることを、繰り返し描写するとよいのではないだろうか。
例えば有宇が右目を直すシーンの時あそこの村で「治すか/治さないか」を決断してしまうのではなくその決断をずるずると先延ばしした後(この過程で乙坂有宇に何故勇気が必要なのかのシーンを挿入しつつ)、最後には「勇気」の能力を手に入れて、有宇が再度「右目を直す」かどうか悩み選択する描写を挟むとより「勇気-約束-奇跡否定」の関連性が強くなると思うのだが……どうかな。
これなら彼が「友利奈緒と約束したこの世界で生きる」ことの必要性も俄然把握しやすくなるのではないだろうか。
◆
ありきたりな結論になるが、もう完全に「尺」である。尺の問題でしかなくて、アニメという1話24分×13話でやるのは困難な作品だったんだろう。
この視点でみるとどの回も削れないし、むしろ話数を増やすしかない。増やして良くなるパターンの作品。
しかし2クールにすると今度はダレてきてしまう予感がするので、①「ズルをする人々」パートを更に1時間、④「奇跡を否定し/勇気を手に入れる」パートを一時間増やすことができれば―――「能力使用=不幸」の図式の強化・「勇気」の題材を複数に渡って演出する事が可能だったならば――かなりいい塩梅のアニメ化になったのではないだろうか。
つまり17話分の時間を持ったアニメ化ができていたら、『Charlotte』は現在沸き起こっている大半の不満をふっ飛ばし多くの感動を視聴者に与えられた作品になっていたと思う。
本作が好きな人はもっと好きになっていた可能性が十分にある内容になっていたとすら思う。
Charlotteが「ダイジェストになってしまってる」「ノベルゲームという実質時間無制限だったのならば名作になっていたはず」っていう意見が散見するのもこのためだろう。
そういう意味でとても惜しい作品なのだ。
4)アニメでCharlotteを展開するならば
それでもだ。
13話という時間制限があるアニメ媒体で展開するならば、何かを削って①④パートの強化に時間を注がなきゃいけない。
サラ・シェーンは、乙坂有宇の前世界の記憶を呼び起こす"TRIGGER"としての役割、偶発的に起きる奇跡と自発的に起こす《奇跡》の対比、「人生は一度切りだぜ」という示唆としての存在が大きいので削れないと思う。さらに彼女の「歌」は劇中を華やかにする大きな要素を持っているので余計削る訳にはいかない。
ならばもう西森姉妹を削るしかない…。
西森美砂は私は大好きだけど(本当に大好きだけど)、この観点でいうならばバッサリ削ってしまうしかない……と思う……。ハロハロ-柚咲/美砂の要素を削ることで得た時間を「能力使用=不幸」の図式と、「勇気-約束」による関係図に当てはめればいい。
少なくとも1話分の時間は絶対手に入る。
柚咲/美砂がいなくなったら高城の愉快な掛け合いもまたなくなってしまうが……そこはまあ仕方ない。もういっそのこと高城も削ってしまい(私が好きなキャラがどんどんいなくなるな!)友利と乙坂の関係強化に当てはめてやればいい……。
そうすれば友利と乙坂の関係も深くなるし、最終話の約束の遂行の納得感もより高められるだろう……。(苦渋の決断)
友利と乙坂二人だけの生徒会、二人だけで能力者探し→解決、そういった二人の強い繋がりも見せられるかもしれない。これなら今までより二人のラブラブ感も出せそうだし良いんじゃないか涙
5)整理すると、私の『Charlotte』批判は以下のとおりだ
・Charlotteの描きたいことは「奇跡が必要なかった世界で奇跡を使用してしまった乙坂有宇が"勇気"を手に入れて奇跡を否定するお話」である。しかしそれを描こうとしているものの、描き切れなかった。
・①「ズルをする人々(1-5話)」パートで「能力使用=不幸」の図式を視聴者に組み込む必要があった。しかし実情は組み込めなかった為に②「奇跡が起きない世界」パートは宙ぶらりんになり③「奇跡を使用する者」パートで起こる不幸は唐突に映り、④「奇跡を否定し/勇気を手にする」パートはどういうお話なのか不明瞭になってしまった。
・乙坂有宇が13話で「勇気」を手にする必要性と大切さを、その前の過程で描けていないからこそ視聴者は「勇気-奇跡の否定」の関連付けに失敗してしまうし最終話は何がしたかったのかよく分からなくなる。
・ つまり①パートの「能力使用=不幸図式」と④パートの「勇気-約束」の関係図を強化改善できれば「ズルをする人々」→「奇跡は必要ない世界で」→「奇跡使っちゃったぜ」→「奇跡の代価の支払い」→「奇跡の否定」→「必要なのは奇跡ではなく、勇気だ」というふうにCharlotteが描きたかったものが シームレスに繋がっていき、視聴者により伝わる作品になっていたと思う。
・しかし劇中の全ての要素を包括した上で、前述したパート改善は圧倒的に尺が足りない。ノベルゲームならいざ知らずアニメ媒体で展開するならば何かを削るしかなく、苦渋の選択だが「西森姉妹-高城」を削って得た時間を必要なパートに割り当てるしかないと思う。
・これならば「ダイジェスト感」「駆け足」といった本作の不満は大きく減退するだろうし、『Charlotte』が突き付けたかった「奇跡の否定/勇気を手に入れる」ことがクリアーになるのではないだろうか。
おわり
さて私の『Charlotte』批判は以上である。この批判が的を射ているかは分からないが、それは読者の方々の判断にお任せしよう。よければこの批判以上にさらなる批判を加えていって欲しいなと思う。
◆
ちなみに『Charlotte』の世間的評価は以下の通りだ。
私が観測できる限りだと4サイトによる有志アンケートランキングでは1位、1位、10位、1位を飾り*5、2014年10月から2015年9月までの約一年間に放送・上映されたアニメ作品を対象にアニメファンからの投票で決定される「ニュータイプアニメアワード2014-2015」*6では9位を受賞し、アニメBD/DVDセールス初動では約7000枚と売り上げている事実があり、本作は目に見える形では賛否両論に見えるが世間的には好印象ということなのだろうか。どうなのか。
◆
そして『Charlotte』が好きな人は好きのままでいいと思いますし、誰かの批判によって(もしくはこの記事の批判によって)わざわざ自分の気持ちを変える必要はないです。絶対に。
ただ悪かった点に思い当たれば、ごまかしたりするのではなくそこはキッチリと指定しつつ「でもシャーロットの良い所はこんなにあるんだぜ!」というふうに本作を言及し広めていけばいいのかなと私は思います。
シャーロットを楽しめた人は楽しめたことを誇っていいと思いますし(楽めない人より楽しめた方が得ですもの!)、この機会に別のKEY作品に手を付けてもらえればぬるい鍵ファンとしては嬉しい限りです。
手始めにアニメ化された『リトルバスターズ』、または次アニメ化される『Rewrite』なんて取っ付き易くて良いんじゃないでしょうか。どっちも最高に面白いです。
―――てな感じで、Charlotte肯定派からの批判でした。誰かのお役に立てたのならば幸いです。
おまけ
『Charlotte』は一見Happyendに見えそうなんですけど、そうじゃないんですよね。恐らく有宇はあの後本当にボロボロの人生を歩むことになるはずですし、世界中から狙われ安息の日々なんてきっと訪れません。
でもだからこそその凄惨な人生が待ち受けている世界を歩む・この世界を彼が受入れた事実は胸を打つものがあるんじゃないでしょうか。
実質BADENDだけれど、しかし乙坂有宇率いる彼らは決してそう思っていない。だからこそラストはあんなにも幸福感に見ているんじゃないのかなと思います。誰もあそこから続くであろう未来に絶望していない、そんなENDだったと私は考えてるんですね。
という感じで、そろそろ私が本作に関わるのも一区切りできましたし、言いたいことは上述したとおり言いまくりました。
ここまで読んでくれた方有難うございました。気に入ってくれたら他の記事も読んでみてください。ではでは。
ノシ
シャーロット・関連記事
*2:他にプレイしたギャルゲー作品はこちら→http://eroge-pc.hatenablog.jp/entry/2013/07/07/172538
*3:さらに言うとアニメ版ONE、東アニ版kanon、東アニ版AIrも見れていない
*4:ここに議論の余地はないのだがもしAngel Beats!が何を見せたかったのかが分からない人はこの記事をそっと閉じて欲しい。何も見えていない視聴者に付き合うほど私はできていない
*5:ttp://ranking.goo.ne.jp/ranking/category/026/vote_260/
ttp://yusaani.com/animation/2015/10/10/203004/
ttp://subculwalker.com/archives/20477/
ttps://akiba-souken.com/article/25057/