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『反解釈』を読んで、作品を思想・文化に吸収せしめる批評がまったくもって要らない事がわかる

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そして、作品から無限の意味を引き出す「解釈」さえも―――

 

いま断じて必要でないこと、それはこれ以上さらに「芸術」を「思想」に吸収せしめること、あるいは(こちらのほうがもっと始末がわるい)「芸術」を「文化」に吸収せしめることである。
――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p25

 

われわれの仕事は、芸術作品のなかに最大限の内容を見つけだすことではない、ましてすでにそこにある以上の内容を作品からしぼり出すことではない。われわれのなすべきことは、"もの"を見ることができるように、内容を切りつめることである。
――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p25

 

われわれが、『楽園損失』を読んで満足を感じるのは、この作品に神や人間についての見解があるからではなく、詩の形をとったすぐれたエネルギー、生命力、ゆたかな表現力があるからである。
――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p33

 

すぐれた芸術作品はただ単に観念ないし道徳的感情を伝える道具ではない。いやそれどころか、それは主要なあり方でさえもない。芸術作品とは、何よりもまず、われわれの意識と感性を変革するものであり、ありとあらゆる観念や感情をははぐくむ腐植土の組成をたとえ僅かにもせよ変えるものである。
――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p331

 

もしも芸術が、感情を鍛える一つの形式として、そして感覚をプログラム化するものとして、理解されるならば、その時、ラウシェンバーグの絵が発散する感情(あるいは感覚)は、シュープリームズの歌が発散するものと同じになるかも知れない。(中略)あるいはディオンヌ・ウォーウィックの歌唱スタイルは、複雑で楽しいものとして観賞できる。それらは鑑賞者がわざと低級ぶったりすることなしに、体験されるのである。
――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p335

 

まずはじめに言っておくべきことは、これはとてもいい本だったということだ。

著者スー ザン・ソンタグ1933年ニューヨークで生まれ後にハーヴァード大学院で修士号を取るほどの才女である。61年に雑誌に評論を発表し一部から注目を集め、63年には小説『恩人』を発表、66年にそれまでの評論を集めた本書『反解釈』が刊行したことで批評家ソンタグの位置を決定的に確立したとのことだ。

そんなソンタグが『反解釈』で言っているのは、「芸術を思想・文化に落とし込むな」「解釈するな」「もっと芸術作品を"見て""聞いて""感じろ"」である。

いわゆる作品を社会背景が生み出したものとして見る「マルクス主義批評」、作者の無意識的欲望を精神分析で表そうとする「フロイト主義批評」を出しゃばりで抑圧的なものと表現する。この気持ちはよくわかる。さらに本書では名指しこそされていないが作者はこう言っているに違いないとする作家主義、作品を自律的なものとみなす新批評も射程に入っていると思われる。

上述した批評にいらついたり、ムカムカしていたり、そうじゃねーだろと長年思ってた人は『反解釈』は特に一読する価値があるだろう。もちろんそうじゃない人も読む価値が充分にあると思う。

面白いのが本書を読んだ人の感想を漁ってみると結構多くの人が彼女の主張に同意していることだ。これまで芸術作品を思想・文化に吸収せしめていたとしても「その通りだよなあ…」と納得せしめてしまう論理立てた言葉がそこにはあるからだろう。あるいは心のどこかでは自分がやっていることが間違いだと薄々気づいていたのかもしれない。

ある界隈で以下のような発言があり、話題になったことがあったらしいが、これもまたそういった批評の苛立ちを十分表していると思う。私はこの時SNS自体やっていなかったので伝聞でしかないのだが言いたいことはわかるつもりだ。

"単純な物事をさぞ難解なようにしたてあけでわざわざ批評するのってバカバカしくないですか?エ口ゲ批評の大概がそれな気がするんですよね。もともと批評する余地なんてないのに、わざと小難しく絡めてグチャグチャにした上でしたり顔で語る。だから長ったらしいエ口ゲ批評って大っきらい"

 この発言を受けて「私から批評行為(ペーパーナイフ)を取り上げないで!!!」と過敏に反論している人がいたそうだが、論点はそこではない。

これは「批評行為」を否定しているのではなく、「社会的コンテストに絡める(作品とは関係ない要素を持ち込む)批評」が嫌いだと宣言しているだけじゃないのか。

外在的文脈を主にした批評が多くの人に嫌われるのは、「芸術作品がただ"それそのもの"であることを否定している」ことへの怒りだ。そのペーパーナイフは捨てなくても良いが、唾棄されるべきものだと理解した方がいい。

そして例え作品に即している"作品考察"さえも嫌う人の気持ちもこれと同じに違いない。きっと "小難しい絡めてグチャグチャに語るerg批評" が嫌いな上のような方にこそ、『反解釈』は大いに得るものがあると思うので是非読んで欲しいなと思う。

 

現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがままに放っておきたがらない俗物根性にすぎないことがわかる。

本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力をもっている。だから、芸術作品をその内容に切りつめた上で、"それ"を解釈することによって、ひとは芸術作品を飼い慣らす。解釈は芸術を手に追えるもの、気安いものにする。

――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p18

 

そしてソンタグは解釈を否定しているので(例え作品に即している解釈だとしても)その中に入るだろう。私としても、ここまで痛烈に切り込まれ納得ある説明をされてしまえば「その通りだ」としか思えなくなっている。いや、そうじゃないな、私はもうずいぶんと前からその事を知っていたので、ようやく「突きつけてくれる人がきたか」という思いでいっぱいだ。(後述する)

解釈を否定するとなるとじゃあ批評全てをソンタグは否定しているように聞こえるかもしれないが、そうではなく、彼女は <作品の外形を真に正確に、鋭く、共感をこめて描写する> <内容への考察を形式への考察のなかに溶解せしめる> <あるものがまさにそのものであるということ> への批評は肯定し理想としている。

だが私からすれば正直、『言葉』にして作品を語った時点でどんぐりの背比べに過ぎないとは思う。『反解釈』のラディカルな意見は「外形を鋭く描写」することも同様に否定して欲しいところである。

本書では彼女が目指した批評がいくつか収録されているので興味ある人は是非に。ちなみに私が読んだのは竹内書店のものだが、今購入するならちくま文庫のほうがいいのかもしれない。表紙綺麗ですし。

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

 
反解釈 (1971年) (AL選書)

反解釈 (1971年) (AL選書)

 

 

 

個人的なこれまでの批評への流れ(8258文字)

 私の2008年以前の作品の接し方は、「ただ読む」「気に入った言葉を蒐集する」だけのものだった。

そこから2010年には作品を圧縮する語り(再生批評の原型)にとりかかってみたりしたが、それでも「解釈」という行為は全くしていなかったと思う。

つまり「このシーンはこれを意味する」「この作品はこういうものだ」ということを(今よりは)考えたことが無く、基本的には読んで読んで読んでを繰り返し、気に入ったシーンに共感を込めながらあらすじをメモパッドに書き綴る。物語をそれそのものまま書きまとめ上げる。それだけだった。

→参照:私が4年間書いてきた「エロゲ感想」の移り変わりと作り方のまとめ(9863文字)

 2011年。ここから少しづつ変化していく。

この頃にはFC2ブログを開設し作品の保存方法を模索し始めていった。この時期からプレイしたゲームの内容を忘れてしまうことに私自身耐えられなくなってきていて、『恋する乙女と守護の楯』のあらゆるストーリーを忘却していたこと、『彼女たちの流儀』では好きなシーンしか覚えていられなかった事がその気持ちに拍車をかけていたと思う

プレイした作品を保存できれば。忘却してもそれを見れば思い出せるようにしたいと。

 

そこでまずやってみたのは「レビュー」という方法だった。ネットに散見するレビュー記事を参考にし、作品を機能毎に分解し点数をつけ評価し、まだ見ぬ読者に紹介していくアレだ。

しかしこの方法は作品を「外在視点」で言及することを強いるものであり、「ライターガー」「メーカーガー」「声優ガー」「音楽ガー」と言及するのは作品を実用品として扱うことであり肌に合わなかった。

私が求めていたのは「内在視点」で作品を書くことであり、それを文字として残すことだと知った。つまり作品の内実に眼を向け、作品に即し、作品に奉仕する語りをしたかったのだ。

そしてこの過程で「この作品は◯◯だった」と言い表す方法を知ることになる。手探りで当該作品の◯◯という(自分にとっての)答えを探すことは、面白く、また忘却を防ぐ手立てだと考えるようになった。

 

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 読者と作品の関係は、アーチャーと衛宮士郎の剣戟と、どこか似ている。


Angel Beats!は人生賛歌」「まどか☆マギカは祈りの物語」というふうに、一言で物語を集約することは記憶のフックにもなる。また作品を一言で言い表すために読解した何十時間という過程はより記憶の定着に繋がった。

今まではエンディングを迎えれば物語は終了するものだと思っていたけれど、しかし実は物語はプレイ後もまた楽しめるのである。

感想を書き、深く潜り込むように読解し、はたまた(作品に則した)考察や作品論を書き連ねるのは別の面白さがあるのだとさえ。

 

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同時に、作品外の要素で語るものに苛立ちを覚えはじめてもいた。社会、時代、文化、作家論、他作品との比較―――おおよそその作品(それ以上に狭まった《物語そのもの》)を愛するファンからすれば無関係と言えるものを無理やりにつなげた作品とその外在的文脈(とでも呼べるものの)との主従関係が逆転した語りを受け入れることは無理だろう。特に作者の人格・思想を=作品と結びつける批評には腸が煮えくり返る。

「作品それ自体」で何かしらの意見を表明することが難しいのはよく分かる。が、やはりそれは唾棄すべきものだろう。(私も時に面倒くさかったり適当に書こうとすると上述した事を犯しがちになるため余計に)

 

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2014年12月。

この頃になるとだんだんとergの記事をあまり投稿しなくなっていった。今まではプレイしたらすぐ記事を書いていたが、記事にする過程でergを一言で言い表すことは好ましくないと思い始めてきたのである。

というのも、物語というのは言葉で言い表せないからこそ物語であり、それを言葉にしてみたところで結局は(どんなに文字数を割こうが)それは物語のある一面を切り取ったにすぎない。

もちろん以前からもこのことは頭には留めておいてあったし意識していたが、段々と「物語をワンワードに落としこんでしまう」のは果たして私の為になるのか?という疑問が渦巻きはじめてきた。

莫大な情報量と輝きをもった物語を、そんなふうに手元に置けるようにしてしまっていいんだろうか? 本当はなにもせず、何も考えず、それそのものを、そのまま体験するべきであるのではないか?

簡単に言おう。

物語は理解するものでも考察するものでもないということだ。理解できなくてもいいし、分からなくてもいい、ただその与えられた「体験」こそを十分に感覚することこそが大事だということだ。

私はオーバーライドの記事でそういうことをずいぶん前から言っているし、当該記事を投稿する前からある種の「物語体験に関する自分の答え」は既に持っていたので、余計にそう感じてしまう。

 

物語は人生をぶっ壊し『オーバーライド』する力がある。Fateは文学CLANNADは人生って言いたくなるのもこの体験があるからこそ

 

読解や批評といった<プレイ後>ではなく、私たちは<プレイ>そのものに目を向けるべきだし、その一瞬の体験をよりよく感じることこそが肝要であるという考え方が具体的になってきたのである。

それはこのブログをはじめて感想を書き連ねるよりも前から、ただただ<プレイ>に全力で望み、挑み、その快楽を享受してきたからこそ納得感はひときわにあり、そんな思いを燻らせたところに『反解釈』は私のそういった疑問を「その通りだな」と突きつけるものであった。

 

 芸術作品を現実を描いた絵として考えるにせよ、または芸術家の表現ないし告白として考えるにせよ、いつも内容が優先することには変わりはないのだ。

内容は昔とは変わったかもしれない。もっと具象的でなくなったし、一目瞭然たるリアリズムではなくなったであろう。

しかしいぜんとして、芸術作品とはすなわち内容のことだという前提には変わりはない。あるいは、近頃の言い方で言えば、芸術作品とは本来何かを"言っている"ものだというのが大前提なのだ(「X氏が言っているのは……」「X氏が言わんとしているのは……」「X氏が言ったことは……」などなど)

――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p14

 

先述したが2012年以前の私は、物語の「内容」について語ることはあまりなかった。ただただその《物語そのもの》について感動していたし、形式や外形を見据えていたと思う。

けれどブログを始めるようになり、その物語の「内容」ばかりに気を取られるようになるのは、ストーリーというのは語りやすいことが挙げられるだろう。演出・表現技巧に言及するためにはある程度の知識がないと出来ないが、ストーリーであれば敷居が低く初心者でも語ることができるからだ。あるいはそう思わせてしまう何かが在る。もちろんその練度は置いておくとしてね。

さらに言えば、周囲の批評者が物語内容の意味について言及している状況が多かったからこそ、私もまた同じようにそういう批評をしてみようと思えたのだ。様式・形式について言及する者は少なく、内容について言及するものは9割くらいという印象だ。そんなある種の土壌が(少なくともサブカル界隈)にはある。

以前どこかのweb記事で山本寛が「物語に言及するものは多いが、アニメーションの演出や描写に注目する視聴者があまりにも少ない」とようなことを言って嘆いていた。

私は「演出に注目することってそんなに大事かな?」と思っていたが、今振り返ってみればなるほど物語の外形について言及することは内容への言及より大事だろうと思える。そして、彼が欲しているのはそんな外形への考察を視聴者がすることなのかもしれない。

 

多くの芸術分野における現実の傾向は、作品をまず内容として捉えようとする考え方から遠ざかりつつあると見えるが、しかし、その考え方ははいぜんとして法外な力をふるっている。

これはおそらく、ある種の作品享受の仕方がこんにち芸術をまじめに考えようとする人々にすっかりしみこんでいて、内容重視の考え方はそこに根をおろしているのだと、わたしは思う。

内容を極度に重くみる結果何が生じるかといえば、それは"解釈"という試み――絶えることのない、そして決して成就することのないあの企画である。これを逆に言っても同じである。すなわち、芸術作品を”解釈"しようとしてこれに近づく習癖があるからこそ、作品の内容などというものが存在するという幻想が保たれるのだ。


――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p15

 
ソンタグが『反解釈』をかき揚げ、ラディカルな批判を突きつけてすでに40年以上経っているが、未だに内容重視の考え方は消え去っていないどころか、こちらでも大いに力を振るっているように感じる。

アニメ・ギャルゲー読者が求めているのはその外形・形式よりは、内容への考察だろう。だから批評を求める読者に呼応するように提供される批評もまた内容についてのものが多い。もちろん中には形式に言及するものもいるが、数で言えばかなり少ない。

結局大衆が求めているのは、「作品を感受するもの」としてではなく「作品とは何か」なんじゃないか。

内容の考察――つまり「解釈」を私自身は一方的に否定するわけではない。言葉とはそういうメタ的な力を持つものであり、意味がズレていくことに楽しさがあり、また絶対的な答えがないからこそ万人に万人のための物語が存在するという愉悦をもたらすのだから。それはもう現代では目新しくなくなった過去作を再構成し、価値の復興を成し遂げる手段ともなりえる。

けれど「解釈」という行為は自分の裡の中にある大事なものを失わせる何か……だということを実感として経験としてすでに分かっているので手放しに歓迎するつもりもない。

 

現代はまさしくそういう時代、解釈の試みが主として反動的、抑圧的に作用する時代である。都市の大気を汚染する自動車の排気ガスや重工業の排煙と同様、芸術に対する解釈の横行がわたしたちの感受性を毒している。

肉体的活力と感覚的能力の犠牲において知性が過大に肥大する、(後略)
 ――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p18(太字は引用者がつけた)

 

解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。

そしてその目的は、さまざまな「意味」によって成り立つ影の世界を打ち立てることだ。世界"そのもの"を"この"世界に変ずることだ(「この世界」だと! あたかもほかにも世界があるかのように)

世界そのもの、われわれの世界が、すでに充分すぎるくらいに萎縮して、貧困化しているのだ。それをさらに複製した代物などは、われわれはいっさいご免こうむらなければならぬ、そして再びわれわれのもっているものをもっと直接的に経験するようにならなければならないのだ。

――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p18(太字は引用者がつけた)

 


だからこそソンタグは、もっと"聞いて""見て""感じろ"と繰り返す。私たちに必要なのは――解釈をすることでも、誰かの解釈を聞くことでもなく――もっともっと芸術作品の触れてその様式を経験することだと。

"いま重要なのはわれわれの感覚を取り戻すことだ。われわれはもっと多くを"見"、もっと多くを"聞き"、もっと多くを"感じる"ようにならなければならない。"

自転車に乗れるようになるには、乗り方を説明してもらうのではなく乗り続けることだ。例え失敗しても何度も挑戦することでやがてはスイスイと自由に乗ることができるようになる。

芸術作品もまた同じで、解釈し解説してもらうのでもなく、より多くの芸術に触れ続けることで、その直接的な体験を味わうことなのだろう。そして高度な芸術作品もさまざまな芸術体験の末に良さがわかるものなんだろうなと思う。

だからこそ、「読み方」なんてものは必要無い。以前↓の記事でも言ったが、物語の読み方なんてものを知らなくても十全に楽しめるし、なによりその「読み方」を複数知ったところで物語の体験が変わるわけではない。

あくまでもほんのすこし悦が増すというだけで、一番重要視しなくてはいけないのはその芸術作品の"感じ"方そのものだ。どうすればより感受する経験値を溜められるか、より感じられるかのほうがよほど肝要なのだと思える。

「読み方」が好きなのっていわゆる「引き出し型」の人だけなんだよ………うんざりだ……。やはり私には積極的には要らんのだよなーと思う。

 

 そういえば、物語の「読み方」を教えてもらったことってないなって

「このアニメ展開もう見飽きたよ」という知識の非可逆性を乗り越えるためにできること

 

それに「深読み(=解釈)」っていうのは一種の敗北宣言なのである。

物語が表現したものにその読者がちゃんと反応できなく、感動することができなかったが為に本文を掘り返し、掘り返しては破壊し、その失われた経験を埋めようとしているのが深読みなのだからだ。

うみねこのなく頃に』を深読しようとも、うみねこのなく頃に』が表現したあのとんでもないエネルギーの直接性を感じることが出来なかったのであればそれはただただ不幸な事実でしかない。

それはうみねこに限らず『Air』や『Rewrite』『ギャングスタ・リパブリカ』も同様で、当該作の意味や裏背景に隠されたものを見つけ出すことよりも、体験それこそが大事なのである。

だから私が思うのは、物語は理解できなくていいということだ。とても高度でさっぱり何を"意味"しているのか分からない物語に出会ったとしても「なるほど、わからん」と呟いておけばいい。無理して分からろうとしなくていいし隠された意味を探そうとしなくていい。

ただなによりもその物語を読むことで生まれる「経験」に鋭敏でさえあればいいと思う。まさしく、よく聞いて、よく見て、よく感じろ。ということだ。

 

わたしが言おうとしているのは、芸術作品は完全に自己完結的世界をつくりあげているということではない。もちろん芸術作品は(音楽を重要な例外として)、現実の世界――われわれの知識、経験、価値――とかかわりをもっている。

それは情報や評価を提供するが、そのはっきりした特色は概念的知識(これは、哲学、社会学、心理学、歴史のような論述的ないし科学的知識の特色である)を生じさせるのではなく、昂奮とか、囚われてがんじがらめにされて参加したり判断したりする現状に似たものを生じさせる。

つまる、芸術を通してわれわれが手に入れる知識は、(:事実とか倫理的判断のような)何かについての知識自体よりも、何かを知ることの形式あるいは様式についてのひとつの経験なのだ。
 
 ――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p33 (太字は私がつけた)

 

また、『沈黙』において人気のない夜の町を轟然たる音を立てて進む戦車は、イングマール・ベルイマンの心づもりでは、男根的象徴だったのかもしれない。しかしもし本当にそのつもりだったとしたら、愚かな計算である(「語りてを信用するな、物語を信用せよ」とロレンスは言った)。

ひとつの荒々しい物体として、ホテルの内部で進行している不可解な唐突ないかめしいできごとの直接的な感覚的対応物として、これを受け止めるなら、この戦車の場面は全編中最も驚くべき瞬間にほかならない。戦車のフロイト的解釈を探す人は、要するに、スクリーンの上にまのあたりに存在するところのものに対して自分が充分に反応しそこなったことを白状しているにすぎない。


――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p20

 

芸術作品をひとつの発言として、質問に対する回答とみなすことも"可能"である。最も初歩的な段階では、ゴヤウェリントン公爵肖像画は、ウェリントン公爵はどんな容姿風貌をしていたかという質問に対する回答である。(中略)批評の理論ではこの考えはきわめて古い。少なくともディドロ以降、あらゆる領域の批評の伝統の手中は生きうつしだの、道徳的な正しさだのという一見まちまちの基準に訴えていても、その実、芸術作品を"芸術作品の形式のなかに溶けこませた発言"としてあつかっている。

芸術作品をこんな具合にあつかうのはまったく的はずれというわけではないが、しかし、これは明らかに芸術を思想史の研究や、現代文化の診断や、社会的な連帯の形式といったような用途のために用いることになる。

こういったあつかい方は、ある程度の素養と美的な感受性をそなえた人が芸術作品を正しく見るときに、彼の内部に起こることとはほとんど無縁である。芸術作品として出会った芸術作品はひとつの経験であり、発言とか、質問に対する回答などではない。芸術は何かについて述べるものではない。それ自体が何かなのである。

芸術作品は世界の"なか"のあるものであり、世界に"ついて"のテキストや注釈であるだけではない。

 


――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p32-33

 

 
でもソンタグはもうそんな純だった頃には戻れないよね、どうしても私たちは解釈せしめてしまうよねとは言う。

 

 あらゆる理論の前にあった無垢――芸術が自己を正当化する必要を知らなかった頃のあの無垢、芸術作品が何を人に対して"なす"かを知っていた(あるいは知っているつもりだった)ので、それが何を"言っているか"を問うまでもなかった頃の無垢――を取り戻すことは、もはや誰にもできない。

こうなったらもう意識の失せる日まで、われわれは芸術を弁護するという仕事から逃れることはできない。

――『反解釈』S・ソンタグ.竹内書店.p14-15

 

私はそんなことないんじゃないかなとは思う。個人の認知優位や感受のあり方によっても変わってくるとは思うが、"何も問わず"その作品の直接性を浴びるようにプレイできることがあるので(いつもではないのだが)そこまで悲観的にならなくてもとも。

とはいえソンタグ自身、映像表現が主体の映画という媒体には可能性を感じているようで、すぐれている映画ならば完全に解釈の欲求から解放してくれるとのことだ。

そして、あまりにもこの「感覚重視」に行き着くと市場が腐りかねないので(音楽を聴くように物語を読むことは良いことではある、がやはり行き過ぎると今の音楽市場のようになってしまうのであれば)作品の新視点を開拓し、読者の評価の目を鍛えさせる評論物や批評はあったほうがいいだろう。バランスなのだと思う。

今まで繰り返してきたが、改めて明確にしておくと、私は『反解釈』を採用していると同時に『解釈』もまた採用している。

また「外形を注視」することは肯定しても、「外形を語る」ことは否定している。ソンタグは中身に触れることを否定したが、だが外形に触れることもまた『言葉』にして作品を置き換えているに過ぎない。ならば肯定するべきは「経験」すること一択であり、中身も外形もひとくくりに否定すべきだろう。

そもそも『言葉』にした時点で、《物語そのもの》からは遠ざかり、《物語そのもの》ではなくなるのだから。ならばそれを理解した上で――ああ、つまり間違っていると知りながら――解釈行為・外形言及をせねばならないということだ。

 

 

 

あと、数多のレビューサイトが大抵2年で閉鎖・放置になるのは、生活環境の変化によるところもあるが、実はこういった「物語を言語化すること」「解釈すること」「外形の言及」の不毛さを気づきやすい時期と重なっているのかもしれない。

自分自身がやっていることを『反解釈』のように明瞭と突きつけられる体験もあれば尚の事、人々は批評行為から手を引いていくのではないか?

そしてその事に目を背けるか、開き直るか、ジレンマを抱え続ける者しか批評とは続けられないのだろう。

さてそれでは私は今後どうしようか。あまりにも書きたい作品があればその都度書くとして、全部は書かない方向性でいいように思う。あとソンタグが提案している <作品の外形を真に正確に、鋭く、共感をこめて描写する> という部分を真剣に取り入れた批評物を洗練させていくのもいいかもしれない。物語が、パラフレーズしていく、そんな感じに。それにこれは再生批評と相性がよいし、私が目指したいのもこちら側であり、うまくいけば、自分自身が納得できるものが出来るかもしれないと思いつつ、もう既にやりたい事はやっちゃった感じがある。それが有益か練度が高いかは置いておくとして。あとは「作品をそれがそのもの」として機能する透明な批評を目指すのもよい、また持論だけど印象批評って大器晩成型なのよね、最初はちょーしょぼいけどあれは極めると化け物になるよまじまじ。そんな直感がある。