異世界転生で得られる教訓は「今までの全てを取り替えることで人間の行動は変わる」という考え方(無職転生~本好きの下克上)

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 *両作品はほんのすこし触れる程度。

 

 

異世界転生と環境

 

『無職転生』『本好きの下克上』『この素晴らしい世界に祝福を!(アニメ)』『Re:ゼロから始める異世界生活(アニメ)』を読んでいると目をひかれるのは転生者は前世とは違う行動を取っていることである。

『無職転生』ならばルディは転生前は34歳無職で家族に更生を促されても聞く耳を持たず一日中PCに向かい無駄に無駄を極めた生活を送っていた。ときには幼子をオカズにし、養ってもらっている母親には傲慢な態度を取っては、周囲からはゴミを見るような視線を集めていた。

きっと彼からPCを遠ざけても働くことはなかっただろうし、または家を追い出しても(結果的に追い出すんですけどね)「俺これから一人で生きなきゃ」なんて思うこともなく流れのまにまに野垂れ死んていただろう。

彼に何かを与え、あるいは何かを失ったとしても、何も変わりはしないだろう。変わらずにいつまでも養護される立場を望み続けたに違いない。そう思わせる行動の数々であり、どこからどう見ても社会的には要らない存在であり、人として尊敬されるような人物ではないのである。

け・れ・ど

異世界転生したルディは前世とは異なった行動を積み重ねてゆく。引きこもり体質を改善しようと外に出ようと決心する、誰かが困っていれば手を差し伸べる、他者が失敗すればチャンスを与える……そういった行動は前世のルディとは似ても似つかない行動の数々だ。

関連→『無職転生』ルディの思考様式が興味深く、かつ上位レイヤーからすればそれは親切すぎるくらい親切

 

これは『本好きの下克上』にも言えることであり、ここでも転生者は前世と転生後では行動が大きく変化している。

本作は前世・本須麗乃は本を読むことに全力を尽くしていた女子大生が異世界転生し、平民・マインとして生きることになるお話。

彼女は "本フリークス" といっても過言ではなく、どうにかしてこちらの世界でも本を読めないか?ないなら作れないか?と試行錯誤苦し材料を集めから工作まで様々にこなしていくのだが、そういった日々の中でふと「そういえば私は前世でここまでなにか一つのことにエネルギーを注いだことなかったよね(意訳)」と思案するときがある。

というのも、マインという少女は虚弱で、非力で、すぐに熱を出す不健康児。一から本を作るとなると様々な道具が必要になり、その道具を作るためには細工する技術が必要であり、細工するための材料が必要になり、その材料を得るためには自ら採集しなければならなくなる。けれどマインでは家から数百歩歩いただけで気絶するため、その材料採集さえ遅々として進まない。

そんなド底辺身体スペック&物がないないづくしの環境で――つまり本須麗乃のときでは簡単に手に入れられたものに大量のエネルギーを使うことになるにも関わらず――遮二無二に本作りを成功させようとするマインは、本人も言うようにとてつもないエネルギーを使って行動を起こしているのは想像に難くない。

 

そんなふうに異世界転生の醍醐味……というか得られる教訓というか……そういうのがあるとすれば「今までの環境が変われば人は容易に行動が変わる」ことだと思うのだ。

「名前」「身体」「居場所」「立場」「身分」「取り巻く人々」そういった様々な自分を取り巻くものが変われば、その環境に応じて人は思考は変わっていくし思考が変われば当然行動も変わっていくものであると。例え自分を定めるアイデンティティ(記憶)が前世から持ち越されたとしても、その記憶に応じるばかりではない

『無職転生』であればルディという名前、赤子からのやり直し、下級騎士の父親を持つ長男。『本好きの下克上』ならばマインという名前、5歳からのやり直し、平民の親を持ち家は汚く貧乏で本が普及していない世界、というふうに。

人間が環境を捉えることでそこに意味が生じるのではなく、環境が人間を促すことで意味が生まれていくのである。環境が行動を促し、精神を促す、これが異世界転生では顕著に見られる。

わかりにくければ……ここに石畳の階段があり、そこに座ったとしよう。その階段はごつごつと固く、臀部の骨を押しのけようとし、尻に痛みが伴うならば長時間座ることは制限されるだろう。逆にその階段が芝生のように柔らかいのであったならば長時間座ることは促されるだろうし、横になって寝てしまうこともあるかもしれない。

いくら有能な人でもやる気のない掃き溜めのようなチームに回されれば途端にそれまでの能率を保てなくなるように、だらだら生きている人でも今まで慣れ親しんで生活とは別の文化圏で暮らし始めたならば途端に目的を持って遮二無二に生きることもあるように「環境」によって人の行動なんて簡単に変わる。

文化圏を変える、居場所を変える、言葉を変えるくらいは頑張れば出来ても、流石に「名前」を変える、「身体」を変える、「身分」を変えるのは難しい。不可能なものもある。

けれど異世界転生ではそういった「もう元の自分とは呼べないよね?あれ記憶だけじゃない?」レベルの環境の総入れ替えが行わることが可能になっているし、だからこそ……ルディはあのように生前とは違った人生を歩めたのではないだろうか。もちろん彼自身の努力や能力もさることながら――日本ではありえなかった―環境を得られたことがあのような結末を迎えることができたのではないか、と考えずにはいられない。

この素晴らしい世界に祝福を!(アニメ)』もまた主人公・カズマはヒキニートであったにも関わらず、転生後の世界ではアルバイトに精を出し生活費を稼いだ。引きこもりとは思えないアグレッシブさがそこにはあったと思う。

これは彼が一度死んだこと、世界の常識が大幅に変わったこと、他にもいろいろあるが一番の要因はアクアという女の子ではないだろうか。女神なのにダメダメで、見栄っ張りで、ともすればカズマがいないと生きていけなさそうな同伴者が――自分を取り巻く人間が変われば――いることがカズマの精神・行動になにかしら働きかけたと。

 

この素晴らしい世界に祝福を第一話。私達は"ルーパー"だったんだね!(←何そのダサいネーミング)

 

この流れで語れば、カズマは転生アイテムとして強い能力でも魔剣でも加護でもなく「たったひとりの女の子」 を(意図せず)選んだのは本当にいい選択だったようなあ……ってしみじみ思う。新しい生活で同伴者がいるだけでも精神のゆとり全然違うし、生活にめりはりでてくるものね。

 

まあなんていうか、人の「価値」なんて単一の環境に属している分を見てるだけじゃ、分からないのだろう。そしてその環境を移行すること自体が力ない者にはとても難しいのだと、異世界転生の物語は露わにしている気がする。

ノーゲーム・ノーライフ』の空たちもこっちの世界じゃダメダメだけど、世界が環境が違えれば生き生きとしだしように。「環境」の取捨選択ができるならばそれはとても幸運なことだよ。

 

 

 

おわり

 

今回は「環境が人間を促す」というお話だったけど、「人間が環境を作り変える」のはこちらで触れたのでどうぞ。

 

永遠世界は人が目指した「不条理がない究極の世界」である。暁の護衛からCLANNADまで(6362文字)

 

琴子はそれを"エージェント"と言ったけれど、私は"Avenger"と呼びならし世界に反逆するものとして捉えてみたい。世界を書き換えるという目線でも十分ありだが、けれどそこには「それに耐えられないから自分好みに作り変える」という動機が抜け落ちているし、そこを考慮するならば後者の呼称のほうが適していると考えるからだ。

つまり人間は世界(環境)に従属する生きものではなく、その従属関係をぶっ壊そうとする生物なんだよね。っていうお話であり世界(環境)に復讐する動機が必要になってくる。

だからこそそこには「夢」を語る余地が出て来るし、人が「物語」を語る所以でもある。そしておそらく人間は「環境→人」「人→環境」この2つをぐるぐると繰り返していて、影響を与えられながら影響を与える関係にいるのではないだろうか。

 

 

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