「ネタバレを過剰に気にする人は作品の筋(すじ)しか楽しみ方を知らないのでは?」と問われれば、(8825文字)
1)ネタバレについての指摘
以前からこのブログでは、作品に対して一定ラインを超えていたら「ネタバレ注意」と記してきた。かっちりとした区切りはないが「未プレイ者の楽しみを奪う」ような情報を載せていたら「ネタバレ」だと判断することが多かった。
だがこれだと「これくらいのことでも注意喚起するべきことなのか?」と疑問は抱くことになる。さらっと√概要に触れることや、物語中盤から登場するキャラについて指摘することが「ネタバレ」なのかと問われるとそこまでは行かないよなあとも感じていた。
しかし冒頭にたった数文字書くだけで、作品の楽しみを奪われたと感じる人が出ないのであれば、それはそれでいいのかなと思うのだ。私自身核心的なネタバレはもちろんのこと、ストーリーライン、作品のテーマ性についても未読前だと知ることを嫌う人なので「ネタバレが嫌だ」という気持ちはよく分かる。
というのが私のネタバレへの態度であり、下記記事は興味深い内容だったのでいくつか触れながら「ネタバレ」について考えていきたいなと思う。
一部分引用させてもらったが、 できれば全文読まれた方がいいと思われる。
私が、ネタバレを過敏に気にする風潮に違和感を持つのは、自分が「ネタバレによって楽しみを奪われた」と感じた経験がほとんどないからだ。
……ではなぜ、ネタバレがあまり気にならないタイプの人間も存在するのか?
例えば、音楽を例に取ってみよう。ある楽曲があったとして、その歌詞だけを紹介したり、メロディーだけをアカペラで歌ってしまったとしても、「ネタバレすんな!」などと怒り出す人はほとんどいないように思える。
その一方で、小説や映画や漫画となると、あらすじを紹介しただけで、怒り出す人は激増する。
なぜ、このような違いが生まれるのか。音楽の場合は、歌詞やメロディーは、楽曲を構成する要素のごく一部分に過ぎない、という認識が広く行き渡っているから、怒り出す人はいないのだろう。
逆に言えば、小説や映画や漫画からは、話の筋以外の楽しみを引き出さず、それ以外の要素にも魅力があるとは思っていない人が多数存在する、ということなのではないだろうか?
例えば、ある小説を読んだとする。事前に大まかなあらすじを知ってしまっていたとしても、描写があり、会話があり、様々な要素によって作品全体が織りなされる。それを読みほどいていく経験は、単にストーリーの展開を知るよりもはるかに複雑な、多層化されたものだ(そして、結末近くの謎解きやどんでん返しが作品全体の魅力の中心を成すようなタイプの小説は、そのような複数の要素の多くを犠牲にした上で結末近くの驚きが最大限に効果を発揮するようにエネルギーを集中させて成立させているのだから、話は別になるわけだ)。
メロディーや歌詞を事前に知っていたとしても、楽曲の持つ要素の豊かさは、ごく一部しか損なわれない。これは小説にしても同じことなのだ。ネタバレに過剰にこだわることは、ネタバレの際になされた大雑把なあらすじと、作品本編とが、同じ程度の価値しか持っていないとみなすことにならないか。あらすじには還元できないからこそ、作品があるのだ。そう考えて作品に接しさえすれば、ストーリーのあらましを知っていたところで損なわれない要素が豊富にあることに気づくはずだ。
だから、結果として、一つの小説を読んだ後に提出される読解は無数に存在することになる。ストーリーが同じだからといって、その作品のもたらす経験は一つではないのだ。
まず当該記事では冒頭(引用外)で「ミステリのような重大な謎を含む作品は別(意訳)」とあるので、対象としているのはそれ以外の作品であり、そんな作品群の粗い筋を紹介しただけで怒り出すような人だろう。
- ミステリのような重大な謎を含む作品以外の作品(ここでは「非ミステリー作品」と呼びたい)
- あらすじを紹介されただけで怒る人
で、そういった人達は作品の筋しか楽しみ方を知らないからこそ、その筋を教えてしまったら、その作品で得られた全ての楽しみを奪うことになる。彼らは作品の筋(すじ)を「知る」ことがイコールで作品で得られたはずの「経験」が破壊されたと感じるからこそ、怒るのではないかと。
そして引用先の記事は批評・解釈に触れながら最終的には、「ネタバレで失われる楽しみよりも様々な解釈が衝突しそれを創造する楽しみのほうが得るものがはるかに大きい(意訳)」として締めくくった。
結論として言えることは……ネタバレなんて、どしどしすりゃーいいんだよ! 自分の知らない作品に対して矛盾・衝突する無数の解釈が衝突して渦巻いて議論白熱している光景があり、そこから興味を持って実際に作品を手にしてみる。そのようにして新たな作品と遭遇する経験から得られる楽しみの方が、逆にそのことを理由として失われてしまうかもしれない楽しみよりもはるかに大きいと私は思う。
つまり非ミステリー作品に限るならばネタバレを肯定するという態度なのだと私は受け取った。そういった主旨の記事だと思う。
結論に対しては否定したいが、この「ネタバレを過剰に気にする人は作品の筋(すじ)しか楽しみ方を知らないのでは?」という疑問に対しては私も同意したい。なぜか。
2)作品の筋(すじ)だけが楽しみ方ではない
引用箇所でも言われているが、作品はそれを読み込んでいく過程で様々なファクトが織りなされ、複雑で、多層化された体験が生まれる。
例えば『向日葵の教会と長い夏休み』のストーリーラインを知ったところであの作品で得られる「鼻孔をくすぐる向日葵の匂い」や「生魚を喉から押し込む感覚」は消えはしない。例えば『こなたよりかなたまで』のクリス√を事前に知ってもあの一瞬の美しさはあなたの心を突き刺すだろう。例えば『悪の華(押見修造)』*1は物語展開をバラされても読む過程で心がざわざわし嘔吐感に苛まれることだってあるに違いない。
もちろん一度目の物語体験が、再読、再々読、と同じになるとは限らない。蓄積された知識や経験、摩耗した感受性、余裕のない精神、ストレスで死にそうになっている様々な自分の心的具合によって様々な「姿」を目の前の作品は見せてくれるはずだ。
『Angel Beats!』*2がやさしい世界だと見ることもできれば自殺教唆する最低最悪の世界だと見ることもできるように、『ナツユメナギサ』が物語の肯定だと見ることもできれば物語の否定だと見ることもできるように、『ファタモルガーナの館』*3が救済かはたまた安易なリセットかで意見が分かれるように――作品とは一面的ではなく多面的に観測することのできるものなのである。
「解釈」の多様さとはこの事実を示唆するものだ。
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さらに言えばそういった作品内容以外にも、「作品外形」もまた楽しむことのできるポイントになっている。それは文章構造だったり、演出、映像作りといったものが包括される概念だ。例え作品の筋(すじ)が既知だったとしても作品外形が優れていればそれだけで心は踊るし、物語に物語はいらないのかもと錯覚することだってある。
『タブー・タトゥー』はよくある能力バトルアニメであるが、格闘戦、カメラアングルの使い方、間・空間を巧みに駆使したこの一連のアニメーションは「作品の筋(すじ)以外にも楽しむものはある」ことを如実に教えてくれるのではないだろうか。
着地した瞬間右足を軸にして立ち上がることから、イジー(銀髪)は右利きなのかなと予想もできる。しかしなんていうか、この立ち上がる瞬間の脚ラインが綺麗で見惚れてしまうよね。(引き締まった大腿部)
また『ギャングスタ・リパブリカ』のテキストウィンドウは画面下部に固定されたものでもなく、文章をリストアップするように画面上に表示するものでもない。本作は(今ではよく見かけるものだが)「可変式」のテキストウィンドウを採用しており、キャラクターの胸元あたりにセリフが表示するようになっている。
①画面一面式
――『うみねこのなく頃に』(07th Expansion)EP1
②固定式テキストウィンドウ
――『遥かに仰ぎ麗しの』(PULLTOP)殿子√
③可変式テキストウィンドウ
今まで画面の1/1~1/3を独占していたスペースが最適化されることで、CGを目一杯見せることができるし、勘所でいちいちウインドウを消すこともなくなる。
さらにセリフ自体がキャラクター自身に付随することで、「誰が」喋ったかも視覚的に一発で分かるようになっている。
このことで(たまに発生する)「これ喋ってるの誰だろ」とセリフ発言者を見直す過程も省け、より物語に集中できるようになるし、キャラが喋っている感もUPする。『ギャングスタ・リパブリカ』は各キャラクターそれぞれに色を振り分けているのでよりその効果は高くなってるだろう。(もう一度↑画像見てみて)
こういう読者を物語世界に誘う試みは「テキストウィンドウ」にも限らず、文章外形、システム、音楽さまざまにある。なにも作品の中身/ストーリーラインだけが、物語の心地よさを決めているわけではないのだ。
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しかし、ネタバレを過剰に気にする人は今挙げたような楽しみ方をしていないのかもしれない。筋(すじ)ばかりに重きを置いて「物語体験」「解釈の多様性」「作品外形の魅力」といったいくつかの楽しみ方を知らないのかもしれない。
と言われれば、私もそうかもと思う。
というのも、以前アニメサイトがいう「考察」が実質ストーリーラインの予測・見立てしかやっておらず、作品完結後そこから「解釈」する考察が少ないと言及したことがあった。
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→アニメブログ&まとめサイトが過剰にやる考察ってただの「今後の展開予測」だよね?
もちろん私が言っている「解釈」もしている人はいる。まとまった記事を書く人もいる。ただTwitter上に限定するならば全体の傾向としてはストーリーラインの言及が占めている。当該記事でCharlotteに焦点を当てたように、放映時では多くの人が考察という名の「作品の筋の見立て」に終始していたが、いざ放映終了後にいったいどれだけの人が本作について考え、察し、解釈を施したのだろう? と言われればしていないのだ。少なくとも傾向としては作品の筋の予測ばかりである。。もし疑問に思うならば調べてみるといい。そしてそういうツイートを見ると「作品の筋(すじ)しか見ていない」人が多いのではないかと考えてしまうものだ。
そして私自身もまた、このブログを始めるまでは「物語体験」「解釈の多様性」「作品外形の魅力」を意識することなく「作品の筋(すじ)」ばかりを追い求めていた。それがあたかも作品の至上価値だと言わんばかりに重視していたし――いやそもそもそれ以外の楽しみ方を(知覚しても)認識はできていなかった――のである。このことから先の問いかけ
「ネタバレを過剰に気にする人は作品の筋(すじ)しか楽しみ方を知らないのではないか?」
はわりと当たっていると思えるのだ。案外、作品の筋「以外」を認識している人の方が少ないのではないかとも。
そしてそういった人々が「非ミステリー作品」の「あらすじ」を紹介されだたけでイヤーな気持ちになったり、むかっとすることは大いに考えられるように思える。
3)以上を踏まえても私はネタバレ嫌いだけどね
先述したように作品の筋(すじ)以外にも楽しみ方はある。いっぱいある。それを私は知っている。
しかし、だからといって、読む前に作品の筋を知りたいわけでもない。作品の筋を知ったところで作品の楽しみが大幅に減るわけではないという前提を踏まえながらも、それでも私は作品の筋を知りたいわけではない。
なぜなら「作品の筋」もまた作品を楽しむ上でのポイントだからだ。もちろんそれは作品の楽しみ方のいくつかの一つに過ぎないものの、いくつかの一つでもある。ならば積極的に手放す道理もなかろう。
ひとつひとつの事実を踏まえながら、そこから糸を伸ばすように、物語を紡ぎ上げていく読み方を私はよくする。ノベルゲームだと選択肢が出るように、劇中でキーとなる行動や発言に対して対案・否定・肯定ないし、「こういった事を言ったらどうなるか?」とか「こういう行動を取ったらこいつはこう動くのではないか?」とよく考えこむ。数秒、数分、映像を脳内で再生して未来に起こる出来事を仮想するのだ。これはアニメだと(出来なくはないが)難易度があがり、小説やノベルゲームならば時間の進行はこちらに委ねられているのでやりやすい。
しかしそういった読み方(=仮想思考)も、事前にストーリーラインを知ってしまったらただの茶番にしかならない。「主人公がAヒロインに告白した、さあどうなる?」という思考は「Aヒロインは主人公をフる」という情報取得によって考える意義が無くなってしまうからだ。
――「知る」というのはイコールで「未知への楽しさ」を消滅させることと同義だ。
例えば『Angel Beats!』という作品の面白さに「世界の不確実性」という要素がある。つまりこの作品では情報不足による情報不足のため、世界の理が分からない。ここはどこだ? 死後の世界? 誰がそう言った? 誰も言っていない? じゃあなんでそんこなことがわかる? 生前の記憶を持っているから? しかしだからといってここが<死後の世界>かは定かじゃないだろ――誰が何のためにこの世界を創ったのか?――音無結弦率いるSSS(死んだ世界戦線)の連中はこれからどうなるのか?―――そういった諸々が明らかになっていないからこその魅力がある。
そこには物語に触れながら、物語の行末を(リアルタイム)で思考する過程が生まれる。これは物語展開を予測しきるということではなく、キャラクターに振りかかる一瞬一瞬の判断を物語内で(読者である私もまた)行うという読み方である。例えばゆりっぺが質問を教師に投げかければ私は教師になってそれに答えようとするし、あるいは私もゆりっぺと同じように怒気を孕んだ言葉でもって自己同一性を訴えかけるのだ。そして1秒、2秒、相手の反応を伺う。そんな感じに。
しかし「ネタバレ」とはそういった作品のいくつかの楽しみ方を壊す行為であり、それを積極的に享受したいかと聞かれれば、やはりしたくはないさ。
逆にこういう「読み方」をしない人は――つまり未知による好奇心、未知による楽しさを低く見積もるならば――ネタバレによるいくつかの楽しみ方を無かったことにすることも吝かではないのかもしれない。つまり「ネタバレによって楽しみが減った」と感じないのではないだろうか?
私としては作品を十全に楽しみたい人なので、「作品の筋」という楽しみ方も可能な限り手元に置いておきたいということになる。これは一回目の体験は鮮烈である、という価値判断に基づくものに相違ない。
もちろんだからといって、ネタバレを含んだ批評文物が要らないと言いたいわけでもない。それは読了後に――必要であれば――読みにいけばいいし、それに伴う白熱した議論や、多様な解釈を読み漁ればいいだけだと思う。私も自分の解釈を打ち出した後によくやる、がしかし未読時にそういったものを読む必要性はやはり感じられないかな……。
先述したように、ここは一回性を重視しているかいないかの差だろう。だから私は聞きたくもないネタバレに出会えばムカッとするし、イヤーな気持ちになる。
4)ネタバレの注意喚起について
過剰なネタバレ禁止による風潮もそれはそれで怖い。だが積極的にネタバレをする風潮もどうなのかなと思う。やはりバランスなのかもしれない。
ただ先にも言ったように「ネタバレ=未知の破壊」なわけだからそれは一度でも触れてしまえば被害を受けることになる。ネタバレを嫌う人はネタバレをする人の良心に訴え、あるいは風潮に圧力をかけて、なるべく自粛という形を取らせたいのかもしれない。そういう願いがいろんなところで顕在化しているのかなとも思える。
私も出来るならば、未読前に些細な情報でも取得したくないので気持ちとしてはわかる。でも行き過ぎてもなあ……とも思っている。特にTwitterは情報を強制表示させるツールなので、「ネタバレするな」という圧に呑み込まれると何も言えなくなってしまう。
放映終了後にアニメ感想をツイートすることは、録画で見ている人の楽しみを壊すことになる。ある小説の感想を言えば、それはまだ読んでいない人の楽しみを壊すことになる。そんなふうにネタバレ自粛の行き過ぎはこういう状況を生み出し、何も言えなくなってしまう。
別に言ってもいい、言ってもいいが、嫌われることを覚悟しろよ? そういう風潮だ。
プライベートなブログで作品評を書く分にはネタバレなんて気にしなくていいかもしれない。でも本当だろうか? もしも誰かに読ませるつもりがないのならば鍵をかけてクローズドでやればいいののにオープンにしているということは読者を意識しているということにならないか?
もちろんだからといって「読者のために何から何までして」ってわけじゃない。でもたった数文字の注意喚起くらいは書いてもいいのではないか? とも思う。
とくに記事タイトルとは関係なく、本文で別作品に踏み込んでいるならばその旨を冒頭に書くくらいなんでもないだろう。むしろその手間を省くのには何か理由があるのだろうか? (実はちょっとめんどくさいという理由が挙げられる)
ブログは検索エンジンと紐付けられており、読者は検索キーワードに合致した記事に、疑問を抱くことなく飛び込んでしまう。もしもそのブログがネタバレの注意喚起をせず、本文にて堂々とあらゆる作品の筋(すじ)の展示会を行うならば、検索エンジンから来た読者はネタバレへの被害に合うだろう。
私も何度も経験したことがある。
例えば記事タイトルに『キルミーベイベー◯◯』と書いてあるならば、キルミーベイベーについての記事だなと思うだろう。そして読みに行ったら(なぜか)がっこうぐらしの6巻のネタバレをしていてなんなのこのブログと思ったことがある。
例えば『CARNIVAL◯◯』と記事タイトルにあるわけだからCARNIVALについての記事だと思うだろう。しかしそこには『素晴らしき日々』のネタバレが記載されていてあーもうここは絶対こないと思うしかなくなる。
そんなふうに検索エンジン経由――あるいはそれに類するルート――で見知らぬブログに行き着くとき、多くの人はその記事を読む前にサイドバーにある「はじめに」とか「自己紹介」とか「ブログルール」の欄など読まないのではないか? そして例え読んだとしてもネタバレへの態度を書いていないブログ主も多くいる。
だからこの経由できた読者が、「記事タイトルで予測できない別作品のネタバレ」について怒るのは理解できるし、ブログ主もそこを斟酌してもいいように思う。つまり注意喚起という労力くらいは割いてもいいのではないか。
これは「ブログ」に限らず、「書評」に類するものも冒頭に注意喚起くらい書いてくれると私は嬉しい。
と言うと、これも「ネタバレ自粛」の風潮に荷担してしまう主張になってしまってまあうん、難しい……。
だとしても、今現在の私の結論としては「場所と相手を選んで求められていない所にネタバレを投下するのはやめよう。するとしても注意喚起を記そう」という態度になるだろうか。
と言った手前、私もなるべく守ろうと思う。
そして私の感覚だと本記事は未プレイ者に対する「ネタバレ」(=未知の好奇心を壊す情報の提示)には抵触していないので、注意喚起は行わなかったがさてさて。
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