*内在的考察とは別領域のお話なので一緒くたにしないようにね。
批評=創作
印象批評からフォルマリズムまで、批評行為とは「ある対象が存在しその対象を語るもの」である。
視聴した作品が己の心を揺さぶったならばそれは如何なる場所で、如何なる高揚があったのかを書き綴り、文章外形に着目するならばそれはいかなるもので、いかなる効果を読者に与え、異化について考察したり、作家を接続し、社会を接続し、他作品を接続し、外部文献を接続して語ることもあるだろう。『魔法少女まどか☆マギカ』ならば虚淵玄、東日本大震災、ファウストをそれぞれ繋げていくように。
それと同じように、創作もまた「ある対象が存在しその対象を語るもの」である。
『牡丹灯籠』は『牡丹燈記』から着想を得て作られた怪談噺でありその後各地で様々な人間が様々に脚色を加え広まったように、メキシコでの土産話をそのまま語ったら面白くないのでちょこっと波乱万丈に創作してみたり、恋人とのデートをビデオカメラに写し撮り編集してラブロマンス風のドキュメンタリー映画にしてみたり、大学生活を下地にして今度は自分ではなく元気溌剌なあかねという女の子を主人公にした『アカネストレンジャー』を書いてみたり、『虚構探偵』の結末に納得がいかないからSSでその不満を解消してみたり、私小説はいわずもがな自身の人生に焦点を当てたものだし、パロディは書き手が見てきた作品を引き合いにしたもので、渾身の一作は書き手が人生において最も影響を受けた別作品が根幹にあったりするものだ。『SCE_2』を語るために『素晴らしき日々』『天元突破グレンラガン』『スカイハイ・クロノス・エンドレス』の文脈を持ち込むように、どうしようもない現実で生きているからこそ報われる虚構を描いてみたくなるものなのさ。
「傷を癒やす魔法は無く。
星を落とす魔法は無く。
闇を切り裂く聖剣はなく。
愛する者を蘇らせる秘術は無く。
そんな世界で生きているからこそ、
俺達は物語を創っていくんだ」
――『魔王物語物語』
そんなふうに、批評と創作はある対象が存在しその対象を語る――つまり「紡ぐ」この一点において同じである。
ふと私達は "I know it when I see it" と言わんばかりに、これは創作であれは批評だと分けているが、よくよく考えてみれば両者の境界線はとても曖昧だ。批評は創られたものだし、創作物はまた別の創作物の批評を執り行っているなんて今じゃ何も珍しくない。卓越した批評が物語と見分けがつかないように、物語が傑出した批評をしていることに気付ければそんな突飛な考え方でもないだろう。
そうさ、どちらもなにかを「語って」いる。なにかを「紡い」でいる。いつだって私達は "物を語らずにはいられない"。
語って語って語り続ける。意味があるかなんて関係ないし、それが価値があるかなんて果てしなくどうでもいい。楽しいから語り、面白いから紡ぐ。それだけだ。そしてその対象となるのは両親という物語かもしれないし、自分という名の人生かもしれない。魂が囲われるほどに大好きな小説かもしれないし、風船ウサギというお伽話かもしれない。
――心の中に眠る数多の物語をよりよく紡ぐために、批評と創作は存在してくれる。
そしていつの日か「物語の最果て」を見たくなったとき、両者の方法論はとても心強い味方となるだろう。あなたが望めば、終わった物語の続きを読むことができる。あなたが望めば、失われた物語を再生することだって可能だ。乾ききった大地の向こう側に、蜃気楼のように姿ない天文台へ、書いては踊り、走っては歌い、叫んでは願えばいい。
それはきっと、『Forest』の魔女と賢者で創世された世界のように応えてくれるはずだ。
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