つよきす 三学期レビュー 無印版を全てなかったことにして新たに作り直された本作は「つよきすとは何か?」を考えさせてくれる

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*本記事は『つよきすCHRONICLE』(『つよきすFull Edition』→『つよきす三学期Full Edition』)の流れのもとで記述されており、また筆者は制作背景に関わる全てを重視しておらず《物語そのもの》の視点で語っていることにご注意。

 

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《物語そのもの》とは?

 

 

 

(1)再解釈されるつよきす(作品紹介)

 

つよきす(&Full Edition)』(以下無印版)各ヒロインと結ばれるお話を全てなかったことにして、『つよきす三学期 Full Edition』(以下三学期)新たに各ヒロインとの恋愛模様を描く作品になっている。

無印版の共通√・各ヒロインの特徴をほそぼそ引き継いでいるものの――先述したように個別√を無かったことにしたこと、季節が春から冬へと移行したこと、新キャラクターが続々投入したことから本作は実質「つよきすの再解釈・再構成」を試みたと言っていい。

リメイク作品は往々にして「ドット絵から3D」「ボイス無からボイス有」「ピコピコ音から滑らかなサウンド」といったふうに作品外形の強化が行われるものだが、「中身」つまり物語の大筋・骨格と呼べるものは触れない傾向にある。その理由のひとつとしてシナリオの大幅な変更をしてしまえばそれはもう原作とは別の作品になってしまうからであり、例え中身に触れるとしても原作を尊重した上での追加要素・不適切な表現の削除に留まるのが多いのではないだろうか。絵も違う、音楽も違う、シナリオも違うとなったらそれは「◯◯のリメイク」という体裁を整えなくなってしまうだろう。

しかし『三学期』においてその「中身」まで書き換えられたため、本作は"リメイク"ではなく"原作の再解釈"作品という位置づけで見ていきたいと思う。

この目線で捉えれば、『無印版』には存在しなかった新ヒロイン橘瀬麗武、そのペットの権田瓦さん、そして父親橘幾蔵、科学教師の霧島あかりというトラブルを起こし続けるキャラクターの登場は果たして『つよきす』という作品に適しているかどうか?注目に値する部分になっているわけだ。

 

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――つよきす3学期Full Edition公式サイト

 

また『無印版』でレオと姫は紆余曲折をへて結ばれたが、『三学期』ではそれをなかったことにして再度レオと姫が結ばれるお話を描こうとする。となると(同じことを繰り返しても仕方ないため)無印版とは別のストーリーが展開し、かつ無印版と同等、あるいはそれ以上のお話への期待が高まっていくことになる。

そこには対馬レオはどんな人物か? 霧谷エリカは何を大切にしているか? を把握する営為があるし、当然それが怠っていれば無印版より劣った物語が展開するのは想像に難くない。

もちろん人物像に限らずつよきす』は如何なる物語で、何が大切で、何を落としてはいけないのか中心軸はどこにあって、根幹はどう定義し、何を付与し、何を削ればいいのか。それらを魅力的に表現し、描ききるにはどうすればいいのか?

そういった批評という名の運動が常に行われるのが本作の見所であり、無印版とは異なった新しい解釈ではじまるつよきすである。

 

 

 ▼無印版(原作)

つよきす

7,344円

 

繰り返すが本作は、「原作で描かれたものを(殆ど)なかったことにし、三学期という舞台で、再度原作キャラクターの物語を描く」という在り方になっている。土台の上に積み上げるのではなく、壊して新たに立て直す。同媒体で1つのコンテンツとしてこのようなものをかつて私は見たことがないと思う。

ともすれば「なに無印版を白紙にしてるの?」と怒りを覚える者もいるだろう。確かに気持ちはよくわかる。乙女さんとの楽しくも熱い日々を、エリカへの燃える告白を、なごみのツンデレギャップを、スバルとの友情を全て無かったことにして新しい恋愛模様を描かれても正直困る。困惑する。あってはならないことを目撃しているような気分さえ覚えはじめるものだ。

しかし「面白かったらすべてOK」という考え方を有しているならば、「三学期の再解釈がいい味を出し楽しい時間を過ごせたならば」何ら問題はないだろう。本家と同等、あるいはそれ以上の結果をもたらすならば不満など起きまい。

――では、実際にどんな様相を本作は垣間見せたのか?

それは自身の目で確認して欲しい。本家で選択されなかった未来を見せられ胸が苦しくなるかもしれないし、『つよきす』が好きな人は苦笑いを浮かべる結末を迎えるかもしれない。

もう一度言うが『つよきす三学期 Full Edition』は、無印版を無かったことにして再解釈されたつよきすの物語である。以上を踏まえて、理解した上で、気になれば買えばいいと思う。

*作品紹介はここで終わりだが、ここから先は私がどのように本作を捉えたか語っていく(ネタバレ注意)

 

 

 

 

 

(2) つよきす3学期FullEditionはいかなる作品だったのか(総評)

 

結論から言えば、『三学期』はつよきすの醍醐味を「日常感覚」「冗長さを省く演出」コミカルさ」と捉え、そして「卒業」を付与した作品だったと思う。

日常感覚というのは「近衛素奈緒(中学時代)とのドリンクバー」「深夜のバームクーヘンボーイズトーク(瀬麗武√)」のように、別段大した出来事ではないし後々振り返ってみればどーしようもない出来事なんだけど、なぜかその時間が心地よいと思える日常を描き出している所であり

冗長さを省く演出というのは、本来ならディティールを加え丁寧に説明されるはずであろう部分を「かったるい」と言わんばかりに一日一日が一瞬で経過したり、乙女さんの制裁シーンが背景変更と効果音で一瞬で描かれたり、何の前触れ無くレオ視点からカニ視点の変更諸々を指している。『三学期』では――『無印版』ほど上手い具合に冗長さを省かれているわけではないが――この省略演出は"つよきすらしさ"を色濃くし

コミカルさというのは、橘平蔵(館長)は無印版において目力でボートを壊すなどハチャメチャな人だったが三学期においてはさらに磨きをかけ闘気で木々の開花を早めては、舞空術を獲得し、兄である幾蔵と空中戦を繰り広げ、その幾蔵も烏賊島において人を遮断するバリアを展開し、その娘である橘瀬麗武も人並み外れた剣術でスライムを駆逐するもろもろを指している。

他にも鉢巻先生は生徒と許されない恋愛を起こしては、いがぐりはその渦中に飛び込んで、科学教師のあかり先生は常にスライムを量産しつづけたように混沌としたコミカルさが本作にあったのは疑う余地はない。

 

①とうとう空中で戦えるようになったキャラクター達

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②鉢巻先生といがぐりの三角関係

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③幾度となくスライムを量産し学園に波乱をもちこむあかり先生

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④しゃべる亀

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――『つよきす三学期 Full Edition』

 

確かに無印版もそんな混沌としたコミカルさに何度も笑わされたが――祈先生の奇術で顔が変になるフカヒレが村田とボクシング等――三学期はそれを拡大解釈した結果こうなったのだろう。

より強く、より過剰に、意味不明さがUPした。

この煽りを一番食らったのは鉄乙女だろうか。おにぎり生産・機械音痴が悪化し事ある毎におにぎりを握っては電化製品を壊すようになり、無印版では壁づたいで移動する身体能力が1ジャンプで屋上まで飛べるようになり、規律に厳しい乙女さんが門立ちしているときに西崎紀子の「くー」という挨拶に注意せず「くー」と返す。

また橘幾蔵の部隊勧誘に

 

「どうだって言われても。世界を半分やるとか言い出す魔王みたいだな」


――鉄乙女/『つよきす三学期 Full Edition』(瀬麗武√)


王様ゲームすら知らない、ゲームに触れることさえ躊躇う機械音痴の鉄乙女が、RPGネタで応答するくらいにはキャラクター像がブレても笑いを重視する様が伺えるだろう。

さらに「借りぐらしのカニエッティは伝統に従います」「いいえ。侵食しているんだわ」「いいぜ……!てめえがなんでも思い通りにできるってなら、まずはそのふざけた幻想をぶち殺す!」「ボクアルバイトォォォオオーーーーー!!」など他作品・ネットネタを(大量に)持ってきて即効性の高いギャグを展開していたのもより混沌としたコミカルさに拍車をかけたのは言うまでもない。(それが実際に笑いをもたらしているかはここでは置いておくとして)

……

しかし、つよきすはその3つで成り立っているわけではない。もちろん先述した「日常感覚」「冗長さを省く絵出」「コミカルさ」も大事な部分だが、「強気なヒロイン」も同様につよきすを構成するものであったはずだ。

規律を重視する鉄乙女、高飛車な霧谷エリカ、悪罵が止まらない蟹沢きぬ、孤高を貫く椰子なごみ

そんな4人の女性陣に凄まれ、上下関係を組み敷かれ、受け入れ、あるいは反発した対馬レオの姿が本家にはあった。そこには中々懐かない後輩に振り回されたり、傲岸不遜な生徒会長に我慢強く接するシーンがあったものの『三学期』においてそれらは全て消滅した

乙女さんのガミガミ度はなりを潜め受け入れられるものとなり、椰子なごみは牙をもがれた獣のごとくヘタレたヒロインへと成り下がり、蟹沢きぬはすこし口が悪い程度に収まり、霧谷エリカは特別頑張ってもいないにも関わらず勝手にレオを好きになってしまう有様。

もっと言うならば佐藤良美の抱える苦しみはたった数日で解消できるものになり(あのじめじめしたよっぴーは存在しない)、レオの掲げるテンション理論を極める祈先生√はどこにも見当たらないのである。

そう『つよきす三学期Full Edition』は対馬レオのテンション理論を全くもって重要視していないし、だからこそ強気なヒロインが本作から失われてしまったとも考えている。

どういうことか?

レオは「テンションに流されない」と普段は息巻いて、本気にはならない。猪突猛進するような頑張りはいい結果を生まないし、要領よく生きることこそが正しいと考えている。けれど友人をバカにされるなど何かしらのスイッチが入ると「熱血モード」になるのだ。

この状態になったレオは全力で物事にあたるし、脇目も振らずに目的を遂行しようとするのだが、だからこそそんな彼の熱意に(無印版では村田とのボクシング対決で)乙女さんはレオを見直すし、姉弟関係から恋人関係の道が開かれるのである。

これは線の内側に一切踏み込ませないなごみ、手駒として扱う女王エリカ、カニとスバルの三角関係を乗り越える際に大事なものとなっている。でなければ――レオのまっすぐな行動がなければ――こんなにも強気な(癖の強い)女性陣を射止めることは難しいからだ。

 

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――『つよきす』(エリカ√)

 

想像してみて欲しい。『三学期』のレオが無印版のよっぴーに寄り添っていけるだろうか? 無印版のエリカに恋人関係を承諾させることができるだろうか? 無印版のなごみの孤高さに食いついていけるだろうか? おそらく無理だろう。

確かに『三学期』のレオも熱血になる時はあるが、それは「熱血モード」とは異なる。

無印版のレオはテンション理論を望みつつなぜその考え方が正しいのかを自分に納得させる心理が繰り返され、その上で、"パチッ"と熱血モードに切り替わる。普段ヘタレてるレオが突然がむしゃらに動き始めるのが本家であり、同時に物語に勢いが生まれはじめる。*1

けれど『三学期』のレオは徐々に熱を溜めていき、いつ熱血モードになったのかも分からない状態で「レオ熱くなってる?」程度の熱血さしか発揮されない。

例えば鉄乙女√では、レオは拳法部のエキシビションマッチの代打として出場することになった。この折、過酷な練習を課せられるレオに仲間であるカニ達は「久しぶりに熱血モード入ってんのかよ」「いや、そうでもなさそうだぜ」と熱血モードを話題に上げ、レオはレオで新杖高校の卑劣なやり方にテンション理論を生み出すことになった近衛素奈緒との過去を重ねはじめるのだが、

しかしそういった熱血モードの下地があるにも関わらず、練習時・瀬田戦において『ヘタレレオ⇔熱血レオ』の転換点は存在しなく――新一が言ったように――彼は熱血モードに入っているのではなく、乙女さんのために頑張るだけに留まった。

 

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――『つよきす 三学期 Full Edition』(鉄乙女√)

 

そもそも本作ではなぜかレオ自身「テンション理論」に触れない。どの√でもテンションに流されないと必至になる姿は(殆ど)描写されないし、知古であるカニやスバルもこのことに(あまり)触れなくなっている。仮に触れたとしてもそれは熱血モードの兆しではなく、鉄乙女√のようにただただ「触れる」だけで終わるのだ。

このため『三学期』では対馬レオの軸である「テンション理論⇔熱血モード」は全く表現されず、その転換点は失われた状態で物語は突き進む。ゆえにこれではいくら彼が「熱く」なっても熱血モード云々関係なくただひたむきに頑張る男子高校生なだけであり、当該理論に執着しているからこその対馬レオはいなくなってしまったことが分かる。

三学期のレオでは無印版のヒロインを射止めることが難しいのはこの「熱血モード」と言われるなりふり構わず目的を遂行する力が『三学期』のレオにはなく、無いからこそ一筋縄ではいかない(無印版の)乙女やエリカを振り向かせられないからだ。

そして「テンション理論⇔熱血モード」が描かれないのだとすれば、当然、射止めることが難しいヒロインは弱体化せざるをえないし、『三学期』のレオでも恋人関係になれる強気ではないヒロインに成り下がってしまう。これは逆でも成り立つ。強気なヒロインを描かないのであれば「テンション理論⇔熱血モード」は『つよきす』において必要性を奪われてるためおざなりにされてしまうのだ、と。

つまり「テンション理論⇔熱血モード」を描かれなければ「強気な女性」というヒロインの特徴は消えるし、「強気な女性」という要素がなりを潜めれば当然レオの「テンション理論⇔熱血モード」は重要視されなくなる

実際に『三学期』のレオはテンション理論に纏わる話はディティールを与えられておらず撫でる程度に収まり、乙女はレオに上下関係を求めなくなり、エリカはレオを弄ばなくなり、なごみは覇気が無くなり、よっぴーは懊悩が一瞬で解消されてしまった。

――無印版と比べれば各キャラクターの変質ぶりは明らかである。

また新ヒロイン・橘瀬麗武からもそれは十分に見て取れる。(※本来彼女は二学期からの登場だがCHRONICLEの収録作品的に新ヒロインと言ってもあながち間違いではあるまい)

瀬麗武は確かに「強い」が、それは腕っ節の強さであり、上下関係による強さではない。レオを振り回し、屈服させるような女性ではなく、簡単にレオに恋心を抱くことからも本作は「強気な(癖の強い)女性」を描こうとしていないことが伺えるのではないだろうか。

どのヒロインもこちらを邪険にしたり口撃することがなくなり、例えあったとしても笑って許せる程度のものになってしまった。そんな彼女たちの逢瀬は別段悪くはないものの、しかしここまで無難なヒロインばかりになってしまった本作を指して「これはつよきすか?」と問われれば口を閉ざしてしまう。

…………

だがこれは見方を変えば「角が取れた」と言っていい。

正直なところ『無印版』のヒロインはキツイ。レオの好意はそう簡単に届かないし、跳ね除けられ、嘲笑われることなんてしょっちゅうだ。理不尽な暴力にもさらされることもあるし、立場を弁えて行動することもあるため人によってストレスがたまる作品だろう。

もちろんそこが『つよきす』の醍醐味だし、私は最高だと思うのだけど、そう思えない人がいることも容易に想像がつく。

参照→『つよきす Full Edition』レビュー ゴキブリをかばう前代未聞のヒロインに腹筋が震える

そして『三学期』はつよきすのニュアンスを取り込みつつ、つよきすのエッジを削いだ作品と考えればどうだろう? 『ンデ期』と称してヒロインは平和でクリーンな存在へとなった故に多くの人に受け入れられる。かわりに、鋭いからこその良さが失われてしまったと。

乙女が持ち込む上下関係も、エリカへの燃えるような告白も、なごみの凄まじいほどのツンデレギャップも、よっぴーに巣くう懊悩への対面も――それらに伴う輝きが消え去ってしまったのだと。

つまり『つよきす三学期 Full Edition』とは、無印版の牙を折った*2万人向けのつよきす」なのではないだろうか。

 

 

 

付け加えるならば本作は『無印版』とは違う一面を照らし出したり、その先を描こうとすることから「新しいつよきすの可能性」を提示しようとした物語と受け取ってもいいと思う。

例えば『三学期』の近衛素奈緒√は本家に迫る素晴らしさがあり、本家とはまた別の解釈でレオのテンション理論を描いたことを評価したい。レオがテンション理論を採用した理由はその方が「利」があるからだとしていたものを、裏っ返せば「近衛素奈緒を守れなかったからこその行動」ということを露わにした。

例えば霧谷エリカ√では、霧谷エリカという存在を「世界から愛されている」と解釈し、エリカの手には負えない出来事――猫、誘拐、事業――はまるで世界が理を捻じ曲げてでも彼女の利するように働きかけるかのごとく万事解決されていった。これは霧谷エリカという超人を才覚・努力「以外」の側面で描き出したといっていい。

例えば蟹沢きぬ√では無印版ではスバルと離れてしまうレオ達が本作ではスバルは存続したENDを見せ、佐藤良美√では無印版では描かれることはなかった己に巣くう問題を癒やした「後」のよっぴーの姿を書き出し、そしてラストエピソードでは「卒業(=つよきすの終わり)」という要素を持ってきて劇中内で『つよきす』シリーズに終幕をもたらしもした。

そんなふうに『三学期』では『無印版』とは別の箇所に焦点が当てられ、異なった風景をスケッチしていったのである。

 

しかしそんな再解釈が「新しいつよきす」を提示できたかは疑問だ。

私からいわせれば殆どの√は縮小解釈に留まるばかりで本家と並び立つものは(一部を覗いて)なかったし、あるいは再解釈の「方向性」は良くてもその「描き方」の練度が低くて手放しで褒めることはできないものが多々あった。

前者はきぬ√。この√ではスバルは離脱することなくレオ達の輪に残ることになるものの、その代わりとして「陸上を極める」という夢を断念した形になった。確かにスバルとレオ達はこれからもずっと一緒にいる可能性を提示したものの、それは無印版に比べて劣ってはいないだろうか……? 無印版ではスバルと離れ離れになるもののラストでは彼は夢を叶え、オリンピックでメダルを手に入れた上で、最終的にレオ達の輪の中へ再び戻ってくることを考えると、三学期のきぬ√は果たしてスバル達にとって最もよい結末だったのだろうか。むしろ彼彼女らが採択できる可能性の中で微妙な結末になっていないか?

後者は物語の整合性を無視した悪人が劇中を引っ掻き回す(粗悪な)介入*3――唐突に障害を立ち上げて解消するロジックによる――乙女√、エリカ√、素奈緒√を指している。いくら各√の再解釈による方向性がいい味を出していても、描き方が杜撰すぎるためその良さが全く引き出せていない読後感を生み出している。また悪人の粗悪な介入によって、ヒロインの人間性まで毀損する自体にまで発展していることもあった。(例:近衛素奈緒は原理原則/正義を大切にしている女の子にも関わらず、新杖高校が非道を行ったとしてもそれがこちらのPCの奪取・ハッキングといった犯罪行為を見逃す理由になるだろうか?そしてそのロジックを受け入れる描写がなされずに許容されるのであれば「近衛素奈緒」の人間性を貶めていると言えるのではないだろうか)

……

とはいえ本作を単体で見る分には基準値に達しているギャルゲーだと思うし、ただの学園恋愛アドベンチャーと考えるとそんなに――乙女・素奈緒・エリカ√での悪人の(粗悪な)介入を許容できるならば――悪くないと思う。

しかし「つよきすの再解釈作品」と捉えた場合、その度重なる解釈は本家の新境地を切り開けず、並び立つこともなく、さらには無印の強みを消し去り、小ぢんまりとした作品になってしまった。

というのが私の評価だ。

以上の理由で無印版をプレイした人で無印版が好きな人はムリに三学期はプレイしなくていいとすら思っているし、逆に無印版のエッジにたじたじになってしまった人は『つよきす三学期 Full Edition』は気に入るかもしれない。

私的満足度:★★★(3.5)
疑似客観視:★★★(3.6)

 

 

 

 

 

 (3)ラフな感想

 

レビュー形式

最近この手のレビュー(総評型)を書いているのだけど、すごい楽だ……。考察記事にかかる労力を100とするならば本記事は10くらい。そしてこの感想項目ならば5で済む。「感じたことを言語化」することは別に楽ではないけど、この程度でならばプレイ後ぱぱっと書けるのはいいよね。その日が丸一日休日だったならだらだらしながら仕上げられる点も気軽でよい。

そのかわり「評価」的な姿勢が強めになってしまうのがあれだけど、まあそこはトレードオフなのかなと思う。

というか他の人はどんな感じに本作を受け止めたのか気になるところ。正直びみょーだようん、の一言で済むくらいに私的にそんないい作品ではない。

 

 

 

歌がとてもよい

本作にはOPムービーが2つあり、つまり2つの歌が存在する。どちらも聞いているだけで高揚するくらいに良い曲なのだけれど、個人的には2つ目の『Love mission!! ~なんだ。ただの恋かw~(KOTOKO)』がお気に入り。

www.youtube.com

乙女さん√は正直感動もなにもなかったけど、このOPでの「乙女さんの卒業」は涙腺にきてしまう。本編を私は楽しいと思うことが少なかったけど、OPの「ああ、つよきす終わってしまうのか」という寂寥感は非常にうまく表出していて、それを元に妄想を膨らまして鳥肌を立てることは何度かあった。

つまりこのOPはいいですよね、と言いたかっただけ。

 

 

 

共通√

共通√が一番辛くて、一瞬、リタイアするか迷ってしまった。どこがどうとは言えないのだけど、合わなくて楽しくなかったに尽きる。

んーなんでだろ。

強いていうならば、乙女さん達の「声」が無印版と違ったからかもしれない。というのも乙女さんはやたら間延びしたようなテンポがゆっくりな喋り方になってしまったし、カニもスバルもエリカも近衛素奈緒も皆結構違う。逆にフカヒレは無印版と変わらない声に安心すら覚えた。ようするにそういうのが気になってしまったわけね。

共通は辛かったのだけど、逆に個別√にはいるとテキスト・シーンによる気だるさはなくなって、普通に読める程度にはなったことを覚えている。これならプレイできるなあと思った記憶がある。

共通√と個別√。この2つはテキストの品質が違う気がするのだけど……どうなんだろう。気のせいかな。

いずれにせよ、共通√にはなにかいるんだと思う。魔物が。

 

 

 

 つよきすってツンデレ作品

無印版でもつよきすって「ツン」パートと「デレ」パートで分かれていると本編のチュートリアルで明示化される。三学期もまたそこを踏まえて『ンデ』期のお話だよとチュートリアルで明かされる。

でも私はそもそも『つよきす』ってツンデレ作品だと思ってはいないのでどうも変な感じだ。

確かに定義上は――ヒロインにもよるけど――狭義・広義どちらにも当て嵌まるけど、「ツンデレ」が主成分というよりはやはり「強気」のほうが上位にあるように思う。つまり劇中内ヒエラルキー的には強気女子が場を支配しているみたいな。あとはそう思う理由として、私の中でツンデレという概念が希薄になっていることも関係しているのかもしれない。

参照→「ツンデレ」という概念が(私の中で)薄くなっている気がする(2016年)

 

 

 

プレイ時間

『三学期』はプレイ時間を計測してくれるのだけど、どうやら50時間ほどかかったようだ。

 

 

彩度が高い立ち絵

本作は「立ち絵」のみグラフィックが一新されており、かなり彩度がきつめの色合いになっている。"パキパキ"した感じ。

そのため背景は無印版と変わりないので「立ち絵」と「背景」のギャップに最初戸惑ってしまった。いやつーかこれは戸惑います。だってもうばっちり立ち絵浮いているもん。むむ、としながらもプレイしていると20時間くらいにはさすがに慣れたのか気にならなくなるけど。

あと「立ち絵」の「線」もまた書き直されている気がするんだけどキノセイだろうか? 無印版の線画には全然見えなくて、別の線画(酷似しているが印象が全然違う)ので余計に画面に違和感が伴っているのだと思う。

と思いきや……?

 

・無印版

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・三学期

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・無印版と三学期の立ち絵を重ねたもの

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 ・無印版

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・三学期

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・無印版と三学期の立ち絵を重ねたもの

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(ポーズは一緒だけど、立ち絵の表情差分は同じものではないのはご愛嬌ということでひとつ)

それでも2つの立ち絵を重ねてみると「ぴったり」と綺麗に重なる。服は違うのであれだけど髪の毛はわかりやすい。

つまり線画は一緒だけど、「塗り方」の違いで同じ線画に見えなくなっているという事なのか……。確かに姫の髪の毛の陰影や、(中の)線の入りかたは三学期とは違うものね(右手でつまんでいる髪の毛は顕著じゃない?)

なるほど。

「色の塗り方」「陰影の付け方」が私はあまり好きじゃないということか。というか色調バランスガタガタな気がして辛かったです。

 

 

 

「心の声」にボイスがつかないの好き

つよきすって「心の声」にボイスがつかない。例えばあるキャラクターが

(乙女さん元気ないな)

と心の声が文章化すれば当然のように「ボイス」が付与されるものだけど、無印版・三学期ともにそういったシーンではボイスがつかない。最初これ「あれ?ここではボイスつかないんだ」と戸惑うけど、慣れてくるとこれはこれでいいなと思えるのだ。

つまり「発話」されたものはボイスがつき、「非発話」は外界に声を発したわけではないのねこれは。こちらにもその声は届けられないという側面が私は好きなんだと思う。

あと単純にボイスがつかない分(最後まで聞く必要がないので)さくさく読める点も気に入ってる。

なんというか異化効果っぽくていいのだよね。

 

 

 

キャラに違和感を覚える

微々たるものだけど、乙女さんとレオとスバルのキャラがびみょーに違う印象を受けた。

もしも乙女さんの人格が誰かに乗っ取られてなりすましが行われているならば「ねえ、乙女さんじゃないでしょ?」と面と向かって言う感じに、微々たる差異を――けれど明確に――感じる。

例えば乙女さんは主従関係にこだわっていて「レオに何かされる」ことにストレスを感じる人なのだけれど(無印版のH等)三学期ではレオがそのような行動を取っても別段怒らないし気にしていない。

この流れで語るならば乙女さんが

「どうだって言われても。世界を半分やるとか言い出す魔王みたいだな」


――鉄乙女/『つよきす三学期Full Edition』

なんて言わないと思うのだよね。だってあのひと機械音痴だし、ゲームだってろくにやったことがないはずなのに、なぜ「魔王ネタ」を知っていてかつこんなさらっと言えるのか。ちょっと違和感あるのだけど、他の人はどう思ったんだろか。

あとバスケでのこれも

 

「お前に足りないものそれはぁーーーーーっ! 情熱思想理念頭脳気品優雅さ勤勉さそしてなによりも!」

「速さが足りないッッ!」

 

――鉄乙女/『つよきす三学期Full Edition』

 

これがカニとかフカヒレあたりが言うならわかるんだけど、規律を重視する乙女さんが言うとあまりにもはっちゃけ過ぎて大分変な感じを受ける。

あとスバルの持ちかける同性愛ネタって無印だとさらっとしているんだけど三学期はやたらしつこい。何度も引っ張るし身体的スキンシップが多くて「ん?」ってなる。こういうところも『つよきす』の把握度の低さを(私は)感じてしまう。

 

 

ヒロイン豊富

ヒロインが多くてちょっと辛かった。実質7人。5人目の物語を読み終える頃にはだいぶへとへとになっていて、なんだか疲れてしまった思い出がある。個人的に近衛素奈緒√以外全て「これだ!」と思うほどには面白くなかったのも気だるさの一因があると思う。全部面白かったならばここの印象は反転していたに違いない。

逆に近衛素奈緒√は(悪人の粗悪な介入に目を瞑れば)素晴らしい。本当に良かったよ。それはある方向で見ていたものを別の方向で見ることで、物事の多面性を明らかにしたこと、つまり「再解釈」による素晴らしさを目の当たりにしたからである。こういうのは本当大好き。

 

ちなみに選択肢によってはセッ久シーンいかなくていいのは助かる。見たい気分じゃないとき私は多いので、あとで「おまけ」で個別に選べるほうが好きだなあと思うこの頃。(もちろん濃厚で意味があるそのシーンを読んでるだけで満足できるレベルならば本編中で展開されるのは全然ありですね)

 

 

 

ネットスラングで笑いをとる作品

ネットスラング……というよりは他作品のセリフも含めて、そういうので瞬間的な笑いをとることの是非について。いつか考えがまとまったら記事にしたい。

今考えているのは、私的にそれは「否」であり、なるべくならやらないほうがいい。やってもいいがセンスが大きく必要されるもので、大抵は残念な結果になりがちだと思う。

確かに無印版もそういうのはあった(ような気がする)けど、基本的には劇中内で場をあたため自分たちが作り上げたコンテキストで笑いを取ることが多かったと思う。カニがゴキブリをかばったり、祈り先生の奇術など。そしてそれは殆どの場合において(そして私において)成功し、いくつの腹筋が死んだことは数知れなかった。

逆に三学期は「劇中内コンテキストギャグ」よりは「外在的文脈によるギャグ」が過剰で笑うには笑えなかったなと。それも「本来いいそうにない」乙女さんが、(先述したように)RPGネタをツッコんできたり、門前での挨拶をきっちりこさななかったり、バスケで「お前に足り ないものそれはぁーーーーーっ! 情熱思想理念頭脳気品優雅さ勤勉さそしてなによりも!」なんて言っているの正直どうなのよ。

という気持ちが強い。

やはり自分たちで文脈を作って笑いを取るほうがよく笑えるレベルになるのではなかろうか。逆にネットスラングや他作品のセリフネタ、声ネタというのは瞬間的なものになりがちだし、安易であり、うまくやらないと寒くて笑えないことが多いなと思う。

ただ「描き方」すべてなのは判っているので、こういった本来ならばマイナス要素も描き方で十分受け入れられたりすることもある。なのであらゆる全てに適用されるのは難しいのだけど、「往々にして」という話しならば十分可能だと考えている。

 

 

 新BGMと演出

 

本作で一番苦痛だったのは、「新BGM」だった。

無印版ではなかったえーとなんていうんだ「ムーディーで重たいピアノ曲」あるじゃない? あれが本当に嫌で、つよきすの雰囲気とまるで合っていないことに絶望していた。

私だけかもしれないけど、とにかく、このBGMだけはありえないといっていいレベルに嫌いだった。つよきすってそんな「重たい」雰囲気をかもす作品だったかなあという疑問だったのね。あとどうもそのBGMを挿入するシーンが変で――こういう描き方を言及するのは難しいのだけど――ストレスばかり溜め込んでいた思い出である。

私の嗜好の部分が大きいのはもちろん了解しているけど、三学期の新しいBGMはどれも肌に合わないのはなんでなんだろうなあ…。というより新しいBGMは全くもっていらないと思ったなあと。

あとオルゴール調の涙腺にくるBGMが間髪いれずに(鉄乙女√等で)何度も使われるのも辟易してしまった。そういうのは1√1回あるくらいが新鮮で、ぐっと惹かれるものになるけど、こうも安売りバーゲンされるとなんだか心が萎んでしまう。

 

 

 

 近衛素奈緒となぞきす

 本作で一番楽しんだのは『近衛素奈緒√』と『なぞきす』だけだった。

いやもう本当にこれだけしか私には面白くなかった。逆にこの2つはとても楽しめたので、そこだけは救いかもしれない。

後者はただのクイズゲームかと思いきや『涼宮ハルヒの憂鬱』のパロディになっていてその徹底ぶりに笑ってしまった。先述したようにパロディって劇薬ですこし間違えただけで寒くなるものなんだけど、『なぞきす』は序盤SQS団でハルヒを匂わせつつ終盤で村田の声ネタ、光の巨人の出現でこちらを殴ってくる感じとてもよかった。EDのこだわり具合(むしろここまでやって大丈夫なのか危機感を覚えるくらいに)出来がよいのもグッド。

あとテキストの質……と言えばいいのだろうか。それが三学期のどのお話よりも『なぞきす』のほうが高く感じられて(つまり読んでいるだけで楽しいため)満足感高かったなあ……。これは三学期の新BGMが一切使用されていなかったのも大きいかもしれない。

(三学期というよりは二学期のBGMもあるかもしれないがやはりCHRONICLE的にどうでもいい)

 

 

霧谷エリカの男声たまらない!

よっぴー√の「エリカとレオが入れ替わる」シーンは好きだった。これだけで一本√があってもいいんじゃないか!?いいよね!最高!と思うくらいに男声エリカさん素敵。声聞いているだけでヘブンズフィールいけるくらいに幸せになれるよ。

女性の男性声って……やばい。やばいぞこれは。

 

 

男どもの会話

レオの家で「レオ・フカヒレ・スバル・村田」の4人が雑魚寝するシーンがある。(瀬麗武√)

このときフカヒレは何の前触れもなく「ばぁ~~~~むクーヘン」と発言したり、レオがもう寝よぜと言いながら徳川ネタで周囲を賑やかす様はまさに修学旅行での就寝時の男子高校生そのものであり微笑ましかった。

「その無意味な発言の応酬」は最初はなんとなく楽しくて笑っているのだが、長引きすぎてだんだん白けていっちゃう感じもよく描けていたように思う。(いやレオ達は最後まで笑ってましたけどね)

ネタの引っ張りは三回までなのを痛感した。

 

 

初代をプレイしてからどれくらい「間」が空いたかで評価変わりそう

私がそうじて三学期の評価が低めなのは、つよきすFull Edition』プレイ後すぐに本作をプレイしたからこそかもしれない。

そりゃ間髪いれずにやればそりゃ初代と三学期の「どこがどう」違うのかはっきりと分かってしまうものね。おそらく無印版をプレイして「3年」以上経過してから三学期をやるのと、「一月以内」でプレイするのではその差異性の指摘の精度は違ってくるし、それに伴う評価の変動も大きくなってくるだろう。

逆に本家プレイから3年以上のインターバルが状態で三学期をプレイすると、両者の差異性に気付くことなく「そこそこ楽しめた」というケースも十分にあるように思う。

だとしたら、それはちょっと惜しいことをしたかもしれない。(いやでも三学期のポテンシャルってそこまで高くないのでどうなのか)

 

 

 

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*1:余談だが『三学期』が『無印版』に比べ全体的に勢いがなく、盛り上がりに欠けるのもこのせいではないだろうか。

*2:=女性陣の立場が「上/対等」ではなく「下」、つまり男性の庇護下対象へとなってしまった

*3:もしかしたらこれは鉄乙女率いるヒロインが本家と大分性格が変わってしまった(強気な癖の強い女性という要素が剥落してしまった)からこそ起きたものなの かもしれない。無印版では強気な女性と恋愛に「発展」するところがめちゃくちゃに難易度が高いため物語の大きな山場になったものの、三学期ではみんな簡単 にレオを好きになるので大きな山場がこういったものに挿げ替わってしまったのではないだろうか。