物語は朝焼けの色みたいなもので、ただそこにあるだけのもの。(3347文字)

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当たり前のことだが、物語を「見る」ことと「語る」ことは違う。

全然違う。

「見たもの」は語れないし、語ったとしても「見たものを語った」というふうに落ち着いてしまう。赤色を見たときそれを「赤色だ」と言うことは出来ても、赤色の感覚を言葉には出来ないのである。せいぜい◯◯のようだとか、△△に似ているとかそんなふうにしか語れず言葉に置き換えた途端 "見たもの" はまったく別物になってしまう事が分かるだろう。

実際の世界と、紙の上の世界は違う。

物語を見るとはクオリア(=感覚質)であって、それを感じる事はできても、(完全な)言葉として表現するのは不可能なのである。もちろんこの「見る」を「読む」に置き換えても同じだ。

映像媒体だろうが、文字媒体だろうが、音楽媒体だろうが、それを"読"んだ際に生じるテクストは――『果つることなき未来ヨリ』の言葉を借りれば――「それは朝焼けの色みたいなもの、ただそこにあるだけのもの」と言えばいいだろうか。

 

「悪いね、アタシも言葉には出来ない。朝焼けの色を説明できないのと一緒さ」

――アイラ/果つることなき未来ヨリ

 

『CARNIVAL』の生を、『ナツユメナギサ』の多幸感を、『ギャングスタ・リパブリカ』が到達した真善美に――一体どれほどの言葉を尽くせというのか。何千何万もの単語を連ねても "それ" に全く届かないことは誰でも分かるはずではないか。

こんなのは至極当然のことであって、今更述べる必要なんてないのかもしれない。

多くの人は作品と批評を区別できているし、批評を読んでても「言葉の上で表現したらそうなるよね」と理解しているし、そこを踏まえた上で「言葉の上の楽しさ」を味わっていると思う。

・・・ほんとにそうだろうか。

むしろ大方は「見る=語る」図式を疑ったことすらなく、ある批評を読めばそれがその物語のことだと判断するし、言葉にできることがその物語の全てだと判断する事が圧倒的に多いのではないか?

・・・叙述と物語がイコールだと錯覚してはいないか。

よく「説明できなければ本当の意味で理解していない」なんて言われるが、クオリアの件を持ってくれば「朝焼けの色を理解していてもそれが言葉にできない」なんて事実は腐るほどある。『理解する力』と『言語化する力』は別々なのに、それを一緒くたにされるのはなぜだ? 2つは不可分であると看做されているとしか思えない。

こういう誤認は、私は良いとは思っていない。

物語とは"見て""聞いて""感じる"――「ただそこにあるもの」を感覚することが大事であり、いくら流暢に話せても感覚出来ないのであれば不幸としか言いようがない。

これは『ナナミ課題』(=未経験の事象を信じられる力)と同じくらい重要なことであり、「物語とは朝焼けの色みたいなもの」を実感として、皮膚感覚として、理解できなければ悲しい出来事だ。

 

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こう言うと「物語は言葉にしないほうがいい」と誤解されそうである。確かに反解釈の記事ではそのような事を話したが、とはいえ言葉にしなければ他者に伝達/納得させることはできない。

あの物語はいかに素晴らしいか、どれほど胸を打ったのか、それは適切な文章を組み上げなければうまく伝わらないのだ。

「すごい!!!」「名作!」なんてワンフレーズで表すことも出来るが、それは主張であって根拠ではない。どこがどのようにしてすごいのか、どこがどのようにして名作なのか、ここをきっちり説明できなければ「お前がそう思うならそうなんだろ」で終わりである。

関連→『お前がそう思うんならそうなんだろ』の使いドコロ

しかしそれは口で言うほど易いわけじゃないし、簡単に出来るわけじゃないだろう。

だからこそ、心の様相を伸び伸びと言語化できる者に、己の内面から物語を拾い上げる者に私たちは憧れてしまうのかもしれない。

その憧憬はいつしか「別段語りたいと思っていなかった者」ですら、語ろうと思わせるのかもしれない。そうして語ることは良いものとされ、けれど上手く言葉にならないからこそ語り得ないことを恥じてしまうのかもしれない。

「無根拠への忌避」と「言語化ができる者への憧憬」が混ざりあった結果として、「見る=語る」という図式が出来上がってしまったのだろうか。

いずれにせよ私が言いたいのは、「見たもの」は言葉には出来ず、されど他者に伝えるためには言葉にしなければならない。という無理難題がここにはあるということだ。

いっそのこと何も語ろうとせず、無根拠でいい、そう開き直れば楽だと思う。「あいつは自分の気持ちすら言葉に出来ない」と嘲笑われることをよしと出来るならば問題ないではないか。*1

それに、言葉化を求めた先には「語るために語ろうとする」というのが待ち受けている。これは予想以上に強敵であり、物語を楽しめなくなる一原因でもある。

作品を読む大多数の目的は愉悦や快楽を味わうためであるが、一部の人にとってはその作品をいかに言葉に置き換えるか、いかにその文物を他者に評価してもらうかが肝要になる。

関連→作品批評は誰のために、そして何の為に(18205文字)

となれば、物語を読みながら頭の中では常に「言語化」が行われるわけで、自ら「見る」行為を遠ざけてしまうし、楽しむもなにもなくなってしまう。ううん、違うな。より正確には楽しみ方が言語化の愉悦になってしまうのだ。

これが「語るために語ろうとする」ということ――そうして物語を「見る」ことは次第に失われ、代わりに言語化能力が上がっていくというわけだ。

だから私は積極的に作品をレビューすること、感想を書くこと、仲間内で語り合うことは諸手を挙げて賛成出来なかったりする。そういう弊害もあることを知ってもいいかもしれない。

――ただし、言葉にし続けていくと「感覚する力」が養われていくのも事実である。矛盾してない?と思われるが、相反する要素が同時に成立しているとしか(今の)私に言えない。

「ある何か」を言葉にし、あるいは言葉にするために様々なものを掻き集める過程は、いつしか「ある何か」が種子となり、自らの中で芽吹き、次第に巨大な樹木へと変貌を遂げようとすることがある。

このとき、それが自らにあるのとないのとでは「見えなかった情景」が「見えたり」、「感覚することができなかった」ものを「感覚する」契機となりえる。

これは言葉の性質である「具象化」することのメリットと言えるかもしれない。今までの自分には無かったもの、曖昧だったものを、固着化させることでそれが呼び水となり感受の幅が広がるのだと。

例えば、一度「物語」という曖昧然とした単語についてじっくりと向き合ってみる。物語とはいかなるもので、一体何に役立ち、私達はなぜこれほどまでに熱中し、そして何を奪われ、何を与えるのか。それともそんなことは一切もたらさないのか・・・といったことを一つ一つ積み上げていく。

すると、物語を軸にした作品に出会ったとき、言葉(=思索+具象化)しているのといなかったのではその作品に対する見え方は随分違ってくるはずだ。

  • 「言葉にすれば感覚する力は遠ざかり」
  • 「言葉にすれば感覚する力を養う」

この2つは両立するのだとしたら、作品の言語化はしないほうがいいんだろうか?それともした方がいいんだろうか?

私は「物語は朝焼けの色みたいなもので、ただそこにあるだけのもの」という事を了承できていればどちらでも構わないと思う。それさえ踏まえていれば、言語化への理解もあるということだし、どのようにそれを「使えばいいか/使わないか」も知っているだろう。

もしも言葉にし続けて、作品の価値を見失ってしまったり、そういった状態に自分が陥っていると感じたのならば是非この言葉を思い出してくれればいいかなと思う。辛かったら休めばいいし、無理して励む必要はない。

叶うならば『果つることなき未来ヨリ』のアイラ√を押さえてくれれば、ここの理解はより深まるはずだ。

 

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ナツユメナギサ

 

*1:ギズモのように言語の枠組み(=OS)を取っ払って世界を直視できるのならば、それはそれでアリかもしれない。