<恋色空模様・一連エントリ>
『恋色空模様』の何がダメなのか、どこが引っかかり批判したいのか語っていく。
今回は「読者の価値観」に優位を置いた意見を提示し、後日「物語の価値観」を踏まえて本作の批判は批判足りえるのか探っていきたい。(以下、外在的な語りなので注意)
(1)藤堂春樹の昏睡
藤堂春樹は有馬の手先にやられ昏睡してしまう。このとき署名用紙がひらひら舞いながら地面に臥す春樹のCGが表示されるのだが、これは本作流のギャグなのかなと思ってしまった。
というのも第1章は過疎った島で起こるドタバタラブコメディものであり、ボケツッコミギャグの応酬が多く、シリアスなシーンもシリアスに見えなかったり、ギャグテイストに回収される世界観だったからだ。
例えば蹴り飛ばしたら空の彼方まで吹っ飛ぶとか(主に久志が)、何度殴られてもすぐ立ち直るとか(主に久志が)、殺意によって教室の大半が保健室送りになるとか(佳代子の仕業)といった具合にである。
さらに有馬の手先(=チンピラ)はどこからどう見ても格下の風貌であり、すぐに倒されキャンキャン鳴きながら逃げる雰囲気を醸していたが故に、そんなギャグシーンに見えてしまったのだ。チンピラの「うっせーな!早いもん勝ちだっつの!」という台詞から滲む、負け犬臭はよりその印象を強くさせている。
つまり、本来なら心配すべき出来事も、ギャグワールド的展開によって回収されてしまい心配すべきことじゃなくなってしまう―――これが「春樹が昏睡するシーンまでに」醸成されていた恋色空模様の世界観だと言いたいのだ。
だから、春樹が倒れても数瞬後には「頭殴られちまったけど大丈夫だったわ」とか「春樹大丈夫か?!」「ああ……大丈夫さ」といって病院に送られ数日後にはひょっこり学校に戻ってきていつもどおりの日常を送るのかなと脳裏をよぎった。
――恋色空模様
しかし、そうは行かなかった。
彼はこのあと長い昏睡状態に陥り、誠悟、久志は深い後悔に追いやられてしまう。なぜあの時ああすることが出来なかったんだと。あの時こう行動していればよかったなと、頭を抱え続けるのだ。
……ここの置いてけぼり感が強い。
春樹の倒れ方がギャグにしか見えない以上、彼が倒れたことへの周りの心配や後悔する気持ちがこちらに伝わってくるわけがないし、これをきっかけに伊東誠悟が廃校撤廃運動に身を乗り出してもイマイチしっくりこない。逆に、これらもひとつのギャグ的対応なのかなと思ってしまったくらいだ。
ステレオタイプの三下チンピラに昏睡させられてしまう同級生。それを心配する周囲の者たち、同級生の想いを引き継いで廃校問題に立ち向かう主人公―――ってもはや茶番にしか見えない。
これが笑いを誘うためのものならば茶番でもいい、それに乗っかって楽しもうと思う。だがこの一連のシーンはコメディではないし、本気の本気で大真面目に物語が進行している以上『恋色空模様』は "そういう" お話なのである。
(なんだこれ)
さらに言うならば、クルセイダーズ編の終盤で今まで昏睡していた藤堂春樹は唐突に目を覚まし、(なぜか)すぐさま学校へ向かい、(なぜか)教師から暴行を受けている誠悟を助ける。一月以上も床に伏せていたにも関わらず(速攻で)学校へ来るのも不可解だが、リハビリもしていない身体を快活に動かす様を見て
なんだコレと私は思った。
……
…………
(1-1)別の世界観が唐突にあらわれては消え、また現れることが問題
(1)でも語ったように、最初はギャグワールドが展開されているものの、「藤堂春樹の昏睡」のように今までになかった世界の価値観が局所的に挿入されている。
今までのギャグ的価値観ならば致命傷を負っても致命傷ではなかった、とされていたものがいきなり致命傷になってしまったと言えば分かるだろうか。終盤ではまた局所的にギャグ的価値観が戻る(=春樹目覚め学校へ向かう)ので本作は全くもって世界観が統一されていない、ちぐはぐな作品だ。
これに留まらず、佳代子√では「殺し屋の家系」「人を殺していた過去を持つ少女」といったまた別の世界観が現れもう何がなんだか分からなくなっている。
本作は「ラブコメ」「神那島の土地利権問題(=廃校問題)」の2つを中心に描く現代風作品にも関わらず、なぜ、殺し屋なんて要素が入り込んでくるのだろうか。
前者で少年少女のMicroを描き、後者で社会という名のMacroを描いているので両者は結びつきやすい。温和でおばかな彩や春樹を知っているからこそ、廃校に憤れば「いつも笑っている彼らが怒るくらいに学校とはそんなにも大事な場所なんだな」と理解が進むし、自分たちの慣れ親しんだ日常が社会的な思惑によって脅かされるのはなんとかしなければと危機意識も生まれる。だから2章・クルセイダーズ編に突入するのも(一応は)納得できるのだ。
けれど「殺し屋」とは? 人の命を奪う生業? え? ここの世界ってそんな世界だっけ? いきなりAct of Killingの世界に変わり廃校問題がちゃちな問題にしか見えなくなってくる。佳代子の内面の疵を描くにしてもなぜこんなにも違う世界観を持ってこなければいけないのか理解に苦しむし、お粗末だと思う。納得感がまるでない。
これが『鬼畜王ランス』『キャッスルファンタジア~聖魔大戦~』のように始めから忍者魔王中世ヨーロッパ巫女さんいろいろ出てくる的世界観ならば問題ない。そういう「ごっちゃ煮」の世界だとはじめから明示されているのだから、後にどんな価値観が挿入されようともそこにはあらゆる可能性を包括できる器の広さがあるからだ。
また「超展開」と呼ばれる今までの世界観が唐突に破壊され別の世界観へ塗り替わることも本作には当てはまらない。なぜなら「殺し屋」の世界観は佳代子√だけにしか反映されておらず、これが全√に影響を及ぼすほどの「超展開(=唐突な世界観の塗り替わり)」ならば――その表現力は置いておいて――受け入れることはできる。ああ、そういう作品なのだなと。
つまり 別の世界観が局所的に挿入されたり戻ったりすることが 都合のいい展開づくりを匂わせ、かつ突貫工事のような物語強度の低さを露呈させてしまっているのが問題ということだ。
(2)力ない人間を、力ある人間として描いてしまうこと
主人公・伊東誠悟は「騙し合い・企画立案・頭脳戦」に関して周囲から評価が高く、神那学園の風雲児・篠原聖良も一目置くほどだ。
クルセイダーズ編に入ると親友の久志、敵対者である教頭、岡田、有馬からも優れた人材だと語られるのは誰もが知っている通り。
久志「そういう意味では、誠悟の行動力はすごいよな」
久志「この資料だって、親父さんのツテとはいえ、それを頼み込んで、こうして調べて貰ってるんだからさ」
久志「正直、自分の無力さを痛感させられる。僕では誠悟のようにはなれない」
優喜「なんだか、そういう気持ち、分かる気がする」
優喜「私にも、聖良っていう、越えがたいライバルがいるからね」
久志「お互い、ズバ抜けた才能を持った親友を持つと、苦労が絶えないね」
――恋色空模様
教頭 (伊東は、そこまでしっかりとした裏付けを調べあげていた、というのか)
教頭(なるほど、有馬様が伊東の事を執拗に気にしていた理由がようやく分かった)
教頭(これほどのことを出来る逸材を、我々は教職者であるにもかかわらず埋もれさせようとしていたということか)
――体育館にてDIY部顧問偽装にて問いつめられるシーン手前/恋色空模様
有馬「やれやれ……」
有馬「今回の件は、校長たちが無能だった、というよりも伊東くんにしてやられた、といった感じですね」
有馬「さすが伊東博士のご子息、と言うべきでしょうか」
有馬「やはり、こんな辺鄙なところで収まらせるには惜しい人材だ」
――街にてぶつくさ語る有馬/恋色空模様
有馬「彼は貴方が思っている以上に強い、ですよ? 貴方がたや、私のように利己的ではありませんからね」
――校長の奢りを窘める有馬/恋色空模様
有馬 「しかし、くくっ、伊東、誠悟くん、ますます欲しくなってしまいましたよ、彼のことが」
有馬「いやはや、彼の着眼点の鋭さには京福してしまいます」
有馬「あの洞察力と、頭の回転、そこに経験が加われば、くくっ」
――誠悟廃校問題の裏事情に気付き、有馬に問いただした後/恋色空模様
岡田「ヤツが執心するのもよく分かる」
岡田「まさかここまで強かな男だったとはな、くくっ」
岡田「佳代子、お前の選んだ男はこんな状況下で、ここまで頭が回る男だったというわけか」
佳代子「え?」
岡田「よかろう。どの道、仕事に殉ずるよりも、己の死を選ぶような "出来損ない" に何の価値もない」
――佳代子√終盤/恋色空模様
正直、誠悟は「多少行動力はあり、多少頭が回る」程度でしかない。
なぜなら誠悟が成したことは、聖良との鬼ごっこで勝利、聖良のスカートを捲って動揺させ、体育祭で騎馬戦で指示を出し、クルセイダーズ決起&指揮を取る。顧問偽造のため教頭の判子を盗み、校長の部屋を勝手に漁り、インターネット某掲示板で情報収集し、有名な専門家に海洋研究所への疑問をメールで送り、神那学園の土地権利書を持っている粕谷氏に直訴、内海翁と会話する段取りをつけ廃校問題について直訴……くらいだからだ。
同級から「キミってすごいね。頭きれるね」と高い評価を得る分にはいいが、大人たちまでも「ヤツが執心するのもわかる」と言ってしまうのはいくらなんでも過大評価だろう。
有馬は誠悟を「欲しい人材だ」と語るが、この程度でスカウトするか?いますぐ社会で使えるか?……といったらNOだし、神那島にこだわらないなら世の中にもっと有能な人いっぱいいるでしょ。有馬の職業からして低所得でボロ雑巾のように使いたいと言うならばわかるが、教頭・岡田もべた褒めなので違和感しかない。
伊東誠悟は自己評価どおり「ふつうの人間」なのだ。家事が出来て、DIYが出来て、すこし頭が回るかもしれないけどえっちいただの男子生徒なのだ。しかし誠悟の評価とは裏腹にまわりは彼を持ち上げ、誠悟が「いやいやそういうわけじゃ」と言うと「謙遜しなくていいんですよ?」と言い続ける。(誠悟もまんざらではなさそうだが……)その繰り返しによって『恋色空模様』では「伊東誠悟はできるヤツ」なんていうバカげた価値観を醸成しているのである。
でもね、いくらなんでも力ない者を力ある者として――凡夫を才人として描くのは無理がある。
凡夫を凡夫として描く、才人を才人として描く分にはいいがそうでないものを逆に描くのはなにかしらの皮肉だったり、あるいは寓話だったりするものだ。しかし『恋色空模様』は大真面目にこれをやり、その無理を押し通す分だけ、その歪みは強くなっていく。
ただの男子高校生を、学生達から大人まで持て囃すこの構図。これは一体何なのだろう?
(3)おこちゃまな世界
『恋色空模様』では「廃校阻止」が絶対正義だと言わんばかりに、学生はそれを一方的に訴えかける。一応は反対側の意見も斟酌するのだが、その汲み取りかたが表面的だし、汲み取っているようには中々見えない。
「とりあえずお前らの言い分は分かった、でも俺たちのほうが絶対正しい」――みたいな視野狭窄感を覚えるのである。
例えば、なぜ有馬が神那島の土地を手にしたいかの全貌を掴んだことをクルセイダーズ員に伝える場面がある。誠悟は「金を欲する」という一点で廃校を推進してる者を「いい大人がこんなことするなんて」「金の亡者が」と批判するのだが、、、
誠悟「有馬のクライアントが欲しがってたのは、何かを建てるための土地ではなくて、いずれ高騰する可能性のある神那島の土地そのものだったってことですよ!」
何が工場島になるかも、だよ。
確かに将来的に見たらそうなる可能性はある。
だが、大人たちはもっと打算的だった。
将来性のある安い土地を、安値の内に買い叩き、高くなったら売り払おうってことか!
いい大人が寄って集って、盛大な大土地転がし大会かよ!
金、金、金。
どこまでいっても金のことしか考えられない、金の亡者どもが!誠悟「そんな、そんな下らない理由で、神那学院は…」
全容が見えたようで見えなかったのは、そういうことだったんだ。
――恋色空模様
金を欲しがる人を誠悟は見下すが、しかし彼だって毎日の着るもの、食べるもの、住む場所、学費に多大なお金が使われておりことお金に関して無関係ではない。生活を維持するため、生活を快適にするため、自身が欲しいものを手に入れるために「お金」が必要ならばそれに執着することは下らなくはないし、逆に下らないと言い切ってしまうのは彼がまだ親の庇護下にいて「お金のことを考えないですむ環境」にいるだけにすぎず「お金が必要になる環境」に突入していないだけだろう。
お金が欲しい!という動機による行動は、個々人が生産し供給しサービスの提供を促し、世の中の価値あるものがどんどん増えていくので結果的に世の中全体は豊かになるわけだけど、そういった経済活動が悪いことなのか? と考えると私はそうは思わない。
行き過ぎた成金主義者に辟易する気持ちはわからなくもないが、今回(この時点では)「神那島の発展」という意義も見えているのだから何故ここまで一方的に否定できるのか甚だ疑問だ。お金を欲しがること、儲けることにここまで嫌悪感を出している理由を彼自身答えられるのか? 「なんとなく」でしかないんじゃないのか? 劇中では「なぜお金を得ようとすることが駄目なのか」はついぞ語られなかったし、そんな曖昧な理由で廃校を推し進める人々を否定することは出来ない。
こういった「反対側の意見を斟酌せず、自分の意見が正しい」と思っているのは誠悟に限らない。クルセイダーズ員はその傾向が強く、粕谷氏の直談判のシーンではより顕著になる。
粕谷氏は神那学院の土地の権利書を持っており、彼が廃校に反対してくれるのなら廃校阻止の目標は現実味を帯びてくる。だからクルセイダーズとしては(なんとしても)粕谷氏に土地権利書を推進派に渡して欲しくはない事情がある。
だからといって、以下のような態度を取るのは失礼にも程があるし、非常識な行動だろう。
美琴「お願いします! 話だけでも聞いてください!」
美琴「お願いします!」
藍子「反応がありません」
加代子「私が言うのも何だが、これは相当な偏屈者だな」
藍子「美琴ちゃん、どうしますか? 誠悟さんの言う通り、何か方法を考えないと無理っぽいですよ?」
(中略)
美琴「もう! 聞けー! 話聞けー! 出て来ーーーい!!」
――恋色空模様
何がひどいって、まず「お願いをする」立場の人間がなぜこうも上から目線なのかよく分からないし、開口一番「お願いしますお願いします」と自分たちの主張をごり押しするばかりで粕谷氏の意見を聞こうともせず「偏屈な爺さんだ」と切って捨てる佳代子は何様なの? 挙句、家の前で怒鳴り込む美琴は一体どういう了見なの?
こんな振る舞いをする彼女たちの話を聞こうと思う人はいるのか? デリカリーのない言動を取っていることすらも客観視できない人の意見を? 「自分の望み」と「相手の望み」が区別できず「自分の望み」はイコールで相手が受け入れてくれると思い込み「自分の望み」はどこまでも正しいと盲信している学生の話を? まさか。
しかし後日、粕谷氏はなんだかんだいいながら話を聞いてくれるのだ。なにこのお爺さん器広すぎる。
そして案の定、美琴はこういう態度である。
粕谷 「ワシは面倒事はごめんなんだ!」
粕谷「大体、学院がなくなるってだけの話だろ? それがどうした?」
粕谷「おまえらの味方になって、ワシに一体、どんな利益があるってんだ?」
美琴「な!」
美琴「そうやって、大人はみんな、自分の利益のことしか考えない!」
美琴「なんで私たちが、そんな大人の汚い思惑に踊らされなくちゃいけないんですか!」
――恋色空模様
粕谷氏の質問には答えずヒステリーで返す。さすが美琴ちゃんです。粕谷氏は廃校推進派となんら関係が無いにも関わらずざっくり一纏めにして批判するなんて尊敬しちゃいます!私だったらそんなこと絶対にできませんから!!
…
……。
結局のところ「校長室で立て籠もった下っ端クルセイダーズ員」と「初期メンバのクルセイダーズ員」は本質的に同じなのだ。自分たちには大義名分があって、絶対に正しくて、何をしてもいいと思っている。それが大事になるかならないかの違いでしかない。
『恋色空模様』は誠悟たちに誰も本気で批判しないし、誠悟達は大人はみんな悪いヤツらだと思っているし、自分達の行動を顧みないし、批判精神なんて何処にもない "おこちゃまな世界" がここにはあるのだ。
まとめ
これまでの批判をまとめるとこうなる。
①局所的に別の世界観が挿入されたり戻ること
②凡夫を才人として描くこと
③おこちゃまな世界
ひとつづつ見るとそこまで致命的なものではないかもしれないが、この①②③が合わさるとそこにはどうしようもない茶番劇が生まれてしまう。
三下チンピラに昏倒させられる親友、と思ったら主人公の窮地に目覚めなぜか学校に来てなぜか身体が快活に動かせたのは身体が頑丈だったから。昏倒した親友の意志を組み廃校問題に立ち上がる主人公は島中から「きみってすごい!」って薄弱な根拠で持ち上げられ出来ないヤツを出来るヤツとして扱われれ、結成したクルセイダーズは自分たちの意見は絶対的に正しいと信じる少年少女の集団であり、土地権利書を持つ人の家で大声で怒鳴り散らす事に誰も疑問を持つことはないし、また反対側の意見は表面的にしかなぞらなくあるいはヒステリーで一蹴した。個別√ではあるヒロインは実は殺し屋の家系であることが発覚し、その兄が殺しに来て、家が燃え、ヒロインは殺人人形(Killing Doll)であることを乗り越えようとする。
………もうねダメだと思う。これダメだと思うよ。
さらにプレイ時間は膨大で40~60時間程であり、つまり↑の内容を長時間読まなければいけないということになる。付け加えるならば2章・クルセイダーズ編でシリアスな展開を長時間やったと思ったら、個別√もシリアスなのでひたすら疲れる作品になっているのも(私の)低評価の後押しに繋がっている。
…ほんっと、久々に詰まらない作品に出会ってしまった。
ボロボロに批判したいわけでもないが――作品外形の良さはちゃんと評価すべき点なので――けど控えめに見て良い作品なんかでは全然ない。全くこれっぽっちも。全くもって誰にもおすすめしようとは思わない。
■おわり
さて今回は読者側の価値観――つまり私の価値観を優位にして恋色空模様を批判した形になったが、再度別記事では「物語の価値観」を踏まえながら今まで語ってきた批判はどう受け止めるべきなのか、あるいは妥当なのか見ていきたいと思う。
――次回予告
「恋色空模様に『失敗』はあったのか?」
▼
<参考>
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*1:平凡な男子高校生が田舎小島にやってきたら、島民が異様なくらい褒め称え、持ち上げ、能力があると大絶賛する。きっと死ぬときは劇的に死んで全員が悲しむに違いないこれを"メアリ・スー"の風刺と考えることも出来るだろう。伊東誠悟への島中の評価と読者との実感があまりにもかけ離れているのはわざとやっているにしか思えず、しかし故意であるならば何らかの揶揄・皮肉だと考えると筋が通るからだ。"メアリ・スー"は二次創作におけるキャラクター造形を指す言葉だが、もしこれを風刺にしたならば本作のようになるのだろうなと思えた。能力がない or低いにも関わらずなぜか「能力がある」と評価される状況はそこに異化効果に近いものを呼びこみそれらを直視させるからだ。もちろん穿った見方なのは承知しているので、これが本作が描きたかったものとは全く思わないが、しかし穿った見方だと踏まえた上でそういう解釈もあるだろうと提示したい。余談として。