恋色空模様に『失敗』はあったのか?②
<恋色空模様・一連エントリ>
作品における『失敗』を「作品が描こうとしていたものを作品自ら阻害しているもの」と定義する。自ら反目し、矛盾を引き起こし、障害と立ちはだかる要素要素が存在する時それらを『失敗』と呼ぼうと思う。
では『恋色空模様』にそんな『失敗』はあったのだろうか?
(1)恋色空模様の描きたかったもの
「作品が描こうとしていたもの」に絶対的な答えなどないので、ここは各々が解釈し見定めなければならない。私の解釈を語るならば「田舎小島で女の子と一緒に障害を乗り越えいちゃラブする物語」だろうか。
本作は1部でヒロインとの出会いと日常、2部で廃校問題、3部で各ヒロインの個別√を描き、全体を通してヒロインとのイチャイチャラブラブが合間合間に挿入される構造になっている。
このため「ヒロインと一緒に障害を乗り越えること」と「ヒロインといちゃいちゃラブラブ」が本作における主軸だと考える。
これを踏まえて、先日の批判内容を鑑みるとどうなるだろうか。
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この記事では、下記の3つが問題であり、本作を茶番劇におとしめている原因であると語った。
- 異なる世界観が局所的に挿入され戻ること
- 凡夫を才人として描くこと
- おこちゃまな世界
しかしこの①②③は、『恋色空模様』が描きたかったものと反発しているわけではなかったりする。
「①異なる世界観が局所的に戻ったり挿入されること」は、「ヒロインと一緒に障害を乗り越えること」を生成させるための手段であり――ものっそいレベルの低い表現方法だが――これによって親友の昏睡、チンピラ、殺人人形という障害が生まれ、伊東誠悟とヒロインにとって乗り越える壁が出来上がる。
「②凡夫を才人として描く」は、普通の主人公にヒロインが好意を寄せる展開を手っ取り早く作る手段であり――ものっそいレベルの低い表現方法だが――これによって2部での合間合間に挿入されるヒロインとのデートごっこやいちゃいちゃ、3部の個別√に至るための好意の積み重ねを素早く描ける。
「③おこちゃまな世界」これは批判精神がない世界ということなので、つまりクルセイダーズ員は自身の行動に疑問を呈すこと・葛藤することが極限に抑えられ――ものっそいレベルの低い表現方法だが――スムーズなストーリー進行が狙えるだろう。
つまり、『恋色空模様』が描きたかったものを「田舎小島で女の子と一緒に障害を乗り越えいちゃラブすること」と捉えるならば、先の批判は批判ではなくなり、むしろその主張を後押するものとなり、本作における「本作自身を反発する要素」はなかったという結論になる。
本記事上の『失敗』はなかったと言っていいと思う。
<恋色空模様・一連エントリ>
FD出てたのね…と驚く。
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