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恋色空模様の表現力の低さは『失敗』にはならないのだろうか③

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 恋色空模様の表現力のなさ

 

『恋色空模様』の記事をこれまで書いてきた。一つ目は私の価値観を優位にした批判を、二つ目は物語の価値観を優位にして一つ目の批判が批判足りえるのか探ってみた。

詳細は当該記事を見て頂くとして、

 

eroge-pc.hatenablog.jp

eroge-pc.hatenablog.jp

 

 

結論は『失敗』はないというものだった。本作は本作自身が反発する要素はなく描きたいものを描いているということで落ち着いた。

いつもの私ならここで満足していた。ある作品を「読者」と「物語」の2つの価値観で区分けし、それぞれの視点で見て、読者の主張は妥当か否か、物語は何を描こうとし何を描けなかったかを汲み取り終わっていた。

しかし『恋色空模様』に限っては、「確かに本作は「田舎小島で女の子と一緒に障害を乗り越えいちゃラブすること」は描けているが、その描き方のレベルの低さが『失敗』にならないかと問われると……悩む」という状態に陥っている。

描きたいものを描いているが、それが、十全に十分に、描かれているかという視点を今まで意識的にしてこなかったので、ああそういうステージの話もあるのだなと思いもした。なるほど。

今回でいえば「①別の世界観が挿入されたり戻ること」「②凡夫を才人として描くこと」「③おこちゃまな世界」の3つそれぞれその要素要素が存在するからどうというよりは、これらをそう思わせてしまう描写力が不味いという話になるかもしれない。

例えば①はうまくやれば「超展開」という技法になるし、②③はうまくやればある卓越した批評行為にもなり「皮肉・風刺」を表すことができる。それが作品における評価の向上に繋がることも多々あるだろう。

しかし言わずもがな、『恋色空模様』は論外レベルで表現力がない。控えめに見ても無理を押し通しすぎだし、納得感なにそれ?という具合に春樹がいきなり昏睡したり、かと思ったら都合よく目覚めたり、殺人人形(Killing Doll)を繰り出したり、学生から大人まで主人公を狂気的なまでに褒め称えたりと無茶苦茶だ。

つまり、本作の要素が悪い、ある要素要素が同時に存在するから悪いわけではなく、それらを表現するための力が無かった。これが問題という話になる。

いくら作品自身が描きたかったものが描けていたとしても、それは表面レベルの話であって、描き方が不十分ならば「作品自身が描きたかったものを描いた」とは中々言い難い。

今まで意識してこなかったがこの「作品自身が描きたかったものを描く」にはそれらを描いたかどうかという0・1の判断以外にも、それが十全に描けていたかつまり1-100の領域があるのだろう。

『恋色空模様』は前者を満たしていても、後者は満たせなかったというのが私の評価だ。そしてそれはやはり作品の成り立ちにおける『失敗』だとも思う。あるいは『半分・失敗』だろうか。

 

 

<恋色空模様・一連エントリ>

 

 参考

 

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