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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

紙の上の魔法使い感想・レビュー/噓でぐちゃぐちゃな物語を語りましょうか

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*ネタバレ注意

 1,噓でぐちゃぐちゃになった彼女の失恋譚/(かみまほ作品論)

 
『魔法の本』は現実に物語を開いて、人々に役を与える。

少女は愛を求める吸血鬼に、妹は世界から忘れさられ、幽霊は空を見上げた。今までの生活は空想に塗り替えられ、何が【本当】で何が【空想】なのか分からなくなっていく。

"登場人物を演じている時の私は本当の私? それともこの気持ちはフィクション? 君のことは好きじゃないのにそれでも好きにならないといけないのかな?"

色とりどりの疑問を咲かせながら、それでもキャラクター達は『魔法の本』を終わらせるために精一杯役を演じ続けるのです。一冊の本が閉じれば、また一冊、一冊と紡がれるそこには『虚構』と『現実』の奇妙な関係が描かれる、のではなく実際は「素直になれない引きこもりお嬢様の失恋譚」というものでした。

深み読みすれば遊行寺夜子はクリソベリルを振り払い、開かれた世界に踏み出す『現実へ帰れ譚』である

とか

遊行寺夜子は空想から現実へ生きる覚悟をしたように見えるが、既に死んだ瑠璃と人外である理央を拒絶していないことからも完全には空想を捨てきれていない。いくら活字から離れ、散歩するようになっても、彼女の周りは今までと同じく噓で塗り固められた世界であり、そこで生きようとすることのどこに「紙の上の物語を否定する意思」があると言うのか。これを『現実』と呼びならすのであれば、夜子にとって現実とはフィクションあってのもので「現実=空想」のAnswerstoryと捉えることも可能だろう。どちらも大切なものだから、どちらも在る世界で生きるのだと。しかし、一歩考えを推し進めると魔法の本に頼り――間接的に――月社妃を死に追いやった以前の夜子と何も変わっていない。空想と現実を等価、ないしそれ以上の価値があると判断したからこそ(無意識の欲求)として様々な魔法の本が現実を壊したというのに……、結局"おしまい/TrueEND"は前進も後退もしない結末ではないか

とか

「母親、親友、想い人を(間接的に)殺した遊行寺夜子が手にしたものは『告白する勇気』である。多くの犠牲によって得たものがたったそれだけなのもある意味すごいが、さらにすごいのはその告白は生前の四條瑠璃ではなく虚構存在である『紙瑠璃』に向けられる所だ。やはり現実で生きてこなかった彼女は"現実ではない"存在を愛すのですね? ああ、なんてアイロニー

とか

"現実に、紙の上の物語は必要ない" とクリソベリルの本を破くとき瑠璃は言うが、彼自身れっきとした魔法の本なわけで、それが真ならば瑠璃自身不必要な存在となる。しかし手のひらを返すように "(紙の上の本でも)俺は、ただ、生きたい"  "その願いを胸に抱きながら、穏やかで静かな人生を歩もうと思う" と後に語ることから彼の考えに一貫性はないだろう。有り体にいえば矛盾である。でもそんな矛盾は本作では至るところに散見するのだった。魔法の本によって振り分けられた役と本当の自分の『気持ち』、現実に死者が蘇るという『摂理』の齟齬、四條瑠璃の取っ替え引っ替えする『恋人』たち、少年を嫌いと言いつつも本当は好きな『遊行寺夜子の心』、クリソベリルを否定しながらも四條瑠璃たちを受け入れる夜子の『現実』、"本が見初めた役者がいなくなったら本は物語を諦める"という根本ルールがかなたのサファイアには適用されず『開っきぱなし』だったこと―――それらは食い合うことがないものの、俯瞰すれば『矛盾』これこそが『紙の上の魔法使い』を語る上で欠かせないキーワードである

とか

つまり作品の全体構造が相反する要素を肯定(=矛盾)し続けるものであり、それは『恋心』という一貫性の欠片もない、あやふやで、非合理な感情とよく似ている。好きでもないのに好きと言ってみせたり、嫌いじゃないのに嫌悪をぶつけてみたり、そんな『恋心』を本作は身体全体で描き切ってみせた

とか語ろうと思えば語れるものの、語るほどにそれらが前傾していません。これはおそらく『魔法の本』が作品を貫く程のテーマにはなっておらず、装飾的立ち位置に留まっているせいでしょう。

というのも、本作はまずぶっとい一本のストーリーラインがあり、そこから他ヒロインへと分岐していく形を取っています。

 

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この構造が他と異なるのは各√が並列関係にあるのではなく、布石のような体裁になっていること。

ローズクォーツの終末輪廻』『フローライトの怠惰現象』『ファントムクリスタルの極乱反射』は各ヒロインと結ばれたENDというよりは、「魔法の本によってもたらされたIf」という印象が強い。

どれも後味が悪く、夜子ENDにしてもその"ハッピーエンド"さが鼻につくテイストです。

でもそこには『設定』によって記憶が停滞し、自害を選択し、都合のいい幸福を与えられる結末が描かれるわけです。終局に至るための√だからこそ、アンハッピーでも許容されますし、そこで明かされた真実が物語を読み進める牽引力としても働くのですね。

例えば

  • 理央END/妃ENDにおける「設定を遂行する登場人物が自分の意志で物語を否定する」
  • 「妃が残した真実を捨てて『ホワイトパールの泡沫恋慕』(=噓物語)を四條瑠璃が受け入れたこと」
  • 夜子ENDにおける「本の担い手が『追加設定』に気づけず(縛られ)ハッピーエンドを迎える」
  • 個別√に入る時の「四條瑠璃の『選択』が恣意的である」

などが挙げられるでしょうか。

特に――紅水晶において――月社妃を愛している瑠璃が『愛すべき少女への、愛情の極み』を選ぶことで、いとも簡単に理央を好きになることは興味深いです。『選択肢』という概念を皮肉っているとみなせますし、後から見れば彼が紙の上の存在だったからこそ超外的な存在(=読者)によってころころと気持ちを変えられるとも読めます。

もちろん共通√の

  • 「虚構の存在である四條瑠璃にかなた&夜子が告白することの意義」

といった『魔法の本』がもたらす様々な一面を、全編通して描くことで作品に深みが出てくるわけですね。

しかしそれらがまるで無かったかのように「誰かを好きになるのが怖い少女はそれでも少年を好きになって振られる」をぽんと置かれて物語は閉じてしまう。

それまで積み重ねてきた「空想を本物と見做すこと」や「演者が物語を否定/遂行すること」はさらりと流される、なぜ夜子は『紙瑠璃』を生前の瑠璃と同一視出来るのでしょう? なぜ夜子はクリソベリルを破くのと同じように『紙瑠璃』を破かないのでしょう…? 

つまり本作は遊行寺夜子の失愛を描くことが第一義であって、共通個別√が全く機能していません。幼馴染は昨日を持ち越せない、兄妹は一緒に死んだ、ただそれだけです。

噓でぐちゃぐちゃになった世界は、終わる恋を語るだけのもの。

確かに瑠璃と夜子は最後までメタエッセンスを匂わせる「現実に紙の上の物語は必要ない」と言外に、あるいははっきりと口にするものの、実情は「空想の上で成り立っている現実」を二人とも肯定しているわけですから、その発言にさしたる意味なんてないでしょう。

その矛盾性にこそ――先述したように――意味があるとしてもいいわけですが、あれは単純な「魔法の本に頼らない」つまり「遊行寺夜子は都合のいい恋愛を否定する」ことに掛かった言葉に過ぎません。

彼女たちが言っている「空想」とか「紙の上の物語」というのはともすれば虚構全般を指しているように聞こえますが、そうではなく、「魔法の本による恋愛」というかなり限定的な事柄に絞っているんですね。

おしまい/TrueENDを見れば分かるとおり、夜子たちは字義通りの「空想」を否定してるわけじゃない。なのに限定的な事柄をさも大仰に「紙の上の物語」なんて表現するから結末がよく分からなくなって矛盾しているように見えてしまうわけです。

ここから分かるように、一連の『魔法の本』の事件が飾りにしかなっておらず、作品全体を貫くほどのテーマになっていません。

つまり本作は『物語』についてのお話ではなく、『恋心』のお話であり、「素直になれない引きこもりお嬢様の失恋譚」でしかないのです。それ以上でも以下でもない、メタフィクションを装った失恋ノベル。

だからか『物語』を軸にする『かみまほ』論を展開することに不自然さを覚えますし、私は語りたいとは思わないのでしょうね。逆にそれらが前傾していたならば先の考察をばりばり書いていたと思います。

なんにせよ、とてもシンプルなお話でした。

そのシンプルさがそれまで塗り重ねてきたものを、無化する程に。

 

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――紙の上の魔法使い(ウグイスカグラ)

私的満足度:★★★(3.4)
疑似客観視:★★★(3.6)

 

 

2,かみまほ短評(レビュー)


以下の設定にあなたは心が踊るかもしれない。

「本を開けばその内容通りのお話が現実に展開する。キャラクターは与えられた役を強いられ、本が満足するまで解放されず、例え閉じてもその影響は現実に残る」

『紙の上の魔法使い』はそんな超常的な現象を司る『魔法の本』――甘い恋愛小説からゆるふわ日常系に人が消える怪異譚――が主人公たちを襲う。そこには自分の気持ちが役の気持ちに上書きされる戸惑い、"設定"に縛られる幸せ、あるいは苦痛を描く、メタフィクション要素が強い作品となっている。

だがあなたは購入をためらう。なぜなら今からお話することはそのメタフィクションが形式的なものに留まり、かつラストと喧嘩しているのを示すからだ。

本作を要約すれば、以下のようになる。

遊行寺夜子は現実では幸せになれないと信じるからこそ、四條瑠璃への恋心を表に出さなかった。けれどその気持ちは母親とクリソベリル(なる腐れ魔法使い)によって叶えられ、次々と夜子の意に沿う『魔法の本』が開かれていく。四條瑠璃への告白をキャンセルし、未練を断ち切る為に妃を復活させる、その先に待っているのは「夜子と瑠璃が両思いになる」という都合のいい恋愛。ラストはそんなご都合主義的物語を否定し、現実で生きると少女は言うのであった。

しかし少女が生きるといった現実は、我々が考える現実などではない。死んだ人間が喋り、人外の存在が身の回りを世話してくれるそれらは空想とか、幻想とか、ファンタジーと呼ぶべきものだ。

少女は空想を否定していないにも関わらず、「紙の上の物語はいらない、私はこの現実世界で生きるわ」と振る舞うのである。

ラストで描いたのは「都合のいい恋愛を否定した」だけなのだが、それまで描いてきたメタフィクション要素に無理やり言及した結果、このような歪な形になってしまったのだろう。

結論として『紙の上の魔法使い』はメタフィクションを積み重ねるもそれを最後まで描けず失恋譚で途切れた作品であった。あなたがこの作品を読むとき、2つが反発しあう不可解な情景を見ることになるだろうし、そこをぐっと堪えても劇中に散らばる『謎』は――潮干狩りでもするかのように――淡々と掘り返すだけの快感や面白さがまるでない、空疎な、空想ノベルに唖然とするに違いない。だが、プロットそのものを楽しめるのならばその限りではないだろう。

(以上971文字。1000文字内制限だとこんな感じ)

 

 

 

 

3,ラフな作品感想

 

一つ目が作品論、二つ目が短評、ならばここからはラフな感想です。

先に言っておきますと私は全然楽しめませんでした。楽しくなかったです。読むために使った30時間を返して欲しいと思うくらいには、プレイ後の充足感はまるでありませんでした。ちょい。

『物語』を物語る作品、メタフィクションを連想させるものや、突き刺すようなBADEND、鬱――それらは過去のプレイ歴からすると私は大好きなはずなのですが、本作は端的に言って微妙という他ありません。

全体的に力が足りていませんし、名作の雰囲気を漂わせた凡作という評価に落ちついてしまいます。

この「微妙」という結果に対して明確な理由なんてあるのかな?と思うものの、それでも、あえて理由を探すと「フラット」「テキストの遅々性」「プロットありきの作品」「キャラクターに魅力がない」の4つが挙げられるかもしれません。

 

 

■「フラット」

本作は「フラット」の強制力が働いているのか?と思うくらいに、物語が加速してもすぐさま平坦に戻ってしまう。

例えば『サファイアの存在証明』でクリソベリルが現れたとき、物語はヒートアップし急展開を迎えるシーンそのものだった。ここから『魔法の本』の真実が紐解かれ、月社妃の死亡原因を突き止めるのかと思えば

――パパっと「妃を探した一年間」はかっとばされ、妹をなくした「後」の瑠璃色の日常がはじまってしまう。「一瞬にしてこの熱を冷ましてしまうのですか」と当時は思ったものだ。(OPムービーが展開される絶好のタイミングだとワクワクしていた)

これは「理央と妃が紙の上の本だと発覚時」「かなたが既にサファイアに囚われれいた時」も同じで、どちらも物語のギアがトップになったなと思ったら次シーンにおいて『無風』になってしまう。なぜ?…なぜここで日常的ゆるやかな空気を持ってくるのだ?……まるで物語自体がフラットになろうとしているのかのようにその熱は引き継がれないのである。

これを欠点と見るか、魅力と見るか。どっち?

 

 

■テキストの遅々性

本作のテキストの特徴は「繰り返し」が多い。

 

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――紙の上の魔法使い(ウグイスカグラ)

 

多いというか6割これである。

それ自体は良いのだけど、ただ多用しすぎるのは悪い所かもしれない。中々シーンは進まないし、延々と同じ場所で同じようなことを言っている印象を抱かせてしまうからだ。

人によってはこれを「丁寧」と見るかもしれないが、私から言わせれば「くどい」。本作が冗長に感じるのはこれがおおよその原因だろう。(ある意味親近感を覚えてしまいますけどね)

これを欠点と見るか、良点と見るか。どっち?



■設定ありき、プロットありきな作品

↑で語ったように『かみまほ』の描写ってそんなにいいものではないと思っているのですね。微温的な描写をこれでもか!と食らわされる。

となるとMicroにおける描写の楽しさは無いわけで、テキスト自体そこまで良いわけではないし、少なくとも私はあれが良いとは正直思えない。

けれど本作の魅力はそこにあるのではなく、作品全体の骨格であり、Macro的な部分に集約されると考えます。いわゆるプロットがいい作品。「妹と心中」「妹はTrueでも還らない」などなどは挑戦的だと思いますし、日向かなたが初期からサファイアに囚われていたというのも唸る人は唸る展開でしょう。

ただ、それを持ってくるための描写力がないので、突然展開を投げつけられ、設定をぶん投げられ、プロットで張り倒されるような作品になってしまっている。

展開はすごーい! だからどーしたの? そう白けちゃうわけです。

思うに展開や要素がすごくても、それを語るだめの力がないと全然すごくないんですよね。設定がすごい物語はいくらでもあるけど、その設定が生き生きとする物語は少ない。

あるいは「テキストの楽しさ」が色濃くでる作品を好む人は作品の骨子が多少歪んでいても好きになってしまえるものですが、これが真逆だとはそうはいかないんじゃないかな?

「プロットはいい」でも「描写力が低い」と冷めてしまう。でも逆はあり。となると私はそっち派だったのかなとつらつら考えてしまうわけでははーんとなるなど。

 

 

■キャラクターに魅力がない

ありきたりと言えばありきたりなりなんですが、キャラに魅力がない。

かなたちゃんは可愛いけど魅力があるかと言われれば……私はそうは思わないかな。というより登場人物すべて思考原理から言葉の選び方、性格などなどときめくものは少なかったです、月社妃も夜子もうーん……みたいな。

嫌いじゃないけど好きでもない、普通みたいな。どうでもいいみたいな。

瑠璃は瑠璃でクリソベリルに同情して抱きついた(Trueend)のを見て、ひええ……ってなってしまいました。過去話をしたらころっと感情移入して後ろから抱きついてくるって……もうね……もうだめだよこの男。生理的嫌悪すごい。

とはいえ全体通して嫌っている、憎んでいる人物はいないんですけども。一部分、一部分、うーんって感じる所はあるくらいで。

   ◆

ひとつ気になったのは、日向かなたが四條瑠璃の暴力を受け止めるシーン。クリソベリルによって恋人を憎悪する『設定』を書き込まれた瑠璃ですが、それをにこにこ笑いながら、殴られ続けるかなたは「かなたも紙の上の存在なのかな?」と思ってしまうくらいに超人的ですよね。もはや人間ではない。

危機回避能力が欠落してますし、いくら瑠璃が好きでも歯が折れ、目が潰れ、口が裂けたらニコニコしていられるわけがないんです。結局瑠璃はそこまではしませんでしたが、そういった許容行動をあたかも「無償の愛」の姿勢にみせる彼女は、『設定』を絶対遂行する人形のように見えてしまう。

これも描写力が足りないからこそ、かなたの行動が唐突なものに見えてしまったのかもしれません。

あのシーン。全然心は打たれませんし、むしろ冷めてしまいましたよ。

 

 

月社妃の自殺

 

彼女の死は想いを貫いたかのように描かれるが、本当にそうだろうか?

オニキスによって瑠璃以外の男性に抱かれ、一時でも愛を見失って、その罪悪感を背負ってでも瑠璃を好きになれるのならばそっちのほうが「想いの強度」が高いんじゃないのかな。

だって死ぬほうが楽でしょ。死ねば苦痛から逃れられるし、断続的な悲しみから抜け出せる。

オニキスが閉じた後に抱くであろう「瑠璃への裏切りの気持ち」を死ぬことで掻き消したのは、彼女が恋愛に潔癖なだけであって、その潔癖さが自害を選んだと見てもいい。

「私の愛は、私だけのもの、他の誰にも、揺るがせない」

――月社妃(紙の上の魔法使い)

この死に高潔さや美しさなんてものはなく、兄である四條瑠璃と同じく現実に耐えられず死んだ。そういう弱い人間だった。

月社妃は「物語に屈しなかった人間」でありながら「現実に押し潰された人間」でもあるのだ。そんな見方も提示したい。

 

 

かみまほって都合のいい作品だよね……

登場人物が劇中内で「物語」「役」に言及することは、それを言及している彼ら自身、ひいては本作そのものもまた言及対象の構図を生み出す。

あるいはそういうふうに捉えることが可能な「取っ掛かり」を提供してるとも言える。

なれば、例え杜撰な展開が繰り広げられても「あれは"物語"というものを皮肉っているんだ」とか「間接的に物語の固定概念を表現しているんだ」と肯定的に読者は捉えることが多くなり、その「杜撰な展開」の「杜撰さ」は隅に追いやられていく。

つまりこういう作品は、「都合のいい見方」を自ら示唆している作品でもあるのだ。それがメタフィクションの醍醐味であり、(練度が高ければ)楽しくもあるのだけどね。

逆に練度が低ければ。劇中の悪い部分も良いふうに見ることが出来るので(その意味で)都合のいい作品だなあ……という感想を覚えてしまう。

 

 

フェードアウトの時間がかなりゆったり

0.7秒くらい使ってヒロインの身振りが変化する。2秒くらい使ってゆ~っくりと背景が変化する。

フェードアウト自体はなにも珍しくはないのだけど、この「遅さ」は中々見かけないと思う。ある意味新鮮でへーと思ったものだ。

(立ち絵はそのままで背景だけが移行する表現は好きだったり)

 

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――紙の上の魔法使い(ウグイスカグラ)

 

「読ん」でるときは尚更にこのゆったりさを感じてしまうはず。

 

 

闇子は"どのように"して妃と瑠璃の本を紡げたのか?

闇子は闇子が "知る" 四條瑠璃と妃しか描くことが出来ない。彼らが何を想い、どう感じるか、そしてそれに至る行動は "似せる" ことはできてもそっくりそのままというわけにはいかないはずだ。

なぜなら闇子は瑠璃の内面を覗き見れるわけではないから。知ることが出来なければ、それを元に執筆することは不可能だろう。

しかし魔法の本によって存在している瑠璃と妃は、それ以前の彼彼女と寸分違わずに「本物」に近い。振る舞い、言葉の選び方、間合いの取り方に齟齬がないのはどうしてだろう?――そしてそう気づく人間がいないのはどうしてだろう? 

夜子も理央も「紙妃」と「妃」を同一視しているし、そこに何らかの区別はなされない。ならばその真似事は本物に成ったと言えるのだろうか。

『魔法の本』が存在している世界なので人の内面を覗ける本を闇子は行使したとか? あるいは闇子は他者の心を高精度でトレースできるとか? あるいは"人名を冠した本" は周囲の意識によって人格が補完されるとか? 

ああつまり闇子が執筆した『四條瑠璃』のディティールが例え朧げでも、『魔法の本』っていうくらいなのだからそこらへん"魔法の力"でなんとかしてくれるんじゃないのかという。

なんにせよ、ここはやや疑問。

そして明かされなくていい疑問。

 

 

OPとEDがないなんて

驚く。物語が終わってすぐさまタイトル画面に返されるので、余韻に浸るもなにもない。余韻もくそもないです。

すごいあっけらかんとした読後感であり、空疎感半端ありません。ある意味「物語からの回帰」という感じでそれはそれでいいのかもね……とは思いはするんだけどね。いやだめかも…。

OPとEDって大事だったなあ……と失ってからわかる大切な宝物。

 

 

誤字脱字が多い

最新パッチを当てても、誤字の多さ。ストレスではないけど、多いなーとは思っちゃう。

 


 

日向かなたのみボイスON


ご覧の通り、かなただけがボイスONで、それ以外はOFFでプレイ。

 

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――紙の上の魔法使い(ウグイスカグラ)

 

5章あたりまでは妃・夜子・闇子etcはボイスONで聞いていたのだけど、正直聞きたくなくなるほどに皆上手くないというか……むしろ聞きたくなる程に心地よくないというか……うーん……となりOFF。

ちなみに理央、汀、岬、クリソベリルは速攻でOFFにしてしまうくらいに聞くのが辛かった思い出です。脳内音声だと汀の声は(Cv:松岡禎丞)で再生されていました。かっこいい。いえーい

逆にかなたちゃんはうきうき・のりのりな"声の旋律"がたまらない。「ぶー!」がとてもかわいい。

 

 

システム面の弱さ


設定項目の少なさもあり、やや弱さを感じる。

今にして思えば劇中の演出自体もこざっぱりしているというか、必要最低限だったような。

というか注目すべき部分は、フェードアウトくらいしかない?……

 

『紙の上の魔法使い』起動時のエラー


【症状】

スクリプトで例外が発生しました script exception : システム変数データを読み込めないか、あるいはシステム変数データが壊れています(文法エラーです(syntac error))』

起動できなくなったというエラーメッセ。

解決方法をぐぐってみるとセーブデータを削除すればいいらしい。成功しました(泣)

 

 

クリソベリルがクソベリルに空目

申し訳ないんですが、クリソベリルという単語がどうしても――彼女の敵対ポジションもあって――クソベリルに毎回空目してしまいます。罪悪感すごいです。ごめんね;

 

 

 

二人で不幸になろう? なぜ?

妃と瑠璃は「兄妹」だからその恋愛は実らず、貫き通す限り、不幸になるしかないと言う。そんな前定項が二人の間にはあるが、正直、なんで?と思わざるをえない。

現社会でも兄妹同士の恋愛が周囲から認められるのは難しいが、同性愛、無性愛、両性愛、または自分の性別を決定づけないクエスチョニングといった様々な性的志向が容認され(かけ)てきているこの社会で「兄妹だから不幸になるしかない」という発想は些か飛躍しすぎているのではないか。

それでも『かみまほ』と我々の世界は異なり、この世界では不幸になるしかないと言うのならば受け入れよう。

しかしそういった「描写」がまったく本作にはないのである。瑠璃と妃が付き合う上で「断念せざるを得ない」「それが厳しい選択」というものを一切描くことはなく、「私たち兄妹は不幸になるしかない」と繰り返されてもその結論を盲信しているようにしか見えない。

兄と妹の恋愛が=で不幸という図式は一体どこから来たのだろう? どうして二人はそれを確信しているのだろう? またそれが一般常識の当たり前で疑う余地のない考え方として描かれることに不気味さを覚えてしまう。

 

 

ディティールを与えられない「本好き」たち

とりあえずみんな「読書好き」と自己宣言するだけで、それがいかほどに好きなのかディティールは与えられない。(それが良いか悪いかは別として)

夜子いわく「本を沢山読んでいなければ好き、というわけじゃない」「好きであればそれは好きなのだ」みたいなニュアンスのことを言うのだけど、それを地でいくとこうなる感じ。

ただ、やはり夜子は本が好きなのか? という疑問はあったり。あんま好きそうに見えないんですよね私には。

 

 

妃の頭身、あるいは顔の大きさについて

妃の「頭」ってじっと見つめていると、なんだか大きい。

肩幅の広さ、体全体の細さを考えると、ややその頭の大きさが気になってしまう。重心が全部頭にいっているくらいに見えてすこし違和感を覚えてしまった。

特に私服で、目を閉じながら微笑んでいる表情が分かりやすい。(これは目を閉じていませんけどね)

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――紙の上の魔法使い(ウグイスカグラ)

 

どうでもいいのだが、闇子さんは「常に」ヒロインより3歩ほど後ろに下がっているのは、彼女らの頭の大きさに気遣っている……ということもありえるのだろうか。(いやなんだろう映り的に)

 

 

紙の上の魔法使いの良いところ。

 テキスト、描写、展開、ボイス、作品の全体像、キャラ――それぞれ私は魅力がないと思いますしつまらなかったという感想は依然としてあります。

ただそれを踏まえて良かった部分を列挙しておきます。

 

・背景の緻密さ

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――紙の上の魔法使い(ウグイスカグラ) 

 緻密だからいいってわけじゃないんですが、やはりディティールを与えられた背景は存在感でますし私は好きなんですよ。光の感じもグッドです。

 

・かなたちゃんの一息台詞

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――紙の上の魔法使い(ウグイスカグラ) 

 ここ聞いていてとても気持ちがいいです。「私がまず喋るんだからな!瑠璃てめーは黙って聞いてろよ!」的にズババーっと一息で語りに語るかなたちゃん大好き。

 

・蛍がいちばん可愛い

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――紙の上の魔法使い(ウグイスカグラ) 

わかりにくいと思うのですが、「蛍」とは膝の上にちょろっと顔を出している猫のことです。ほたる。どの登場人物よりも君がいちばん可愛いと思います。あぁああこのクリクリとした目堪らない!! 

  ◆

以上。

 

 

おわり

 

久しぶりに丁寧語で感想を書いた気がします。ところどころだある調に戻っていますが気にしない。きにしない。

 

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