エロゲのE-mote(=動く立ち絵)をプレイヤーは求めているのかな。ぶっちゃけ要らなくない?(コロナブロッサム~トライアンソロジー)

 参考

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E-moteに限らずLive2Dやモーションポートレートを用いた「動く立ち絵」というのは今では見慣れた表現になってきた。そしてそれは作品を「リッチ」にするために、あるいはキャラクターに「存在感」を出すために導入されることが多いと思われる。

しかし疑問なのだよね。

そもそも「動く立ち絵」ってノベルゲームに貢献しているのだろうか? リッチになっている?存在感でてる?むしろ価値を押し下げてないかい? E-moteの問題って既にいろいろ言われているけれど、個人的に何を一番問題視しているか語っていきたい。

前半は前座であり、後半から本番である。

 

 

(1)「動く立ち絵」(=E-mote)不要論

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a,可読性の損失

いわずもがなE-moteというのは立ち絵が動く。「動く」ということは視線はそこに吸い寄せられ、注意を向けてしまうようになる。

この事は「画だけ」を読ませる作品ならばいいのだが――例えばアニメ等――しかしノベルゲームというのは「テキスト」ありきの媒体である。画だけを観ていても登場人物の機微は伝わらないし、ストーリーも理解は出来ない。しかし逆は成り立つ。例え真っ黒な背景しか表示されないとしても、テキストを読んでいればストーリーの大半は把握できるだろう。

そしてこの「動く」ことによって視線は画に釘付けにされ、テキストを読むことを妨害してしまうのである。以下のgif画像を見れば「立ち絵が動いている状態でテキストを読む」というのは中々に辛いことがわかると思う。

 

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――Corona BlossomVol1/FrontWing

 

人間の目というのは「同時に」別々のものを見るようには出来ていないし、例え視点を絵に合わせ、周辺視野でテキストを読むとしても――実際にやってみれば分かるだろうが――視点はすぐまさテ キストに切り替わり、かと思えば動く立ち絵に移り、またテキストに……という終始せわしない状況を迎えることになる。結果、読むことがストレスになってしまいかねない。

つまり「テキスト」ありきの媒体で「テキスト」が読みにくくなる事態をEmoteは実現してしまっているのだ。

もし改善策があればそれは「テキストボックスの距離」をどうにすればいいのかもしれない。ボックスが画面下部にあるから、画面中部-上部(=立ち絵)と画面下部(=テキスト)に距離が生まれ、それを行き来する必要性がでてきてしまう。でももし『猫撫ディストーション』や『ギャングスタ・リパブリカ』のようにテキストボックスが「可変式」ならば、キャラクターの中心にテキストが配置されるため「動く立ち絵」による視線問題は多少軽減されるかもしれない。

が、少なくともボックスが下部にある一般的な作品では「動く立ち絵」というのは動くからこそ、「テキストの可読性」を損なわせてしまうのも事実だ。E-moteというのは非常に "読ませない" 在り方なのだと強く言いたい。

余談だが、立ち絵ではなく「背景」が同様の視線問題を引き起こしているのが『トライアンソロジー』(非E-mote作品)だったりする。

 

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――トライアンソロジー/07th Expansion

中、下画像のように「ちょっとした」アニメーションならば問題ないしへーと思わせる演出なのだけど、それでもずっと読んでいると意識がうまくテキストに合わせられなくなったって人も多いのではないだろうか。

上画像は背景がぐりんぐりん動めくので、読みにくさすごかったりね。

 

 

 b,パターンアニメーション

「動く立ち絵」は「動く」からこそ価値が生まれる。

E-mote等の技術は立ち絵の複雑な塗り・線画を維持したままキャラクターは笑い、怒り、猫耳がぴこぴこと揺れる。それは一度体験してみると実に得難いものだ。

アニメのように色が簡素化してはいないし、線画が動かしやすいように簡略化されていない。ディティールに拘られたそのイラスト独自の持ち味を活かした状態でのアニメーション表現こそが、E-moteによる利点だろう。

――しかし長時間眺めてると飽きてくるのである。なぜか? 現在の技術ではE-mote動作がパターンの集合体だからだ。体を左右に揺らすとか、前につんのめるとか、それらがモジュールのように組み合わさったものでしかない。

1度目なら感動する。2度目ならどこかで見たなと考える。では3度目なら?4度目なら? 何度も何度もなんどもなんどもなんどもなんども何度だって同じ表現を繰り返すのが現在のEmoteシステムである。

 

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――Corona BlossomVol1/FrontWing

 

すると新鮮味はなくなる。輝きは失われる。立ち絵が動くという演出表現は一瞬のうちにありふれたものとなってしまうだろう。「動く」からこそ生まれた価値は、「動き続ける」ことで消えるのだ。いわば"アニメ・クリシェ"と言っても過言ではない。

でもそれって一般的な立ち絵差分も同じことだよね? と思われるかもしれないが、それらは全く違う世界観から成り立っているため例え「見飽きたもの」でも全然問題はない。むしろそのほうがいいかもしれない。(理由は後述する) 

 

 

 

c,テキストと立ち絵の齟齬問題

例えば「ウェイトレス2人が店の奥にはけて視点者から見えなくなる」といったシーンがあるとしよう。

E-mote作品であれば、テキストで「ウェイトレス2人が店の奥へとはけた」と書かれれば、プレイヤーは「ウェイトレス2人が店の奥にはける」様子を思い浮かべることになるだろう。視点者から見えなくなるということはウェイトレスは後ろ向きだろうし、少なくとも身体の前面は見えなくなる斜めor横向きで立ち去るだろうとぼんやりと、あるいは明確に読者は思い浮かべるに違いない。

しかしE-mote作品は「動く立ち絵」がモットーである。このため、あらゆるシーンはなるべくテキストに合わせて動かすことになるのだが、もしもそのアニメーションがテキストと落差があった場合、画面で出力される情報とテキストで出力された情報に大きな齟齬が生まれてしまう

 

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 ――Corona BlossomVol1/FrontWing

 

 『コロナブロッサム』の上記シーンはウェイトレス2人は喋りながら店の奥にはけようとするもの。

そして見て分かる通り彼女らは「常に前を見ながら」歩いている。テキストではそんな表現はなされていないので、立ち絵との齟齬が大きくなっているというわけだ。

後ろ歩きをしながら主人公(視点者)から遠ざかっていくというのは実に奇妙であり、本来の想定されたシーンとは些か印象が変わってしまっているのは最早言うまでもないだろう。

もう一つ例を挙げよう。

例えばテキストで「彼女は向日葵のように笑った」と表現されたとしよう。非E-mote作品では、我々はテキストを元手にして目の前の登場人物の表情をイメージ(=映像)していくことになる。向日葵のように笑う表情や仕草をぼんやりと、あるいは明確に思い浮かべようとするだろう。

しかしE-mote作品では、その表情は実際に立ち絵で表現される。あるいはしようとするだろうし、我々はそうなるだろうと「当て込」んでしまう。

なにせ「動く立ち絵」なのだ。今までテキストに沿った動作が可視化・具象化されてきたのだから、「向日葵のように笑った」という比喩表現でさえも具象化すると期待してしまう。そしてそれがテキスト通りのアニメーションになったならば何ら問題はないが、もしも期待はずれだったら? 

立ち絵が「向日葵のように笑って」いなかったらどうだろう? きっと「テキスト」と「立ち絵」の齟齬は強まってしまわないだろうか。

 

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 "こわばった顔。真剣だが、どこか少し恐怖の混じったそれを、心苦しく思う。"

 ――Corona BlossomVol1/FrontWing

 

 コロナブロッサムVol.1で

『こわばった顔。真剣だが、どこか少し恐怖の混じったそれを、心苦しく思う。』

と霧島茱萸子の表情を大崎景次は言い表す。

しかし上記画像を見てもらえば分かる通り、立ち絵ではその "こわばった顔" "真剣" "どこか少し恐怖の混じった" ものは表現できていない。単純な「悲しそうな顔」か「暗い目つき」くらいなものに留まっている。

 

 

 

 

d,具象化する世界観と、シンボリックな世界観

 

ここまでくれば私が言いたいことは分かると思う。

つまりE-moteというのはキャラクターを肉付け、動かし、立体感あるものとして存在させようとする。いわば目に見える世界観を重視したものだ。

プレイヤーが見ている画面は「カメラアングル」だと考えると分かりやすいだろう。アングル内の女優や俳優を撮る。そしてそれがそのまま画面として出力される。目に見える世界というのはそういう意味だ。可能なかぎり形(=具象化)にしようとする世界観とはそういうことだ。

一般的なノベルゲームではテキストがまず先に来て、そこを補助・援護するように画や音が来ていた。けれどこの世界観では「画面」が先行しはじめるので、「アニメ」を見るような読み方を強いられる。

しかし(a)(c)でも触れた通り現在のE-moteでは「画面だけ」を見てても作品を把握はできない。そもそもノベルゲームはテキストありきの作品でもある。このため画面とテキストの優先順位が等しくなり、読者はその2つを等しく読み込まなくてはいけなくなってしまう。

けれどこの2つを「同時」に読者は行えないので、「まず画面を読ませるのか?テキストを読ませるのか?」という問題を処理できないまま同時に読ませることが困難な2要素を同時に表示しそれを読者は同時に読むよう強いられいるのがE-moteの現状である。

また(b)で触れたようにテキストで表現されたキャラクターの表情は立ち絵では想定通りに表現できず、身体動作は決まりきったモーションでしか動かせないため、『具象化する世界観』の練度が極めて低い状況とも言えるだろう。

(この流れで言えば、アニメは一つの到達点であり、『具象化された世界観』の練度が高いものだと考えている)

   ◆

ちなみにE-mote作品だから『具象化する世界観』というわけではなく、非E-mote作品でもこれの度合いが強いものはある。

例えば『つよきすFESTIVAL』や『恋色空模様』が当てはまるだろうか。両作とも立ち絵にモーションは施されていないのだが、「立ち絵そのもの」を前後左右に動かし、あたかも舞台で踊る役者のように見せつけてくる。

つよきすFS』は水平の挙動しか行わないため正直ちゃっちいが、『恋色空模様』は縦横無尽に画面を駆け回るので見てて面白い。

 

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――つよきすFESTIVAL/Candysoft

 

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――恋色空模様/すたじお緑茶

 

 

一方、大方のノベルゲームはキャラクターを象徴的なものとして位置づけ、配置し、読者にその「間」を補完させようとする。想像することを重視したシンボリックな世界観である。

この『シンボリックな世界観』では、立ち絵は立ち絵のまま受け取られることはない。テキストで「彼女は向日葵のように笑った」と表現し、立ち絵は"向日葵のように笑って"いなくてもそれで怒る読者はいない。なぜなら読者は「テキスト」と「立ち絵」を象徴的なものとして受け取っており、その2つを元に "テクスト" 上にて「向日葵のように笑った彼女」を実現させるからだ。

身体動作でも同じことである。例えばあるヒロインがバスの上から飛び降りたとしよう。しかしそこに「バスから飛び降りて着地したアニメーション」なんてものを見せる必要性はない。

  • テキストで「バスの上から飛び降りた」と書く
  • バスの背景に表示させていた立ち絵をフェードアウト
  • 地面が見える背景に移行し
  • 立ち絵をフェードイン
  • 画面をパンさせ
  • "ザシュッ"と着地音

とやれば「ヒロインがバスの上から飛び降りた」シーンは完成する。

そしてもしそのシーンに疑問を持たないのであれば、読者は「テキスト」「立ち絵」「背景」「効果音」をシンボリックに受け止め、それらを連結させ、かつその『間』を脳内補完することで物語を見ているのである。

 

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――見上げてごらん、夜空の星を(PULLTOP)

 

バトルシーンだと両世界観の差は顕著である。先述した『恋色空模様』が具象化する世界観による戦闘演出だとするならば、『果つることなき未来ヨリ』はまさにシンボリックな世界観による戦闘演出となる。

 

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――果つることなき未来ヨリ/FrontWing

 

金髪ヒロインの剣戟は「立ち絵の挙動」と「黒背景+白線」「効果音」によって表現されるだけで、実際に「ヒロインがナイフを振り回しているアニメーション」などは一切表示されない。

(恋色空模様は立ち絵をそのまま動かし、振り抜いたアイコンやアニメーションを用いて「実際に佳代子が竹刀を振り回している」のを活写した)

しかしプレイヤーはその3つを元手に「金髪ヒロインがナイフを振り下ろし、こちらを攻撃してくる」というイメージを喚起させながら物語を読んでいくことになるのだ。

つまりシンボリックな世界観とは「象徴的なものと象徴的なものの『間』を読者は補完させる」ことを重視している作品だと分かると思う。アニメ用語で言えば原画と動画の関係に近い。原画がテキスト、立ち絵、CG、BGM、効果音を指すならば、その原画同士を繋げる動画が読者のイメージングだ。

そしてこれはノベルゲームと大変相性がいい。ノベルゲームはその名のとおりテキストを重視した媒体であり、テキストとはテキスト同士の『間』や『空白』を読者が補わなくてはならない。小説で「向日葵のように笑った」という比喩表現がすんなり通るのは、それが例えこの現実世界存在しなくても読者の脳内にて実現できるからであり、そういった『補完性』の性質を持っているのがテキストであり、それを最大限生かすのがシンボリックな演出表現ということになる。*1

逆に、眼球に見えるものを重視する『具象化する世界観』のノベルゲームは、『間』を想像させるテキストの補完性と食い合せが悪く、その路線の極地とも言えるE-mote(=動く立ち絵)は「テキスト」と「グラフィック」のズレが起こりやすいし大きくなりやすいわけだ。

  • a,可読性の損失
  • b,パターンアニメーション
  • c,テキストと立ち絵の齟齬問題
  • d,具象化する世界観と、シンボリックな世界観

以上4つの理由で、E-mote(=動く立ち絵)はノベルゲームにとって必要な演出表現ではないし無くても構わないと考える。

 

 

 

おわり

 

個人的にはE-moteは表現としてあっていいし、ことさら嫌っているわけではないんだけど「必要かどうか」「欲しいかどうか」と言われれば(今まで語ってきたように)NOという答えになる。

とはいえ、現時点のE-moteをシンボリックな演出表現に組み込もうとすると、こういうやり方も考えられる。

テキストの合間合間のたまに(←ここ重要)パッと――目パチを入れたり、目線を動かしてキャラの感情を表現させたり、あるいはその些細な時間に身体モーションを入れてもいいかもしれない(テキストボックスは非表示)。そういう使い方ならばE-moteもありのように思える。つまり「常に立ち絵が動く必要なんてない」し、必要なシーンで、必要な分だけ、ここぞ!という時に、テキストの邪魔にならないように組み入れるのがノベルゲームにとって最適なんじゃないかと思う。

以上、お話はおわり。

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*1:だから(b)で触れたように、シンボリックな世界観では立ち絵は「見飽きて」も構わない。なぜならそれは象徴的なものとして、アイコンとして読者に認識されるのであって、「実際に眼球に映る立ち絵」としては見做されないからだ。もちろん立ち絵そのものの価値を軽んじているわけではないし、美麗な立ち絵であれば想像はより刺激されるだろう。ゲーム中盤で新しく見せる立ち絵表示には興奮だってする。それでも「シンボリックな世界観」では「具象化する世界観」のような価値を立ち絵に求められるわけではない。