週刊少年ジャンブで連載するには?人気を上げるには?ライバルに勝つには?――そんな漫画家の試行錯誤を描くのが『バクマン』であり、いわゆるメタ漫画・メタ週刊少年ジャンプ(以下WJ)である。
「面白い漫画は連載し、つまらない漫画は打ち切る」という強固なルールがWJには存在するため、漫画家は可能な限りおもしろい漫画を制作しようと頑張る。
しかし「おもしろい」とは何か? どうすれば「おもしろい」となるのか。作品の人気は「アンケートシステム」に委ねられており、つまりWJを愛読する読者によって打ち切りかはたまた看板作品かに転がりゆく。
なので漫画家は「世間」ではなく「週刊少年ジャンプの読者」に受け入れる為の努力をするし、読者の平均年齢を考慮したお話を作るだとか、作風が被る読み切りとぶつかればその回はとびきりの話を持ってくる(=票数を奪う作戦)といった創作譚が『バクマン』は多い。
とはいえ・・・WJで人気を得られればアニメ化やドラマCDのお話も持ち込まれるので結果的には――劇中内で――世間に受け入れられているのも事実だ。そこにはWJ連載ならではの苦労があるし、だからといって普遍性に欠けた作品づくりというわけでもないだろう。
――けれども『バクマン』からは創作への苦しみが伝わってこない。
本作を進行する“亜城木夢叶”なる漫画家は、自らが原因で連載作品を打ち切ってしまったり、担当編集の好みによって得意ジャンルではないギャグ作品をやらされたりと、様々な苦難を乗り越えてラストには最高の作品を執筆しきる。
そこには作ることの“苦痛”がスポイルされてるわけではない。むしろ明確に描いていると言ってもいいだろう。
しかし、描き方が“軽い”。
例えば『TRAP』連載中の不幸な入院は真城の体調管理の甘さが原因で長期間休載による人気の低迷→打ち切りは彼らにとって苦い経験だったはずだ。しかしそれは彼らの力のなさで生じたものではない。
『タント』も担当編集に流されて本来の“亜城木夢叶”のポテンシャルが出せなかっただけであり、『PCP』もマンガ模倣犯によって高木は数話ほどストーリーの品質が保てなくなるというだけで、後はけろりと本調子になる。
どれもこれも突発的な外部圧力によって挫けるもので、“亜城木夢叶”が全てを出し切った上での挫折・敗北がバクマンには存在しないのである。
どんなに頑張ってもエイジに勝てない、アンケートで一位になれない。あらゆる努力は水疱へと帰し、あらゆる試行錯誤は自分たちの才能のなさをつまびらかにする・・・そんな絶望的体験がないわけだ。あるのは「俺たちは全力を出し切れるのなら成功する」という、どこか上っ面で、深みのない、創作譚だけが取り残されてしまう。
となればバクマンはWJで連載する苦しみを描きはするものの、そこにたんまりとディティールを与えるものの、創作への苦痛を描くことは出来なかったと言っていい。
もちろんそういう漫画ではない、という反論もあるし、私もそう思う。
『バクマン』はそういう漫画ではなかったのだ。
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