猫箱ただひとつ

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物語は、当事者性を奪う

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ま、そこが良いところでもあるんだけど、欠点でもある。

多視点+情動

 

自分が知覚できないキャラの気持ちがあったとしよう。

しかし別作品、別キャラクターの心的機構を持ってきて――仮想し――"その" 感情に近づける事はよくあるし、それでも近似値に達さないならば抽出・変質して当該対象にデザインすることもある。

これは他者感情だが、自己感情において行う場合もあり、またこの順番は明確なものではなく状況において変化し、最初は自己感情をデザインするもののいやいやこれじゃないなとなり、別の心的機構を仮想するといった事もざらだ。

※『仮想』とは自己内部である心的機構を走らせると(ここでは)指す。これは“人物”のみならず“作品”の心的機構も含まれ、エミュレートとも私は呼んでいる。

長年物語を読んでいる人はこれを自然に出来ると踏んでいて、当たり前すぎてわざわざ説明する必要はないと思うが一応ね。ここから本題に入っていくのでちょっと我慢して欲しい。

これは所謂、感情移入ではない。あれは自分が経験したことがある範囲内を拠り所にするが、多視点による仮想は(それを含めて)自分が経験したことがない感情も自己内部で走らせ(ようとす)るものだからだ。

 

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 もちろんそこには「それは本当にそのキャラクターの感情なのか?」という疑問はある。でもそんなことは感情移入だって同じことだし、証明は不可能。自分自身がその気持ちを手元に置けている、皮膚感覚として"それ"だと思えるならどうだっていい。と乱暴だがここでは捨て置く。

この影響としてキャラクターの理解が進んだり、その物語をリアルに感じられたりするわけだ。とても身近なものになりすぎて事ある毎にそのお話を、その気持ちを、思い出してしまうなんてこともある。

だが、これは自分であることを希薄にしていく。

他者の気持ちを想像し、創造しえるっつーのは絶対的にそこに「自分」はいないからだ。河野初雪の視点で世界を眺めることは本来の私の世界認識は隅に追いやられ、姫野星奏が人生をかけた気持ちを理解する時そこに私の気持ちはない。

――もしそこに私がいるとしても、それはその情景/情動を走らせている機構としての『私』だ。ならばその瞬間、私の当事者性は物語に奪われたと言っていい。

その世界に同化して、その登場人物になり変わるようなスタイルは――感情移入/自己投影よりも――この傾向が顕著である。物語を読んでいる間は特にそうで、時折「あーこれは"私"の情動じゃないな。ルーツは、“ジャバウォック”のか」とそう感じることさえある。自然になりすぎて昔はエミュレートする情動だったものが今では自分自身の情動となっていることもある。

私は虐待されたことも親に恨まれた事も殺されそうになった事も存在を否定されたこともない概ね幸せな生活を送らせて頂いたと自負しているにも関わらず、『CARNIVAL』の彼彼女らの心情を手元に置けているわけだ。

その弊害は、本来私と関わりなかったものが自分事のように思えてしまう事だろう。

誰かの為に怒る。誰かの為に涙する。誰かの問題を自分の問題として引き受け、誰かの責任を自分の責任として背負う。それは(現社会が認知する)人間らしい行動であり忌避されるものではないのかもしれない。

だが、簡単に他者とコネクトするのは―――なんというか怖いことだよね。自己と他者の境界線が取り払われ、一時でも、私が私という感覚が薄くなるから。

まるで……

 

私は物語を読む。

ううん。物語が私を読むんだ。

――南乃ありす/『魔女こいにっき』

 

そう物語に読まれているようでさえある。

 

だめなんだよお母さん。全然だめなんだよ。そうやって誰かれ構わず他人の死に罪悪感なんてもっちゃ、いけないんだよ。だってミァハとお母さんには何の接点もなかったじゃない

みんながみんな互いを大事にし合って、殆ど知らなかった他人の死すらも何で自分には止められなかったのかって、理不尽にも思わせる

そんな世界がまっぴらだったんだよ

――霧慧トァン(映画ハーモニー)

 

あるいは<harmony>トァンの懸念を思い出してしまうものだ。

もちろん他者の気持ちを慮れないのはドコゾの精神病質者にかわりないし、出来ないより出来たほうがいいに決まっている。けれどそういった懸念が――物語は多かれ少なかれ当事者性を奪う――のも確かだと思う。

そういえば

 

施設の先生が、あまりに俺から離れない"りせ"を見かねて俺と"りせ"を一緒に寝させないようにした。

そして、俺の代わりに抱きまくらをあたがったんだ。

「このままではこの子たちの自我の形成に害が出ます」……と言っていたらしい。

余計なお世話だ。

そもそも、自我って何なんだ?

大人はなぜ、俺と"りせ"の自我を2つに分けようとするんだろう?

俺たちは1つでもぜんぜんかまわないのに……。

 

――はるか/さくらシンクロニシティ

 

『さくらシンクロニシティ』の「りせ」と「はるか」は自我を共有しあっていて『個』という意識がないんだよね。自己が希薄な状態で、そもそも生まれた時から当事者性が無い。

なにそれ面白そう……って思い早2年。いまだ製品版買えずじまいなのでそろそろなんとかした所。ゲーム買いっぱなしってのが最近多くてですね……というかWHITESOFT死んじゃだめだぜ……。

 

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