評価:二人だけのAletheia
「いろとりどりのセカイ」の最後だけ再プレイの感想です。以前の記事で言い足りなかったこと、新たに広がった視点を盛り込んでみました。
それではどうぞ。
いろとりどりのセカイ―Aletheia―
『いろとりどりのセカイ』終盤。夏目鈴が紙飛行機を飛ばすシーンで浮かび上がった独白を覚えているだろうか。
あれはもうほんとに人間の根本的な弱さ、そして脆さを象徴していると思う。私達は、いつも、どんな時でも、寂しさを抱えてしまうし、孤独によって辛いと感じてしまう。例え「1人が気楽だ」と言っている人間でも例外じゃない。
この世は孤独に思う人間たちで溢れているんだ、と魔女は言う。
隣に誰が眠っていようと、朝、目を覚ましてすぐおはようと言い合える相手がいようとも。人間は孤独になるように出来ている。
一人が良いと言って一人になったとしても、最後には寂しさに耐え切れず人のぬくもりを求めてしまう。
それは人がそういうふうに "出来ている" のではないだろうか。誰もいない最果ての荒野で私たちは一人で生きれないし、孤独も寂寥感も拭いきれない。ましてやそれに耐え続けるなんて無理だ。
誰とも関わらず、誰とも歩まずに、人生を送っていく―――それはなんて苦痛に満ちたものなのだろう。
「人間は生きるのも死ぬのも1人だ」
という達観は、ある意味で正しい。なぜなら、自分の「生」は他者との「生」と断絶されているからだ。自分が生きていることで、誰かが死んでしまうとか、自分が死ぬことで誰かが生き永らえるとか、誰かによって自分は助けられているっていうのは思い込みにすぎないんだろう。
ただそんな達観は――――よけい「寂しさ」という気持ちを加速させてしまうもかもしれない。
自分は本当に一人で、一人ぼっち。他者と繋が合っているなんて幻想で、他者の人生に関わることなんて本質的には出来なくて、でもだったらじゃあこの孤独と寂しさはどうすればいいのだろう。
私達はどこまでもどこまでも「1人」なのに、いつまでも「1人」なのに、他者がいないと精神が壊れてしまうなんて、ほんと絶望的なシチュエーションだ。
でもそれでも、だからこそ「君はここにいていいんだよ」と言ってもらえれば救われるはずなんだ。誰かのあったかい言葉が、誰かのやさしい行動が、心の奥底で指先が触れ合えればそれだけで"生きていていい"って思える。自分はまだまだ生きていていいんだよって思える。
今、ここに、この瞬間に、世界に、現実に、君の場所はあるんだよ、大丈夫、君は生きていていいし、そのことを不安に思って泣かなくなっていい、嘆かなくたって大丈夫だよと―――。
「……生前のぼくはなぜ孤独だったのか」
その細部はもう思い出せはしないけれど。
だが誰かに愛されたいと強く思っていたことだけは覚えている。たったひとりで人生を閉幕せざるを得なかったぼくは、誰でもいい、誰かに『大好きだよ』と言ってもらいたかった。
――鹿野上悠馬
鹿野上悠馬は生前、自分はひとりぼっちだったという。ひとりで生きて、ひとりで死んでいった。孤独に喘いで、寂しさに溺れているのにそのまま人生を閉幕した。
そして彼はそんな人生に納得なんてしていなかったからこそ、『最果ての図書館』に導かれる。心の中にある願いが叶えられなかったからこそ、次の人生はそのお願いごとをきっと叶えようよっていう場所に連れていかれる。
それがこのセカイの約束だった。
時には神様を恨んだりもした。自分以外の誰もが恨めしく思えた。……ずっとずっと寂しいと思ってた。
だから死ぬ間際に祈ったんだ。神様お願い。次の人生では少しくらい誰かに愛されてみたいって。一度は恨んだ神様に、そうお願いしたんだ。
――鹿野上悠馬
この『最果ての図書館』のシステムは、悠馬のように孤独に死んだ者、夏目鈴のように親から存在を否定され生きることが辛くなった人、寂しさで喘いでいる人に
大丈夫だよ大丈夫だから―――って言っている、そんなふうに感じる。
1)心の中にある願い
『いろとりどりのセカイ』では、「心の中にある願い」=「生まれてきた意味」と位置づけている。
みんな「心の中にある願い」を果たす為にがんばり、必死に人生を謳歌しようとしている。
ここで重要なのが、自分で願いを決めること。
本質的に自分が生きている理由なんてない。親がいて、交接をし、ただ生まれてきただけ。そんな単純な回答に複雑な理由なんてものはないし生まれてきた意味なんてものない。
けど自分で生まれてきた意味は決めることは出来る。この人生で、次の人生で、果たしたい願い事を自分で設定することが出来る。それは何だっていい。
二階堂藍のように想い人に逢いたいでもいいし、誰かの為に生きたいとか、家族を守る為にとか、何かを成し遂げたいってことでいい。そういった自分にとって価値のあることを「願い」として願うことを『最果ての図書館』では執り行われている。
「このセカイでは"大人”になると夢を叶えられなくちゃいけない。そんなルールがある。みんながみんな、自分が生まれた意味を忘れてしまわないようにと」
――二階堂真紅
ぼくはあの場所で次の人生を始める前の命たちと約束する
君たちがどんな夢を、願いを叶えて、幸せに生きていくのか。そのための物語(運命)をふたりで書いて……
そしてがんばりたい時に全力でがんばれるようにと、心の中に願いを叶えるための力を渡す。それがぼくと君たちとの約束
――鹿野上悠馬
願い事というのは、「今」を「在って欲しい未来」へと書き換える考え方だ。未来にある、ありえる理想を、ありえて欲しいことを今現在へと書き換える宣言である。
『最果ての図書館』では神さまが一人一人に次はどうするかと相談し、心の中にある願いを決めていく。これは前の人生が不幸だったから次はもっと幸せになれるよう考えよう、という計画の一種でもあるし、願い事をしっかり持つことで、自分が何をすればいいかが明確になるものだ。
なにより自分が生きることに疑問を感じてしまった人間にはとても有効なんだと思う。
なぜなら「願い事」とは本質的に明日を夢見る行為だから。とても大切な願い事を叶える為に、今の人生があるんだとすれば、先の見えない明日に不安を覚えなくてもよくなる。自分の存在意義に悩まなくてもよくなるはずなんだ。
――なぜ私は生きているんだろう
そんな疑問を覚えなくてすむ。
『いろとりどりのセカイ』ではそんな、願い事がたくさん散りばめられている。
真紅も毎夜、願っていたよね。
お前の明日が幸せに満ち足りているようにと、祈ってる。
お前の明日が、お前が思っているよりもずっと、ずっと……素敵な一日になることを祈ってる
これから続いていくお前の時間が、とても素晴らしいもになるようにと、私は願うよ。
そして願い事はこれだけにとどまらず、『いろとりどりのセカイ』のゲームを終了する度に、真っ暗な画面に浮かび上がる文字がある。それは
drems are the seedlings of realities
というもの。
意味は(夢は現実の苗木である) とか(夢とは、現実の世界とは境界を画す理想の世界のものではなく現実へと育つ苗木なのである)というもの。
悠馬が夜に見る夢と、悠馬の心からの願いはちゃんと叶えられるという意味があるんじゃないか。つまりこの言葉自体が願い事なのだ。大丈夫、君たちの願いは叶えられるよって。
2)FOOTPRINTS IN THE SAND [砂の上の足あと]
いままで願い事(=心からの願い)があれば、自分の生まれてきた理由に疑問をもたくて済むようになると語ってきた。
ただ心からの願いをもってしても、孤独になることは避けられないと悠馬は言う。
……だけど時々、世界に降りた魂が孤独になることがある。物理的に、あるいは、精神的に。それは魂に記述した物語の誤作動だ。
孤独なんてものを記述されることはけしてないんだ。それなのに寂しい状態になってしまったなら、それは完全なエラーなんだよ。
――――鹿野上悠馬
このあと夏目鈴は「でもなんでかな、君のいうエラーは多すぎると思う……」という。神さまがどんなに頑張っても、人間は孤独になるようにできているってことなんだろう。
じゃあどうすればいいのか? 願い事を決めても、どうしても孤独になってしまい、生きることが辛くなってしまう人がいる。生きることを諦めてしまう人がいる。
その悲しみを取り去るのが―――君は一人じゃないよっていう実感なんだ。
小さな頃から、真紅とこうして一緒にいられたこと自体が何よりも、俺には幸せなことだった。
他の誰もが、ひとり寂しい夜を過ごさなくちゃいけないような日も、傍に真紅がいてくれた。寂しいなんて悲しいなんてものを考える暇はなかった。
そんな願いを叶えることよりもずっとずっと、意味のあることだったように今の俺は思える。
――鹿野上悠馬
真紅が隣にいてくれて、一緒に時間を共有して、一緒に会話して、怒って喧嘩する。
そういった誰かが自分の隣にはいてくれる、ううんいてくれるだけじゃなくて、その相手が君は生きててもいいんだよという気持ちを持っているからこそ、そんな繋がりがあるからこそ自分は一人じゃないっていう実感が生まれてくる。
これは悠馬と真紅だけの関係だけじゃなくて、夏目鈴と時雨さんの関係にだって言える。小さい頃の夏目鈴に、時雨さんはそんな実感を与えてくれたからこそ、鈴さんはまだ生きているし、彼のことを好いているんだ。
ああ、君は君で、そのままで何の問題もない。だから大丈夫。何も、何一つとして、君は間違っちゃいないよ。
――時雨
何が不得意だろうと、何が足りていなかろうとも、そこに呼吸をしながら生きている、ただそれだけのことで完璧だ、と僕は信じてる。
だから君は君で堂々としていればいい。そんな君を受け入れられないような人間は、君とはただ単純に相性が悪いと、それだけのことだ。
――時雨
そしてそんな「君はひとりじゃないよ」「大丈夫だよ」「私がいる」というメッセージはいろんな場所で見られる。
例えば、「夢にでてくる羽根」もそうだ。
夢の中で"ごめん。寂しかったよね辛かったよね。だけどお願い。もう、泣かないで。君が君をやり直すため、明日、君をここへ連れてくるから――。
――だからもう悲しまないで。君はひとりじゃないから” と、夢の中で彼らに伝えるためだった。
――鹿野上悠馬
『最果ての図書館』の管理人である鹿野上悠馬が、真っ白い羽根の夢を見させるのは「君はひとりじゃないよ」って言うためのものだった。孤独であえいでいる人に、もう大丈夫だよって伝える為のものだった。
―――君はひとりじゃないよって。
……ひとりぼっちで寂しがり屋な神様を、私が助けに来たんだよ。
――二階堂藍
―――悲しい時は空を見て
これから何か、どうしようもなく痛くて悲しいことがあったなら……空を見上げて。
そこに一片の白色を見つけたなら、もうあなたたちは泣けないよ。悲しいことの何もかもをまるごとぜんぶ、私が貰っていくから、それが、お仕置き
眠れない夜、
理由もわからず泣いた朝。
生まれた意味がわからず空を見上げて、もしかすると、誰からも愛されていないんじゃないかと、呆然とする昼下がり。
自分がどうしても、小さく小さく意味のないものに思えて、未来が暗闇に思えて堪らない君たちへ。
私の幸せを君にあげよう。
私が大切に大切に育ててきた幸せを、ここから飛ばそう。「……どうか神様、お願いします」
「今日、この瞬間から、君たちの願いがより多く、叶えられますように」
――夏目鈴
夏目鈴が紙飛行機に託した想い。
時雨の存在肯定の言葉。
人間の幸せを願っていた『最果ての図書館』の管理人・鹿野上悠馬。
悠馬の幸せを願い神さまの立場を奪い取った二階堂藍。
優馬と真紅の悲しいという気持ちを奪い去った藍ちゃん。
二階堂真紅の魔法が「誰かの辛い気持ちを切り取る」をベースにして作られたものであること。
そして、世界の終わりに砂の上で紡がれる詩。
「神さまとふたりで浜辺を歩く」
「見上げた空には、これまでの人生が映し出される。人生最後の時、浜辺に残されている筈の私と神様の足跡は、ひとつしかなくて……」
「神様どうして、私が一番辛い時に私をひとりのしたのですか。でも神様は言いました。けしてお前をひとりになんかしてないよ――」
「……妹が好きだった詩の一節だ。 とても綺麗な詩だよ。生きる勇気が湧いてくる。無神論者な私だけど、まあ、悪くはないかなって思う。」
「浜辺に足跡がひとつしかないのは、お前が一番辛い時、私お前を抱き上げて歩いていたからだってね。そんなオチがつく」
――二階堂真紅
『いろとりどりのセカイ』はこの詩ですべてが表れていると言っても過言じゃない。
「いつでも一緒にいる」「優馬と真紅の関係」「真紅は誰にも見えない」「神さま」……。それは君は決して一人じゃないよ、だからどうか泣かないで、悲しまないで。私が傍にいるから、どんなに見えなくても私はあなたの隣にいるんだよ。辛い時、苦しいとき、あなたの痛みを私も一緒に背負うよ。
―――だから生きることを諦めないで
「――生きて」
「え?」
仰ぎ見た彼女は笑顔を俺に向けていた。
「心も身体も、あらゆる意味で、生きていくことを諦めないで」
――二階堂藍、悠馬
『いろとりどりのセカイ』――どこまでも1人で、孤独で、寂しい気持ちを抱えている私達に向けられた、祈り。
私達は決して一人なんかじゃない。どんな辛いときも悲しいときも寂しいときも、神さまが傍にいるから、真紅が、悠馬が、藍が、いるのだから、だから泣かなくていいのだ。
そんな約束の物語。
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誕生日はその人の周りのみんなが、その人へ”生まれてきてくれてありがとう" をいう日なんだって、そう学校の図書室で読んだ本に書いてあったんだ。
そうか、産まれてきてありがとう、か
………………
……
…
……本当? すごい偶然だ。
そうですよね。ほんと、偶然って凄いですよね。
俺たちは笑いあう。
きっと偶然なんかじゃないそれに笑顔をこぼす。
…………
……
「んー…………」
……
………………
「お誕生日おめでとう、真紅」
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