名作ノベルゲームをアニメ化しても原作既読者が満足することは無理かもしれない (3985文字)

CLANNAD FULL VOICE

 

 

原作既読者が満足するのはは無理かも?

 

例えば原作『CLANNAD』が最高だったとしても、その作品のアニメ化が必ず「最高」ということには得てしてなりません。それはアニメ化の出来が悪いからという意味ではなく、世間的に出来がよいとされる京アニ制・アニメ『CLANNAD』だったとしてもです。

アニメ版の『CLANNAD』は素晴らしい出来です。私自身、感動もしたし涙も流しましたがやっぱりノベルゲームには追いつけなかったし、超えることもありませんでした。はじめにプレイした作品の体験には遠く及びません。

アニメの出来がどれほどのものだろうと、原作既読者にとって「アニメ化」というのは満足できない構造にあるのではと思います。

そしてそれは一体なにが原因なのでしょうか。

 

 

 

満足できない4つの障害

 

1、一回性を原作で奪われている
2、ノベルゲームの圧倒的な時間の積み重ね
3、過去の美化
4、アニメの可能性は、すなわち限界でしかない。

 

 

 

 

 

1)一回性を原作で奪われている

 

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CLANNAD/Key)

 

 一回性とははじめての出来事・はじめての体験といった意味です。転じて一回目に起きる "強烈な体験" という意味で使われることもあります。

「原作をプレイした人がアニメ化には満足できない」いうのは、原作をはじめにプレイすることで一回性(=一回目に生じる強烈な体験)をすでに奪われてしまっているからですね。

CLANNAD』でいうと、学園祭のときアッキーが乗り込んできたこと、渚がバスケットボールを抱えながら悲しそうな顔をしている所は、すでに原作経験者はを一度「見て」しまっているし知っているわけです。

例えそれがアニメによって違う表現をされたとしても、物語の内実は一緒ですし、そこで起きた事象はオリジナル展開が入らない限り変わることはありません。

ゆえにどう頑張っても「アニメ化」とは原作既読者にとって二回目の体験にしかならないということです。すると、感情の振り幅も、当然小さくなってしまうと考えます。

 

 

2)ノベルゲームの圧倒的な時間の積み重ね

 
ノベルゲームは時間の積み重ねが得意です。

アニメのように時間の制約がない為、なんでもない日常会話、やり取り、些細な仕草、心情の吐露といった場面を細かく細かく描くことが可能になります。いわばディティールが加えやすい作品媒体と言ってもいいでしょう。

ノベルゲームで1時間かけて描かれた日常シーンは、アニメでは5分で処理されることもあのは、アニメの1話約24分2分割構造ではそこまで時間をかけることができないからですね。

そのためノベルゲームはプレイ時間が40時間は当たり前ですし、大作であるCLANNADFateは70~100時間かかることもあります。

アニメは4クール全50話だとしても「25時間」ほど。アニメ『CLANNAD』は50話近く放映(約25時間)されましたが、それでも原作の『CLANNAD』に比べると1/3~1/4の長さに抑えられており、「時間の長さ」という面でみるとどうしても劣ってしまいます。

この「時間の長さ」の多寡によって、それだけ物語内容の情報量を増やすことができますし、触れ合った時間の長さ(=単純接触効果)として愛着や思い入れの差にも如実に影響を与えると考えます。

もちろんただ長ければ長いほどいいわけではないですが長いほど作品の魅せ方に幅が出るでしょうし、ノベルゲームで表現されていたシーンがアニメではカットされてしまうことがある。

 

 

 

3)過去の美化

あらゆる過去は美化されていくものです。悪い思い出はまあまあな思い出に、どうでもいい思い出はそこそこいい思い出に、いい思い出は最高の思い出に移り変わります。

それは人の精神を健康に保つための清浄化機能だったり、自身の"実感"を特権化し正当化する故なのかは定かではありませんが、あらゆる過去記憶・過去体験は自分が思っていたものよりも美化していることは大いにありえそうです。

過去にプレイした名作ノベルゲームの感動も例外ではなく、当てはまるならば、例え名作ノベルゲームのアニメ化が原作を超えていたとしても、自身の記憶に囚われる原作既読者はそれを認めづらい状態なのかもしれません。

 

 

 

 

4)アニメの可能性は、すなわち限界でしかない

 

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リトルバスターズ!(アニメ)/J.C.STAFF

 

ノベルゲームは立ち絵、CG、音楽があるといっても文章表現が大きく占めます。

文章での表現が大きく占めているということは、CGでは表現されない部分があるということです。誰かが歌っているとします。アニメなら「歌っている映像」をぽんと出せば"誰かが歌っている"という情報を伝えることができますが、逆にそれ以上の想像の余地は低くなります。

しかし文章で「誰かが歌っている」と表現された場合、私達はその文脈の範囲内で"誰かが歌っている"という情景をイメージします――人・場所・空間・動作・色彩・声など――アニメでは想像の余地が許されないほどに完成されたものを表現してきますが、文章では自分で如何様にもイメージできてしまいます。

もちろんイメージの幅は読者によって個人差がありますが、その分、その読者の「理想」が体現されます。

小説を読んでいる人なら分かると思うんですが、文章という1情報を自分の力で100に近づけていくのが”文字を読む"ことだと私は考えています。

――人間の表情、仕草、振る舞い、動き、 月の光、風のざわめき、空気の匂い、太陽の暖かさ、雨の音…………。

そういったことを、自分で想像することで、自分だけの「理想」を具現化することができます。ノベルゲームもこれは可能であり、その為、文章では表現されない見えない部分は各人の理想で創りあげられます。

 

関連→ラノベとアニメの情報量の差はどこにあるのか?

 

よくラノベのアニメ化がされたときに「声が違う」という文句がでるのはそういうことです。自分がイメージした声とアニメ化で具体化した声が大きく違うためこういう意見が出るんだと思います。

ノベルゲーム原作の場合は「声が違う」という文句は声優が変わらない限り出ませんが、雰囲気が思っていたのとは違う、印象がおかしい、間が変、という曖昧な批判はたいてい「自分の想像(創造)した理想」との食い違いが原因でしょう。

こんなふうに文章での表現は、「見せない」からこそ各人の理想が創りあげられます。

 

それに、ホントに目の前に現れると考えちゃうよ。見えないものの方が信じられるってあるのかも

(見えないもののほうが信じられる……か。)

(奈木崎の言いたいことはなんとなくわかる。形あるものというのは、どこか完全じゃないという気がする。)

形がないものの方が、万人がそれぞれに理想を重ねられるから。万人にとって完璧な存在でいられる。

 


――奈木崎奈留子/桐ノ小島巴/僕が天使になった理由

 

対して、アニメはすべてを「見せます」。これはアニメという性質上仕方のないことですが、全てを見せることで、各人にあった「理想」と齟齬が生まれちゃうんですね。

原作既読者が、アニメ化したものを見ても「これは違うだろ……」とか「こんなものじゃないよ」と思ってしまうのは、個人が描いた理想と反発しているからだと思います。

アニメの「映像化」という可能性は、すなわち限界でしかないのです。

 

 

まとめ

 

1、一回性を原作で奪われている
2、ノベルゲームの圧倒的な時間の積み重ね
3、過去の美化
4、アニメの可能性は、すなわち限界でしかない。

 

以上で「名作ノベルゲームをアニメ化しても原作既読者は満足することは無理」のお話はおわりたいと思います。

 

 

 

余談


ノベルゲームがアニメ化する場合、原作既読者の方は自分がプレイしたノベルとはそのアニメはもう「別物」として見たほうが良いのかもしれません。ファンディスクやオマージュとして捉えたほうが楽しく見れそうな気がします。

「あの名作をアニメ化するってことは……あの体験をもう一度味わえる?!」なんていう期待が、アニメ化への落胆や裏切られた感覚に繋がってしまうものですから。

というより主媒体から別媒体へと移行した作品は、もうその時点で、原作の同一性が失われてしまうんじゃないですかね? 

タイトルや物語の内実は同じですけど、媒体が違うということは、表現の幅、限界、体感覚の密度などが全然違ういますし。

 

 

<参考>