『ラスト・ピュリファイ』自己の枠組みから逃れられない人類の末路(感想・レビュー)
核戦争によって人口は激減し国家が崩壊した近未来。その最悪の結果を憂いた『世界倫理機構』はもう二度と同じ悲劇を起こさないように人類を平和へと導こうとした。
結果。あらゆる文化、価値観、そして感情さえもタブーになる。感情があるから人は価値観を育み、価値観があるから文化が生まれ、文化があるからこそ特定の思想に執着し、やがては思想の対立によって争いが生まれてしまう。だから『世界倫理機構』は感情を無くてしまえば恒久平和へと到れる、とそう思ったのだろう。
結果。その思惑は成功する。『世界倫理機構』は全人類に洗脳を施すことで、優越も劣等も敬愛も慟哭も悲哀も快楽も激情も憤怒も愛情すらも忘却した"新人類"を誕生させたのだ。
彼らは喜びを知らない。
彼らは死すらも恐れない。
彼らはどこまでも真っ白だった。
―――そうして、世界は永久(とこしえ)の安寧へと至る
『独立都市・東京』を除いて――
この都市だけは「人間らしさ」を愛したがゆえに最後まで世界に叛逆し続けた者たちなり。生きることの意義を叫び、自由の意味を問い続けた者たちなり。
竜二「なるほど、食って味わう楽しみも禁止ってわけか……」
竜二「音楽も駄目、絵も駄目、スポーツも駄目。人の心を揺さぶるものは全部駄目。そこまで徹底して捨てなきゃならねえもんなのか、感情ってのは?」
徹「永久平和と絶対平等のためです」
竜二「なにが平和と平等だっ! その平和の喜びすらも感じられねえような体になって、何の意味があるんだよ?」
竜二「そりゃ、世の中をまとめるためには、ある程度の我慢が必要だろうけどな、ある程度以上の我慢なんて要らねえ」
竜二「社会の一員である以前に、人間は生きてんだ! やりことが山ほどある! 好きなものも沢山ある! それの何が悪い!?」
――ラスト・ピュリファイ
ディストピア感溢れるこの世界で、『ラスト・ピュリファイ』は自由の意味をあなたに問いかける。
DLはこちらから→http://www.vector.co.jp/soft/winnt/game/se482649.html
ラスト・ピュリファイから垣間見える、人の愚かしさ
人は決して「自己の枠組み」から逃れ得ることはできない。
育ってきた民族・地域・組織・時代から形成された価値観を通して物事を考えてしまうものだし、反応してしまうものだ。例えば人肉と生殖器を食らう民族、足の小ささに価値観を見出しどこまでも足を小さくし続ける地域、刺青文化、虫食文化、同性愛、無性愛……数えきれないほど世界には自分とは異なる価値観が存在し、それを受け入れることもできれば顔をしかめてしまうほどに嫌悪感を催すものだってあるだろう。
そしてそれはなにも外の国ではなく自国に至っても同じことだ。世代間の考え方の差で困惑したり、山猿のような倫理観しか持たない者に辟易したり、カルチャーの受け取り具合で「彼らを理解できない」と思ってしまうことは誰にだって一度くらいはある。それくらい他者を理解し受け入れるというのはかなり難しい。
多少そこから抜け出せる努力は出来るが、焼け石に水なのはもう誰もがわかっていることだろう。そう決して抜け出せない。
――結局、私達が理解できるのは自分自身だけだ。
もし私達が「自己の枠組み」から外れることが出来るならば、他者理解など容易い。相手の気持ちになって考えるのではなく、相手の気持ちになれるのだから誰とだって仲良くなれてしまう。相手の枠組みに入って物事を考え、理解し、体験すればいいだけなのだから。
しかし残念ながら私達はいつまで経ってもそれが出来ないことは周知の通りである。出来るのは『自己の枠組みにあるものから類推する』ことだけ。
「あの人は●●が最高だというけれど俺にはそう思えない。全然良いなんて思えない。俺は■■の方が最高だと思う。だが俺の■■に対するこの気持ちと●●の対する気持ちが似たようなものということならば、あの人の気持ちは理解できる」そんなふうに。
そんなふうに「自己の枠組み」に存在するものから変換し・類推することで相手の気持ちに近づこうとする事以外私たちにはできない。他者理解の限界はここまでだ。
そしてその「類推行為」を放棄することだってある。
なぜ放棄するのか?
察しようとしないのか?
寄り添うと思わないのか?
簡単だ。自分のほうが「正しい」からだ。相手の主張・思想・気持ち、それらが「正しい」と思えないからこそ拒絶するし、そして自分の主張のほうが「正しい」と思えるからこそ他者理解は放棄されてしまう。
なぜ自分の主張を「正しく」思えるのか? それは"実感"を伴うからだ。痛かった経験、失敗した思い出、楽しかった記憶――そういう"実感"を伴ったものは得てして「正しさ」として認識される。当たり前だろう。"感じ"たことそれがその人にとって間違いなワケがない。その"感じ"た気持ちを否定することもできない。
故に執着してしまう。自分が正しいと思ってしまう。
だからいつまでたっても右も左も相互理解なんて出来ないし、史修正主義者は非難を喰らいつつもその舌を動かし続けるし、「多様性の理解」という考え方がいくら素晴らしくても大衆に浸透しづらく、political correctnessを理解できかつ実践できるのは一部の人格者だけときた。それも類推行為を"いっぱい"頑張るくらいの意味合いしかそこには含まれない。
「自己の枠組み」から逃れられない、とはそういう意味だ。
故に『世界倫理機構』が人類から感情を奪ったのは、ある意味で当然で、仕方なかったことなのだと思ってしまう。私はかの組織の考えに首肯するよ。とても正しいとさえ思う。
自分という存在から決して外れることの出来ないこの生き物は、また同じ過ちを何度も何度も繰り返すに違いないのだからね。
ただやはりそれは行き過ぎているのも事実で、竜二たちが怒るのも無理はない。せめて『独立都市・東京』だけでも見逃してくれればよかったのにね、ゆるやかに衰退を待ってくれたらよかったのに、たった数%の"異文化"を認めてくれればよかったのに。
――けれど、『世界倫理機構』は一点の黒がない世界を望んだのだ。
彼らは自分らを正しいと叫んでは異文化を徹底的に蹂躙した。彼らは彼らなりに『東京』を認めることは出来ず、竜二達もまた『世界倫理機構』を認められず戦争に正しさを見出し衝突した。
そしてこれこそが、『ラスト・ピュリファイ』が自由の意味を問う一方でもうひとつ描いたものだと思う。つまり私達は「自己の枠組み」の外にあるモノを認められない生き物なんだと。
そうして、雪が降る、最後の日に
人はどうしようもなく愚かだが、未名守徹はそれを肯定した。料理を食べる楽しみを、風が頬を撫でる気持ちよさを、他者と自分が繋がる瞬間を―――彼は愛せるようになった。
それは、一周目ではあらゆるものを失った後で迎える受動的な肯定であり、二周目では失いたくないからこその能動的な肯定であった。『ラスト・ピュリファイ』において二周目が存在した理由は、おそらくそういうことなのではないかと思う。
ただ私個人の意見としては、未名守徹が戦場で「自分の意志」を勝ち取る2周目は若干くどく、正直一周目のみで良かった。この2つのENDの差異は字面にすれば大きな差があるように見えてしまうが、実際プレイしてみると「似たようなことをやっている」ように感じられてしまいくどく感じてしまうのだ。
なんにせよ、一周目で徹と琴莉が迎える世界の終末感は、好きだったなあ……。もう人間と呼べる人間は自分たちしかいない世界で迎える儚さというか、そしてそこに雪が降っている冷たさが織り交ざったあの空気感が。
竜二 「徹……とにかく生きろ。生きて人間を信じろ。確かに俺達はどうしようもねえ生き物だ。こうして殺し合ったり、何百年もいがみ合ったりする」
竜二「だが、それだからこそ、分かり合えたときには……誰かとつながってるんだと実感できたときには、最高に気持ちがいいんだ」
竜二「それを感じられる瞬間まで、何が起こっても生きていけ」
ああ……今なら分かる。
どうして、彼が死の直前にそう言ったのか。
今なら何もかも理解できる。……分かります、竜二さん。
これを伝えたかったんですね。
この温かさを。この開放感を。この喜びを。
(中略)
徹「生きたい……僕も生きたいです……あなたと一緒に……!」琴莉「うん……」
琴莉「一緒にいてあげるよ、最期の時まで。これからどうなるのかは分からないけれど、2人なら怖くないから」
琴莉「だから、生きていこう」
徹「……はいっ……」
――ラスト・ピュリファイ
満足度:★★★(3.5)
(了)
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