※ネタバレ注意
(本記事は『去人たち on 吉里吉里版』(以下、『去人たち』)を対象としたものであり、作品"外"のことは極力触れず可能な限り作品"内"のみで完結しようとする語りであることを了解しつつ読んで頂ければ幸いである)
1.『去人たち』はナニから去ろうとしているか?
『去人たち』は理解に苦しむと言っても過言ではないテキストでひしめき合っている。ブレヒト、バロック、行動化、異化効果、アプリオリ、anima、現象学、シニフィアン……なんの脈略もなく繰り出される専門用語のオンパレードに詳細な説明もなければ最低限の補足もない―――にも関わらずお話はズンズン進んでいくし、挙句の果てには一つの主張を提示したと思ったらすぐさま別の主張にズラされるのが常だった。まるで元の主張なんてどうでもいいように、まるで一つの主張を風船のように膨らませて膨らませて破裂するのをじっと見つめるように彼らの語りは虚無的でさえあったのだ。
本作のテキストは冗長かつ難解。あるいは無意味としか思えないもので溢れかえり、[精神病十種]におけるキャラクターの心理描写は無駄に無駄を極めたほどに緻密だったことに対し疑う余地はない。
これに辟易してしまった者も多かっただろう。
しかし、それは作風などではなく意図的なものだ。つまりわざとやっているのだ。あの冗長なテキストは「読者の理解を遠のかせる」この一点において成り立っているし、それを目的に構築されている。
なぜそんなことをするのか?―――監視者から"解放"されるためである。『去人たち』という物語自体、ひいてはその物語内で生きるキャラクターが監視者(=プレイヤー)から去ろうとするが為にこのような形になっているだ。
[仮構の人]で歌穂がつぶやいた言葉を見てほしい。
歌穂が想像するようにもしあの翠子という女が内部捜査員ならば今の発言で当然自分を容疑者とみなしただろう。
誰も知らないはずのしていない転校ということを知っているのはつまり犯人であるからではないのか。
そう思って当然だ。
しかも、わたしは父親の転勤、という転校届を書いたもの、書かせたものしか知らないはずのことまで言ってしまった。廼羅と楓羅が私に告げられるはずのない言葉。
父の転勤も転校も、もとなかったのだから。
歌穂は言ってしまったことを後悔する。
それは自分が疑われそして拘束されることを恐れるからではない。
むしろ、そんなことはどうでもいいのだ。
そんなことのためだったら言ったことを後悔はしない。
後悔するのは、キャラクターという自分のせいで事件を安易な方向に進めてしまったということなのである。
必要と必然性を帯びた発言は監視者によって常に見張られ、監視者の目に留まってしまえばそれは拡声器で世界中に伝えられ、世界中のカメラがそこに向けられる。モンタージュ論法的方法は監視者たちを喜ばせるだけではないか。
わたしたちは監視者たちから解放されなくてはならない。
その方法は上を見たら地上をみたとか下をみれば空を見上げただのそんな反動的比喩ではないのだ。
そんな監視者への反抗はつまり監視者の容認でもあるのだ。
解放されなくてはいけない。
今は監視者のシニフィアンとシニフィエとわたしたちのそれとの隔絶を示すことでなんとかしなくてはならないのだろう。
頭上の右上に監視している眼球があるのは知っていて良い。
だが、指をさしてはいけない。
見てはいけない。
その眼球からはどうせ逃れることはできないのだから、どうせなら膝をかかえてじっとしていればいいのだ。
できれば何の音もしない海底の密室のようなところがいい。
だが死んではならない。
不用意に死んでも監視者はあたなのもとを離れないのだろう。
監視者は時間の連続性をも超越しているがためにあなたの死を世界が消滅するまでずっと見張り続けているのだ。
あなたはずっと死に続けたままに存在しなくてはならない。
また、それはあなたの生以前をも監視している。
生以前の準備運動を辛辣に察知し監視者は監視態勢を整える。
そして生が生じたときに始まる世界を揺るがす振動を監視者はずっと監視し続ける。
あなたがたの振動は死んだ時点で減衰振動となり収束していく。
しかし、それが完全な収束へ向かわないことを監視者は知っている。
微視的に永遠に近い振動をくりかえすあなたを生のときと変わらぬ厳しさを監視し続ける。
解放されはなくてはならない。
わたしたちは監視者に声を持たずに恭しくそして皮肉をこめて言わねばならない。
去ってよろしいでしょうか。
監視者は何も言わないがもしそういってもまだ居続けるのであれば、まず自分の左腕を切り落とさなくてはならない。
それでもだめなら右足である。
両手両足を失えば首を落とさなくてはならない。
それでもダメなときのために両手両足と首は着脱が可能であるような仕組みをしていなくてはならない。
元に戻せない様な場合それは去る機会を永遠に逸すことになってしまうのだ。
わたしたちの目的は去ることなのだ。
そしてその目的を達成したものはかつて存在していないのだろう。
だから、今度こそわたしたちがその去ることに挑戦しなくてはならない。
もちろん、結果は分かっている。去ることなど不可能。
そんなことはわかりきっている。
だけど、それでもわたしたちがいるのは監視者がそこにいるということと、そして、なによりもわたしたち自身が仮想的ではあっても去る方法を見出したからと信じたい。
「帰ろっと」
――歌穂/『去人たち』(仮構の人)
いつも物語の登場人物を見ているのはだれだ? 拡声器という名のインターネットで彼女たちの行動の仔細を世界中に伝えようとするのはだれだ? 必要と必然性を帯びた発言をした瞬間に目線を向けるのはだれだ?
すなわち歌穂が語る「監視者」とは「Observer(傍観者)」であり、ひいては「プレイヤー」のことである。
歌穂……いいえ全てのマニエラ患者はプレイヤーから解放されたいと思っており、そのために行動している。
もちろんそれは安易な「死」などではない。時間軸の制約に囚われないプレイヤーはキャラクターが死のうとも、その死をじっと見続け、そこに何かしら動きがないか仔細に目を動かし続けるからだ。
「歌穂はトラに食われたがそもそも絵の中から出てきたトラなのだ。アレは幻だろう。物理的に死んだわけじゃなく周りが勝手に死んだと勘違いしているだけでまだ生きている」
「あるいは男が順々に歌穂たちを殺していっているのだが、彼女たちはそれをトラだと認識してしまっているのだ」
「いやいや歌穂はアレで死んだのだ」
とかそんなふうに物語が終わるまで死者の監視は終わらない。だから、死ぬことではダメなのだ。死ぬことではプレイヤーからは解放されない。
またモンタージュ論法的方法――歌穂が言いたかったのは断片的な情報を組み合わせてモンタージュのように物語を作ろうとも、プレイヤーはそれを丁寧に組み換え正確な「姿」に整えることなんてお手の物だ、と言いたかったのだと思われる。時系列が不自然だったら時系列順に直し、核心的な情報がラストにあるのならばそれを持って序盤を見渡すことだってやってのける為――そんな方法では監視者から逃れられない。
上をみたら地上を見たと言ったり、下を見たら空を見たといった反動的比喩も同じ理由で効果をなさない。監視者とてバカではない。それくらいの仕掛けなんて時間をかけて食い破ってくる。むしろそういったGimmicに楽しさを覚えてしまう者だっているだろう。
マニエラ患者は「プレイヤーから解放される」ことを望んでいるが、同時に彼らを「喜ばせる」ことも御免被りたいのである。それは歌穂が言うように楓羅の情報をポロッともらしたせいで安易な事件解決展開をもたらしてしまったり、必要と必然性を帯びた発言を隠すために先述した方法を採用したりすることだ。
そこでマニエラ患者はシニフィエとシニフィアンの隔絶を見出した。「表されているもの」と「意味されているもの」を可能な限り、遠く離れ離れにすることで、プレイヤーを喜ばせずかつ監視から去れると踏んだのだろう。
どういうことかというと私達は「文字」という名の記号を読んで、その記号列の内容を理解する。"今 日 の 空 は 青 か っ た"という数十の曲線と直線が折り重なったものから、「今日の空は青かった」という意味を理解する。
ロシア語が読めない者は「тебя забанили на гугле?」これがただの記号にしか捉えられずその意味を理解できないのと同じように。
「文字(=表されているもの)」と「文字の内容(=意味されているもの)」は本来区分されており、それらを結合させることで私達は記号という名のテキストを読みそこに書かれていることを了解できるのだ。
そして、もし、物語上で、表されているテキストが読めてもその意味が理解できなかったらどうか?
前提知識の必要な専門用語、具体的な説明なんてされない世界観、荒唐無稽な心理描写の数々―――きっと私達はその物語を読めるだろうが、しかしその意味するところは覚束なくなるだろう。
マニエラ患者にとってそれを実現する方法が、「系統だった妄想を構築」することなのである。
(前略)そしてその名が示すように彼らの一見として奇異に見える行動も<手法>でしかないの」
「自分を防衛するための手法として彼らがそれを意図的に行っているという考えか。無意識化への抑圧をその<手法>を通して解消しているということか。一つのヒステリーだな」
「それだけじゃない。彼らはその<手法>をにつねに拘っている。彼らは無意識の抑圧を表現する<手法>をまず見つけだすの。そしてその手法をつかえるモチーフをつくってさらにそれを部品に妄想を構築していく」
「彼らは自分の妄想になんの意味も感じていないということになるな」
「そのとおりよ。彼らは自分の妄想そのものが治療者に認識されていることを望んではいないの。典型的な例がね、バロックシンドロームと診断された男の子で、自分は天使の子供だというの。話し方がね"そわうの君にせうそく申をき給て"なんていうの。その男の子の妄想も完璧だった。一つだけわたしはその男の子に言ったの。天使は純粋形相であって資料を含まないってね。でも、その男の子は全く不満そうな顔をしなかった。その意味が分からなかったわけではなかったはずだし、自分が資料であることも分かっていたんだわ。でもそれより高次な妄想を構築することもなかった。妄想をもった患者ならすぐに反論するか別の妄想に逃げ込むわ。自分の安定した環境を侵害されたんだもの。その男の子にとってはその難しい言葉を使うということが重要であって、天使の子供というエピソードは手法が機能する場を提供するものにすぎないかったの」
「実用言語からの逸脱と歪曲。フォルマリズムか」
(※引用者注:すぎないかった、は誤字ではなく原文ママ)
――歌穂、男/『去人たち』(仮構の人)
歌穂たちが語ったように、マニエラ患者は執着している妄想が大事なのではなく、その妄想を場にして「意味深で難解な言葉」を考え使うことが重要なのだ。
すなわち自らを演算装置、メモリ、ハードディスク、レチキュリアン、パンドラの匣、反動形成etcと見立てるのも、彼女たちは自分たちの思考・意思が"文章化"されることを意識的・無意識的に関わらず知っているからであり、その"文章化"されたテキストを読むプレイヤーを混乱させたいが為にその妄想に拘り続けるのである。
――実用言語を逸脱し歪曲するために
有瀬に至っては、自分の意思が現出されたテキストの"漢字"の違いまでも知覚しているようだった。
ヘミングウェイ、どうしてあなたはそんなに自然体でいられるのですか。
あなたには主張したいことはないのですか。
他人に自分の言いたいことばっかり言って嫌われるのがいやだったのですか。
ああ、そんなのは構わないわ、
だって、わたしは意識していることを文章にされてしまうそういう宿命を背負ってしまったのです。
ああ、それは決してわたしのせいではないのです。
この世界のせいなのです。わたしをどうか責めないでください。許してください。だって、意識しないということはわたしにではできないことなのです。
――有瀬/『去人たち』(去人たち)
けけけけ。笑いものよ。
あら、この字はいけないわね。
嗤い者よ。けけけけけ。
――有瀬/『去人たち』(去人たち)
いわばそれは「異化」という文学的手法であり、自らを異化し、心理状態を詩的言語に置き換え、プレイヤーに知覚させるのを困難にし、かつ認識する過程をどこまでも長引かせることをやってのけたということになる。
異化は、本来対象を「直視」させることを目的にしているが、マニエラ患者はその際に生じるプロセスを重視しているのだろう。
異化とは、日常的言語と詩的言語を区別し、(自動化状態にある)事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす芸術の一手法だと要約できる。つまり、しばしば例に引かれるように「石ころを石ころらしくする」ためだ。いわば思考の節約を旨とする、理解のしやすさ、平易さが前提となった日常的言語とは異なり、芸術に求められる詩的言語は、その知覚を困難にし、認識の過程を長引かせることを第一義とする。「芸術にあっては知覚のプロセスそのものが目的」であるからだ[3]。またそれによって「手法」(形式)を前景化させることが可能になる。
そして先述した、マニエラ患者が行う「シニフィアンとシニフィエの隔絶」と「異化」という<手法>でもって、物語が最初から最後まで形作られたとき―――読者はきっと呆れるに違いない。
なんだこの作品はと、置いてけぼりにするのも限度があると、ユーザビリティが全く無いじゃないかと口々に愚痴をこぼしはじめ、やがては読むを止める者が出てくるだろう。一部を異化したりするならばともかく、ほぼ全てに施されるとなるとそりゃ厭にもなる。
プレイヤーは監視するだけのモチベーションがあるからこそ物語を見張るし、Endingまで読破しようとする。しかし理解させる気もなければ、読ませる気もない物語に残り続けるほど暇ではないのだ。
有瀬が促したように――途中でギブアップした者も多かったんじゃないか?
あら、あなたあたしの言っていることがくどくどしていて嫌そうな顔をしているわね。
ええ結構よ。止めなさい。今すぐ読むのをやめなさい。なんでやめたか後でしっかり考えなさいよ。そしてしっかりあとでホームページで熱く語りなさい。あいつはバカだ。アイツは病気だ。あいつは精薄だ。なんとでもいいなさい。言ってそしてね、わたしを罵りなさい。あはは、わたしの思う壺よ。
――有瀬/『去人たち』(去人たち)
いわばマニエラ患者は「物語から読者自身の意思で読者を去らせる」ことを狙ったと言っていい。彼女たちからすれば監視者が自ら去ってくれるのは願ってもないことだし、死ぬことでも生きることでもなく「呆れさせる」ことでプレイヤーから逃れ得ようとしたのである。
そして例え最後まで読まれてしまっても構わない。
なぜなら、プレイヤーはどうせ物語の内容を汲み取れはしないからだ。先述した2つの<手法>で描かれた『去人たち』はその意味するところが大変胡乱なため、劇中で描かれたことは一体何だったのか?どんな意味があったのか? そこに明確な答えを出すことは出来ず、例え「こういうことだったのかも」と仮説を立ててもそれは仮説を立てた本人すらも信じ切れず的外れな意見に終始するだろう。
結果。私達プレイヤーの監視がいかに無意味であるかが際立つ。見当違いな方向を凝視し、さりとて理解できず、あまつさえ理解したと思ったものは本人すらも信じ切れないという残念な読解力を晒すことになるのだ。
――見ているのに、何も見えていない私達
『去人たち』とは何か?どんな物語であったのか?何を描こうとしていたのか? これらの問いに自信を持って答えられる者はどれくらいいるのだろうか。あなたはどうだ、答えラレルカ?
……
マニエラ患者からすればそんな物語を見ているにも関わらず結果的に何も見えていなかったに等しい「盲目の読者」はもう監視者とは呼べず、彼女たちの欲求である「監視者からの解放」は――途中で読むのをやめても、最後まで読み切っても――果たされたのではないだろうか。
◆ ◆
長くなってしまったので、今まで語ってきたことをまとめよう。
すなわち
「『去人たち』のテキストが冗長かつ難解かつ意味不明なのは、この物語内で生きているマニエラ患者たちのせいである。彼女たちは(意識的に関わらず)自身の意思がテキストとして現出することを分かっており、それを読む監視者の存在を理解していた。そうして監視者から解放されるために「シニフィアンとシニフィエの隔絶」・「異化」という2つの手法を自らに施すことで、自らの意思を冗長・難解・意味不明にし、その意思が現出したテキストを読むプレイヤーを混乱させようとしたのだ。そしてプレイヤーを呆れさせこの物語世界から退出することを促し、例え退出することがなかったとしても理解することが困難なこの物語はプレイヤーを「監視者」の地位から「盲目の読者」へと引きずり下ろすことになる。もしこれが成功したならば、マニエラ患者の無意識化の欲求である「監視者からの解放」ひいては「去る」ことはうまくいったと言えそうだ」
しかしなぜ、マニエラ患者はそのようなことをするのか?
2.虚構世界を自覚するキャラクター達
なぜマニエラ患者は「監視者から解放」されることを望むのか? なぜマニエラ患者はプレイヤーの存在に気付いているのか?
そう疑問を覚える者もいると思う。
これについては、歌穂と男の仮説で一応説明がついているので目を通して欲しい。
「彼らはすでに遺伝的にそういった手法を獲得しているんだろうと思うわ。こればっかりは調べるにもうちじゃどうしようもないから、推論でしかないけど」
「遺伝的というのは考えにくいだろう。そんな高度な思考内容は遺伝では不可能だと思うな。獲得形質の発現と考えるほうが普通だ」
「両方ってのも考えられるけどね」
「先天的準備と環境因か」
「環境因についてはわたしはやっぱりはっきり言えない。この社会が彼らのような患者たちを生む結果となったのかどうかは」
「奴らが社会に適応した進化体とも考えているのだろう。だましだまし人はこの社会で生活しているが実際は社会に適応しきれていない。むしろ、奴らのような人間が適応しはじめているんじゃないかとな」
(中略)
マニエラ患者の死亡率は九割以上。その内自殺は三割、ほかは脳機能低下による死亡。死体は意外に幸せそうな顔をしてるわ。進化した思考形態を手に入れたものが一年以内に死んでしまうっていうんじゃ、それは疾患だと言われても仕方ないと思う。反精神医学でつつけるところなんて一つもない。でも、こんなことを言うととてもおかしいと思うだろうけど、心的装置そのものが組み変わってしまったんじゃないのかってね。心的装置はこれまで生物としての充分機能を満たしていた。力動的にみてもエネルギーは均等に備給され循環する」
そういって歌穂は少し言いよどむ。
自分の考えが本当は整理し切れていない。
「心的装置そのものが変わるというのはかなり突飛は話だ。それがヒトという種の危機に陥れるものであるからだ。そもそも心的装置ってのは経済論的観点のもとに欲動エネルギーを循環、配分するもので"原則"のはずだ」
「そうなの…。原則が変わった」
「原則が変わるというのはよっぽどだぞ。原因はなんだ。満足な説明はできないのだろ」
「でも、こういう仮説も考えられる。心的装置のうち恒常原則がもし機能しなくなったのならば、快楽原則によりエネルギーは自由な流出をはじめる。マニエラ患者特有の観念奔逸の原因とも考えられるし、そしてここからの心的装置の動きはわたしには追随を許さない感があるのだけれどフロイトがその著作集の中で快楽原則を"死の欲動に仕えるのではないか"と自問しているの。恒常原則がエネルギー水準を保つように働くのに対して快楽原則はどちらかといえば放出するほうに働く、ということはニューロン惰性の原理の言っているニューロンがエネルギーを完全に放出しようとする傾向に似ているじゃない。完全に興奮を放出しできるだけ興奮を少なくする、できればゼロにまでしようとする心的装置、ニルヴァーナ原則に従い患者たちを自動的に死へと導く。マニエラ患者における自殺傾向とのD2ドーパミン受容体の増加にだって当てはめることはできると思わない」
「論理としてはわかる。D2ドーパミン受容体の増加という器質因によって心的装置が変わり、生を持続させようという生物としての宿命的な欲動が消滅した。心的エネルギーは死の欲動、デストルドーに過備給される。しかも、彼らの発狂はよりより死のためにリビドーを昇華し創作活動としている。人生を芸術にしそれを演じているのかもしれない。筋は通るけど、しかし帰納の飛躍がある以上、仮説としかいいようがないな」
――歌穂、大神/『去人たち』(仮構の人)
仮説の域を出ないとは言っているが、事の起こりはこれが真相だと見ていいだろう。
二人の会話を私なりに解釈するとこうなる。
つまりこの社会……この"虚構世界"の土壌によってマニエラ患者は生まれた。彼らが<手法>を求めたのも、<手法>に拘り続けるのも、この"虚構世界"で生まれ(=遺伝的要素)・育った(=環境因)からなのかもしれない。
"虚構世界"ってのは物語であるため階層が上の――つまり私達読者に――読まれるものだし、我々は登場人物に否応もなく視線を向け、絶えず見続けてしまうものだ。ならばそんな世界で生まれ育ったものは、この"虚構世界"に適応し進化し、"虚構世界"の成り立ちに気付てしまう人間が出てきても不思議ではない。
そして、それに(無意識ながらも)気付いたものがマニエラ患者なのだ。
「奴らが社会に適応した進化体とも考えているのだろう。だましだまし人はこの社会で生活しているが実際は社会に適応しきれていない。むしろ、奴らのような人間が適応しはじめているんじゃないかとな」
――男
男が言った「適応」とは虚構世界への適応という意味であったと考える。
そしてこの世界の成り立ちに気付いていない一般人は、欲動エネルギーは恒常原則によって保たれ、安定した状態を維持しようとする。エネルギーが水準以下にならないように原則が働くというわけだ。
しかしマニエラ患者はその原則を停止させ、欲動エネルギーが「放出」する状態へと変わってしまった。そうしてやがてエネルギーは奔逸を始め、自由に流れだし、ゼロに近づいて死に至る。
一見これはどういうことを意味しているのか分かり難いが、今までの流れを踏まえると簡単だろう。
つまりマニエラ患者はこの世界で粛々と生きるのではなく、よりよく去るため生きるための原則を変えてしまった存在ということだ。よりよく監視者から去るために生きようとしている生物である。
生きるための原則を変えた結果が、「系統だった妄想を持ちながらもその妄想に価値を抱いていない精神病者」であり、その妄想によって自らの存在を異化させ、異様で未決なものにし、プレイヤーに判断不能な存在と知覚してもらうことを本意としているのである。さらに言えば、自身の極大にまで構築した妄想を遂行するため欲動エネルギーを使用し死んでしまう者なのだ。
補足すれば、マニエラ患者はそういった原因・理屈・理論を知っているから行動してるのではなく、歌穂と男の会話からすればあくまで無意識に行っているとのことだ。二人の言葉が真実ならば、歌穂や有瀬のようにプレイヤーを完全に意識しているマニエラ患者は一握りなのだろう。
それは精神科医からの逆転移にを避けいているよう。精神科医は"平等にただよう注意"を払って被分析者のどんな要素にもアプリオリに特別扱いをしない。そのときの態度のように見えたわ。まるで立場が逆転したような気がしたもの。さらにね、彼らは芸術家であるからその手法が洗練されているの。ブレヒトの言葉を使えば、異化効果によって自分を異様な未決なものにして、対象の批判的人物評価過程を惹起させる、ってことね。ええ、やはり彼らは自分を認めてもらいたいんじゃないと思う。わたしたちのほうに変革を喚起させようとしている居るんじゃないかと思うの」
「つまり、バロックにしろマニエラにしろずいぶん手の込んだ精神病というわけだ。そして奴らはそれを無意識にやっている。そういった理論を知ったわけでもなく」
――歌穂、大神/『去人たち』(仮構の人)
3.『去人たち』は理解なんて求めていない
監視者に対して、自らを判断不能にさせることはイコールで監視者に理解されることも共感されることも望んでいないということになる。ひいては彼女たちの意思が現出したテキストで出来上がった『去人たち』という作品自体もまた理解されることを求めていなかったと言っていい。
しかし本作が唯一求めたのは、プレイヤーの「物語の見方」の変革だったのではないだろうか。
というのも、多くの人は「この物語はどんなものであったか?」という見方をするものだ。劇中で何が起こったか、何を意味していたか、そんな作品の"内容"に注視するものだし、そこには「作品外形」を注視する意識は希薄であり、やはりまだこの見方は一般的ではないのだと思う。
それくらい(私も含めて)多くの人は「作品の中身」を凝視しがちだし、そこに期待を寄せてしまうものである。
しかし本作のように、異化・シニフィアンとシニフィエの隔絶といった手法を全編とおして描けば「作品の中身はあるもののそれを読者は知覚できない」状況は生まれ、当然、読者は作品の中身ではなくテキスト・音楽・立ち絵・演出といった作品の"外形"に強く目線を向けるようになってくる。
本作はそれにも飽きたらず「絵の中から出てきたトラ」によって登場人物を食い散らかすストーリーラインは、徹底して物語の意味から理解を遠ざけようとしているのが伺えるだろう。これはいきなり神様が現れて大団円にしてしまう "デウス・エクス・マキナ" の逆verであり、物語の整合性をぐちゃぐちゃにしながら悲劇のオチをつけた、作劇では禁忌とされる手法である。
しかし、虚構世界で生まれ育ち/プレイヤーの存在を理解し/<手法>に拘るマニエラ患者が存在するという前提がある本作において、絵から出てきたトラに殺されるというのはある意味自然で、現実的なのである。
マリが言ったように、だってここは "虚構世界" なのだから何が起きたって何ら不思議ではない。
(去人たち/k2cee)
そして『Ⅰ』では本当に脈略もなくXmaこと "デウス・エクス・マキナ" を使用した。
大神は[道化の臨終]でXmaで物語の根本を書き換え、本来彼が至るはずだったエンディングを無視し、彼が望む結末にしたのが[終末事端]だったと思われる。アリスが人間として扱われる世界、大神がそんなアリスと一緒にいられる結末。
ただ『Ⅰ』は監視者ではなく"創造主"から去ろうとしたお話だったと考えているのだが、いずれにせよ「物語の中身を読者に知覚できないようにする」実験的手法は『Ⅰ』『Ⅱ』両方に共通するものだったのではないだろうか。
そして多くの読者は、『去人たち』をプレイした後「物語に"中身"を求めること」の意義を問い始めたに違いない。なぜならその見方ではこの物語はうまく楽しめないからだ。
マニエラ患者の自我実現によって現出した『去人たち』は、精神病者の緻密な心理描写、詩的な表現で埋め尽くされているため「テキストそのもの」に魅力を感じられれば美しい作品になりえる。
しかし「テキストそのもの」に魅力を感じられなかったり、物語を唐突に分断・断絶する展開に憤れば(=物語の中身を重視してしまえば)、これほど意味不明で、読者を置いてけぼりにする駄作はないだろうからね。
だから私はこう思うのだ。
『去人たち』とはプレイヤーの監視の"仕方"に変革を求めた作品だったんじゃないか、と。物語の中身を重要視することの意義、を問いかけたのではないかとね。
おわり
さて。今回書いてきたものは紛れも無く物語の「中身」に焦点を当てたものであり、歌穂たちの無意識化の欲求が私の想像通りであったならば、彼女たちの恨めしい言葉が聞こえてきそうだ。
『去人たち』が求めた変革を了解しつつ、私はそれを無下にしているのだから当然かもしれない。
となれば、この記事は「あなたたちは上手に去れませんでしたよ」と歌穂たちに引導を渡すものになるだろうし、あるいは先述したようにプレイヤーである私の読解力の低さをここでこういうふうに晒す結果となったかもしれない。
そこは、これを読んでいるあなたの判断に任せて筆を置きたいと思う。
(了)
感想レビュ・考察記事
- 「SCE_2」考察。この世界の謎に迫ろうと思う(34106文字)
- はつゆきさくら考察_死者が生者へと至るためには何が必要か?(26587文字)
- フロレアール考察―我々は二項対立を超越せねばならない―
- Charlotte考察―もう僕たちに奇跡は必要ない―
関連記事