フロレアール考察―我々は二項対立を超越せねばならない―

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「わぁい、ご主人様、大好きですぅ!」

 

――メルン,『フロレアール

ジャンとメルンの同居生活から物語は始まる。ゆるやかな時間の流れで彼らは笑い合いながら日常を謳歌し、これでもかと平穏を享受していく―――のだが『約束の日』によってそれは唐突に終わりを迎えた。

日常A√(ED・初夏を便宜的にこう呼ぶ)では、メルンは親元へ帰ることになりジャンと別れることになる。少女との暮らしの中で《癒され》たジャンは仇敵であったポーリャンさえも赦し、忌々しい《嵐》による苦悩を緩和し、たとえこれから一人で暮らすことになってもどこか心は満ち足りていた。

日常B√(ED・祝福を便宜的にこう呼ぶ)では、親・ポーリャンの元へ帰ったメルンだったがご主人様恋しさに再びジャンの前に現れる。二人はこのまま燈台の元へ居続けるのは危険だと判断し、遠い遠い国で幸せに暮らした。

もしも『フロレアール』がここまでのお話だったならば、春にふさわしい爽やかな物語だったねで終わっただろう。

しかし、このあと日常√そのものが反転するような「非日常√」が展開されていくのであった。

 

メルン「た……た、助けて……。い、厭……。い、痛いの……厭ですぅ」

涙で顔をどろどろにしながら、メルンは哀願した。

吊り下げられた状態では、メルンは抵抗することすらできない。暴れれば余計にひどいことになるかも知れない。ただ俺に救いを求めることしかできないのだ。

(中略)

メルン「ひぎぃぃっ!! ああああぐっっ!!」

体の中心を突き抜ける痛みに、メルンは折れるほどに背を反らせた。俺はメルンの知りを掴む指に力を込め、結合を固定した。

指の付け根の骨の塊が引っかかるが、構わず力を一杯に込め、ねじ込む。

ぴちっ……。
何かが切れるような音。

メルン「きゃああああああっっ!」

 

――(ED・銃声)メルンを棒に吊り下げ両穴にジャンの腕をねじ込むシーン『フロレアール

 

この非日常√では、メルンをなぶり痛めつけ、暴虐の限りを尽くすものだ。

ジャンは日常√とは人が変わったかのようにメルンを嗜虐しつづけることを厭わないし、当のメルンさえもそんな暴力的な肉の重なり合いを最初は嫌がるものの最後は肯定し、あげくには愉悦に浸りさえした。

さらに日常ルートではA・Bどちらも「幸福」と言って差支えない終わり方だったが、非日常√では「不幸」に見える結末ばかりである。

非日常A√(ED・不幸を便宜的に今後こう呼ぶ)はメルンは窓から落下しジャンは《フォルキシア》の深淵へと落ち込むし、非日常B√(ED・銃声を便宜的に今後こう呼ぶ)ではメルンの親の依頼によって出向いた暴力組織の首領・ポーリャンによってジャンは銃殺させらてしまう。*1

あの清涼感あふれる世界観は、血肉が交じり合う陰鬱なものへと様変わりしてしまった。

この計4つのENDを見たあと、ここからが本番だと言わんばかりに本作は『超越シナリオ』と進んでいき、なぜジャンは変貌したのか? この物語は一体何なのか? といった世界観の謎が解放されることになった。

結論をここに書いてしまえばすなわち―――ジャン・ロータルという青年は神に叛逆する為に少女に暴力を振るい、自由になる為に"不幸"になろうとしていたのだ。これが非日常√の異様な出来事の顛末である。

 

「僕とメルンがいるこの世界は、神によって創られた。そして、神はこの世界を僕とメルンの幸福な物語が紡がれる場として設定した。僕とメルンは、その物語を遂行する駒に過ぎないんだ。――僕は、その理不尽が憎い」

僕の言葉に、メルンは答えなかった。ただ僕の目を覗き込んでいただけだった。

「メルン、僕は自分の住む世界を自分で切り拓いてみたいんだ。そんな当たり前のことがしたいだけなんだ」

僕はナイフとフォークをメルンの腹の上辺りに移動させた。そして、それをゆっくりと下ろす。つん、とナイフとフォークがメルンの腹に触れた。

――ジャン.超越シナリオ,『フロレアール

 

 

神への叛逆を企てたヨナは大魚に食べられる。その大魚は神の使いだ。

僕は、その大魚となるのだ。神として、メルンを食べる。

世界を支配するために、神となるのだ。自分自身の世界を自分で切り開くためには、自らが神とならねばならない。自ら造物主となる以外に、永続する物語から抜け出すことはできないのだ。

僕 はナイフを往復させる。その奇矯な好意にもかかわらず、メルンはただ黙ってなされるがままだ。メルンに僕の行為の意図が判っているとは思えない。それでも、僕が何か大事なことをしようとしていることは理解しているようだ。僕を信頼して(そう解釈したい)身を任せてくれているのだ。

 

――ジャン.超越シナリオ,『フロレアール

 

一連のジャンの言葉は、「自分は神によって支配されている」という事に気づいてからこそのものだ。

必ず幸せを迎えるENDING、死ぬ事がなく永久に新しい世界設定で何度も何度もスタートする人生、逆にハッピーエンドを拒めば乱暴に世界から弾き飛ばされる結末―――そういった日常√・非日常√4つを経験し俯瞰した気付きが「僕とメルンは、その物語を遂行する駒に過ぎないんだ」「永続する物語から抜け出すことはできないのだ」というジャンの言葉に現れる。

彼らは、神が操るポーンでしかなかったというわけだ。

また『フロレアール』では『超越シナリオ・閉幕』によって作品自体は終わりを迎えているが(読者である我々はこれ以上の物語を読めない)、ジャンの言葉が真実ならば『floreal fin』と画面に出た後も、ジャンとメルンはは終わる事のない新しい物語を再び歩まされているというわけだ。

 

永遠に。

永久に。

何度でも。

 

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さて。この衝撃の事実から『フロレアール』を「神に立ち向かった物語」と見做してしまうかもしれないが(それは誤りではない)しかし正確ではない。

なぜならフロレアールの結末はここで終わるわけではないからだ。この「後」にジャンが得た答えこそが最も注意を払うべきものである。

そうさ大事なのは神がいる、神に支配されている、といったような考えではないしもちろん神に立ち向かうことでもない。それらを超越する気付きこそが大切なのだ。

 

ジャン「……メルン、僕は考えてたんだ」

そのご主人様の口調は、まるで自分に語り掛けるようだった。

ジャン「……長い夢の中で、僕は考えてた。《フィクション》っていうことについて。僕は、《フィクション》っていう観念に取り憑かれて壊れてしまった……」

ご主人様は、訥々と話した。

 

……貨幣経済や民主主義や自然科学やカトリシズム。

……僕たちの周りにある価値観の全て。

……それは、全部《言語ゲーム》なんだ。

……ウィトゲンシュタインが言ってたみたいに。

……でも、そんなこと言うまでもないことなんだ。

……そんなことが重要なんじゃない。

 

……僕たちはみんなフィクションの中を生きている。

……初めから判りきっているさ、そんなことは。

……けれど、大事なのはそんな白明の事実じゃない。

……全てはフィクションだっていうのは絶望じゃない。

……大事なのは、世の中の色んなフィクションを1つ1つ見当してくこと。

……そして、自分にとって何が意味があるのか、何がそうでないのか、それを確認していくこと。

……そう、そのことが、多分大事なんだ……。

 

……《外部》って考え方は、《内部》と同じことなんだ。

……そうやって《外》と《内》を分けることには、何の意味もないんだ。

……それは、独り遊びの罠に過ぎないんだ。

……僕は、それに落ち込んでいた。

 

……けれど、僕は独りじゃない。

……そんな簡単なことに、やっと気づいたんだ……。

 

――『フロレアール』超越シナリオED・閉幕

 

 超越シナリオのラストで、ジャンは《内部》と《外部》はひと繋がりの円みたいなものだという考えに到達することになる。

これは「神/人」「フィクション/リアル」「モノローグ/ダイアローグ」という区別しているように見えてその実区別できているわけではないということ。

例えば独語というのは本質的には「誰かに向けて話している」という点から対話であるという見方がある。誰かを想定して私たちは独り言を呟いているし、誰も想定していない「完全なる独り言」なんてものは無いということだ。

独語(モノローグ)の形を取っているようでありその実対話(ダイアローグ)であるならば、そんな区別は何の意味も持たなくなる。

 

独語。モノクロームの世界で。

ダイアローグの形を借りたモノローグ。


――ジャン.超越シナリオ・奇跡


と彼が言ったのは「区別の無意味さ」を象徴しているわけだ。

同様に、この世界がフィクションだろうと関係ない。

貨幣経済は大衆の幻想によってぺらぺらの紙一枚に食料と交換できるだけの価値を与えられているし、カトリシズムは荒唐無稽なお話を"神話"と呼び盲信しているように、この現実世界では多くの"フィクション"が混在しながら成り立っている。

なのに「この世界はフィクションだ」と考えたところで、そんなのは白明の事実であり、ことさら区別する必要性なんてどこにもないのである。

これらの区別は区別したところで実際は「ひとつながりの円」であるならば、そこを区別しようとするのはまさに「独り遊び」という表現はぴったりだ。

だから大事なのは「区別しても無意味なものを区別しようとする」のではなく、それらが自分にとってどんな意味があるのかを確認すること―――つまり二項対立を超越ことが重要なのである。

 

気づいているかもしれないが、『フロレアール』では至るところに二項対立が存在している。

それはメルンとジャンの「主/従」関係から、彼らの生活区域が「地下/燈台」に分かれていること、シナリオを俯瞰すれば「日常√/非日常√」に分かれ、それらの√は「幸福な結末/不幸な結末」になっており、非日常A√ではさらに「昼を日常/夜を非日常」と区別されているし、日常A√と日常B√を突き合わせれば「ジャンは一人で生き/ジャンは少女と二人で生きる」となっており、日常A√と非日常A√であれば「メルンとジャンの心を満たす別れ/窓から落下死するメルンとジャンの離別」が突きつけられ、日常Bと非日常Bでは「ジャンがメルンを得て幸せな結末/ジャンが銃殺される不幸」になっており、日常Bではセッ久を「幸せを分かちあうもの」としているが非日常Bではセッ久を「痛みこそが理解できるもの」とし他者理解のプロセスと対立しているし、メルンが日常と非日常で「純潔/淫乱」であり、ジャンの懊悩である「自己を負で侵食する 《嵐》/他者を不幸感染させる《フォルキシア》」となり、二人の買い物当番が日常非日常では「メルン/ジャン」、「ダイアローグ/モノローグ」、「現実/フィクション」、「内部/外部」、「自己世界/他者世界」「神/人(=駒)」(確認はしていないが、犬・クラマスの性格が√によって違うのももしかしたら対立しあっているかもしれない)とあらゆるところに二項対立は存在している。

 

また日常B√のラストでジャンはメルンに「ご主人様はもうやめてくれ」と言うが、しかしメルンは嫌なそぶりを見せるのだ。

なぜだ? なぜ彼女は主従関係を手放そうとしない? 

二人は恋人関係なのだから、それにふさわしい呼び方を作り、今まであった上下関係・主従を破棄しようというのは恋人であるメルンにとっても嬉しいはずであり拒むものではないはずだ。

しかし『フロレアール』という物語構造が「二項対立を崩せない」というある種のルールに則っているのだとすれば(そう考えるのならば)、メルンが頑なに恋人関係(対立しない状態)を嫌がり、「主/従」関係(対立する状態)を肯定するのも納得はいく。

この時のメルンの「恋人同士って平等なんですよ」というセリフは、特に違和感を感じさせるものとなっている。それがさも恋人関係を拒否する最大の理由と言わんばかりに。

 

ジャン「ま、誰も聞いてないにしてもだ。『ご主人様』はもうやめてくれよ」

メルン「だって、ご主人様はご主人様です」

ジャン「僕はもうメルンのご主人様じゃない。僕とメルンはもう主従じゃないんだ。……言ったろ?」

メルン「でもぅ……。だったら、何て呼んだらいいんですか?」

ジャン「何でもいいよ。その……恋人同士にふさわしい呼び方だったら」

メルン「ええと……」

ジャン「判ったか?」

メルン「はい、判りました、ご主人様っ」

ジャン「あのな……」

メルン「ご主人様、『僕とメルンはもう主従じゃない』ってさっき言いました。だから、ご主人様が何て言ってもわたし、ご主人様のことを『ご主人様』って呼びます」

 

ジャン「……聞き分けがないな」

 

メルン「だって、恋人同士って平等なんですよ。それに……わたし、ご主人様のためにいるんです。だから、わたしにとってご主人様はやっぱりご主人様なんです」

ジャン「……メルン、言っていることが矛盾してるぞ」

メルン「いいんです」

ジャン「なるほど。……まぁ、別にいいような気がする。いいことにするよ」

メルン「わぁい、ご主人様、大好きですぅ!」

 

――日常B√(ED・祝福)/フロレアール

 


そして日常A√のミリアは、二項対立のことを以下のように話し、第三項についても言及している。

 

ジャン「洗練? 僕が?」

ミリア「ええ。ダサいの超越項として洗練されてる」

ジャン「……意味が判らない」

ミリア「つまりね、あなたには《第3項》の匂いがするのよ。洗練/非洗練という2項対立を超越した特異な第3項の匂いが。わたし、その《第3項》こそが、真の意味で《洗練》だと思うな。洗練って、座標軸上を行ったり来たりするものじゃなくて、特異点をこそ目指すんだと思うの

ジャン「……悪いけど、君の言ってることが理解できない」


――日常A√.『フロレアール

 

ミリアが言っている事は、ジャンが超越シナリオで辿り着いた「答え」と同じものである。

すなわち、あらゆる二項対立の上を行ったりきたりするのではなく――《内部》と《外部》の区別はさほど重要ではない――それらを飛び越えて超越した先にある特異点《第3項》を目指すことが"Solitaire trap"(=二項対立の概念に嵌り込む事)から抜け出せるたったひとつの方法、ということだ。

じゃなければ私たちはいつまでも対立する概念に惑わされ、呑み込まれ、ジャンのようにやがては精神を失調してしまうことになるだろう。

それは『超越シナリオ』で茫然自失になったジャンだけを限定しているのではなく、日常・非日常で登場した《嵐》《フォルキシア》といった彼の懊悩(あるいはこれこそがabyss)にも通ずるものである。

 

さらに、これはメルンも同様に行き着いた考え方であった。

メルンは主張する。私たちはひとりひとりの世界を持っており一人だけでそこに暮らしていると。しかしだからといって――生きている世界が違うからといって――人と人が本当に結びつくこととは関係ないのだと。

私たちは魂を超越させることで「自己世界」と「他者世界」の対立を飛び越え、真に結びつくことができると言い、またその超越を『奇跡』と呼んだ。

これもまた "二項対立を超越する" ことの意義を、メルンもまた指しているのではないだろうか。

 

メルン「ご主人様、わたしたちは幸せなのかも知れませんね」

……ご主人様は、文字通りの自分だけの世界に行ってしまった。そしてご主人様はご主人様の世界、わたしはわたしの世界に生きていて、全然交わらないように見える。でもそれは、世界の真実が目に見える ような形になっただけのことなのかも知れない。本質的には何も変わっていない。ご主人様と楽しく暮らしていたあの時と、全然変わっていない。

2人が別の世界にいるからといって、それは《結びつき》を否定することにはならない。2人が別の世界にいる――そんなこと、当たり前のことだ。人が2人いれば、世界も2つある。当然のことだ。

 

でもそんなことは、本当に結びつくということとは関係がない。生きている世界が別々でも、人は交われる。人と人が結びつくという奇跡みたいな出来事だって、ちゃんとある。

人はみな自分だけの世界の中で1人で生きているけれど、でも魂を超越させてどこかで結びつくことができる。人には、それができる。世界の壁を超えることができる。わたしは、それを奇跡と呼びたい。

そして、ご主人様とわたしは奇跡によって結ばれているんだって信じている……。

だから、わたしたちは今でも、そしてずっと、永遠に幸せなのだ……。

 

――メルン.超越シナリオ・奇跡

 

《嵐》と《フォルキシア》という心の深淵によって苦しんできたジャン・ロータル


二項対立が劇中のあらゆるところに存在しては崩せない物語構造

 

日常√と非日常√を経た後に迎えるのその2つの√を俯瞰する「特異点」のような超越シナリオ

 

魂を超越させる事で自己世界と他者世界の壁を乗り越えられると信じたメルン

《内部》と《外部》の区別(=独り遊び)に意味はないと悟ったジャン

ミリアが提示する《第3項》

 

そしてその超越シナリオで、2人の物語は閉幕した。それ以上のお話はない。

 

―――つまり、だからこそ、『フロレアール』は最後にこの言葉を刻むのだ。

 

Solitaire trap in the abyss of the existence of the human.

we must get it over.

 

――『フロレアール

 

我々は二項対立を超越せねればならない、と。

 

(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フロレアールをネタバレなしで(=超越シナリオに触れず)紹介するのは難しい。ここまで読んでいる人はフロレアールをプレイした人だと思うが、一応作品概要を書いておくと(メーカー13cm/原画あんみつ草/シナリオ元長柾木・うつろあくた)となる。

 

これは本記事を書くにあたっての下書きみたいなものであり、正直読まなくてよい。ただ筆者がどういう思考を経てこのフロレアール考を書いたのかを知りたいときは役に立つかもしれない。そのぶん雑な記事だが、推敲も編集もしてないのでそのぶん生っぽさは感じられよう。

 

・作品関連しそうな記事

メーカーが13cmの『好き好き大好き』。こちらは主人公がヒロインを拉致監禁しラバー人形に仕立て上げる作品になっている。↑の記事の前半部分は紹介案内となっているので、よければ読んでみてはいかが。

 

 

 

 

*1:このように日常A・B√ではメルンの親であったポーリャンは、非日常B√ではメルンの親の知り合いになっていたりとそのルートによって関係性が微妙に変わっていたりする。それは心の負の無限増殖を抱える《嵐》をジャンが有するそうでないかのように、伝染性精神病δ型(フォルキシア)が存在する世界しない世界があるように、またジャンとメルンの元の関係性が「親ポーリャンに押し付けられた娘(=日常A・B√)」「ジャンが住んでいるアパルトメントのオーナーの遠い親戚であるメルン(=非日常A√)」「メルンとジャンは従姉妹同士(=非日常B√)」とそれぞれに差異があるように―――どの√も人物像の基本線はあまり変わらないが、それらを取り巻く世界観はバラバラなのである。