【簡易考察】群青の空を越えて―俺たちは何のために戦ってきた?―
社はラストシーンで「俺たちは何のために戦ってきた?」と自問する。それは経済的理由、関東の独善的独立、幸せのためではないと言い切るのだが、では、なんの為にだったのだろう?
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まず最初に選べる3つの√――フィー・加奈子・若菜――では社の戦争動機はいつもはっきりしていなかった。父親のコンプレックスがきっかけだったとしても「死」に直面してまで、グリペンに搭乗し続けるにはまた別の理由が必要である。手足がぶるって、明日なんてないと判りつつも、それでもと群青の空を駆け上る理由が。
けれど彼にはそれは言葉にせず、ううんできなかったのだろう。できないまま、人を殺し続けた。とても愚かだと思う。何のために戦っているのかわかっておらず、それでも、だけれどもと、"戦わなきゃ"いけないことだけははっきりしているなんて。
それは社に限らず、若菜も、フィーも、トシも同じだ。彼らもまた絶対的な戦争動機はなく(いつも自己批判と自問自答を繰り返し)最前線に立っていたのだから。
後に選べる2つの√――圭子、夕紀――ではそんな視野狭窄な世界をひろげ、劇中で明らかになっていなかった円経済圏理論の骨格を露わにした。社の父・萩野憲ニが提唱したこの(あまりにも壮大な)理論がきっかけで関東は我が身可愛さに独立を宣言し、関西との内戦にまで至ってしまった事。
また人間なんてものは生まれた時期/育った環境によって「世の中の接し方」は変わり「求めるもの」も当然違ってくる。だれかが声高に叫ぶ理想なんてものは――結局、合理的判断で導き出されたものではなく――幼児期の精神的な刷り込みに過ぎないのだと喝破した。
「それが悪いと責めてるんじゃないのよ。人って、思っている以上に環境に流される生き物なの。そもそも個人の意志なんて、本当は無いのかも知れない。
おそらく、同じ人でも違う時代、違う場所に生まれれば、鬼畜米英・新米反ソと叫びを変え、反日を唱えたかと思えばアジアを蔑視する……それを、高尚な自己主張だと錯覚する愚かな人々が、まだ世の中には沢山残っている」
――澤村夕紀(群青の空を越えて/夕紀√)
いかなる動機だろうとも、ここでは一切の価値を解体される。つまり動機が「あやふや」なまま戦争に赴いていた社と、動機が「はっきり」していた夕紀(&圭子)に差はなく、どんな高尚な理由であろうがなかろうが彼らは環境に促されただけだったのだと。
すると当然、「俺が命を張ってまで戦ってきたことは、俺の意志が介在していないのか?」という疑問が沸き起こるはずだ。
それは――当事者であるほどに――受け入れ難くく、今までの葛藤も、苦痛も、悲哀もすべて取るに足らない事と言われているも同義である。実際、社は夕紀にそう言われるのは心外だと言い放った。
ただ後のGRAND√では彼はそれを受け止め、その上で――俺たちは何の為に死んで、何の為に戦ってきたのか――と大観衆の前で演説をぶっ放す。その「答え」は明らかにされなかったものの、劇中で何度か触れたアイデンティティという言葉で紐解けるはずだ。
つまり自分が自分であることを定義するための活動こそが我々を突き動かすものであり、なにかを叶えたり、なにかを奪ったり、なにかを成し遂げようとし始める。死んだ兄の軌跡を求めた三種予備生徒、恩師の理想が人類をしあわせに導くと信じる少女、そうして人々はちっぽけな理由で戦争に参加し、よく分からないままよく分からない引き金を引いてしまうのである。
逆にいえば、『群青の空を越えて』では長い時間をかけて――社を取り巻く人々、円経済圏理論と代理戦争によって――「幸福希求」「国・民族への帰属意識」「記憶の集積による思考システムの独自性」という分かりやすい自己定義できる3つをそれでは足り得ないと否定したのだ。
だからこそ金でも名誉でも過去でも幸いでも帰属意識でもないならば、我々はなにをもってして我々足り得るのか? こんな無意味な代理戦争をなぜ行なってきたのか? という疑問に繋がるのである。
「民族もイデオロギーも宗教も社会システムも、人に幸福をもたらしはしない。
……そして、人がそこまでして求めた幸福に、おそらく意味などないのでしょう。得られた幸せに意義を見いだせないからこそ、文明は進歩し、我々は今日まで歴史を築いてきた。……その何物にも、満足を得られなかったがゆえに」
――俺たちは……何のために、死んできたのだろう。
「……ならば、今一度、俺は問いましょう。何故、我々は戦い続けてきたのだろうか、と」
脳裏を、走馬灯のように様々な光景が横切る。戦い傷つき、虚しく散っていった先達たち。今も戦っている友たち。関東も関西も関係なく、無意味に死んでいく者たち。
「関東の独善的な独立の為……違います。共通通貨圏のもたらす経済的利益の為……違います。ならば、幸せのため? ……違う! 人はそんなくだらないお題目の為に死ぬわけにはいかないんだ!」
――萩野 社(群青の空を越えて/GRAND√)
―― 我々は本質的自己規定(=自分を自分であると見做す)為ならば、なんだって出来るし、どこまででも行ける。彼らが駆けぬけた血と銃声で塗りたくられたあの戦争は、確かに、人を人たらしめる“表現活動”がそこにはあったし、生と死のないまぜの中で激しく輝いていたとすら思う。
・・・しかしそれもまた幸福希求と同じくらいに下らないものだろう。逆にいえば本作はその下らないものを徹底的に描き上げたと言ってもいい代物だ。
社がなぜ「その答え」を言わなかったか、あるいは言えなかったのかを考えると、彼もまたその活動の下らなさに気づいていたからこそ閉口セざるを得なかったし、けれどそれを安々と認めてしまうには彼の戦争体験は軽くはなかった。当事者だからこそ、答えが分かっていても答えられない、答えるわけにはいかないという胸中がそこにはあったとしても何ら不思議ではない。
そうして三度、問いは繰り返される。
"ならばなぜ、なぜ、俺たちは戦っていたのでしょう!?"
(了)
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