ラノベとアニメの情報量の差はどこにあるのか?

f:id:bern-kaste:20150421165444j:plain

*一般化するには難しい考え方かもしれない。 

 

 

 

ラノベとアニメの情報量の違い(5393文字)

 

原作ラノベとそのラノベのアニメ化。この2つの差異を指摘するとき「情報量が違う」と言ってしまうことがある。

「アニメは駆け足だった(=原作と比べて作品の情報量が少なくなっている)

「原作ラノベの方が全体的に描写が蜜であった」

と言ったふうに。

しかし情報量という視点から捉えるとアニメはラノベより「視覚的」な情報量が多く、文字媒体では表現できない部分を事細かに描いている。例えば文字で「空」と表した場合、それは黒いインクで描かれた直線と曲線で折り重なった(書き順を無視した)7本の線で構成されている。

しかしアニメで表現される「空」は何千・何万本の線で構成され、さらには影の濃淡・色といった要素も加えられ(デフォルメ化されてはいるが)現実の空に近い「」を見せてくれる。

 

 

(映像)

f:id:bern-kaste:20150527152829j:plain
(文字)
f:id:bern-kaste:20150527152715p:plain

 


こういった視点で両者には明確な情報量の違いがあるし、アニメ(映像媒体)のほうがラノベ(文字媒体)より遥かに情報量は膨大だと言える。

しかし、ラノベを読むとき(少ない情報量で構成される)文字をそのまま受け取るのではなく、この象徴の塊を通して私達はいろいろな情景を想像する事になる。文字から→キャラクターの仕草、行動、表情、建築物、太陽、木々、音、圧、触をリアルに脳内でイメージしていくようになる。

の「イメージ」という行程が映像媒体と文字媒体の分水嶺であり、また情報量の違いを感じる原因ではないだろうか。勘違いして欲しくないのだが映像媒体はイメージの余地がないという話ではないし、そういう事を言いたいのでは無いぞ? 

程度と性質の話だ。

映像媒体ではひと目でそれらが"何か"をぽんと表し、誰の目にも明らかにしていまえるが、逆に言えばそれらは誰の目にも見えて明らかになってしまうということでもある。形になっていない「存在が不安定なもの」までを固定化してしまうのが映像化の妙であり、限界と言えばいいか。

だからこそラノベ原作をアニメ化したときに不和が起こる、場合がある。自分の想像したラノベイメージと異なり「こんなキャラじゃない」「こんな声じゃない」という批判が起こるのだ。

2008年にアニメ『とらドラ!』のキービジュアルが発表されたとき原作ファンは誰もが思っただろう。「これじゃない」と。これはとらドラじゃないしこれがとらドラであるわけがないと。そんな風にコレジャナイ感が半端無かった。

中には製作会社に電凸する人もいて少し話題になった。

 

そのキービジュアル。

f:id:aruviss:20150303182756j:plain

 

 

こっちは原作絵。

とらドラ!1 (電撃文庫)
とらドラ!1 (電撃文庫)

 

イラストレーター・ヤスが描くキャラクターは線の筆圧が低くふわふわしている印象が持ち味だが(挿絵は更に顕著)、これがアニメ化されると線がピシっと描かれるためか「原作の逢坂大河じゃない感」が出てしまう。

これが原作既読者の違和感へと繋がっ――………いや………単純にキャラデザの問題も大きいとは思うけれどもね…。実際放映されてみると「アニメとらドラそんなに悪くないな」と感じる視聴者が多かったようでこの件は忘れ去られた。

つまり「こんなキャラじゃない」「こんな声じゃない」という声が上がるのは、アニメ化されることで抽象的だったラノベ世界が具体的に表現されてしまうことが原因だと言いたいのである。

とらドラ』で言えば、逢坂大河は動くし跳ねるし殴ってくる。ラノベには無かった「声」や「BGM」といった音楽も加えられより具体的な逢坂大河、より具体的なとらドラワールドが展開している。

けれど文字で構成された表現物を読む際「イメージ」する行程が存在することを先に言った。これは一人一人の想い描く"とらドラワールド像"を作ることになり、そしてアニメ化との異なりを促すものでもある。もちろんある程度似た傾向はあると思うがそれでもやはり大幅に違うこともあるだろう。

このイメージしたラノベ世界と具体化されたアニメ世界を比較した時、そこにはズレ・齟齬が感じられ批判や違和へと繋がってしまうのだと思う。

そしてこうも言える。

見に見えないからこそ、形がないからこそ、曖昧だからこそ、ラノベの世界は万人の理想になれるのだと。

 

 

それに、ホントに目の前に現れると考えちゃうよ。見えないものの方が信じられるってあるのかも

(見えないもののほうが信じられる……か。)

(奈木崎の言いたいことはなんとなくわかる。形あるものというのは、どこか完全じゃないという気がする。)

形がないものの方が、万人がそれぞれに理想を重ねられるから。万人にとって完璧な存在でいられる。

 


――僕が天使になった理由(体験版)


それは、神や天使が目の前にいないからこそ、信じられるのと似ている。

 

 

僕が天使になった理由 僕が天使になった理由
Windows
OVERDRIVE
Amazonで詳しく見る

 

今までのお話をまとめるとつまりこういうことになる。

 

文字媒体特有の「文字を通して→イメージする」行程は、個々人が個々人内部に「理想のセカイ」を創りあげられる。キャラクターの声、風景、空間、時間までも読者ひとりひとりに委ねられるからこそそこは万人の理想となりえるのだ。

しかし映像媒体であるアニメ化は、本来形がはっきりしていなかったもの全てを表現するためラノベ原作既読者が描いた「理想のセカイ」と食い違いが起こり始める。

ということを語ってきた。

そしてラノベをアニメ化したときに感じる原作既読者特有の(←この感覚は私だけじゃないと思うのだがどうだろう)「アニメは駆け足だった」「ラノベの方が密度があった」という「情報量の差」についての感想は、なにも一話22分×12-24の時間制約による事だけが原因では無く、文字→イメージ化されるさいに伴う情報量の増大にともなって(=「理想のセカイ」の構築)「アニメ化」を見た時、ここのシーン物足りないなとか、描写足りなくない?とか 駆け足にも程があると思ってしまうのではないかと考えるわけだ。 

 

   ◆

 

以前はこの「アニメ化の粗密さ」「アニメ化の物足りなさ」を私は心理描写の情報量が少ないからだと考えていた。ラノベ(文字媒体)の全てが全て「心理描写の情報量が多い」とは思わないけれど傾向としてはそう言えるのではないか? と思っていたのである。

とらドラ』で言えば、朝、高須竜児がご飯をつくるときかなり細かくそれらは描写されおり、丁寧で、美味しそうな、料理風景を読み、あの「炊き込みご飯」を実際に作ってみた人は多いんじゃないだろうか。私もやったよ。

 

どうせ米を炊かなければいけないのだから、竜児的には手抜きの範疇に入る簡単炊き込みご飯と簡単里芋の煮っ転がしに決定だ。

 米を研ぎ、水を入れる前に酒、醤油、みりんを適当に注ぎ込む。コンブをハサミで切って放り込み、水煮タケノコと瓶のなめたけをありったけ投入。水加減をしてスイッチを入れれば、それで終わりだ。あとは炊けるのを待つだけでいい。

 そして神業的速度で里芋の皮をむき、鍋に煮立たせた少なめの湯の中に放り込む。そのまままな板、包丁を洗い、流しのゴミを片付け終わると、湯が減って放り込んだ里芋の頭が見えてきている。そこにザラメ、みりん、酒、醤油、顆粒ダシ、麺つゆを目分量で入れ、放っておくだけだ。弱火で焦がさないようにギリギリの時間まで煮ていれば、自然とつゆは煮詰まって、煮っ転がしになっている。正式な作り方など調べたこともないが、いつもこれでおいしいのだ。

――とらドラ!1巻


通常、心理描写というとキャラクターが何かを思ったり感じたりすることを指すことが多い。

けれど私はこういうふうに竜児がどういうふうにしていつも朝ごはんを作っていてどういう意識を持っているのかが分かるのも――つまり行為手順に滲む人の気持ち――も心理描写だと思っている。

とらドラ』もそうだが文字媒体はこういう表現方法が多く、そして豊かである。というかこれが「文字で表現する」ことの醍醐味だろう。

そして実際にアニメとらドラでは炊き込みご飯を作る描写は数秒で終わってしまったと記憶しているし、あの一瞬で「竜児の料理に対する距離間」を描き切れたか問われればけば否定してしまう。ここは多くの人に同意してもらえるとも思う。

これもあながち間違っていない視点だと思っているが、今まで語ってきたように「読者のイメージ化による「理想のセカイ」の情報量の増大」によって、アニメ化されたものを見た時情報量が少ないと感じてしまう

――という意見のほうが私はしっくりくる。

 

 

 

余談

先に高須竜児が朝ご飯をつくる場面。小説では「地文」と言われるもので表現していおり、これが大量にあるほど読者は「文字→イメージの変換」をする回数が多くなり「理想のセカイ」の密度が高まっていくと考えられる。

けれどアニメではそれらは映像でぱっと見せられるだけなので、この意味でのイメージ行程が省かれてしまっている。だからアニメ(映像媒体作品)はラノベ(文字媒体作品)と比べると、その性質故に個々人が抱える「理想のセカイ」の密度の高さは一歩譲るのではないか? 

 

――とは言え、本記事の前提は認知優位によるものな気がしなくもない。つまり視覚優位者である私は文字から→イメージへとバンバン変えながらラノベ文字媒体作品)を読み進めるのだが、必ずしもそういうふうに読まない人もいるので一般化はしにくいかもしれない。

 

俺の場合、そういった「文章から映像への変換」が全くできない。イメージがあることはあるのだが、いかにも端っこに「※写真はイメージです」と書かれていそうなものしかない。躍動感溢れる戦闘シーンを脳内で再生することなんてさっぱりできない。ライトノベルなら挿絵がついているが、それでもせいぜい、セリフを読むときに挿絵に描かれた人物の顔を思い浮かべるくらい。そういうわけで、たぶん小説読みの中には文章から映像への変換ができる人とできない人がいるのだろうと思う。

――小説を読むとき、その映像を思い浮かべることができるか? - WINDBIRD

 


WINDBIRDさんの記事(2006年のもの)では、「映像変換回路」という考え方を主軸として文字→映像行為の流れ、そしてこの回路の獲得は幼少期の物語体験の有無で決まるかもしれないと語られている。

私としては「視覚優位・聴覚優位」で回収できそうなお話だと思うのだが、「回路を向上させられる」という希望を持ちたいのでそういう場合もあるものだと思いたい。

以上で今考えている仮説のような視点について書き終わりたいと思う。

(了)

 

 

 

知らない映画のサントラを聴く (新潮文庫)
竹宮 ゆゆこ
新潮社 (2014-08-28)
売り上げランキング: 21,786

 

ゴールデンタイム 文庫 1-8巻セット (電撃文庫) ゴールデンタイム
1-8巻セット
(電撃文庫)

竹宮ゆゆこ

KADOKAWA
アスキー・メディアワークス
Amazonで詳しく見る

 

天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー)
天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー)

「視覚優位」についてはこの本で。感想記事はこちら。