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ロラン・バルトの「明るい部屋」を読んでみた感想メモ(4060文字)

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明るい部屋―写真についての覚書

『ピンポン』と『マルドゥックスクランブル』を読み終わったときに、「これは語りたくないな」と思ってしまった。

どうしてそう思ったのかはよく分からないけれど、あえて理由をつけるとすれば言葉にしてしまえば語ることを選択してしまったら、ピンポンはピンポンではなくなりマルドゥックスクランブルはマルドゥックスクランブルではなくなってしまう感覚に陥ったからだろう。

あるいは「分からないものは分からないままで」良いと思ってしまったのかもしれない。そのままにして、そのまま大事に覚えているだけでいい、読解することもなく、語ることもしないままでそのままで。

ってことをだらだらと話していたら「明るい部屋」という本を薦められたので読んでみた、というのが本書に出会ったきっかけ。 

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

 

読了してみると、んー全然分からんねーこいつはあという感じ。全く持って意味不明というわけではないけれど、何度も読み返さないと理解には至らない内容だとは思う。

だからこの記事は誤読ありあり勘違いありありの内容になっているはず。

 

 

 

明るい部屋とロラン・バルト

 

しかし、「写真」一般の本質に到達しようとしたとき、私は岐路に立たされた。私は形相敵存在論(一種の「論理学」)への道を進もうとはせず、自分の欲望や悲しみを宝物のようにかかえ込んで、立ち止まった。

私の考えによれば、予想される「写真」の本質は、《パトス的なもの》と切り離すことができなかった。「写真」は、最初に見たときから《パトス的なもの》によって成り立っているのである。

私は、息子を写真に撮ることができるという、ただそれだけの理由から写真に興味を持つようになった友人に似ていた。「観客」としての私は、ただ《感情》によってしか「写真」に関心を寄せなかった。

私は「写真」を、一つの問題(一つの主題)としてではなく、心の傷のようなものとして掘り下げたいと思っていた。

私は見る、私は感ずる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。

――明るい部屋p33-34

ここだけを考えるならばバルト氏は学問的側面によって写真の本質というものを解き明かそうとしたのではなく、感情によって解き明かそうとしたのではないかと感じる。

あと彼がいう心の傷として写真を掘り下げたいっていうのが、以前自分が書いた「どうしてこの作品を『好き』になったんだろう?それは心の傷のせいかもしれない」と似ているのかもなと。もし彼と私の感覚と感情が近いのならば、やりたいことがいくらか理解できそうな気がする。

特に"私は見る、私は感ずる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。"という一文がうんうんと頷いてしまう。

 

(中略)確かに私はそうした写真に対して、一種の一般的関心、ときには感動に満ちた関心をいだくことができるが、しかしその感動は、道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちとしている。

そうした写真に対して私が感ずる感情は、"平均的"な感情に属し、ほとんどしつけから生ずると言ってよい。フランス語には、この種の人間的関心を完結に表現する後が見当たらない。

しかし、ラテン語にはそれがある、と私は思う。それは、ストゥディウム(studium)という語である。この語は、少なくともただちに《勉学》を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。

その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受け止めたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による。

というのも私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである。(ストゥディウムのうちには、それが文化的なものであるという共示的意味(コノテーション)が含まれているのである)

――明るい部屋p38

要するに、ストゥディウムは、つねにコード化されているが、プンクトゥムは、そうではない(こう言っても、この二つの語を誤って使うことにはならないと思う)。

――明るい部屋 

これはよく分かる話。

知識や経験、好み、一般的関心によって惹かれるものはある。今の自分にとってテーマとも呼べる心の凪、物語感覚、対話、多様性……etcといった要素にふれるとき、その対象に惹かれるものの、さりとてそれだけで激しい感情を呼び起こすものではない。

それはただ興味があるから読んだり、触れたりする、そういうもの。私はそういう感情を知的欲求と呼んでいるんだけれど、それに近いものをストゥディウム(一般的関心)に感じる。

物語だとジャンルといったSF、ラブコメ、学園もの、異世界転生といったものに興味を持つというのもこのストゥディウム(一般的関心)っぽい気がする。ふむふむ。

そういった興味と一般的関心は、好奇心と言ってもいい気がする。好奇心、好奇心ね。そしてこの好奇心は感動したり、感動体験の導入となることはあるけれども、導入以上のものではない。好奇心だけでは、興味や関心だけでは、心を打たれるような感情にはなりえない。別物。

人が何故なにかに感動するかといえば、<祈り>の他に<心の傷>が物語と合致するからなんじゃないのかなと考えている。傷があればあるほど、その心の傷によってもたらされた心のカタチが物語と"かちり"と当て嵌まるほど涙する。気に入る作品になるんじゃないかと。

もちろん感受があることが最前提であり基礎だとは思うけれども。


写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向こうのほうである。

ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた標識(しるし)を表す語がある。しかもその語は、点を打つという観念にも関係があるだけに、私にとってはなおさら好都合である。

(中略)ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、"私を突き刺す"(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。

――明るい部屋p39

 この感覚情報に興味を持ってしまう。

バルト氏が写真に感じるプンクトゥム(突き刺す)体験を、私が物語に感じているAletheia感覚と同一のものだと仮定。(実際"同一"なんてありえないんだけどね)

私はその心を打たれる感覚のときに、物語自体から私のほうに向かって"突き刺す"ってことは感じたことがなかった。むしろ私のほうから物語そのものへと"手を伸ばす"ものだからだ。

他者の体感覚情報、あるいは感覚的なことを聴いているのは楽しい。それが私からして"概念の内側"ならば、擬似的に再現できるしね。再現できるもの、想像できるものは何度も感覚として繰り返していけばいつか馴染むものなので、いろいろな体感覚があると識ることでいろいろな事が"広がって"いきそうな予感がする。

"視る"世界、"触"世界は私にとって概念の内側なのでおそらくどんなものでも手が届く位置にあると思う。例え感覚を再現することが難しくても、何度も繰り返していけば練度があがり、いつか習得できると思いますし。

ただ概念の外側になる"聴く"世界は、いくら頑張っても徒労に終わる気がする。何故なら擬似だろうがなんだろうが再現することは出来ないからだ。いちおうちょっとばかしなら出来ている気もするけれど、それは実際に"聴く"世界を体験している人からすれば全然別物だろう。

音の世界かー……。面白そう。音で満ち満ちた世界、映像ではなく、音素によって形作られた空間。

この突飛な仕草は、私の視線を引きつけ、プンクトゥムを構成するにはうってつけである。だが、それはプンクトゥムとしてコード化するからである(私にとっては、プンクトゥムは、もう一人の見習水夫の腕組みである)。

私が名指すことができないということは、乱れを示す良い徴候である。

(中略)

ボブ・ウィルソンは私を引き付けるが、しかし私は、なぜ引きつけるのか、言い換えれば、"どこ"に引きつけられるのか、を言うことができない。

――明るい部屋p65 

 
プンクトゥムは語りえないもの、どこがどう"プンクトゥム"なのかは言うことができないということでいいのかな。

確かに、心を震わす感覚、あるいは感情というのは「どこがどう良かったか」というものを言えなくしてしまう。例え「ここが良かったから感動した」といってもそれは全部後付の理屈でしかなくなり、本質の部分では一割も言い当てられていない感覚というのは付き纏う気がする。

 

 

って私が共感し理解できたところはこの辺で(理解できたと仮定しよう)、その他のバルト氏の母のあるがままを見つけられたとか、写真のノエルだとかはいまいちピンとこなかった。もしかしたらいつか再読する日がくるかもしれないので、そんな気持ちだったことを書き残して終わりです。

 

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