(1)内在視点
当ブログでは耳にタコができるくらいに繰り返してきた視点制限法。可能な限り「作品内」で理解を深めようとすることで、妄想もはなはだしい作家の人格・意図を連結させた読みを排除し、作品を見ることが可能になる。
副産物としては、時に、ユニークな見方につながることが多い(と思われる)。なぜなら、どうすれば外在的文脈にたよらず作品内で説明できるか? そう考えることを強く要請されるので、その試行錯誤が、よい結果を生み出すのかもしれない。「制限」をかけるメリットはそこだろう。
(2) 多視点
「あらゆるものに視点はあり、その視点によって物語は紡がれ、けれど紡がれないままの視点もある」という考え方。
例えばアニメCharlotteでは、乙坂有宇の視点で進んでいくものの、ときに隼翼の視点で感情の温度をあらわしもするし、"人" ではない "物語そのもの" の視点も混ざりながら全体としての『Charlotte』を表現しているわけだ。
逆に焦点をあてられない七野(=金髪少年)にも、乙坂有宇と同じように彼にとっての世界があり、彼にだけしか認識できないものがある。痛みや苦しみがある。例え物語がその視点を描かなかったとしても、それを"見よう"とする―――つまり想像することも『多視点』では大事だ。
――いわば人、物、概念……あるゆる対象の "認知" を補完する読み方と言っていい。
(3)感情同期・途絶
キャラクターの心的状況をトレースし、自分が感じていない感情でも、自己内で再現しようとする試み。
別作品、別キャラクターの心的機構を持ってきて――仮想し――"その" 感情に近づける事はよくあるし、それでも近似値に達さないならば抽出・変質して当該対象にデザインすることもある。
これは他者感情だが、自己感情において行う場合もあり、またこの順番は明確なものではなく状況において変化し、最初は自己感情をデザインするもののいやいやこれじゃないなとなり、別の心的機構を仮想するといった事もざらだ。
(中略)
これは所謂、感情移入ではない。あれは自分が経験したことがある範囲内を拠り所にするが、多視点による仮想は(それを含めて)自分が経験したことがない感情も自己内部で走らせ(ようとす)るものだからだ。
結果、その世界、およびキャラクターを身近に感じられるだろう。
もちろん "それ" を実際そのキャラが感じているかは誰にも分からないし、証明することもできない。そもそも同一のクオリアなんてありえない。それでも他者と自己を繋げ、距離を0に縮めようとするのが「感情同期」である。うーんBALDR SKY。
例えば、最果てのイマの灰野の心は、言葉であらわせるならば、おそらく「無」だろう。概念となりはてた人間に心なんてあるわけがないのだ。しかしその心的状態を理解しようとする時、自分自身もまた感情をなくし、意志(プログラム)だけで日々を徘徊している内面を作りだすことで、灰野の状況を皮膚感覚として感じ取れる、あるいは取れるよう努力することはできる。
これは感情にかぎらず、「感覚」――触覚や嗅覚、筋肉の動きなど――も含まれる。
両儀式の腕が「ぐちゃぐちゃ」になったらその痛みもまた自分自身のものとして再現していくし、浅上藤乃のように「痛みを感じない痛み」という複雑な感覚も同じこと。
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またあるキャラクターの心的状況に嫌悪・不快を催した場合、同期するのではなくむしろ"感じ"ないようする試みが「途絶」となる。
たとえば、恋色空模様の主人公・誠悟はいつも発情しているのだが、あまりにも発情回数が多いため――その情欲にあてられ――げんなりするし、『幼女戦記』のターニャは社会的情緒が欠けた人間なので、同期を試みるほど、段々と自分自身も情動が抜け落ちていき怖くなり中断……そういったケースを指している。
これはキャラクターを身近に感じないことで、キャラに対する嫌悪・不快をやわらげる効果を狙える。すくなくとも視聴中に当該感情に煩わされることはなくなるだろう。.
(4) 音読・スキミング
音読は脳内でもいいし、実際に声にだしてもいい。そうすることで「文章から→映像化」はとてもやりやすくなる。当然読みは遅くなるけれど、そのぶん体験力は増す。
私はむかしから(無意識に)脳内音読、通常音読――アニメでもするものの特に文章媒体はその傾向が顕著で、地の文やキャラのセリフを口にする――やり方をしてきたのだけど、最近はしなくなっていた。
どうも「映像に変換することなく文字をさらう」ことに慣れてしまったため、以前より高速に読むことができるものの、なんか違うなあ……物語体感がおかしいなあ……と感じていた。
――そこで意識的に音読をしてみると、問題は解決。
どうやら文章への「理解」と「体験」は別物らしい。テキストで表現される色や匂い、肌触りから視覚……そういったものをゆっくりと、丁寧に、かみくだくことでその世界を(擬似的)ながらも五感で味わうことが多くなる。
眼球でとらえる文字(線の集合体)はクオリアの導き手。たんなるシンボルではなく一つ一つに豊かな価値を孕んでいるものの、急ぎ足で通り過ぎてしまえばきっとそうとは気づけない。
私の場合、物語の五感やら情景を脳内で映像化することでよりその感覚が増していくみたい。「読みがはやくなってるなー」って時はペースダウンも兼ねて声に出して読むようにしている。
逆に「読むのうっざったいなー」ってときは、映像化をやめてスキミング(拾い読み)で高速に読むこともある。時折。たまに。基本しないんだけどね、あまりにも文章のレベルが低い作品だとちんたら読むのは疲れてしまうので。
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(5)言葉にせず、解釈はせず
「言葉にしたくないものは言葉にしなくていいし、解釈だってしなくていい。むしろそうすることで作品の価値が高まる場合もある」という考え方。
とてもとても当たり前のことだけど、これをちゃんと意識している人は案外少ないと思う。作品の言語化が全てではなく、言語化したものはその作品ではない―――これを皮膚感覚で理解できなければこの気づきには至らないからだ。
実際の世界と、紙の上の世界は違う。
物語を見るとはクオリア(=感覚質)であって、それを感じる事はできても、(完全な)言葉として表現するのは不可能なのである。もちろんこの「見る」を「読む」に置き換えても同じだ。
映像媒体だろうが、文字媒体だろうが、音楽媒体だろうが、それを"読"んだ際に生じるテクストは――『果つることなき未来ヨリ』の言葉を借りれば――「それは朝焼けの色みたいなもの、ただそこにあるだけのもの」と言えばいいだろうか。
だから私は語りたくないものは語らないし、語りたいことは語るという線引を引いている。それは"直感"であって、これに触れるのはよそうとか、ここは探ってみてもいいなという感じで、言語化をすすめたり、解釈を停止したりする。
この考えは、今では私にはなくてはならないものになりつつある。なぜなら言語化/解釈とは作品を殺すことと同義であり、ときに損失感を伴うものだからだ。それはつらい事だし、疲れることだから、だからやらなくていいという選択肢は重要になる。
(6)√―可能性―
物語は「ある可能性」を見せてくれるが、それとはちがう、「別の可能性」ももちろんある。
もしも夏果の心のケアをしていたら?あるいはしていなかったら?という行動分岐でENDが様変わりする『ものべの』のように、ADVでは「√」という概念によってそれは表現される。
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しかしそれは実際に可視化されたものを言っているのではなく、アニメだろうとラノベだろうと、そうであろうとなかろうと物語には"あらゆる可能性"が存在する。
もしも菅野考が二つの月を見なかったら? もしも高須竜児が櫛枝を選んでいたら? もしも神尾美鈴がゴールしなかったら?・・・その物語はどうなっていただろうか。どんな結末を迎え、どのような読後感をもたらしただろうか。だれが涙し、凱歌をあげたのか。
物語が描いたのは一つの、あるいはいくつかの√―可能性―であって、その全てを描ききったわけではない。我々が見たのは「それ」だけだ。それだけなんだ。まだ見ぬ数百、数千の分岐世界は存在し、その中には、true√と矛盾する結末だってありえよう。
という考え方が「√」である。
必ずしも「描かれたもの」だけを捉えるのではなく、もっと広く、深く作品を眺めるときに重宝する。
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(7) かっこに入れる
人の認知は歪みまくっていて、完全なる主体と客体が一致することはありえない。どんな人でも、自分の都合のいいように物事を見るし、あるいは過剰にネガティブに受け取り現実とのギャップに苦しんでしまうもの。
そんな自己認知を意識しつつ、バイアスをある程度抑えるためのひとつとして カッコにいれる、があげられる。
これは「まあ、とりあえずそれは一旦置いて考えましょう」という思考方法で、感情、五感、気づきを()にいれてしまい、入れた状態で対象を観察してみようというもの
今まで語ってきた内在視点、感情同期、√……の根本的な概念だったりする。
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たとえば『CLANNAD』をやってメーカーの過去作が頭をよぎったとする。
kanonはきっちりと奪うものを奪って奇跡を成したがCLANNADのこれは毛色が違うしそもそもAIRでは・・・と自動思考をしはじめたらそれを () にいれてしまう。
「kanonはきっちりと奪うものを奪って奇跡を成したがCLANNADのこれは毛色が違うしそもそもAIRでは・・・」という思考をわきにどけた状態でCLANNADを見てみる。すると、いったいどんな考えが浮かぶんだろう? 自分はどのように感じるんだろう? と観察してみる。
たとえば『MR.ROBOT』の吹替音声をきいて「乙坂有宇くんの声!?!!!」と歓喜したとしてもその感情を () にいれてしまう。カッコにいれた状態で、それとは別の感情が自分の中で立ち上がるかどうか、観察してみる。
すると、乙坂有宇を媒介にしエリオットを見るのではなく、エリオットをエリオットとして見ていることに気づくかもしれないし、あるいは内山昂輝さんの演技論について何か発見し、さりとてそれもまた ( ) にいれて『MR.ROBOT』のダークな空気を胸いっぱいに吸いこんでみてもいい。
――そのとき、その作品について、今までの自分とは(ちょっとだけ)違った見方ができるようになっているかもしれない。
もちろんヒトの認知は歪みまくっているので、カッコに入れたくらいでバイアスから完全に逃れられるわけでも、フレームに振り回されないわけでもない。『自己の枠組み』から我々は逃れられないものね。
けれどそういった歪みにさらされていることは理解できる。
理解した上で、ではその歪みを遠ざけた上で対象を見たらどうなるか? と熟考することはできるし、そのあり方は狭まっていた視界を広げ、作品の体感すらも変える契機になりえるものだ。
それに、条件反射で浮かんだものなんて大抵、とるにたらないもの。
一通り処理をおえたならば ( ) で閉じていたものを外しさいど評価・観察し、ふたたび閉じ、はずし、とじてを繰り返すことも可能だ。
まとめ
さてどうだったでしょうか。楽しく読んでいただけたならば嬉しいですし、これを機会に――あなた自身の――作品へのまなざしに注目してみてもいいかもしれません。
(了)
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