鉄血のオルフェンズ最終回は不満のない、とてもいい終り方でした。ロングトレイル的な物語(感想)

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ここ最近アニメを見る習慣が死んでいたが、ようやく『鉄血のオルフェンズ』を見終えたので感想を書いていく。

*ネタバレ注意

 

「届かない」物語。

仲間の命を預かること、ピスケットの死、行動の結果による無限の責任を背負わされる団長・オルガは苦しみにあえぐものの、ミカはそれを許さない。立ち止まることを認めなかった。

そうして、第22話で彼ら――ひいては鉄華団の目的は「どこかに辿り着く」ことに定まったのである。

 

オルガ「(前略)だとしたら、アイツは俺に殺されたってことだよな」

三日月「オルガ、次俺はどうすればいい」

オルガ「……勘弁してくれよ、ミカ」

  「俺は」「ダメだよオルガ」

三日月「俺はまだ止まれない」

オルガ「まってろよ」

三日月「教えてくれよオルガ」

オルガ「待てっていってるだろうがッ!」

三日月「ここが俺たちの場所なの?」

三日月「そこに着くまで俺は止まらない、止まれない。決めたんだ、あの日に、決まったんだ」

三日月「ねえ何人殺せばいい? あと何人殺せばそこへ着ける? 教えてくれオルガ、オルガ・イツカ。連れて行ってくれるんだろ 俺は 次 どうすればいいんだ」

オルガ「放しやがれっ!」

 

オルガ「ああ、分かったよ連れて行ってやるよ!!」

オルガ「どうせ後戻りは出来ねえんだ、連れてきゃあいいんだろ!?」

オルガ「途中にどんな地獄が待っていようと、お前を、お前らを俺が連れて行ってやるよ!!」

三日月「ああそうだよ 連れていってくれ」

三日月「次はだれを殺せばいい、なにを壊せばいい オルガが目指す場所へ行けるんだったら、なんだってやってやるよ」

――鉄血のオルフェンズ22話

 

この時、鉄血のオルフェンズは「旅」の物語として、果てない航海へと舵を切ったと言ってもいいだろう。

――しかしどこに行けばいいのか? ミカが言う「そこ」とは抽象的すぎて、何を指針にすればいいか分からない。

そんなときマクギリスから『火星の王』の切符を手渡される。家族を楽にさせたい、もう危険な仕事をしなくて済む、そんな誰もが納得できる理由を掲げ『火星の王』を最終目的にするオルガだったが、内心ではさっさと降りたかったに違いない。

日々団長としての役割を遂行し、可能な限り多くの家族を幸いへと導こうとする。皆の範たれと、リーダー然と振る舞う彼は弱音を吐くことすら自身に許すことが出来なかった。そんなオルガにとって "鉄華団" がどれほどの重圧だったのかは今更語るまでもないだろう。

名瀬の兄貴が「(お前は)「目指す場所なんてどこでも関係ねぇ。とにかくとっとと上がって楽になりてぇ」ってな」と指摘していることからも明らかである。

そして迎える48話。

オルガはこう言い残し、逝ってしまう。

 

(ミカ。やっと分かったんだ。俺達には辿り着く場所なんていらねぇ)

(ただ進み続けるだけでいい。止まんねぇ限り道は続く)

 

――――謝ったら許さない


(ああ分かってる。俺は止まんねぇからよ。お前らが止まんねぇ限りその先に俺はいるぞ!)

(だからよ…止まるんじゃねぇぞ…)

――鉄血のオルフェンズ48話/オルガ、回想上のミカ

 

ああ、つまりこれは「届く」ことを目的としない物語なのだ。目的地を定めるものの、そこに向かって進もうとするものの、それが果たされなくてもいいと言う態度。

むしろ大事なのは、オルガが言うように進み続けること。

それは手段と目的があべこべになったようにも見えるが、「生きる=戦う」この図式が――比喩でも形而上でもアナロジーでもなかった――鉄華団にとっては当然の帰結だろう。

戦闘の果てに望むことなんて、彼らには何ひとつなかったのである。

現にミカ、ユージン、昭弘、シノと言った主要メンバーは「火星の王になった後」について夢を語ったことがあったろうか? こういうふうに生きたい、なになにをしたい、そんなしあわせを思い描いただろうか。

確かに彼らは鉄華団のために頑張りはするものの、それはオルガがそう言うからそうしただけで「個人的」な理由ではない。自分の願いがオルガとの願いと直結するから従うのではなく、自分の願いなんてどこにもないからオルガに従うのだ。

最果ての地を望むミカでさえも、その願いは幼少期のオルガが指し示したものを今でも大事にしているだけにすぎない。

彼はお金の使い方を知らないし、明宏は鍛錬に励み続けるばかりで、一瞬一瞬の快楽に身をやつすシノ。……彼らには「何かを成す」ために生きてなどいないように思える。

結局はそれが ”ヒューマンデブリ” というものなのだろう。自らの人生を「選び」取ることが出来ず、誰かが示した方向のみを歩みゆかんとする。個ではなく群れのために生き、生きることに特別な意味を付与させない者たち。

――故に戦闘(=生きる)の果てに望むものなど無い。

ミカは死んだ。命を賭しても願いは果たされなかった。でも満ち足りた顔で逝ったのである。

明宏は死んだ。命を賭して生きてていいことを見つける。だがきっと多くの者は「それがいいこと?」と思ったに違いない。

 「生きてりゃ…いいことあるもんだな」

――明宏/鉄血のオルフェンズ50話

 

それは高等教育を受け、人権を与えられ、衣食住に満ちた者からすれば意味不明に違いない。だって私たちは「個」を尊重しながら、人生の意味だとか、幸福のあり方だとか、そういう幻想を頭の中で作り出し "よりよい生" を目指すからだ。

大儀だとか、信念だとか、そういうのに縋るのもこの延長線である。良き大義を持っていれば良き人生を歩める、強き信念を抱いていれば強く生きられる――そんなふうに。

実際それが果たせるかどうかは関係なく、人間として扱われたきた我々はそういう思考に根付いているし、よりよく生きることこそが人生の意味だと信じ切っているわけだ。

……そんな者に、本質的な願いがなく、生きる為に戦い、戦うために生きている鉄華団なんてのは理解できるわけがない。ジュリエッタのように。

 

ジュリエッタ「なぜだ!?なぜまだ抗う!?」

ジュリエッタ「無駄な足掻きだ!こんな無意味な戦いにどんな大義があるというのだ!」

ミカ「大義? 何それ?無意味?そうだな俺には意味なんてない。けど――」

 

(けど今は 俺にはオルガがくれた意味がある)

(なんにも持っていなかった俺のこの手の中に こんなにも多くのものが溢れてる)

(そうだ 俺達はもう辿り着いてた)

ジュリエッタ「なんなのですあなたは!果たすべき大義もなくなぜ!」

(俺達の本当の居場所)

ミカ『だろ?オルガ』

オルガ『ああ そうだな。ミカ』

――鉄血のオルフェンズ50話

 

二人が辿り着いた場所は、走り続けた結果としての死。

歯を食いしばってきた進んできたこの過程こそが、彼らが求めた到達地点なのである。故にロングトレイル

同時に彼らは個人単位では届くことはできなかったものの、Bパートのアトラ・クーデリア・ユージン達を見れば鉄華団(共同体)としては「みんなで笑い合う未来」へと行けたと捉えられる。

これは「幸福」「個の生」という概念を絶対価値として位置づける者には永遠に理解できない代物だろう。ジュリエッタ、ないしギャラルホルンなる「人間」の中で一体何人が彼らの生き様を受け止められるか見物である。

 

人間ちゃん「幸福に生きよ!」
  三日月「あ?」

 

マクギリスは理想のために戦ったが、あえなく敗れ去ってしまう。

願いを果たしたかった者、果たされなくてもよいと断じた者。この両輪によって鉄血のオルフェンズは一層「届かない」物語として色濃くなっている。手を伸ばしても、届かない、届くことができなかった、そんな儚さがとてもよい作品だ。

 

 

 

タカキだけは

彼だけは鉄華団の中で「個の生」を選び取った者なり。自分で人生を決めて、妹のために行動したものなり。

選択を放棄したミカとタカキの対比がまたいいんだわ……。

 

 

ミカとオルガの関係良すぎませんか

 

まずねまず、op4で横になっているミカを担ぎ上げるオルガがやばい。この二人の阿吽の呼吸ならぬ信頼感がこのシーンだけで伝わってくる。とてもいい。

同様に37話くらいだったかな? ミカが破ってとでもいいたげに栄養補給食品を出しそれをすっと取ってあげるオルガ、そしてもぐもぐするミカ。くそ分かりあってんな!!wと思わずにはいられない。

とにかくこの二人の関係性は微笑ましいし好き。あと三日月のことを「ミカ」とオルガだけがあだ名で呼ぶのもいい。

マクギリスとガエリオの関係もよくて、最後の

「言うな!お前が言おうとしている言葉が俺の想像通りなら」

「言えば俺は…許してしまうかもしれない」

――ガリエオ/鉄血のオルフェンズ49話

 も良すぎて良すぎて辛いです。マクギリスが結局死んでしまって「その一言」を言えなかったのもいい……。

 

 

 恋愛の多様性を描くオルフェンズ

名瀬のハーレム、シノに恋するヤマギ、アトラとクーデリアの関係――異性愛から同性愛、はたまた一夫多妻に一人の男性を二人の女性が愛す「多様な恋愛」を本作は描いた。

最後のアトラとクーデリアは「家族」として一緒にいるみたいなので、恋情ではない関係で家族になった者たちとしても本当に豊かな人間関係を見せてくれたと思う。

もうねー……こういうの最高です。最愛の男性の子供をふたりで育てあげるって、なんかうるっときません?きますよね。きます。

恋の形はひとつじゃないし、家族の形もひとつじゃないんだよ。わかってる?

 

 

ライドが歩んだのはきっと初雪色の狂気

彼の復讐は荒野の巡礼たり得ただろうか。

怒りを持って行い、憎悪でもって成さんとする、死者に捧げる祈りを果たすことが出来ただろうか。オルガに庇われて生き残ってしまった自分を許すことができただろうか。

復讐とはいつだって虚しいものだろう。叶えたところで得られるものなんて無い、そう数多の賢人は口を揃えてそう言う。けれどそれがライドにとって「進むため」に必要なもので、復讐を終えて「前を向くため」に役立ったのならば無駄ではない。ううん、そうあってくれればなと願いたい。

彼の復讐物語に、精一杯の拍手を。

 

 

 おわり

鉄血のオルフェンズ』は毎話面白く(←重要)終わり方も良かったので満足です。私的満足度なら★★★★(4.0)超え。

本作はガンダム初めての人に取っ付きやすいですし、何よりもテーマが分かりやすいのでびしびし勧めていきたいですね。私自身、ガンダムシリーズは「ポケットの中の戦争」「OO一期のみ」しか見ていませんけど楽しめました。

というか、この数週間充実した鉄血ライフだったなぁと……。毎日一話二話見てうきうきしていたよ全く。やっぱアニメって面白いなと実感したので、徐々に習慣取り戻していきたい所……どうも最近ダメでさ…。

ちなみにイオク・クジャンは生き残ると思っていたんですけど、見事にぐちゃぐちゃにされてすっきりしましたよ。ええ。ほんと。(なんだその感想は) でも愚者が最後まで生きて笑っている絵面も見たかったといえば見たかったかもしれません。それはそれで新鮮ですので。

 (了)

 

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ex:他作品に接続するならば

分かる人にだけ分かるお話。

 

そうやって私たちはお姫様にギターで歌を届けようとし、届かないと分かりながらも毎晩弾き語る。狼男は月の向こう側へ恋をしたのです。そうして最果ての物語を目指して永遠の時計を作り出そうとするものの、それは叶わない。

――でもそんなことは「手を伸ばし続ける」価値に比べれば取るに足らないことだよ

ほんとうだろうか。自分の行為が全く世界に影響せず、手応えがないことを繰り返すことを常人は出来ない。少なくとも近代化以降の自我を獲得した私たちには辛い行為だ。それでも無邪気に「届かないと分かりながらも届けようとする」のは狂気の沙汰ではない。

その果てが瑞々しい音楽を作れなくなったとしても、その果てが売れない小説を書き続けることだとしても、結局それは届かなかったというエンドマークだけだ。

――そんなのはただの徒労だ。

だとしても "書き" 続けなければいけないのだろうか。ふーみんのように。桜井のように。学のように。雲雀のように――――氷細工の薔薇を見つけなければいけないのだろうか。

因果が逆転しているのでは。

逆転はしていない。誰もが胸の内に醒めきった諦観があったはずだ。「届かないかもしれない」ではなく「届かない」と。冷えきったリアリズムを抱えながらも、手を伸ばすのだ。これがいかに難しいか分かるはずだ。

けれどミカには そういうもの がない。だから彼は彼自身の全てを賭けられるのだろう。そう思える。あるいは「全てを賭す」という結果は一緒でも、その起因が彼らは異なると言えるかもしれない。