物語における『視点取得限界』を考える(24463文字)

*Charlotte』『アオハライド』『プロポーズ大作戦』『いろとりどりのセカイ』『Re:ゼロから始める異世界生活』『恋色空模様』『はつゆきさくら』のネタバレ注意。  

 

 

視点・取得・限界

 

いずみの氏が言う『視点取得限界』について考えたくなった。

 

togetter.com

 

上記事は一言でいえば「劇中の視点と読者の視点は違う」というお話だ。

例えば『W.L.O.世界恋愛機構』の主人公・黒田祐樹を見て「どこが平均より劣っている男の子なんだよめちゃくちゃイケメンじゃん」という言う者はいるが、それはあなたから見える黒田祐樹の姿であって、劇中にいるキャラクター達から見える姿ではない。

例えば漫画で使用されるトーンを指して「こんなグレーな肌の人いないよ」と言う者もいるが、それはあなたの視点であって漫画世界の視点ではない。

例えばADV特有の皇帝液射出時における白画面フラッシュを指して「こんな現実で起きたことないわ」と言う人はいるが……あの、もういいよね? 何で私はこんな馬鹿げたことを説明をしければいけないのだろう。

つまり「劇中の見え方」と「自分の見え方」を区別できず、理解できない者がいるということであり、そしてそれは情操教育が育まれてこなかったせいではないか? という内容になっている。

 

 

 

 

情操教育が原因かはここでは置いておくが、確かに実際にそういう人達がいるのは私も何度も見てきた。先述の例はなにも冗談やお伽話ではなく「自分視点でしか物語を読み込めない」者は実在しており、きっと今でもとんちんかんな作品感想を量産し続けているに違いない。

そして上記事の流れを汲むならば、そういった人物はキャラクターの視点が分からず、自分視点で作品を眺める――視点取得限界が――「1視点」なる者と言えるだろうか。

(『視点取得限界』のかっちりとした定義は語られていないが、togetterまとめを読む限りでは「自分以外の人間の視点が汲める能力」を指した言葉だと思う。そしてそれは個々人によって登場人物の視点を取得できるかの限界はある、と想定されたものだろう)

 

 

 

1視点者と処女厨

 

ここからは私の解釈でいろいろ考えていきたい。あるいは私がこれをどのように捉えているか語っていきたい。

(おそらく)この『視点取得限界』なる概念は、「常に」自分の限界数を保てるわけではなく作品によって増減するものだと思われる。

先にいった「1視点」しか持たない者も常に自分の視点でしか作品を眺めるわけではなく、作品によって視点が2つ3つ増えることもあるのではないだろうか。逆に取得限界が「5視点」ならば視聴する作品によって視点が1視点になることもあれば6視点になるということでもある。

主人公の内面がごっそり削られた『白夜行』や、内面にディティールが加えられてもその緻密さが却って混乱をもたらす『去人たち』*1は登場人物たちの視点を取得するのはやや難しいだろう。逆にキャラクター造形が型に嵌った『スズノネセブン!』や『学戦都市アスタリスク』はやりやすいと思う。

とはいえ『学戦都市アスタリスク』でもクローディアの母親であるイザベラ・エンフィールドの一切私情を挟まず・組織に己の全てを捧げる在り方は読者の理解を遠ざける心的状態と言えるだろうし、キャラクターの心情が理解しにくい『去人たち』でも大神のアリスの為に行動する一点については比較的理解しやすいものかもしれない。

このように作品の傾向によって、もしくは作品内の登場人物によって、個人の『視点取得限界』の境界はゆるやかに動いていくものだと思われる。

 

 

 

もっとも、"基本的に" "多くの場合" 自分視点でしか作品を見られないものをここでは「1視点者」と呼ぶことにしよう。

私から言わせれば「1視点者」は物語を読むことに圧倒的に向いていないし、むしろ何故読んでいるのだろう?という疑問を覚えてしまう。(そりゃ楽しいから読んでいるのだろうけれど)

思うに、「1視点者」はキャラクターに処女であることを異常に押し付ける「処女厨」とオーバーラップするのではないだろうか。

2004年に発売された『下級生2』のとあるヒロインが非処女という理由でDISCを叩き割った画像を上げるのも、2008年に話題になった『かんなぎ騒動』のヒロイン・ナギに「恋人がいた?」という不確かな描写だけで(彼女が処女か否かは確定していないにも関わらず)単行本を切り刻んだ画像をネットにUPし怒りを表現したユーザーがいるのも、女性声優に恋人が発覚すればすみやかに関連商品をぐちゃぐちゃに破壊するのも――要するに「自分の視点」のみで断罪しているように見えるのだ。

そこには当該人物から見る世界が欠如しているし、彼女達になぜ恋人がいたのか? あるいはこの作品に非処女である彼女がいるべき理由はどんなものか? つーかそもそも処女/非処女によって目の前の人物に対する価値が大きく変化する俺ってどうなの?気持ち悪くない? という単純な疑問について考えようともしない。

ただただ「許せない」という己の単一視点でもって、物事を切り取るのが彼らである。

 

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このように考えれば、劇中の演出・キャラの見え方に(的はずれな)意見をする「1視点者」と「処女厨」の奇妙な重なりが見て取れる。どちらも自身の主観を敷衍して擬似的な客観視を得ようとすらしなく(もしかしたら出来ないのかもしれない)、「自分から見える世界」だけを絶対視しているのである。

もちろんその作品に半ば強引に、無理矢理、論理性がない「非処女」というファクターを持ってきてることが伺えるならば批判対象にはなる。妥当性がある怒りだってあろう。しかしここで私が言っているのは「劇中視点/キャラクターの視点をプレイヤーが取得できないケース」を指している別レイヤーのお話である。

 

 

 

 

2視点者と主人公

 

先述した1視点者は正直いって例外であり特異で異質で少数派だろう。こんな人間があちこちにいったら扶助社会は破綻してしまう。

おそらく多くの人は幼少期に2つの視点を取得し――個人差はあるだろうがここから複数の視点を育みながら――物語を眺めるケースが殆どなのかなと思う。

ではその2視点とはなにか? 

つまり「自分+主人公」でもって作品を読解しようとする在り方である。(ここでは2視点者と呼びたい)

「2視点者」はまず主人公を自分と同一のものと見做し、自身を主人公に移入(=感情移入)させたり、自己を投影したり、自己を同期(=自身に主人公を移入させ)ながら物語を楽しんでいく。

ぴたりと主人公と自分が重なる。自身の怒りが主人公を通して物語世界に伝播していく。(主人公の)身近ではなかった感情が自分に流れ込んでくる体験は一度ハマれば病みつきになるものだ。

またこの楽しい体験が「主人公から離れたくない」「主人公から離れる理由が分からない」という動機に繋がり、いつまで経っても2視点者のままでいるケースに繋がる場合もあるかもしれない。主人公に感情移入/投影/同期していればOKみたいな凝り固まった考え方を育む危険性がここには同時に存在しているように見える。

とはいえ、物語を読んでいくうちに「このやり方(2視点)じゃダメだ。楽しめない」と気づく日はやってくるので個人的にはさほど問題視はしていない。そんな物語との出会いがあればあとは読者が試行錯誤して「なるほど別の登場人物に視点を合わせればいいのか」と3視点4視点と取得限界は広がっていくはずだからだ。

 

 

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そして主人公の視点がなぜ早い段階で取得できるのかというと、(例外はあるが)基本的に主人公の内面は掘り下げられてるからだろう。つまり緻密なのだ。あらゆる物事に対して感情の揺れ動きが分かり、どういうふうに世界を認知しているのかも手に取るように分かる。

このことが「視点取得」の敷居を低くしているのだと思う。

逆にいえば心が見えない――描かれない――人間は、主人公に比べ視点を取得するのが難しいと言える。それは道端を歩く老婆だったり、靴先にしがみつくあごひげカエルや、息子を殺したいと願いつつも正直どうでもいいと思っている赤風お母様だったりする。

彼彼女は名も無き登場人物だったり、行動による結果でしか複雑な心情を垣間見せないキャラクターだからこそ「彼彼女らが見えている景色」を取得する難度は高まっていく。

 

 

この流れでいえば、アニメ『Charlotte(P.A.WORKS)も分かりやすい例だろう。

12話、大怪我を負った乙坂有宇は入院し目が覚めると「(そういえば)熊耳さんは?」と周囲に問いかける。その場にいた七野という金髪少年は『お前が自分の能力で自らをかばってる間になァ!!』と怒鳴りはじめるシーンを思い出して欲しい。

正直にいって、熊耳の死は乙坂有宇のせいではない。むしろタイムリープ能力を使った作戦とも呼べない作戦を実行に移した隼翼に非があるのは明らかだ。

しかし七野に視点を移せば、七野がいかに熊耳を慕っており、彼の死去のやるせなさを誰かにぶつけることしか出来なかったと見ることも出来るだろう。もしかしたら七野も有宇の責任ではないなんてことは頭では理解できていて、けれど有宇を詰ることでしか悲しみが抑えられない場面だったと伺うことも可能だ。

しかし「2視点者」であれば主人公(=乙坂有宇)から離れた視点を持ち合わせることはないため、"なぜ責任がない乙坂有宇に七野は詰め寄ったのか?" を彼らは考えることなく「金髪うぜー」で終わる。

それは『Charlotte』では七野の内面を全く・一切・これっぽっちも描いていないからこそ、七野の視点を汲むことは2視点者にとっては難しい。

 

そして「2視点者」の弊害はここだろう。つまり劇中で内面を描かれないキャラクターに対し温度が低いのだ。心の動きを想像しようとは思わない。

これが行き着く先が『主人公病』なのかなと思う。

 

 

もしくは似たような傾向の作品しか享受できず――主人公が自分の心性と酷似したものだけで――そしてそこから外れた場合「主人公が不快」、群像劇ならば「主人公が大勢いてよくわからない」「主人公がいない」とばっさり切り捨てるかもしれない。

ただ誰でもはじめは「2視点」を起点にして、少しづつ視点取得の限界を広げていくと思われるので、「主人公だけにしか視点を合わせられない」のが悪いのではなく「いつまで経っても主人公だけにしか視点を合わせられない」のが問題なのだと思う。

具体的に何歳以降と決められるものではないが、個人的には義務教育までには脱出しておきたい所ではある。なぜならそのほうがそこから先の物語を3視点以上で楽しめるので、早ければ早いほうがいいんじゃないか。

 

    ◆ ◆

 

ちなみに私がこの「主人公にしか視点を合わせられない」ことで思い出すのは、当時知人と『プロポーズ大作戦(2007年)というドラマを一緒に観ていた時のことだ。

本作は恋心を寄せていた幼なじみが別の男性と結婚することになり、「なぜあのとき告白しなかったんだ…」と後悔している主人公の元に妖精さんが現れ過去のやり直しを促すタイムリープもの。

 

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主人公は過去に戻るものの、告白のタイミングに拘りすぎて中々アタックできないもどかしいストーリーになっているのだが、当時の私は「過去に戻っても当人に絶対の意志がなければ事は成せないよなあ」と眺め、知人は「山P(主人公)もっと頑張れよっ!なんでそこで告白しないの!ああもう!」と憤っていた。

知人は本作に関わらずテレビ画面にのめり込むように「違う!そうじゃない!」「そこで決めろ」「そうそう!」と作品にツッコむ鑑賞スタイルなので、当時は特に気にしていなかった。そういう見方もあるのだなあと。

だが今思えば「主人公にしか視点を合わせられない」人だったのだと思う。主人公以外に視点を合わすことはないので、なぜ主人公がそういう行動を取るのか? ヒロインは何を考え、妖精さんは如何なる存在なのかについて考慮外だし、そして主人公が理解を超えたキャラクターだったならば自分視点でぶち始めてしまう。

それは一概に悪いわけではないけど「自分視点で見ているのか」「登場人物の視点で見ているのか」を踏まえているかどうかはやはり大切だろう。

 

ちなみに最終回は、主人公は頑張ったものの結局幼なじみと結ばれることのなかったビターな終わり方であった。

知人は「なにこの最終回ありえない……」と嘆いていたのは9年前だというのに何故か覚えていたりする。懐かしい。確かに煮え切れない、スッキリしない、主人公が報われない結末ではある。

けれどあのEndingは「彼は幼なじみと一緒になることに対してそこまで本気じゃなかったのでは?」とか「目的を添い遂げる意志が弱いとこういうやるせない結末になっちゃうよね」とか「奇跡を使用しても "未来は変わらない" ことの示唆」と考えることができる中々いい終わり方だったと思う。今見たらどうか分からないけど9年前の私は少なくともそう評価していた。

逆に知人はどうしてそこまで画一的な見方しか出来ないのだろう?と不思議がっていたのだけれど、今振り返れば「2視点」で作品を捉えていたのだなと納得できる。

もちろんこういう振り切った没入も時には必要なので――主人公に限らず登場人物に自己同期出来なさ過ぎるのも問題だろう――色々な鑑賞スタイルを取り込んでいくといいのだろう、と今の私は考えるのであった。

 

 

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余談だが、Wikipediaによれば

中途半端なエンディングだったことから、視聴者から放送終了後に電話4000件、メール3000件の問い合わせが送られた。その声に応える意味で、2008年3月25日に2時間18分のスペシャル版が放送された

 

――プロポーズ大作戦 (テレビドラマ) - Wikipedia

とのことである。

 

ああそうですか……。さようでございますか……。

テレビドラマ視聴者がまるっきり育っていないことが伺えるし、その多くが「2視点者」だと考えるとぞっとしてしまうのだけど――少なくとも3000人はいるということなのか?――当時の私の感想が的はずれな可能性も否めないので今度見直してみたい。

 

 

 

 

童話の読み聞かせはどう考えればいい?

 

先に「主人公は内面が緻密だから視点取得が容易」と語った。

あれは児童文学や一般文芸作品を対象にした発言なのだけれど、しかし幼少期に読み聞かせられる「童話」の類は「主人公」という概念が希薄だったり、あるいは主人公の内面を丁寧に描かれているわけではないものが多い。

うる覚えなのだが『オズの魔法使い』や『不思議の国のアリス』は物語が淡々と進み、そこにドロシーやアリスの独白はなく、また登場人物の事細かな心の揺れは描写されていなかったと記憶している。会話と行動、そして情景描写が添えられた物語だったはず。

では、これはどう考えればいいのだろう?

 

 

幼少期は自我形成がなされていない――もしかしたら1視点以下の――読者なため、そもそも登場人物の内面を描いても意味がないのかもしれない。

というのも内面を描かれたキャラクターに視点を合わせやすいのは、その内面を読者が理解できるという前提に立ったものだろう。読者の過去の経験/類推によって「痛い」「悲しい」「嬉しい」というキャラの気持ちを理解できるからこそ、そのキャラに共感し、自分事のように捉えられる。

となれば幼子は「人」を媒介にして物語に触れているのではなく、物語の「要素」を媒介にして物語世界にのめり込んでいるのかもしれない。

例えばそれは怪獣かっけー!!だったり、宇宙船きゃー!!だったり、正義の味方の化身レッドすげー!だったり、人々の羨望を集めるプリンセスいいなー!!やロボットのメカニカルな造形に興奮し、不思議な世界わくわくするー! という感じだろうか。本能的な憧れ、好奇心、欲望を見出してくれる要素要素に惹かれていく。

私自身振り返れば、幼少期は自分の日常にない「もの」がでてくる作品をよく好んでいたし(↑の例)、不屈の名作映画『スタンド・バイ・ミー』を観てもよくわからず単なる冒険ストーリーのように捉えていた節があった。逆に『ウォレスとグルミット』のような事件事故がコミカルに描かれる――考えず見て楽しめる作品――を好んでいたなと思う。

そしてその頃に「人」に焦点がかっちり当てられた『パン屋再襲撃』(村上春樹)のような作品を読み聞かせをさせられても、退屈で拒絶していただろう。

 

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童話のルーツがどうであれ、幼子に童話を読み聞かせるは理にかなっているのかもしれない。そこには「人」への理解はなくても構わないし、むしろ「人」の内面描写は緻密であるほど邪魔で、「要素」でもって0-1視点者に物語の楽しさをコンパクトに伝えるための作品群だと思うからだ。

 

 

 

 

視点取得の流れ

 

勝手な考えだけど、以下のように私は視点取得について考えている。

 

幼小期(2-5歳)→0視点(=その子なりの世界の見え方はあるものの、自我形成の面から自分視点は持っていないと考える)

学童期(6-12歳)→1視点(=「自分」という自我の芽生え)→その子に感情の類推能力が発達していると視点取得限界が2視点まで広がる。このとき「人」に視点を合わせられるようになるものの、初期は内面が緻密な人物に留まる。一般文芸ならば主人公というモデルが採用されやすい。

成熟期以降(13歳~)→3視点以上獲得していく者もいれば、1視点・2視点に留まる者もいると考えられる。

※年齢は大体このくらいかなという大雑把なもの。学童期に3視点獲得することもあれば、成熟期以降に2視点を獲得するケースもあると思う。

 

3視点への分水嶺は、「多様な考えを知る機会」に恵まれているかどうか。と考えている。例えばディスカッション、立場を変えて議論することが日常生活と密接に関わってくる環境にいるならば、その者が3視点以上の多視点を獲得するのはそう難しいことじゃないだろう。それは「多様な物語を読む」ことでも実現できるかもしれないし、逆に「多様な考えを知る機会」がない場合、1・2視点に留まりやすいということになる。

 

  ◆ ◆

 

余談だが、『ひぐらしのなく頃に』は視点取得の限界を大幅に上げやすい作品だと思っている。

というのも、本作は『鬼隠し編』で圭一視点で捉えたレナは恐ろしい友人であるが、『罪滅し編』ではレナがどのような気持ちを抱え圭一に接したかを圭一視点で捉え直したり、『暇つぶし編』『目隠し編』のように章ごとで物語世界を進行する主人公が変わってくるため、「キャラクターのセリフ」は言葉にされたものだけが真実ではなくその後に隠されたサブ・テキストがあるのを学ぶことができる。

これは物語には複数の視点があるのだと知ることができるし、単一視点で見ることはつまらないと感じられるだろう。このシーンで魅音は何を考えている? 梨花ちゃまの言葉は字義通り受け取っていいのか? そういう思考の訓練に繋がるのではなかろうか。

またノベルゲーム特有の「選択肢」は様々な可能性の起点、「√」は物語の結末は一つではなく何種類もあることの示唆、をそれぞれ習得できる。

これを応用すればノベルゲームではない小説・ドラマ・映画であっても「この物語はここで終わってしまったけど、もしもCが☓☓の行動を取っていたら別の結末に至れたかもしれない」と考えられる視点を養うことができよう。

なにより『ひぐらしのなく頃に』は面白いし、読みやすい。さらにビルドゥングスロマンの要素も持っているので学童期の子におすすめしやすいと思っているがさて。(ネックは暴力シーン)

はじめての人は竜騎士絵はつらいので、rato絵でリメイクされた『ひぐらしのなく頃に 祭』か『〃 粋』でひぐらしWorldに入るのがおすすめ。

 

 

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多視点がもたらすもの

 

3視点――つまり自分と主人公「以外」の人物にも視点を合わせられるようになることであり、内面の掘り下げが行われていないキャラクターに対しても視点を取得できるようになる状態。ここに突入したならば、あとはゆるやかに取得限界は4視点5視点…と拡大していくように思われる。

1視点、2視点、3視点の間はそれぞれ溝があるが、3視点と4視点と5視点の間には特別何かしらの障害があると思えないのでここでは3視点以上を「多視点」と呼び、その取得限界を有しているものを「多視点者」と呼ぶことにしたい。

ではそんな「多視点」がもたらすものとは何か? 私自身まだまだ未熟だが、体験したことをひとつひとつ取り上げていく。

 

 

 

■自分のものではない感情が芽生え始める

 

慣れてくると自分のものではない感情を覚えはじめてなにこれ楽しいー!ってなる。

例えばアニメ『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』ではベルくんの恋心にも似た憧憬をアイズに向けること、またヘスティアのベルくんに向ける恋情も実感として「私自身の中」で再現できたりもする。

するとこれは「私」の気持ちじゃなくて「ベルくん」や「ヘスティア」の気持ちなのだなと理解できたりもする。だって私はアイズのことは綺麗な人としか思っていないけどベルくんからすれば踏破したい頂きであり、淡い懸想にも似た憧憬でもって接しているのが理解できる。

あるいは私はベルくんは男の子としては好きだけどそこには恋愛感情はないものの、ヘスティア視点で見ると彼は可愛く見えるし、なんか抱きつきたくなるのもよくわかる。べるく!べるくん!はすはすはす!ってな具合に。

そんなふうに、本来私自身が励起しない感情がキャラクターの視点を通して励起していく体験が多視点によってもたらされるものの一つだろう。

 

ヘスティア視点で見るベルくんは可愛いさ100倍だと思う

 

 

 

 

■視点の自動切り替え

 

また「数秒毎にキャラクターの視点を交互に切り替わる」こともある。

それはアニメ『Re:ゼロから始める異世界生活』18話で昴の自己評価と客観評価の食い違いによる辛さ、そこにレムが昴に向ける気持ちをお互いに語っていくシーンが分かりやすいかもしれない。

――昴はレムの気持ちを信じられないし、レムは昴のことを心の底から愛している。

昴の視点で見ればなぜこんなにも俺のことを慕う?こんな男だぞ?ありえないだろ……とレムに疑心暗鬼になり、レムの視点から見れば昴は人生を掛けてでも守りたくなる男の子。

そんな2人の2つの心的状態がロビンソン症候群のように鬩ぎ合い、かち合いながら、行ったり来たりする――二人の「気持ち」が「交互」に私自身の中で「励起」していくのは――異様な体験だった。圧倒的な情報の奔流にのまれ正直めちゃくちゃ疲れた。疲弊する。ずるずるーってなる。

何度もやられるとこちらの身がもたないやつで、おそらく半ば自動的に視点が切り替わり続けたせいだろう。この体験が何かしら与したものがあるかは正直分からないが、おー、こんなふうに視点が切り替わることもあるのかーと驚いた。

ただ、これは『Reゼロ』18話がすごいだけなのかもしれない。

 

 

 

 

■<他者>に興奮するようになる

色々なキャラクターの視点を合わせることに慣れてくると、今度は自分が理解できないキャラに価値を覚え始めたりする。

つまり視点を合わすことが出来ない人がレアになるのだ。出会うと興奮するのである。

やば……お母様(=ゴトショフ)……全然理解できないよ……でもそこがいい大好き!ってなるのだ。……灰野(=最果てのイマ)……お前を理解できないのは当然だよ……だってお前は……ふははは(手を顔に添えながら)ってなるのだ。

それは『フロレアール』で言及される「他者との出会いによる喜び」であり、とっても楽しい体験だ。むしろ理解できないキャラクターに会わせてよ!と思ってるくらい<他者>への欲求は年々強くなる一方である。

 

 ▼関連記事

理解できない《他者》が大好き。例えばそれは『強盗、娼婦のヒモになる』の母上だったり『はつゆきさくら』の小坂井綾だったり

 

 

 

 

 

■物語の見え方が豊かになる

 

多視点の主な恩恵はこれだろう。つまり色々な人物に視点を合わすことで物語の見え方が多層的になってくる。

赤色だけしか見ることが出来なければ、その物語を「赤い」と決定するだろう。しかしもしそこに青色を見ることができたならば――光の三原色のように――赤と青が重なり紫色の姿を見せ始めるだろう。さらに緑色も加わるならば「青紫赤紫・白」いろとりどりな物語が見えてくるはずだ。

 

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via:http://fnorio.com/0074trichromatism1/trichromatism1.html

 

例えば、『いろとりどりのセカイ』 の鹿野上悠馬。彼を読者視点で見ると自己中心的で最低な男性だと映るだろう。

けれど二階堂藍の視点でみれば鹿野上悠馬の献身的な働きぶりが分かるし、夏目鈴の視点で見れば孤独で死んでいった者の辛さがわかり、彼が行った非道はある種の正当性があるものだと判断できるようになる。ひいては本作の印象も随分違うものになってくるはずだ。

もちろん真紅、澪、加奈の視点をそれぞれ加えていけば「鹿野上悠馬」像はいろとりどりな様相を示していく。

 

▼関連

鹿野上悠馬は本当に非道いヤツなんだろうか?(いろとりどりのセカイ)

 

 

 

 

■"物語"に焦点を合わすことだってある

 

もっとも「キャラクター」じゃなくて「物語」に焦点を合わすこともある。

すなわちこのブログでよく言っている《物語そのもの》という概念であり、『ナツユメナギサ』の《物語そのもの》に視点を合わせていたら感情移入して泣いてしまったり、『群青の空を越えて』の《物語そのもの》に視点を合わせてたら心が打ち震えてしまったりそういうのだ。

そこには登場人物の気持ちを汲もうする意識づけはない。物語の核/血脈とでも呼ぶべきものの視点を取得できると、「人」を媒介にした物語体験ではない体験を味わったりすることができる。

そう、なにも「人」だけが視点を合わせる対象というわけではなく、「物語」も含まれるものだと私は思っているし、『視点取得限界』の考え方は「人」だけではなく「物語」自体も含まれると考える。

ここから拡大して劇中内の「無機物」も含めていいかもしれない。

 

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例えば『はつゆきさくら』では「夢」、「初恋」、「復讐」、「応援」、「卒業」というように読者の見え方で変わるシンボリックなものがある。そのどれに焦点を合わせるかでキャラクターの発言への感じ方は34度違い、行動の印象も179度変わり、ひいては現出するテクストも異なってくる。

そんなふうに《物語そのもの》にも視点を合わせられるようになってくると、物語の豊穣さが皮膚感覚で分かるようになってくると思われる。

 

はつゆきさくら考察_死者が生者へと至るためには何が必要か?(26587文字)

 

 

 

 

 

■プレイ中とプレイ後の感情が違う

 

厳密に言うならば「物語プレイ中」と「プレイ後に感想を書く時」プレイヤーである私の感情は違ってくる。

というのも感想を書くというのは、「私視点」で物語を編纂し、それを記述しようとする試みだ。プレイ中幾人ものキャラクター視点で物語を見渡し、物語に視点を合わせても、文章化するときは最終的に私がそれらをまとめなければいけない。

じゃなければ、人が読める文章にはならないだろう。少なくとも自分の比率を優位にしなければ作品という大枠を語ることは出来ない。

それが顕著に現れたのは『恋色空模様』という作品だ。

 

 

本作はエ口ゲという市場でなければ見放されていただろう歪みという歪みを、不条理という不条理を、緑茶という緑茶を抱えたストーリーに私は呆然とした経緯がある。

「噓だといってよバーニィ」と呟きたくなるある種の完成度の高さに私の心は冷め切っていた。とはいえ別段怒りが沸く作品でもなければ、くそめたに殴りたくなるまでのものではなかった。ただただ言葉を失ってしまってだけなのである。

しかし、いざそれを記事にしようとすると怒りがふつふつと湧き始める。

本作のどこがどう批判に値するかを言語化していく行程は――『恋色空模様』を再認した故もあるだろうが――書けば書くうちに頭にきていた。(好きな人には悪いけれど)ここまで酷い作品に出会ったのも久し振りだったこともあり、私はこれを許せそうになかった。泣いて謝っても許せそうになかった。

――でもおかしい。プレイ中ここまでの憤りは感じなかったのに、プレイ後、それも2ヶ月経ったあとに、批判記事に着手するこの段で何故私はここまでカチンときているのだろうか? 

すると一つの仮説が浮かび上がる。

『恋色空模様』をプレイ中は物語・キャラクターの視点に合わせていたから、私はきっと「呆れる」くらいの感情に落ち着いていたのだろう。違う言い方をするならば劇中視点を優位にし自分視点を劣位にしていた恩恵がここにはあったのかもしれない。

逆に、感想を書くときはどうしても「自分視点」を優位にしなければいけないので、劇中視点は劣位になってしまう――もちろんどのキャラクターの視点を優位にして書こうとか、どの物語視点を優位にして書こうということはあるが、何度も言うようにそれはどのみち自己を一段階上に持ってこなければ記述はできない――これがプレイ中とプレイ後それぞれの感情が異なった原因なのではないか。

そう考えると私は納得できそうだが。

 

▼ 当該記事

恋色空模様のどこがダメで、どこを批判したいのか語る①

 

 

 2016年夏アニメの『orange』1話の感想も同じ感触で、視聴中は「すこしここ気になるかなあ」くらいのものが言語化しはじめると「むかむか」し始め、私優位の語りだともちろん了解していたもののそんなテイストの感想になった過去がある。

こういう時、どの「視点」が傾き、優位になっているか実感できるかのは結構楽しいものだ。

 

2016年夏アニメ16作品の1話感想、おすすめはあまんちゅで。(7647文字)

 

 

 

 

 

■1視点の作品は正直、つらい

 

 (読者ではなく)作品自体が「1視点」で紡がれるものが辛く感じるこの頃である。つまり多種多様な立場に属するキャラクター達が、多種多様であるにも関わらず、実質「1つの視点(価値観)」で突き動かされている作品のことだ。

例えば主人公がAを主張するならば、Bを主張する対立者、あるいはCを掲げる組織が存在するものだけれど、その主張はあっけなく降ろされ皆が皆「やっぱAだよな!!」と最後には大合唱しはじめる。劇中の誰もがそれを不思議がらないし、異を唱えない。

そんな作品は「2視点(自分+主人公)」で見る分には別段問題は感じられないだろう。なぜなら劇中の誰もが一つの方向を向いているのだから、読者である私も主人公(に類する)キャラクターにならってその方向さえ向いていれば「おかしい」と思う余地はなくなってくる。

しかし多くの登場人物の世界認知・思考様式を追認しながら物語を読み進んでいくと、それがいかに歪んだものなのかは理解できてしまう。Aを絶対的に受け入れられない考えを持っている人が、あっさり「私は間違っていた」と叫び、BからAに乗り換える。それが何度も繰り返されればもはや異常だし、メアリー・スー的な風刺だったり、アイロニカルな作風ならば、なるほどそういう作品なのだなと腑に落ちもしよう。

が、そういったことは一切なく――大真面目に――1視点で物語が進行するとき、多視点で捉えると当該作品は茶番の様相を醸しだしてしまう。*2

ここから考えるに、読者に限らず、作品にも『視点取得限界』はあるのではないか?

※私が『作品』という言葉を使うとき大抵《物語そのもの》でしか捉えていないので注意。つまりそこには制作者/舞台裏の存在は消滅し、作品を自律的なものとして扱っている。

 

 

1視点的作品を『恋色空模様』だとするならば、多視点的作品を『穢翼のユースティア』や『うみねこのなく頃に』『俺たちに翼はない』『群青の空を越えて』と言えるかもしれない。

つまり一つの視点・一つの価値観で突き動かされているのではなく、3つ4つの視点・複数の価値観で物語を貫く作品のことである。

 

 

 

 

キャラクターにも視点取得限界は存在する

 

「作品」に『視点取得限界』があるなら、もちろんその作品に存在する「キャラクター」も同様だ。

それはアニメ『アオハライド』が分かりやすい。

本作に登場する吉岡双葉は、馬渕洸を好きになり、また友達である槙田悠里と想い人が被ってしまったことに悩む。馬渕洸を好きであることを告げれば友達を失うかもしれない。でも本当の友達には誠実でいたい。あーでも言うの怖いなあ……。

という心境を抱えた上での8話、双葉はついに自分も洸が好きだと悠里に告白した。

悠里はそっかー同じ人好きになっちゃったんだね、どっちが上手くいっても恨みっこなしだからね、あ、私トイレ行ってくるね。とトイレ内で『同じ人…好きになっちゃったんだ…』『正々堂々、2人で好きでいよう…』と固く誓うのであった。

 

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この一連のシーンはお分かりのとおり盲目的なものになっている。双葉も悠里も「馬渕洸の視点」が欠如しており、洸が双葉と悠里についてどんな気持ちを抱いているのかは考慮外。

ただただ自分達は洸が好きで、友達と好きな人が被ってしまって、さあ大変どうしようという心的状態でしかなく、そしてお互い好きな人に振り向いてもらえるよう頑張ろうねという水面下で約束を交わし合っている様は、馬渕洸を独占し所有物のごとく取り扱っているようでさえある。

正直、このシーンは(彼女たちの視点以外で捉えると)とても歪んでいる。

 

村尾「そもそも選ぶのは馬渕なんだからさ、確かに二人がいがみ合っても意味ないもんね」

村尾「結果、どっちも振られるかもしれないし」

双葉・悠里「「…ごもっとも」」

 

――『アオハライド』(アニメ)8話

 

ここで村尾さんがこう言ってくれるから、このシーンの歪んだ印象は抑えられてくる。それは双葉と悠里が馬渕視点を取得して、「…ごもっとも」と自分達の行いを振り返える構図になっているからかもしれない。

そんなふうに、吉岡双葉たちの『視点取得限界』はその場面によって移行している様は見て取れるだろう。

 

またアニメ『Re:ゼロから始める異世界生活』では、いくら他者の視点を獲得しようとも、その精度が低すぎて相手の気持ちを全く汲み取れないケースはあるのだと理解できるだろう。

それは間違いなく13話における菜月昴が「エミリアの為に」と言いながら、エミリアが望んでいない数々の間違いを犯してしまう所に表れている。

 

……いつだって昴が見ているのは「昴の中にいるエミリア」であって、「目の前にいるエミリア」ではない。自己内で描く理想の女の子。彼女が何を思い、何を願い、何を求めているのかを決めるのは「昴の中にいるエミリア」であって、「目の前にいるエミリア」ではない。

だからこそ、エミリアの気持ちに気付けず、自分が思い描く「願い」と彼女の「願い」を勘違いしてしまう。区別できないのである。傍から見れば昴はエミリアの願いを無視しているのだが、昴にとっては自分の中にいるエミリアこそが本物なので、そのズレに気付けない構図がここにある。

 

幼年期のコミュニケーションとペルソナスバル/Reゼロ13.14話感想

 

 

別段『Reゼロ』に限らなくても、1998年に発売された元祖ヤンデレゲー『好き好き大好き!』の主人公にも同様の傾向は見て取れる。

本作はヒロインを地下室に拉致監禁するところから始まり、主人公はヒロインに好きになってほしくてあれこれ世話をするのだが、もちろんヒロインは心を開くはずもない。しかし主人公・長瀬渡はそのことが理解できないのである。

 

蒲乃菜がなんど「家に帰りたい」「ここから出たい」と叫び、泣いて鬱屈した姿を見せても、"でもね、ボクと君は一つにならなくっちゃいけないんだ。もう、それは決められている事なんだ……。" という渡。

あまつさえ「なぜ彼女はボクの気持ちを分かってくれないんだろう」と繰り返すのは、裏っ返せば「彼女は自分を受け入れてくれる」という前提を持った発言でもある。

蒲乃菜を外界から救い出し(隔絶し)、愛情をささげ優しくすること(結果的に蒲乃菜の自由を剥奪すること)は渡にとって正当性のある行為なんだろう。

だから正しいことをしているのにその正しさを受け入れてくれないから「なぜ?」という疑問が湧くのだ。

 

それがボクの、望みなんだ。

蒲乃菜をさらい、閉じ込めた。彼女の自由を奪ったボクだから、ボクは蒲乃菜を大切にしてあげる。

だけどそんなボクの気持ちを、蒲乃菜はいったいいつになったら理解してくれるのだろう……。


――長瀬渡/『好き好き大好き!』(13cm)

 

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これは厳密にいえば昴も渡も「他者の視点を取得」できてはいない。けれど、彼ら自身は「エミリア/蒲乃菜の気持ちを汲めている」と思っているところに苦々しさを感じる。

ここから考えられることは『視点取得限界』は主観的に判断しようとも、恣意的になりがちということである。どうしてもそこには「自分」という枠組み抜け出せないし、行動による結果、文章での明確な記述という結果からしかその人が他者の視点を取得できているかは判断しようがない。

いわば視点取得とは「解釈」であり、その解釈に真偽はないが、優劣はあるということになる。

つまり『Reゼロ』ならば、エミリアの気持ちを知っているのはエミリアだけであるものの、彼女の一挙手一投足から昴はエミリアの思考様式を捉え「こう思っているのではないか?」と判断していくことになる。しかしその解釈が妥当でなく、劣っているからこそ、エミリアの心情と食い違い13話のような悲劇的な結末を迎えてしまったのである。

もちろんそれは読者にも言える。実際のキャラクターが「どう思っているか」は誰にも分からない。しかしそのキャラクターが考えるだろうと思える「妥当な解釈」というのは存在する。それが文章記述などの結果(=感想記事など)によって第三者から見て納得できる場合、その読者は当該キャラクターの視点取得がなされていると判断されるのである。

逆にいくら読者が「このキャラクターの気持ちがわかる」と言おうとも、第三者からみてそう判断出来ない場合、ナツキスバルと同様の運命を辿ることになるだろう。

――繰り返すが解釈に真偽はない。あるのは優劣だけである。

このように(我々読者に限らず)劇中内のキャラクターにも『視点取得限界』が存在することが分かってくれたと思う。

そして多視点がもたらすものは、(私が思いつくのは)だいたいこんな感じだろうか。

 

 

 

 

 感情類推能力×解釈×姿勢

 

自己から離れて他者の視点を汲もうとする行為――視点取得――に必要になってくるのはこの3つかもしれない。まずそうしようと思う「意志」、次に自己感情を元に他者の気持ちを「類推」する力、劇中の事実を組み合わせて他者を「解釈」する力である。

 

・意志

・類推力

・解釈力

 

 一つ目の意志はそもそもそういうことを「しよう」と思わなければ、自分の理解を超えた存在を理解できるようにはならない。分からない存在はいつまで経っても分からないままだし、本来分かることも分かろうとこちらから働きかけなければ同じ距離のままだろう。故にまず大事なのは「視点取得をしよう」と思うことが必要なのだと考える。

二つ目の類推力は、これは「感情の実感を得るための能力」という意味で使っている。つまり理屈や論理で他者の気持ちを理解するというよりは、その他者が抱えている気持ちを実際に自分事のように感じ取る力である。自分が今まで体験してきた感情を拡大・縮小、変質・抽出して、推し量る(類推)ことで相手を理解しようとする試みになる。原作版『Air』(key)において晴子さん

三つ目の解釈力は、今度は逆に理屈や論理で理解するための能力である。それは劇中内で積み上げられたファクトを元にしてある答えを導き出すということであり、例えそこに「感情」で他者の気持ちを分からなくても、「理屈」でなら分かるようになる手段である。

 

・意志―解釈/類推→ 視点取得

 

まず意志が起点となり、そこから類推力と解釈力がその時々で比率を変化しながら対象者の視点を得ようとする……のではないだろうか。少なくとも今の私はそう考えている。

 

 

 

 

ノベルゲームは媒体性質上「2視点」に留まりやすい?

 

コメント欄でも言及したが、ノベルゲームは媒体性質上「2視点」に留まりやすく、多視点を取得する上で弊害になるんじゃないかと思われる。

というのも、ノベルゲームにおいて「画面」とは「主人公の主観的視界」という体裁が整っているからだ。主人公の眼球にヒロインが映れば画面上にヒロインが現れるし、視界から消え失せれば画面上からも居なくなる。

あるいは視界上に複数の登場人物がいたとしても、主人公が"意識的"に視線を向けたかどうかで「画面」に映る登場人物が浮沈していくのである。

 

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(数瞬後)↓

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――『はつゆきさくら』/SAGA PLANETS

 

そういった「主観的視界」から離れて「客観的視界」を見せる上でCGが挿入されることもある。

要するに普段なら主人公の視界で物語世界を捉えていたものを、CGという別アングルによって主人公もろとも切り取ったり、主人公の視点では捉えられないものを描ていく。

『はつゆきさくら』では主人公・河野初雪は立ち絵が存在せず、表情などは通常シーンでは普段見ることが出来ない作品だ。しかしCGにおいては顔の造形から出で立ちまで捉えることが可能になっている。

 

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――『はつゆきさくら』/SAGA PLANETS

 

とはいえ、こういった客観的視界が添えられていてもごく少数の出来事であり、全体からすれば「主人公の主観的視界」の割合のほうが多い。

もちろんそういう体裁が整っているというだけであって、全部が全部「主人公の主観的視界」で進行するわけでもないし、シーンにおいては主人公が介在せず第三者視点で物語が描かれることもある。

例えば『はつゆきさくら』では冒頭クラスメイトがゴーストの噂をしている時、『グリザイアの果実』では榊由美子達の入浴シーンなど分かりやすいと思う。そこには主人公の視点は存在しない。

また『大図書館の羊飼い』のように普段は主人公の視点で進んでいるものの、時折、ぱっと、"Another View"という形で別人物の視点に(明確)に切り替わり、ちょっとしたらまた主人公に視点が戻される作品もある。

あるいは『BALDR SKY』や『うみねこのなく頃に』では主人公の立ち絵が存在し、かつ頻繁に画面に現れるので「主人公の主観的視界」という体裁は崩れ「劇」の形を取っていたり

『ランス03』では画面を切り取る視点者が影絵として左側に立ち、右側に登場人物が表示する形を取っている。これはノベルゲームの主流であるところの「視点者(主人公)→視界」という構図が――一歩引いて――「読者→視点者(主人公)→視界」となっているのである。

本作では常に読者は読者自身の視線を意識するこの画面作りの在り方はとっても面白い。

 

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――『ランス03 リーザス陥落』/ALICESOFT

 

 

なので一概に「ノベルゲームは2視点(自分+主人公)に留まりやすい」とは言い難いかもしれない。が、他の媒体(例えばアニメ等)と比べるとこの「主人公の主観的視界」の縛りの強さは一目瞭然だとも思っている。

アニメであればあらゆるカットはあらゆる登場人物の視点によって切り取られるし、あるいは誰の視点でもないアングルによって画面が作られていく。ここまではノベルゲームと大差はない。しかしアニメでは一秒毎に絶え間なく、視点が交差することも珍しくないし、背景などの画面を瞬間的にばんばん出すことも多いため、客観的視界の傾向が強いと言える。

逆にノベルゲームは客観的視界の傾向が低く、例えそういう構造を選んでも「立ち絵+テキストウインドウ」の画面形式を選択し続ける限り、主観的視界の傾向が強い媒体になってしまいがちだ。

だからといって私はそれが「悪い」と言いたいわけじゃない。ノベルゲームにおける強い没入感の一端はここにあるだろうし、私自身この作品外形が好きだったりする。

ただし、多視点を獲得するといった目的の場合、これほどその目的を阻害する媒体もないだろう。映像媒体は見続けていると自然に多視点が育まれそうな気がするものの、ノベルゲームにおいてこれだけやってても多視点は育まれず、逆に悪化(=2視点に縛られ)てしまうのではないだろうか。そんな危惧がある。

(余談だが、多視点を持っているものがノベルゲームをプレイする場合、それはある種の訓練になるのではないだろうか。客観的視界を見せにくい媒体制限が、その見えない部分を考えることで読者が育っていくのではないかと)

 

 

 

 

 

多視点の焦点序列とでも呼ぶべきもの

 

小説『ハーモニー』では「意志というのはひとつのまとまった状態ではなく、さまざまな欲求が喚き合っている状態」と解釈される。脳内にてさまざまな欲求が主張し、「会議」のような状態が行われ、そこで競り勝ったものが選択される。これを人は「意志」と呼ぶのだと。

これは多視点における「だれに焦点を合わせるかの順番」にも適用できる考え方だと思う。

例えば「幼なじみヒロイン」と「ツンデレヒロイン」それぞれ読者は同精度の視点を取得できるとしよう。けれど二人「同時」には視点を取得できないので、必ずそこにはまずどちらかを選ばなければいけない。どちらを先に焦点を合わせらるか?の判断は読者の「意志」に関わってくるわけだ。

 

同程度の視点を得られるとしても、読者によっては「やって楽しいほう」「やりやすいほう」が選ばれるかもしれない。逆に「場面的に幼なじみヒロインが喋っているから彼女に視点を合わせる」とか「幼なじみヒロインが喋っているからツンデレヒロインに焦点を合わせよう」といった判断が下されるかもしれない。

そんなふうに「多視点の焦点序列」とでも呼ぶべきものは存在するのではないだろうか?

 これは複数の視点が完全に、重なり合うように、同時に見ることは出来ないからこそ伴うものだろう。もしも複数の人間に「同時に」視点を合わせることができるならば全ての視点は並列になり、序列とでも呼ぶべきものは消えてなくなるからだ。

 

 

 

 

視点の切り替わる感覚

 

視点の切り替わる感覚について他所で問われたので、ここにも書き残しておく。

そこではカメラのシャッター音のように「カシャカシャ」切り替わると表現していたけれど、「いやなんか違うな?」と思い直し「すっ」という表現のほうが妥当だなと気付いた。

カットによって、キャラの発話によって、シーンによって登場人物から物語に視点を合わせていく。すっ――すっ――すっ――と。そう表現すればわりかし実情に適しているかもしれない。ただこれはオノマトペを使うならば(つまりわかりやすく言うならば)というだけのお話でもある。

なぜなら正直なところ、切り替わる「瞬間」の特別な感覚なんて私にはない。無段階式のようにシームレスに登場人物/物語の視点に焦点を合わせるだけなので、正確を期すならばこのように言ったほうがよりいいだろう。

(どうも少ない文字数で主張を伝達しようとするとコンパクトに言おうとして、大事な部分を切り落としてまで分かりやすくしてしまいがちなのは私の悪い癖かもしれない)

とかく、この切り替わる感覚というのは人によっては異なるはずなので――とはいえ何かしらの切り替わり感なんてものは多くの人もまた無いと私は思うが――管理人はこんな感じと受け取ってもらえればいい。

 

 

 

 

視点の創造

 

また毎回やるわけではないが、時折、そのキャラクターから「見える主観的な画」を脳内で構築したり、あるいは画面上では「見えていない画」を独りでに脳内で創作し視点を変更することもある。

私が「視点を合わせる」ないし「視点を取得する」と言った場合、キャラクターの心情・物事の捉え方に関わらずこのような実際の「視界」も含まれる。

以前、話したアニメ視聴論と通じる部分はあるというか同様のケース。

 

例えば、画面上では【少女少年が立っており互いに見つめ合っている】映像があるとしよう。視聴者から見れば←に少女、→に少年が配置されている構図だ。そこに少女漫画ちっくな【トーン】をきらきらさせたり、あるいはカメラの位置をずらして【アオリ】で二人の様子を映してみたり、まだ画面上では少年の表情が見えてないけど【少女の視点から見える少年の表情】を見てみたりする――そんなまだ映像化されていない映像を自分で作り上げ画面上に投影する

――【アニメ視聴論②】アニメを見れば見るほどイメージ化が容易くなっていく

 

例えば漫画『GANTZ』のおこりんぼう星人編で、加藤勝が千手観音と戦うシーンがある。これ最初は客観的にカットが施されたバトルなのだけど、後にオニ星人編で加藤がこの戦闘を振り返るとき「加藤勝の視界」で捉えた主観的な千手観音とのバトルが描かれるのを思い出して欲しい。

ああいう「主観的な視界」を、別作品でも脳内で構築するということである。

先の乙坂有宇に七野が怒鳴るシーンでいえば、「乙坂有宇の視界から見える七野が怒っている姿」や、「七野の視界から見えるきょとんとしている有宇の姿」を創造するということでもあるし、また両者の視界外であるフルショットやロングショットも視点創造に含まれる。

 

 

 

これはアニメだと時間の進行が作品側に委ねられているので難度はあがり、読者に時間の進行が委ねられている小説やノベルゲームはやりやすい。

 『Hyper→Highspeed→Genius』の記事でも言ったが、このことは私は日常シーンよりも戦闘シーンの方がより顕著になりずーっと考えてても飽きないくらいに殴ったり殴られたり切られたり切ったりするのが楽しい。

 

 ▼関連

もしも凛堂禊(ギャングスタ・リパブリカ)が『Hyper→Highspeed→Genius』の世界で『守護者』になったら、みたいな妄想楽しすぎ

 

 

 

 

自己同一化が進むとキャラに萌えは感じなくなってくる

 

キャラクターに完全になりきるような――そのキャラクターを演じるような――視点の合わせ方をすると、そのキャラに「萌え」は感じなくなってくる。

(別の言い方ならば視点取得の精度が高く、かつその視点に長い間焦点を合わせている時と言っていいかも)

というのもそのキャラに「萌え」を感じるのは誰かと言われれば読者自身に他ならない。しかし読者の視点が読者から離れ、キャラクターにぴたりと合わさっている時、理屈上、読者自身から由来する情念は沸くことはないはずである。

また性欲も同様で、自分の秘部を見ても "何ら感じないように" 、そのキャラクターに絶えず視点を合わせていれば、そのキャラクターに性的興奮を催す図像を見ても "何ら感じない" ということでもある。

それはひとえに「自己同一化」という状態であり、キャラクター=自己という関係図になっている。正直、これはあまり行き過ぎてもいろいろ問題はあるとは思うものの、こういう経験をしたことがある人は結構いそうな気はする。

自己同一化が進むと、萌えは感じなくなってくる状態。

 

 

 

 

『型』を持ち込まない物語鑑賞方法

 

人は絶えず自らが経験してきたこと、蓄積してきた知識でもって、目の前の物語を鑑賞しはじめる。それは"物語観"と呼ばれるものであったり、もしくは期待という形、あるいは予測という手段でもって当該物語をいかなるものか位置づけていくだろう。

しかしこのことに無自覚である者ほど、その物語に適さない視線でもってその物語を判断してしまう。

例えば『Charlotte』は能力バトルを描くのを本意にした作品でないにも関わらず最終回のアクションシーンでもって「あの異能力の旅を1クールかけて行うべきだった」と主張し始める者もいるし、例えば『CHAOS;HEAD』は妄想科学ADVという作風にも関わらず序盤のサスペンスのまま終盤を迎えるべきだとして低評価をつける者もいるし(過去の私である)、『白夜行』は主人公の内面をかき消したノワール小説だというのにその内面が描かれていない事を理由に小説として不出来だと凱歌を上げる作家もいる。

しかして、それは結局のところ当人の長年積層してきた "物語観" からそぐわなかったり、序盤に期待した展開が起きなかった不満、予測していた物語の姿が違うものだった困惑に過ぎない。

 

 

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そんな読者自身が持ち寄った『型』から外れたからといって、その作品がいかなるものかと位置づけるのは早計ではないだろうか。

そしてそれは果たして目の前の物語を読む上で、適切な姿勢かと問われれば、私はそうではないと思う。

「物語が描きたいもの」を無視して読者の価値観で切り捨てるよりも、「物語が描きたいもの」を了承してそれを踏まえて上で切り捨てるほうがより適切な姿勢だと考えるからだ。

つまり読者自身が持ち寄るあらゆる『型』を外した上で、物語を鑑賞することが重要になってくるわけだ。そこがスタートラインであると私は思う。

ではそれをどう実現すればいいか?

先に私は視点を合わせるのは「人」だけではなく「物語」もまた含まれると語った。つまりその物語を捉える上での視点が必ずあり(もちろんそれは複数ある)読み進めていくうちに「この物語はこういう物語かもしれない」と適宜修正・変更を加えていくのである。

例えば『Charlotte』であれば、1-5話までを「異能青春物語」と位置づけていたものも多くいたと思う。しかし6話から「そういう物語ではない」と強く突きつけられたのは誰でも理解できただろう、だからこの時に「ではどういう物語なのか?」と問いかけ、7話…8話…と視聴を続けていく中で自分なりのCharlotte観を育んでいくのである。

そして最終回まで視聴した時に、育んできたCharlotte観が1-8話まででもなく、3-10話まででもなく、1-13話までを貫けるのならば「Charlotteはこういう物語である」と自信をもって宣言できるようになるはずだ。このとき「物語が描きたいこと」を了解出来るようになるし、その上でダメな所があれば否定していくことも可能になると思われる。

これならば読者自身が持ち寄った『型』を前提とした作品鑑賞から逃れられることができるだろう。

 

 

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とはいえ私もあらゆる作品に今語ったことを行使できるわけでもないし、言うよりはやはり難しい行為だとも思う。でもやる価値はあるんじゃないだろうか。

少なくとも "こういう" 作品の接し方、視点移行、鑑賞方法があることを提示しておきたい。

 

 

 

 

おわり

 

ということで『視点取得限界』について無節操に書きたいことを書きたいように書いてしまった。まるでまとまりがないけれど、それはいつものことかもしれない。

それでは、またね。

 

 

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*1:『去人たち』考察―精神病者は踊り狂い、傍観者は去っていく―

*2:1視点"だから"悪い。1視点"だから"辛い。と言ってもいいかもしれないが、もしかしたら1視点である「表現の仕方」が稚拙だから悪いという場合のほうが多いのかもしれない。