アーティスト本人に会いたいくもならないし、会えたとしてもお断りだ

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*Charlotte8話にすこし触れているので気にする人は回れ右。

 

 

アーティスト(作者)に会っても仕方ない

 

自分の好きな歌のバンド、好きなボーカル、好きな物語があったとして、そのアーティストに会いたいかと聞かれれば、いや私は会いたくないと答えるだろう。

会って何を話したらいいか思いつかないし、さりとてその生み出した作品について語ろうとも、彼らは特権的な存在でもなければその作品について何かしら絶対的な「答え」を持つ神でもない。

「語る」という行為に置いて、彼らは私たちと同じくその作品を視聴するリスナーと変わらない存在であり、立場であり、それ以上のことは何も言うことはできない。

例えアーティスト本人が「あれはこういう意味があったんです」と自信満々に作品の諸要素に答えたとしても、「いやいやあれは☓☓という意味でしょう?」と読者が反論し納得のいく理由を提示すれば、"作った人間" の意図など吹き飛び、同じ軸上に両者の解は並び立つようになってしまう。

作者の意見はひとつの解釈に過ぎないということでもある。

 


・参照

 

 

さらに言えば、私が尊敬しているのはその「」や「音楽」や「物語」であって、絶対に「アーティスト本人」ではないのだ。

私が信じているのはその生み出された作品が投射する「現象」であり、人間なんかでは決してない。絶対に。

Mr.Children桜井和寿はなぜ政治的発言をしないのか?という記事がすこしまえに話題になっていたが、その記事で語られる彼の主張は、私たちが好きになり敬意を払うのはその「現象そのもの」だということをよく理解しているように思う。

 

 

 桜井さんは「自分にとって宗教みたいなもの」と語るほど音楽に対して誠実です。そのため、あくまでも音楽によって表現したいと考えているのです。
2007年の『ROCKIN'ON JAPAN』でのインタビューでは

「ミュージシャンがライブ会場などでメッセージを発信することもあるが、彼らが信頼されてるのは音楽があってこそ。なのに自分自身が信頼されていると勘違いし、言葉を発信するのは謙虚ではない」

という趣旨の発言をしています。
ようするに、信頼されているのは音楽であってそれを歌う歌手ではない。だから歌手自身がMCなどで自分の主張をするのは、音楽に対して非誠実だというのです。
その上で桜井さんは「自分は音楽に対して向き合い、誠実でいたい」と語っています。

 

――Mr.Childrenの桜井和寿が政治的発言をしない理由 - Excite Bit コネタ(2/3)

 

同意するかどうであれ、このように、「アーティストに会っても仕方ない」と私が抱く気持ちを多少なりとも理解して頂けるのではないかと思う。

 

アーティスト本人に会いたがる人の気持ちは、作品に対する「絶対的な答え」が欲しいのではないかと思う。

しかし先にも言ったが「作品に対して作者は絶対的な答えを持っていない」、例えアーティストと話をしても、それは第三者の読者と読者が会って対談するようなものになってしまう。見ず知らずの赤の他人と話す理由なんて別にないし、気の合う友人と作品談話しているほうがよほど楽しそうである。

先の桜井氏の話のように、例え彼が音楽に何らかのメッセージを込めたとしても別段それは"アーティストが込めるものだけ"にその音楽が回収されるわけでもないということを繰り返し強く言っておこう。作品というのは、受け取った側が千変万化な解を有しているものだと。そんなふうに私はミスチルは好きだけどやはり桜井和寿に会いたくはならないのだと。それよりももっともっと素敵な音楽を作っていってほしい。

(あるいは「尊敬している人」と接触したい、といった気持ちがあってアーティストに会いたいと思うのかもしれないがここでは割愛する)

 

アニメ『Charlotte』8話。好きなバンドのアーティストに会える機会があった友利奈緒だったが、しかし彼女は「会う理由もない」とそっけなく言いZHIENDのボーカル・サラとの出会いをあっさり断った。

私はこのとき、友利奈緒のそういった「音楽そのもの」への姿勢に好感を覚えたのである。アーティストなんかどうでもいいんですよと、そのからりとした態度は気持ちがよい。

 

乙坂「いいか、驚かないで欲しいんだけど、今僕はZHIENDのボーカリストと一緒にいるっ!」

友利「はぁ

乙坂「え!驚かない?!信じてないのか?!」

友利「いや信じてますよ、そんな嘘つかれても何の得もない」

友利「で、何の用っすか?

乙坂「会えるんだぞ?」

友利「は? 会ってどうするんですか

乙坂「そんな!話もできるし実際僕も――」

友利「会えるとしてもわざわざ会わないっすよ

友利「あたしはZHIENDの歌や演奏が好きで、CDを聴いたりライブを見たい。それだけだからです

乙坂「えええ」

 

 

――Charlotte8話

 

 

友利の「(アーティストに)会えるとしてもわざわざ会わないっすよ」という言葉は、「作品そのもの」と「作った者」を明確に分けている人の発言だなと思う。

この2つは区切られたもので、同じものではないし、繋がりがあるかも怪しい別々のものだ。

しかし、多くの人は乙坂のようにこの2つを繋がり合わせて「同一のもの」だと見ているのだろう。だから友利とサラを引き合わすことを喜んで貰えると思っていた。

無根拠に。

無自覚に。

無理解に。

 

例え「アーティスト―作品」を繋げて見るにしても、なぜその視点を「選んだ」のだ? みんながやっているから? 世間的にそれが正しいとされているから? 多数派の思考であるから? どうなの?

その視点に様々な問題を抱えていていることを理解し、それを了承して自分自身が「選んだ」過程がないのであればそれにどれほどの価値があるのだろう。

何かを信じて選ぶことは間違いじゃないが、けれどそれを疑い、疑ったあとで選び取った過程がないのであればそれは信じたことにも選択したことにもならない。ただの妄信的な行為に過ぎないのではないだろうか。

 

大事なのは、自分が採用している視点を批判し、選んだ過程があるかどうか。

これがあるならばその視点にどれほどの問題があるかも知ることになるだろうし、↓のような「弊害」も起こすことを抑えられるだろう。

逆にいえば「作者=作品」の見方の一部の悪質な障害が見受けられるのは、そういった選んだ過程がない者がこの視点を使っているからだと思う。

 

 

・参照

  (ここでは前半部分を指している)

 

 

 

 と、Charlotte8話に触発され本記事を書いてみた。

もしかしたら今回の友利の行動に「えええ?!」と思った人がいたかもしれないが、むしろそうであるならばそれは無根拠な「アーティスト―作品」視点を採用し続けていた証だ。

この視点は無邪気に使っていくといろいろな問題を引き起こすことが十分解っているので(上記リンクをご覧あれ)、せめて自分が使用している視点はどんなものかを知っておいて損はないんじゃないかな。

 

 

 「鑑賞者が触れるのは作品までに留めておきなよ。表現者の素性にまで迫ったって得るものはないよ」


―――俺たちに翼はないR・ハリュー

 


『俺翼』のハリューの言葉は時折思い返すくらいに好きだ。

 

 

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ちなみにCharlotteの考察記事はこちらから