作品を考察することは「☓☓のオマージュだ!」と言うことではないというお話。(1570文字)
以前に*1『キラ☆キラ』という作品をTwitterで語っていました。
鹿之助という主人公の在り方、心に抱えていた問題、薄くも鈍い現実感。きらりという女の子の家庭。不和と懊悩。生きるって?
そんな私の呟きにid:DG-Lawさんが返信をします。
どこをどうつっこもうか躊躇していたけれど,『キラ☆キラ』を本気出して考察するなら,どうしてもドストエフスキーは避けて通れないんじゃないかなぁ,とは。
— DG-Law (@nix_in_desertis) 2013, 4月 18
@rikabern0519 @fee1109 エアーリプライで書いてますけども,『キラ☆キラ』のきらりルート2は完全に『罪と罰』オマージュなので。鹿君のキャラも『カラマーゾフ』の主人公(三男)が近いですしね。小ネタでもやたらとロシア文学ネタが多いです。
— DG-Law (@nix_in_desertis) 2013, 4月 18
しかし、この返信を見て私は「だから何なのだろう?」としか思えなかったんですよね。『キラ☆キラ』がドストエフスキーのオマージュだからなに? それがどうかしたのか?。
彼が言うには「キラキラを本気で"考察"するにはドストエフスキーは避けて通れない」ようです。私から言わせると、そんな外部のものを持ちだしてきた時点で"考察"とは呼べません。
考察とは、物事を明らかにするために考えること。ならば作品を考察するということは「作品の物事を明らかにするために考える」ことだ言えます。
しかしそれは「☓☓のオマージュだ」と言い、他作品と比較することでは決して無い。『キラ☆キラ』の本質、テーマ、何を訴え何を曝け出していたのかは『キラ☆キラ』という物語の内部で全て提示されていたのですから。あとはそれを考えればいいはずです。
さらにいえば「考える」とは、知り得ない状態から知り得る状態まで持っていこうとする行為であり、外部情報を使って分かる気になるのとは違うわけです。
むしろ他作品を持ち出すのは、私には逃げにしか見えませんし、作品の内部で起きたことをほっぽり出し、自分が"既に知っていた"ことをただなぞろうとしているだけですから。
もし『キラ☆キラ』の物事を明らかにするために、ドストエフスキーの作品を知らなければいけないというのなら、「CARNIVAL」という作品ではもちろん『聖書』や『Monte Cristo』を読破していなければならないでしょう。『強盗、娼婦のヒモになる』では『コノハナサクヤヒメ』の伝承を、
『最果てのイマ』では、ホップズの『Leviathan』やプラトンの『国家』を読まなけれいけませんし、キラ☆キラの劇中内容というのは一切必要なくなります。それはドストエフスキーだけ読んでキラ☆キラを語るようなもので、この不毛さが分からないわけはないですよね?
しかしこれは物語を楽しむ上での1つであり、物語を考察する為に"必要"なことでは決してない。いいですかよく聞いてください。
「何かを知っているから語れる」のと、「分からないからこそ考える」ことは全然違います。
何かを知っていたから、それについてただ語れる。あなたがやっているのは『キラ☆キラ』をプレイする前にドストエフスキーを読んでいただけ、そしてそれをひけらかしたかっただけです。
そうでしょう? もしあなたに「考える」これを理解していれば、スキームを使用するなんてことはしないはずです。さらに【物語を内在的に考察する】という観点があったならば、『キラ☆キラ』を内在的に解き明かしている私に向かって「ドストエフスキー読めよ(ドヤァ)」なんてこと言うわけももちろんないでしょう。
何度も言っていますが、考察『キラ☆キラ』という作品を解き明かすのに必要なものは作品の枠内・内部・内側で提示されたものを、解き明かすことです。
それこそ人間の心情の細部から、一挙手一投足による鹿之助の感情のブレ。なぜ冒頭で彼女と別れた?無関心で無気力なその心象領域はいったいどうなっている?どうして回復することができたのか?バンド、ロック、パンク―――物語で起こる様々な事象・展開・メタファーについて考える。
与えられた情報、提示された要素を持って試行錯誤し考えていく。それが考察するってことです。"知らない" 状態から考えることを "考察" って言うんですよ。
ある作品を「他作品のオマージュだ」というのは、別にいいでしょう。そういうのは話のネタにもなりますし、そういう楽しみ方もあることは分かります。
ただその他作品を "知らなければ" この作品は "考察できない" 、なんてことはありません。
最後に。
もし「本気で考察」するというものがあるならば、それは物語を内在的に考え察したあとに外部文献/情報を持って物語を考えることでしょう。間違っても外在的考察のみを指して「本気で考察するとはドストエフスキーと比較することだ」なんてあまりにも馬鹿げたことを言うのはやめて頂きたい。それにあなたのブログにあるキラ☆キラ考察と題された記事を読んだが……これを何故考察だと息巻いてしまえるのかが分からない。本作品そっちのけで他作品を持ちだして語る様はスノップ特有の態度であり、なおかつ本作品への理解を自ら遠ざけてしまっていることに気づいていないのでしょうね。
内在的に物語を観れない、考えることが外部文脈を持ってくると思っている人に、こんなこと言っても無駄かもしれませんが。
<参考>
*1:9ヶ月前くらいに