「声優」への興味がなくなってしまった。誰々がこのキャラクターの演技をしているとか、その人がどういう私生活を送ってるとか、もう果てしなくどうでもいい。
私は物語をそのまま楽しみたい。
(1)アニメの「舞台裏」を考えること
私はアニメをアニメのまま楽しみたいのだ。
その世界に身をやつしそこに存在する太陽の熱線、そよ風、真っ暗な星空、人々の笑顔だけを感じていたい。そういうのだけを感じて、そういう事だけに思いを馳せていたい。
逆に言えば、その世界の舞台裏である声優の存在など感じたくはないのだ。「声優」という存在を感じ取ってしまうだけで、アニメ世界の強度は低くなってしまう感じさえする。
例えばさ、アニメの第一話でとあるキャラクターが喋ったとするじゃない? 『中二病でも恋がしたい!』だったら、下画像のショートヘアの女の子が登場するのだ。
当然わたしは、その人物を今はじめて知ったわけだから彼女がなにが好きで嫌いなのかを知らない。どういう存在で、どういう性格で、どういう人物なのかを知らない。
そんな時、そのキャラクターが知っている声優さんの声だった場合、そのキャラクターをまず「◯◯さんの声だ」と認識するようになる。立花六花ちゃんだったら内田真礼さんだというふうに。
私たちは「よく分からないもの」に遭遇したとき、分かっているものを貼り付けてしまう。
森林で人が消えれば「神隠し」だと名づけ、なにか恐ろしいことが起きれば「天狗の仕業じゃーっ!」と叫ぶし、知らないキャラクターがいれば「ああ内田真礼さんね」と意味をラベリングする。
私達はよく分からないものを、"よく分からないまま" に放置しておけないのだ。
この行為が嫌いだ。
なぜアニメという物語を見ているのに、物語の裏側をいちいち考えなければいけないのだろう? 舞台裏について思考しなければいけないのだろう?
それはアニメを見ているんじゃなくてアニメを通して「声優」を見ているだけだ。もっと広く言えば「製作者」を見ているだけに過ぎない。私だったら声優だけど他の人だったら監督、脚本、アニメーターということになるのかもしれない。
繰り返し言おう。
なぜアニメという物語を見ているにも関わらず、物語の裏側について思いを馳せなければならないのか。アニメを見る時・語る時・その舞台裏である製作者にいちいち言及するのはまったくもって楽しめないとさえ思う。
そりゃね、会話の中で、話題に出されれば物語と製作者について絡めて話すことだってあるけど、なにそれ楽しいのか? と思ってしまう。 なんで「アニメ」を話しているのに「声優」ひいては「製作者」について話さなければいけなのか全くもって不思議。
こういう思いももしかしたら時間とともに移り変わってしまうのかもしれないが、今はそんなふうに思うのだ。
製作者に言及することは、まったくもって、楽しくともなんともないよね、と。
私の持論だが「製作者」に言及し続ける見方は、そのうちあらゆる作品を楽しめなくなるし、つまらなくなってしまうとさえ考えている。
▼参照
→アニメを楽しめなくなるのは「俯瞰高度」が高すぎるせい。高度一万メートルの世界にお別れしよう
心当たりがある人は一読をすすめる。
(2)アニメと製作者の主従関係
「食玩」っていうお菓子があるじゃない。お菓子におまけなる玩具がついた商品のことで、ウエハースにカードがついていたり、チョコにアクセサリがついてくるあれね。
なにか変だと思わないか?
本来ならチョコのほうが『主』でカードのほうが『従』なのに、カードが欲しい人にとっては『主』になり、チョコが『従』になってしまっている。
主従関係が逆転している。
ある人にとってアニメという物語は「従」で、声優が「主」になっている。アニメを見て楽しんでいたのが、いつの間にか、声優や脚本に言及するようになってしまっている。
それはそれで別にいいんだけどね。人は人それぞれにアニメの楽しみ方があって然るべきだし、それが「声優」について言及したいならすればいい、多様性は尊重されるのだから。
ただ、私にとってはその主従関係が逆転した見方は全くもって面白くないし楽しくないし楽しめないし楽しめなくなくなってしまった。
アニメという「物語」を語るのであれば「物語内」で語れるし、そこに舞台裏の人物なんて必要なんてないのだから。
(3)製作者に言及することの弊害
製作者に言及することの弊害は、彼らは否応もなく人間であると感じてしまうことだろう。
つまり誰ひとりの例外なく汚い部分を持ち合わせているということだ。あなたが好きな声優さんにも裏の面があるし、メディアの前ではキレイな部分を見せていてもその裏では倫理を破ったり汚い言葉を吐いたことだってあるだろうし、彼氏だってもちろんいる。
声優に限らず製作者だって同じで汚い部分は必ずある。汚いだけの人間がいないように、綺麗なだけの人間もいないのだ。
それは自分自身を省みると痛感するんじゃないだろうか。本来ならやってはいけないとされることを知りつつもやってしまったり、人に迷惑をかかることわかりつつやらかしてしまったり、社会的に肯定できない言葉遣いや身振りをしてしまう時だってあるさ。
そして時に、メディアにて製作者たちの醜悪さが露出してしまったとき、果たして、私たちは、彼らを好きでい続けることができるんだろうか。
アニメ「ココロコネクト」が炎上 悪趣味すぎるドッキリ企画に「いじめ・パワハラ」の声 - ねとらぼ
そしてそんな彼彼女が作った物語に触れたとき、作者の性格や顔、が浮かび上がって、見るのを放棄してしまわないだろうか?
ちなみに私の友人でこの状態になった人がいる。ココロコネクト問題を目の当たりにして、聞いて、感じて、『ココロコネクト』というアニメを"切って”しまった。平野綾の問題を見聞きして、今までファンをやっていた友人がすっぱり手を切ってしまった様を見たこともあった。
そういうのを見る度に、私は物語を作っている人に触れると「楽しめなく」なる確率が上がってしまうんだなと思ってしまう。
そして、そんなリスクを冒さずともアニメは楽しめるし、わざわざ嫌な思いはしなくていいのになとさえ考える。
―――舞台裏に言及することのつまらなさ、製作者の汚い部分を見てしまう危険性。この2つによってアニメ声優もといアニメを作っている人たちに興味がなくなってしまった。
彼らは、物語を生み出す装置であってくれればいい。とさえ思う。 私が好きな小説『戯言遣い』にこんな台詞がある。
お前は大嘘つきで、お前は真実以外の全てを語る。
なぜならお前はどう見ても人間が好きだというタイプではない。
人間嫌いなんてもんじゃない。
お前は人間を憎んでいる。
そうでもないさ。好きな人間ならいっぱいいる。
人間が映し上げた映画、人間が作り上げた音楽、人間が描き上げた絵画、人間が極め上げた料理、人間が組み上げた車や飛行機、人間が学び上げた学問、人間が紡ぎ上げた物語、どれをとってもすばらしいものばかりだ。
お前は映画が好きで音楽が好きで絵画が好きで料理が好きで車や飛行機が好きで学問が好きで物語が好きなだけだ。 お前が映画と音楽と絵画と料理と車と飛行機と学問と物語が好きだというのは、逆に人間をなんともみなしていないということだ。
人間を芸術と文化を産み出すだけのセコい装置としかみなしていないということだ。 そんなものの見方は壊れている。
壊れている?
欠陥製品だ。
[零崎人識、いーくん]
流石にいーくんみたく「すべての人間を装置として見ている」というわけじゃないが、少なくとも物語に関わっている人は私はそう見ている。
あとがきや、後日談、制作秘話など私にとってなんの価値もない。
まとめ
- アニメを見るときに「声優」という存在を持ちよりたくない
- 声優(製作者)は本来なら「従」であるはずなのに、何故「主」としてアニメを語らなければいけないのか疑問に感じている
- アニメを語るときに、声優(舞台裏)を用いて言及することが楽しめなくなってしまった
- 製作者に言及することは、彼彼女の「汚さ」に触れる機会も跳ね上がる。必然、アニメそのままを楽しめなくなる可能性が上がる。
というわけで、アニメ声優ないしアニメ製作者に興味を失ってしまったお話だった。
以前は名塚佳織さんや田村ゆかりさんなどに言及していたが、もうしないように思える。いやこれは言い過ぎだろうか。ただそういう傾向が低くなってしまっただけなんだろう。
時間と共にこういう想いさえまた移り変わっていくかもしれないが、今はそんなふうに思うのだ。
最後に問う。
あなたはアニメをどう視ているだろうか?
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