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批判うずまく『明日、ママがいない』を見たらメチャクチャ良い作品だった

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放送中止を訴えかける声が相次ぐ『明日、ママがいない』(ドラマ)ですが、公式にて1話を見れるようなので観てきました。

結果、見たらこれメチャクチャ良い作品じゃない? 赤ちゃんポストの出自である「ポスト」と名付けられた子供と、親が彼氏を鈍器で殴り警察沙汰になったことから「ドンキ」と名付けられた少女の物語っていうだけでも好奇心をぐいぐい引っ張られますし、何よりそういった様々な問題を抱えた子どもたちが里親に気に入られるために必死に芸を覚える姿や、親がいない子はどう生きていけばいいのか? 自身の分を弁えるとはどういうことか? といったことを強く描いている所が良いです。

1話のこの力強さを最後まで描けることが出来たなら、名作間違い無しですし、1話だけでも十分満足に足る作品でしょう。

ちなみに、5年前からテレビドラマを私は見ていないんですが、今のテレビでもこんな良い作品作れたのねーと感心しました。



批判の違和感


日テレのドラマ「明日、ママがいない」批判。児童養護施設の関係者や里親などから寄せられた「声」 第1弾(水島宏明) - 個人 - Yahoo!ニュース

どうも本作に批判的なのは、実際にグループホームを運営している人、施設を体験した人、親がいない子どもたちを擁護する人たちが主のよう。しかしこれはほんと「虚構と現実の区別がついていない<」人たちなのではないかとも思います。特に的はずれだなと思うのが「ドラマ関係者は蜜に取材するべき」という言葉で、なんでかんでも現実に即していないければ満足しないのか?と。

物語とは現実に即すものではないし、どんなものも描いていいはずです。もちろん緻密な現実描写は写実性を与えるのでそこにある種の納得感が生まれるのも事実で、それが物語の質を高めるというのはあるんですけどだからといって「現実に則さないからダメ」という批判が通るわけではない。むしろ「ではなぜ『明日、ママがいない』は現実に則さなければいけないのか?」という問いに答えられなければいけないでしょう。何故本作は現実に即した児童養護施設を描かなければいけないのか? 

さらに言えば、本作が表現した児童養護施設の実態を経験した方もいるということなので、そこらへんも含めて批判してくれないとただの「俺はこれは受け入れられない!気に入らない!」というだけの感情論にしかならないのではないかと思います。
(それを強く喚起させる作品というのは間違いないとは思うけど批判としては「だから?……」という返答にしかなりえない)
結局のところ↑の彼らは人間の「汚さ」「醜さ」に耐えられなかっただけなんじゃないか? 自分が是認する美しさと両極端にあるドラマの要素にアレルギーを起こして騒いでいるようにしか見えないわけです。


嫌いな描写がある、大嫌いな要素がドラマに存在する。それが「嫌いだ!」と叫ぶのは一向に構わない。けれども、自分の声が正しいとし『明日、ママがいない』という作品に「放送中止」または「自粛」を促すことは、「自分の都合のいい表現」しか認められないことの証左なのではないか。私的になんかすごいメチャクチャだなあと思うんですけど、放送時間帯にもいろいろ倫理が掲げられるのは当然なのでこれがゴールデンタイムなら分かるんですけどね。でもこれ10時放送だったはずなんですよ。


春名風花さんの感想は興味深かったので、引用してみます。

https://twitter.com/harukazechan/status/426292518951473152

ぼくは子どもとおとなの真ん中くらいの年齢だけれど、今回の件で、子どもはおとなに本当に信用されてないんだなと思いました。多くの子どもたちが、ドラマでいじめを見たらいじめをしていいんだと思うような、そんなばかな生き物だとおもわれてることがショックです

義憤に駆られて「表現」を潰すことに躍起になるより、ちゃんと目を見開いて『明日ママがいない』を見れば、この作品が描いているのは悪質なものでも悪意の塊でもなく真逆なものだと理解できるのではないか。


以下、散文的な感想ですがよければどうぞ。






グループホームという痛みの場



母親が彼氏を鈍器で殴打。警察沙汰になり、母親の娘であるミキは一時的に「グループホーム」という場所に預けられる。

そこでは様々な問題を抱えている子どもたちが暮らす所となっている。貧乏によって預けられたこども「ボンビ」や「ピア美」、赤ちゃんポストからの出自である「ポスト」。

そういった子どもがひしめきあっている。


私そんな子どもたちの生活空間を見て、「家族計画」という言葉を思い出した。血縁関係ではなく、なにか」を共有したものたちが互いに相手を扶養しながら暮らしていく。そんな計画。

たとえ社会的に「親なし子ども」と嘲笑されようとも、同じ「要素」を共有しているモノたちからすれば、その痛みを和らがせることができる。こういう「場」はとても大切なんだとしみじみ思う。

つまり、同種の痛みを持った人間が寄り集まることが重要だと。それは血で繋がる家族ではなく、「自身の要素」で繋がる家族という概念。共同体。







人間の尊厳を捨てろ



グループホーム」にはもいろいろな人間が暮らしている。けれど、「大人」と呼べる人間が1人しかいない。グループホームの主、通称・魔王だ。

彼は足が悪くつねに杖をついている。足を引きずりながら、杖をドンドンドン!と鳴り響かせ同居者をわざと怖がらせているようだった。

魔王は言う。

「飯を食いたかったら泣け」と。
「お前らは愛想がないと誰も引き取らないだろう」と。
「犬のように芸を覚えろ」と。


彼はとても露悪的である。露骨に悪を曝け出し続ける。魔王は言いたいんだろう。

「人間の尊厳を捨てろ。お前はら【親がいない】という領分を弁えろ」と。


親がいない、親が人殺し……そういった様々な問題を抱えた子どもたち。そんな子どもたちは社会では常に「色眼鏡」で観られる。「所詮施設ぐらしだから……」「母親がいない環境で育ったから……」だからこういう奴なんだろうとレッテルを貼られる。商品の値札を貼るように。

ゆえに自身の分を弁えないと、現実で人生が詰んでしまう。

魔王がしていることは、その為の「教育」といってもいい。「先に手を出すな!」「愛想を覚えろ!」「芸を覚えろ!」そういった言葉は「生きる為」という一点に集約される。


彼の教育方法は、露骨に露悪的だけどね。







「ポスト」という女の子の魅力


私は「ポスト」という子が好きである。彼女の一挙手一投足がシビレルネー。

「ポスト」は、自身の領分を常に弁えている。自分が赤ちゃんポストの出自であること。母親がいないこと。社会的にどう観られているか、自分の立場をよく理解している。


例えば、彼女の弟分であるパチが問題を起こしたとされる場面。過保護な母親が「この子は暴力的だ!」「よくも私の子を!」と保育士に怒鳴っているところに、ポストは駆けつける。

そこで彼女は、(どんな状況かもパチが悪いのか正しいのかも分からない状態で)「ご迷惑をおかけしてすみません」と頭を下げる。


ここに私は痺れた。彼女は一見短期っぽいけれど、でも「なにかのため」に平気で頭を下げられる人間なんだと!

おそらくここで子どもであるポストが、大人である母親たちに「それは違うんじゃないですか?」と問題提起をしてもダメだろう。母親たちは「これだから施設の子は……」と色眼鏡で観ていることは既にわかっているからだ。

話しをしても無駄。よけいこちらの分が悪くなるだけ。ならばスッキリばっさりと問題を終わらせてしまうのほうがいい。その為なら下げる必要のない頭も下げられる―――そんな感じにポストは考えているじゃないだろうか?

パチの件にたいし謝罪をしたポスト。友だちであるピア美はこういう「ねえこんなので本当に良かったの?」「ポストはむかつかないの?」と。

ポストはピア美と目線を交わす。そして、横一列に並んでいた「母親集団」の自転車を蹴り倒す。がらがらとドミノ倒しになっていく自転車。ニっとした顔で「これでどう?」とポストは告げる。


―――この時のきらきらした顔が忘れられない。


私にはポストが自転車を蹴り倒したのは、なにもポストがむしゃくしゃしていたからではないと考えている。これは「ピア美のむしゃくした気持ちをスッキリさせよう」として取った行動に見えるのだ。


つまり、ポストという子は「友だち」を大切にしているヤツなんだとそう思った。
自分よりも他者の為に動くような、そんな人間なんだろうと。
他者の痛みに敏感な人間なんだろうとも。





弟分の教育


「ポスト」は弟分であるパチに教育を施している。

ケーキを食べさせてあげるかわりに「芸」をしろとか、落ちた食べ物は拾わない、食べないと厳命する。

ポスト的にいえばこれは「生き残る」為の方法なんだろう。愛想よく笑い、芸をし、不愉快な言動をとらないように、愛玩動物のように気に入られて気に入られる為の生存戦略


やっぱり自分がどんな立場かをよくよく分かっていないと出来ないと思う。

ポスト匂いをかぐ

ポストはときおり「スンっ」と鼻を鳴らす。おそらく正確な匂いを嗅ぎとることに長けた人物なんだろう。

グループホームにやって来たミキの首元の匂いを嗅いだのも、「この匂いはこいつ」と認識するために常に行なっている方法だと思われる。

彼女の匂い識別能力は、他者からすれば群を抜いている。50メートル先のドア越しの人物を識別し、グループホームから外にいる少年の匂いまでもを識別する。


彼女の「嗅覚」はなにやらすごい。






「ポスト」の聖域・母親がいないということ


ポストはとにかく「母親」に関する話題につっかってくる。ミキが「ママに会いたいなあ」とかいえば鼻で笑う。なにかにつけてミキの母親にたいして皮肉を言ってくる。

それに怒ったミキは、こう言うのだった。

「ポストは赤ちゃんポストの子だもんね。ママがいないんだもんね。だから嫌味ばかり言ってくるんだ。本当は羨ましいんでしょ」

と。

ポストは手にしていたグラスを床に叩きつける。ガシャンとグラスは割れる。怒声をあげながらミキに突進していく。

―――いつもニヒルに笑っているポストにも、触れられたくない部分がある。<聖域>と呼ばれる他者が土足で侵してはいけない領域がある。


ただ、このケンカはどこまでいってもポストが悪い。先にケンカを売り、先に手を出した。弁解の余地はない。。子どものルールだがとてもシンプルだ。





勝ち組・負け組という概念の生成

グループホームで暮らしている女の子たちは口にする。

「勝ち組になりたい! 幸せになりたい!」と。


今現在の日本の(わりと)恵まれている環境では、「勝ち組」といった倫理観を持ち合わせ居ない人が多いように私は感じる。それはそういう時代だからだ。物資に恵まれ、食事や家、衣服に不自由がない、娯楽にも不自由がなく育ってきた人はここまで強い動機を持った「幸せになりたい!勝ち組になって幸せに!」という心境を持ちにくい。

ただ少し過去を遡れば(10~20年ほど?)、物資が少なく不衛生な生活環境を強いられていた時代もある。自由がなく不自由だらけの生き方に対しもっといい暮らしをしたい! もっともっと幸せな生き方をしたい! といった「勝ち組思想」がだったように私は感じる。あくまで印象論だが間違っているかもしれないが。


つまり、「不足している状態」だと生きるための強い動機が生まれやすいということを言いたい。


グループホームに暮らす子どもたちは、親がいない。そして食べることにも一苦労。学校でもいろいろへんな扱いを受けているのかもしれない。そういった不自由さによる、生き難さを常に感じているんじゃないだろうか?

だからこそ、その状況から抜け出したいと願うこと「勝ち組になって(社会的成功をおさめて」幸せになりたい!」と望むんだろう。



生まれたときに母親がいない


ポストという女の子には、生まれた時に母親がいなかった。それは母親が存在しない人生を歩んでいることになる。

私は想像するしかないが、元から無かったのだから強く意識することはないんじゃないか?と思う。もし生まれたときに、足のゆびが6本だとしても5本の状態を想像しないように。


でもやっぱそうはならない。


なぜなら人は常に「比較」をして生きているからだ。周りと社会と集団と「自分を比較し続けていく」。倫理観を形成し、自我を形成し、アイデンティティを確立するために、社会に属し生きるための方法が、自分のコンプレックスを生む。


「あいつらは親がいる。でも私はいない」


人と"違って"いることは、それだけで辛い。大勢の人間は持っていて自分が持っていないものがあれば、心が傷んでいく。自分の尊厳が水飴のようにとろけていく。

だからポストは「母親がいないこと」にとても執着している。
母親がいるヤツにニヒルに笑ってみせる。


「私はママがいなくたって平気なんだよ」


そう自分自身に言い聞かせるために。けれども追い求めずに入られない。母親という曖昧でよく分からない存在に、自分の「幸せ」が全て詰まっているように見えて仕方ないのだろう。

「本当のママが自分を愛してくれる」

「それいじょうの幸せってなんなんだよっ!!!」

―――ポスト


そんなポストの叫びを聞いていると、こう思えてくる。


生まれたときから母親がいない―――それは記憶喪失に近い状態なんじゃないか?



母親非存在と記憶損失の関係性


記憶損失者はえてして、「記憶を取り戻そう」としてしまうものなんだと私は思っている。

その当該記憶を「無くした状態」からスタートする。無くした記憶は生活にまったく影響しない。でも周りの人から「あの頃は……」「当時さ……」「ねえ覚えてる?」 なんて聞かされる。


そこで思ってしまう「無くした記憶っていったいどんなものなんだろう?」と。


自分が "欠けている" ことを自覚したとき、その空っぽの部分をどうにかして "満たそう"とするのが人間だと私は考える。


欠損から満足へ。


それは定められたように、胸の奥から響いてくる。


「取り戻さなくちゃいけない」
「追い求めなきゃいけない」


そんなふうに。


ポストが抱えている問題「実際の母親は存在しないのに【母親】という幻想を追い求めてしまうこと」。

これもまた、心という形に穴があき、それを埋めなおそうとする心的行為なのかもしれない。そう思った。


愛は等分可能ですか?


マキの元へ母親は帰ってきた。感動の再会といってもよかった。母親は娘にいう。


「私はあの人を愛している」

「マキはここでお友達といるほうが幸せになれるの」


なるほど。私は思ったんだよ。ああ……「愛」は等分不可能だったと。「愛」とは感情である。感情は無限ではない有限である。「愛」は有限なのである。

「愛」を与えてもらえる人間には限りがある。そして一人を愛してしまえば、ソレ意外の人には等分なんてできない。分けてあげることができないものだと直感的に理解している。


愛の総量が少ない人は、1人以上を愛せないんだ……。


親を捨てろ。嘆きを吐きだせ。怒りをぶちまけろ



ミキは母親に捨てられた。
そして、施設に受けいられようと愛想を振りまき始める。
空元気いっぱいに洗濯をしはじめた。

そんな彼女を観て、ポストはミキの手をつかむ、強引にひっぱり外に出た。


「母親に捨てられた、んじゃない。捨てるんだ」


そう言った。今日という日を、私達が、親を捨てた日にするんだと―――。


その為には、し返さないといけない。感情をぶつけるしかない。ミキは母親の思い出の品である香水を、母親の家にある窓ガラスにぶち当てた。もちろん窓ガラスは割れる。

ポストは言う。存在しない母親を捨てることはできない。だから私は「名前を捨てた」と。ゆいつ親が残したものを捨てさる。ゆえに自分は「ポスト」であると。


ポストはミキに言う。だれでもいい私でもいいからその怒りをぶちまけろ、誰かに当てろ。じゃないと引きずることになるぞと。

ポストはやさしい。ミキを思って、ミキの痛みをどうにか和らげようとずっと手伝ってきているのだから。

泣きながら、前に進む姿は、いいなあと思うのだ。

「私達は誰も知らなかった。昨日も今日もいたママは明日にはいなくなるなんて、……っ……突然いなくなるなんて…明日……ママが……いな……っ」

―――ポスト



おわり

とてもいい物語でした。まさかこんな作品が(日本の)テレビドラマにあるとは……。アニメ見慣れていると一時間がちょっと長く感じましたが、問題ないでしょう。うんうん


今期このテレビドラマを見ることにします。時間あったらちょくちょくと感想書くようにしたいなと。


またね!



<参考>

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