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自己理解がはかどる『内向型人間の時代』をよみよみ感想(14376文字)

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内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力

 多くの内向型は同時に「過度に敏感」でもある。この言葉は詩的に聴こえるかもしれないが心理学で実際に使われている表現だ。敏感人は普通の人よりも、ベートーベンのソナタに深く聴きほれたり、スマートな言い回しや特別な親切に強く感動したりしがちだ。暴力や醜悪なものを目にしたり耳にしたりするとすぐに気分が悪くなりがちだし、道徳心が強いことが多い。

――内向型人間の時代(講談社)p21

 

 本書によれば内向型は脳の扁桃体(=古い脳)が敏感であり、高反応なのだそうだ。刺激に強く反応してしまうからこそ、彼らは静かな場所を好み、芸術に深く潜り込み、光や音が洪水のように迫りくる(刺激過多な)カジノ等にはひどく疲れてしまう。

逆に外向型は刺激に対して低反応であり、(内向型からすれば)強い刺激を求めるが故に、積極的に人に会いに行き、スピーチやパーティーは楽しい気分にさせてくれる。

とはいえ扁桃体が高反応ではない内向型、その逆もありえるとのことなので一概に「高反応=内向型」「低反応=外向型」と言えるわけではない、がその傾向は見られるとのことだ。 

性格は変更可能だが、そういった気質(=刺激に高反応かどうか)は生涯変わることないといった研究結果を紹介したり、現社会では適切に評価されていない内向型の(知見に富む)視点を開拓し『外向型バンザイ!』といった風潮に一石を投じる内容になっている。

また外向型-内向型カップルのすれ違いの多くは、「相手には充電期間が必要」「高刺激なイベントがなくてはならない」――という両者の気質の理解がカギになるという指摘はためになるのではないかと思われる。

 

 (前略)エミリーは大変な仕事を抱えているので、帰宅して夜になるともうエネルギーは残り少なくなっている。グレッグと一緒にいるのはうれしいが、食事に出かけたり元気に会話をしたりするよりは、おとなしく並んで座っていたときがある。ただ一緒にられるだけで十分なのだ。それはエミリーによってはごく自然だが、グレッグは彼女が同僚のために努力するのに自分のためにはそうしてくれないと感じて、傷ついてしまう。

(中略)

 外向型にとって、忙しい一日の終わりに内向型が充電の必要をどれほど切実に感じているかを理解するのは難しい。パートナーが眠る暇もないほど忙しく働いていれば、帰宅して口がきけないほど疲れているのはもっともだと理解できるが、社会的な刺激に耐えられないせいでそんな状態になると認識するのは困難なのだ。

――内向型人間の時代(講談社)p288

 

内向型の人物像がわからないならば映画『ウォールフラワー』のチャーリーを、外向的生活の極みは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のアルコールドラッグ&セッ久のあれを思い出してくればよいと思う。

あれは内向型は全く憧れないし、むしろ「死んでも味わいたくない」ものではないかと個人的に考えているがさていかに。(脱線)

本書はやや結論ありきな考え、ソースが不明確、学術面が不足している章、といったマイナス面もあるが――第三章の日本人は従属に対して喜びを得る等――内向型・外向型両方に得るものは多いはず。興味あればぜひ一読を。

以下、気になった箇所の感想。

 

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感受性の強さは、要するに生得的なもので?

 

ケーガンの研究チームは、子供たちに刺激を与える際に、心拍や血圧や指先の温度や、神経系のさまざまな数値の変化を選定した。それらが脳内の扁桃体と呼ばれる器官によってコントロールされると信じられているからだ。扁桃体大脳辺縁系の奥に位置し、ラットなど原始的な動物にもある原始的な脳だ。「感情脳」とも呼ばれ、食欲や性欲や恐怖といった根源的な本能の多くを司っている。

 扁桃体は脳内の感情スイッチの役割を担っており、外界からの刺激を受けるとそれを脳の他の部分へ伝え、神経系に司令を出す。その機能のひとつは、外界の新しいものや脅威になるものの存在――たとえば、飛んでくるフリスビーや、シューッと音を発して威嚇するヘビ――を即座に感知して、瞬時に闘争-逃走反応の引き金を引くことだ。フリスビーが顔面を直撃しそうに見えたとき、屈んで避けなさいと命じるのは扁桃体だ。(中略)

 ケーガンはこんな仮説を立てた――生まれつき扁桃体が興奮しやすい乳児は外界からの刺激に対して大きく反応し、成長すると、初対面の人間に対して用心深く接するようになる。そして、この仮説は立証された。つまり、生後四ヶ月の乳児が刺激に対してまるでパンクロッカーのように大きく手足を振って反応したのは、外向型に生まれついたせいではなく、彼らが「高反応」であり、視覚や聴覚や嗅覚への刺激に強く反応したせいだったのだ。刺激にあまり反応しなかった乳児は内向型だからではなく、まったく逆に、刺激に動じない神経系を備えているからなのだ。 

  扁桃体の反応が大きいほど、心拍数が多く、瞳孔が広がり、声帯が緊張し、唾液中のコルチゾール(ストレスホルモン)値が高くなる。つまり、刺激に対してより強い苛立ちを感じるわけだ。高反応の子供たちは、成長するにつれて、生まれはじめて遊園地へ行くとか、幼稚園へ通いだして知らない大勢の子供たちと触れ合うとか、さまざまな形で新しい刺激を受ける。

――内向型人間の時代(講談社)p131

  

いわゆる「感受性」とは刺激に対して高反応/低反応であり、そしてそれは生得的なものであると考えてよさそうだ。

内向型が芸術作品に入れ込むのは、(外向型からすれば)ちいさい刺激で十分味わえるためであり、その刺激が彼らにとってちょうどよい塩梅(=楽しい)からこそ長い時間共に過ごせるのだろう。

絵、写真、音楽、物語……ときにそれらを生きる喜びや人生の恵みだと(外向型からすれば遠大すぎる)ものと表現するのは、彼らにとって紛れもない実感としてそう感じられるからかもしれない。

つまり「ただの糊」が「ただの音」が「ただの文字」が、現実情報と同程度に彼らは感じられる。感じることが出来る、のだと。

 

 もうひとつアーロンが気づいたのは、とても敏感な人は時として強く感情移入することだ。それはあたかも、他人の感情や、世界で起きている悲劇や残虐な出来事と、自分とを隔てる境界が普通よりも薄いかのようだ。彼らは非常に強固な良心を持つ傾向がある。過激な映画やテレビ番組を避ける。ちょっと間違った行動を取れば、どんな結果が生じるかを、鋭く意識する。他の人たちが「重すぎる」と考える、個人的な問題のような話題に関心をそそぐことが多い。

――内向型人間の時代(講談社)p175

  

そして、それをもたらす前提が扁桃体が高反応かどうか――であるのならば、低反応な場合はどうすればいいのだろう? 感受性を"鍛える"ことは可能なのか。そして高反応が鍛えた結果極度の高反応になった場合、日常生活は送れるのか気になるところだ。

ただ高反応であろうと、低反応であろうと、自身が「最も気持ちよく感じられる状況」は個々人異なるので、それぞれ適した場所で楽しんだりするのがいいのかなとは思う。わざわざ苦手な方向に力を注ぐ必要はないのではないか。

つまり――二元論でわりきっちゃうと――内向型があらゆるものを深く感じる(それがイコールで楽しい事だと結びつくとは限らないが)素地があったとしても、外向型は冒険や人間関係を楽しめる素地を持っているというだけに過ぎないのだと。

中立的な表現をやめにすれば、やはり "立場" によって感受性に優劣はあるのだなと思ってしまう。つまり芸術作品を楽しむのならば脳が高反応なほうがいいし、リアルを満喫するならば低反応なほうがいいのかもしれない。

 

 

観察し、熟考する内向型

 

 じつのところ、高反応の子供たちの神経系は、恐ろしいものだけではなく、すべてのものに敏感に気づくように結びついているようだ。高反応の子供は人間に対しても事物に対しても「注意を喚起」する。彼らは決定をくだす前に選択肢を比較するために、文字どおり目をより多く動かす。その様子はまるで、周囲の世界に関する情報を、意図的にせよそうでないにせよ、ひどく真剣に処理しているように見える。

(中略)

 高反応の子供はまた、自分が気づいたことについて深く考えたり感じたりして、あらゆる日常的な体験から微妙なニュアンスを感じとる傾向がある。このことはさまざまな形で現れる。人との関係に関心がある子供ならば、他人を観察していろいろ考えることに長い時間をかけるかもしれない――ジェイソンはどうして玩具を貸してくれなかったのだろう? ニコラスがぶつかったときにメアリーはなんであんなに怒ったのだろう? といった具合に。たとえば、パズルを解いたり絵を描いたり砂の城をつくったり、なにかに特別に関心を持てば、並外れた集中力で取り組むことが多い。高反応の幼児が他の子の玩具をうっかり壊してしまったら、罪の意識と悲しみが混じった感情を低反応の子供よりも強く抱くと、研究は示している。もちろん、どんな子供も周囲のさまざまな事柄に気づき、それなりの感情を抱くが、高反応の子供は物事をよりしっかり見て、より深く感じる。科学ジャーナリストのウィニフレッド・ギャラガーは、みんながひとつの玩具を欲しがったらどうしたらいいかと七歳の高反応の子供に尋ねれば、「みんなの名前を書いて、アルファベット順に使えばいいよ」というような高度な答えが返ってくることが多いと書いている。

「彼らにとって、理論を実践に適用することは難しい。なぜなら、彼らの敏感な性分や複雑なやり方は学校内の雑多な状況にはそぐわないからだ」とギャラガーは書いている。とはいえ、この先の各章で見ていくように、こうした特質――警戒心、微妙なニュアンスへの敏感さ、感情の複雑さ――は過小評価されているパワーなのだ。

――内向型人間の時代(講談社)p131-133

 

 内向型はよく見て、よく考える。

ならばそこに割かれるリソース分、レスポンスは悪くなるのかもしれない。

日常会話がはずまない人、とっさの言葉がでてこず数秒間沈黙、どんなに場数を踏んでいても準備なしのプレゼンや質疑応答がうまく出来ない・・・といった人々はリアルタイム情報を処理するのに時間が掛かっているのかもしれない。

そう考えると、なるほどなと納得できる自分がいる。

私自身は予め会話する人物が決まっている/想定外の人物と会話する可能性が織り込み済みだと――モードを変えて――対人関係はそつなくこなせたり(こなせなかったり)する人なのだけど、考慮していない質問、想定外の人物とばったり会うと咄嗟のレスポンスが悪くなり(ひどい時には)錆びついた車輪のようにぎちぎちと回転が悪くなってしまう。

あれはそういうこと? なんて思ったり。

相手への応対をまず――自己内で評価/分析するため――こういった事態が起きるのかもしれない。

また引用した文章のように、◯◯さんはなぜあんな仕草をしたんだろう? あの声音は怯え? ☓☓を放置するのは彼にとって気に入らないということ? じゃああの時私自身はどういった振る舞いをすれば良かったのか、どういった言動が最善だったのか――――えんえんシュミレートするのはよく分かるし、私自身日常茶飯事だ……。

この他にも私は自分が開示した情報を把握することに努める傾向があり、例えば会話の中で「Aさんを褒めた」「私は◯◯という考えを持っている」「最近、■■に興味があってね」etc……それらを誰に、どのように伝え、そのせいで起きる影響を自動思考してしまう癖がある。

つまり、相手に与えた情報を仔細に記憶しチェックしているということ。

このブログでも開示した情報、思考、応対もこまかに把握していて「この情報は身バレしそうなので示さないでおこう」とか「これは2年前の記事と矛盾していい感じ」とか「こういう態度を取れば侮ってくれるだろう」というように生まれる影響を考慮し、あるいはそう努めていると言えばいいか。

内向型は不安障害・鬱病になりやすいと言われるのは、この観察と熟考による認知プロセスが大きいのだろう。

そりゃね、こんなことばっか考えてたらメンタル駄目になるよなあと。私はまだ精神病にかかったことはないけど、そうなってしまう人の状態は簡単に想像できてしまう。

かくいう私も数年前はほんっとーに「考える」ことを忌み嫌っていたくらいに。今はそれほどではないし、わりと好きになっているのだけど、

 

「頭の中でずっと、埒の開かない、答えのでないことをぐるぐる考えているから心が重くなるんだ」

「まあ『考える』という行為は、実際に『思い出している』だけだからね。
どうしようもなく思える悩み事を考え続けたらいつかは解決に辿り着くなんてのは幻想だよ」


――花物語

  

雄二「人間は頭がデカくなりすぎた。
 だからなぜ人は生きるのか、などと答えのないことを悩むんだ。
 動物は命の連鎖の中で、その日一日を生き延びることに必死だろ」

雄二「人間も、本来ならそこで思考を留めるべきだったんだ。
 手に石を持ち、それを同類に振り下ろした時から計画が狂ってしまったのかもしれないな」


みちる「なんだかよくわからないな。あまり面白い話でもないし」

 

――グリザイアの果実

 

これらの意見は同意しちゃうところなので。

「考える」(=結論まで導きだすoutput)と、「反芻思考」は区別しておきたい所でもある。そしてできるだけ反芻思考を予防しておくといいのではないかと、本書を読んで思うのだ。

(この気質は、刺激過多な社会では生きにくい上この上ないなとしみじみ)

戯言遣い』のいーくんが(2巻だっけな?)「君も、自分を見ている"目"について知っている?」(ニュアンスはあってると思うんだけど言葉は全然違うかも)みたいなこと言ったり、

最終巻で依頼人が帰ったあとすぐさまドアの鍵を閉めるのではなく、一呼吸置いてから閉めることについて「施錠という行為は拒絶を意味するので気をつけないとね」みたいなことを言っていたと思うんだけど、ああ、いーくんも自己を観察しすぎだよねと……笑。

(笑い事じゃないけど!)

 

 

 内向型といってもひとくくりにはできず

 「ノー!」ケーガンは大声で否定した。「どんな行動にも複数の理由があるものです。それを忘れてはいけない! 統計を取ってみれば、エンジンがかかりにくい子供は高反応の例が多いでしょうが、生まれてから三年半の体験が大きく影響している場合もあるのです! ライターやジャーナリストが話すとき、一対一の関連で物事を判断したがります。つまり、ひとつの行動にひとつの原因というわけです。だが、重要なことを忘れないでください。エンジンがかかりにくいとか、内気だとか、内省的だとかいう性質が生じるには、さまざまなルートがあるのです」

 ケーガンは、神経系との関連の有無にかかわらず、内向的な性格をもたらしうる環境因子をつぎつぎにあげた。子供は頭のなかで新しいアイデアを考えて、そのせいで時間がかかっているのかもしれない。あるいは、健康上の問題が心のうちに影響を及ぼしているのかもしれない。

(中略)

私の内向性は100%遺伝性から来ているのかもしれないし、

そうでないかもしれない――あるいは、遺伝子と経験がなんらかの割合で混じり合っているのかもしれない。それが生まれつきのせいか育ちのせいかと問うことは、雪風は気温のせいか湿度のせいかと問うようなものだとケーガンは言う。両者が精妙に影響し合って、私ができているのだ。

―内向型人間の時代(講談社)p137

 

物事は複雑だということは分かっていても、それをひとつひとつ踏まえることはひどく面倒くさいものだ。人は0と1の話に飛びついてしまい、二項対立にとらわれてしまう大きな要因はきっとこれだろう。

しかし、複雑なものを複雑なまま捉えることは困難なので、私なんかは「複雑だよね。うんわかる。でもここでは01で考えさせてね」みたいなやり取りを自己内で行なってしまう。本記事もその前提ですはい。

 

 

 中身のない会話を楽しめるか

 

(前略)、高反応の小学一年生が絵合わせゲームや単語ゲームで低反応の子供よりも時間をかけたという、ジェローム・ケーガンの実験結果とよく似ている。そして、ストーニーブルック校の研究チームの責任者であるジャッジア・ジャギーロウィッツによれば、敏感なタイプの人はひどく複雑な方法で考えていた。そのことは、彼らが雑談で退屈してしまう理由を説明するのに役立つかもしれない。「もし、あなたが他人よりも複雑に物事を考えていたら、天気の話や休暇の旅の話は、道徳の価値について話すよりもおもしろくないでしょう」と彼女は言った。

――内向型人間の時代(講談社)p175

 

私自身は「中身のない会話」を楽しめちゃう人なので、ここらへんはよくわからない。 血液型診断が科学的に否定されても尚相手が投げるならばキャッチするし、今日の晩御飯から天気、取るに足らない(基本的に嫌いな)誰かの噂話まで乗っかって楽しんでしまう。(ただしテキストベースだと事情はやや異なる。好意を抱いている人物では乗っかることが多いが、そうでない場合おざなりな反応が多いかもしれない)

ただ周りを見渡すと「なぜ彼らは益体のない会話が出来るの」とか「今日はいい天気ですね、って一体何なんだよ分かんねえよ」という意見も見かけるので、楽しめない人がいるのも知っている。

その理由の一端が「物事を複雑に考えるからこそ」だと考えれば、すこしは納得でき・・・うーんどうだろうか。それが日常会話を楽しめない下地になるかと言われれば疑問なところだ。

そういうのって「会話の"内容"を楽しむ」ことはできるけど、「会話をきっかけにした"対人コミュニケーション"を楽しめない」だけなんじゃないか? 

複雑に物事を考える(=会話というコンテンツを楽しむ傾向がある)ことと、人とのコミュニケーションそれ自体を楽しめないことには因果関係を見いだせない気がするが……。

 後者を楽しめない人は、基本的に「その人」あるいは「人全般」に興味がないだけなんじゃないか。

 

SNS

 

外向型はかんたんに自己を開陳するが、内向型はしない。

彼らはおおむね無表情で、何を考えているのかわかりにくく、取っ付きづらい。(もちろんそういうことに気づき笑顔をみせ、自分はこういう人ですよーと分かりやすく振る舞う人もいる)

しかしSNSでは親や友人が読んだら驚くような「本当の自分」をぶちまけ、生き生きと自分をアピールする。言いたいことを言い、表現したいことを表現する、そのあり方デジタルコミュニケーションが導いたのだとすれば歓迎すべきものだろう。

SNSはテキストベースなコミュニケーションに、ふわっと画像や音楽を添付できるサービス。これによって現実よりも刺激が少ない状態で、緊張せず、動揺せずに対人交流がはかれるのだと思う。

ただ私自身はSNSでも刺激過多に感じており、時にまいってしまうことがある。

最新のニュース、著名人のゴシップ、素人の鋭い視点、いいね!……情報刺激によって脳がやたら興奮しオーバーヒートしているように感じてしまう。しまいにはそっと距離を置くことも何度かあるし、逆にいうと脳がトップギアに入っているの返信・思考・対談時はパフォーマンスが(主観的に)上がっている気さえする。

ただリアルで疲弊している時に、安易に開いてしまって追い打ちをかけられるパターンは少なからずあるので「私にSNSって必要かー?」って度々思ってしまう原因にもなっている。

もちろん! お話に付き合ってくださるフォロワーさんには感謝感謝なのですが、それとは関係なく疲れてしまう自分がいるのはなんでかなあと思ってたところに、本書は納得できる答えをくれたような気がします。

 

 

感情の立ちあがりかた

 

私は小さい頃からあんまり「限界まで怒れない」タイプの人間で、ギリギリまで踏み込ませて、最後の一線を超えたら怒るような感じだった。

それはともすれば「他者に怒っていないから何をしてもいい」と思われる原因にもなるし、つまるところ舐められる機会にも繋がるので、「怒り」という感情をなんとかかき集めて早い内に怒ろうとしていた過去がある。

違う見方をすれば、(咄嗟の)私の感情は、立ち上がり方が遅いので"もたもた"している印象を受けるのだ。特に怒りの感情はよくそう感じる。「はやく怒りなよ。はやく怒りに火をつけなよ」と急かす自分さえいる。「はやく一線を超えろよ」と相手に願っている事もある。

そのせいか分からないけど、「ここは怒る所だから怒ろう」というふうに感情をでっちあげ、仮想された気持ちを走らせて行動を起こすことがある。激情に身を任せ(フリ)ている自分と、冷静にそれを眺めている自分が、外界の「怒っている私」を操縦している気分になることが多いのだ。

もちろん単純にカチンときて自然発生的に怒りを立ち上がらせることもある。

――で、思うにこの怒り感情の立ち上がり方の遅さはどういうことなのだろう?と思うわけだ。

内向型の文脈をぶちこむのであれば、観察と熟考による気質が、いつの間にか「自己感情を常に観察しそれを表に出すか管理する性分」にまで至ってしまったと考えてもいいかもしれない。

逆にいえば「表に出してもリスクがない環境」であれば――空間内に自分一人だけならば――怒りはすぐ表情と行動に直結するという仮説もでてきそうだ。たしかに・・・思い当たる節はある。(一人でいるときは喜怒哀楽への"もたもた"感はなりをひそめて一瞬にして立ち上がるので)

「怒り」というのは相手、あるいは周囲に与える影響がとても大きいので(私に対する評価も含まれるからより)、より「出すか出さまいか」のチェックが厳しく、怒るまで相当時間がかかっていた要因だったんじゃないだろうか。

そう考えると納得できるかな……。

 

 

人がいると「アプリケーション」が立ち上がる

 

疑問なのは、内向型にとってなぜ人は刺激が強いのか? なぜ太陽の熱線や、文学、芸術は刺激がちょうどよく感じられて、人といるエネルギーをガンガン消耗してしまうのか?

ここは言及されたいないので考えてみると―――彼らは人と対峙すると「他者読解アプリケーション」とでも言うべきものを起動させるからではないか。

彼らはよく見て、よく考える――それは相手が何を考え、何を思い、どのように行動するかも当然含まれる。相手に「心」があることを前提としその心を推測することで、その目的は果たされるのではないか。いわゆる心の理論というやつだ。

であるならば、内向型は人と対峙したとき、常に(多くのリソースを使って)他者読解を行っているのではないか。

  • 口元が片方だけ釣り上がる――軽蔑の合図。
  • 一瞬声のトーンが高い――噓の兆候。
  • 肩がさがる――落ち込んでいる。
  • いつもと歩幅が違う――何かあったか?

 表情、仕草、声色・・・・あらゆる情報を取り込み、自己内で処理する。

それを会う人、会う人、つねに実行する。もちろん相手の心を検討した上で、適切な自分の行動(=表情+声音+言葉)もリアルタイムで弾き出さなければならないのだとしたら――そう考え、そうあろうと意識的・無意識的に思っているのであれば――きっととても疲弊してしまうだろう。

これが内向型が人と会うことに躊躇したり、自分のオフィスに入られるだけでイライラする、集中しているときに話しかけられると苛つく原因なのではないか。

莫大なエネルギーを消費するアプリケーションが自動で立ち上がってしまう故に、そして不用意に起動したくない故の反応であると、考えられるかもしれない。

 実際どうかわからないけどね。でも私は納得できたようん。

 

 

道徳意識

 

本書では内向型は道徳意識が強いことが多いと語られる。ただなぜ「そうなるのか」は示されないので考えてみる。

おそらく、自分にとって心地いい環境づくりの一環なのだと思う。

社会が定めた道徳観というのは端的にいえば「みんなの居心地が悪くないようにしよう」というもので、親切な態度、心ある言葉、礼儀を奨励する。つまりお互い不用意に傷つきにくい場を生みだそうとしている。

彼らは敏感で、動揺しやすく、傷つきやすいからこそ「他者を安易に傷つけることを善しとしない場」が必要なのである。だから率先して自ら道徳を守り、ひいては相手にも守ってもらうことを願っているのではないか。

ゆえに相手を傷つけないようにするし、不用意に傷つけたくないからこそ――不用意に自分を傷つけられるのを厭う裏返しによって――言葉を吟味し、丁寧な行動を心がける。

逆にいえば何も考えず、思うままに喋り、強い言葉を吐き出す人々を、内向型は嫌うのだろうと思う。 

二元論でわりきると、外向型は刺激に鈍いのでちょっとした言葉では傷つかないかもしれない。けれど内向型は「そんなことで?」と思う言葉で傷ついてしまうからこそ、道徳というのはやわらかい盾となり得るのだ。

そしてその道徳意識に行動と思考を縛られていることに気づくと、とても窮屈に感じられて、今度はその道徳意識を崩そうとするのも内向型あるある・・・だったりするんだろうか。いやわかんないけどね、私はそうだっただけで。

 

 

孤独感が希薄

 

内向型はひとりでいること、プライベートな時間と空間によってエネルギーを得るらしい。

私自身も孤独感が希薄で、ひとりでいることを苦痛に思ったことがない。何ヶ月も親しい人に合わなくても全然OKだし、第二次性徴期では「人は一人で生きれない」(=自我が発達した我々が今から誰一人いない世界にほっぽり出されたら狂うしかない。そんな絶望的なシチュエーションに我々は置かれている)ことを皮膚感覚で実感したときは目の前が真っ暗になった。もちろん気心がしれた人といると楽しいし、好きなのだけど、それとこれとは別なわけで。

以下は20年以上一人で森で暮らすクリストファー・ナイトについての記事であり、彼の人生を眺めた記者のコメント。

 私はときどき、例えば車を運転していて、後部座席では3人の子供が喧嘩をし、約束の時間には遅れそうで、渋滞は動かず、ラジオが嫌なニュースをがなりたてているようなときに、こんな強烈な思いにかられます。おかしいのはナイトではなく、私たちの方なのではないかと。なぜナイトが社会を離れたのかではなく、なぜ我々はそうしないのかと問うべきなのかもしれません。

――27年一度も人と接触せず、ある森の「隠者」の真相 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 

(今は)そうは思わないけど、そういう気持ちを理解できるよね。

 

 

 雑感

 

内向型は恐怖・暴力的なコンテンツを遠ざけると語られるけど、私自身はこれに当てはまらない。小さい頃からジェットコースターは好きだし、ホラー映画や血なまぐさい作品も好んで見ていた。

また他者と口論のときは、内向型がみせる静かな応対ではなく、外向型に近い攻撃的な対応をとり(必ずしもそのモードになるわけではないが自分が定めた一線を超えらるとそうなる事が多い)。それはより強い刺激を相手にぶつけ、相手にぶつけられるのを望んでいる闘争モードのようなもので、その状況を楽しんでいる事さえある。

と思ったら勝ち負けを決めるような態度ではなく、現実的な妥協点(互いに少しづつ負けるような)静かな応対をすることもあるので正直よくわからない。もちろんケースバイケースだとは思うのだけど。

やはり「内向型」といっても一辺倒にくくれるわけではなく、ある程度の傾向をつかみ、大まかな自分(と他者)を理解するための物差しくらいに使うのがいいのだと思う。

別の本では「極端な外向型と、極端な内向型の連続線上のどこかに私達は位置するのだ」と語るものもあるので、そんなふうに柔らかく考えるとよいかもしない。

ただこういう「気質の在りか」を教えてくれると、自分という個体を単純化してくれるので理解しやすくなるんだよね……。自分の生きづらさを「自我」の問題にしてしまうと泥沼になってしまうけど、これが「遺伝子的に、生理的にそうなっている」とされるとそっかそっかー、って気持ちが楽になるの不思議。

多分、責任の所在が「どうもしようがない部分」に割り振られるからだろうけど。

 

 

 メモ

ランの花

 

 極端に高反応の子供たちの運命は周囲の環境によっても影響される。デヴィット・ドブスが『アトランテック』誌に発表した論文で主張した「ランの花」仮説によれば、彼らは標準的な子供たちよりも強く周囲から影響される。この理論によれば、大半の子供たちはタンポポの花のように、どんな環境もでもたくましく成長する。だが、そうでない子供たちは、ケーガンが研究した高反応のタイプを含めて、ランの花のような存在だ。ランの花は枯れやすいが、適切な状況のもとでは強く育ち、みごとな花を咲かせる。

(中略)そういう子供は標準的な子供とくらべると、逆境に置かれると悪影響を受けやすいが、よい環境で育てられることで受ける恩恵も大きいという。つまり、ランの花タイプの子供は、よきにつけ悪しきにつけ、あらゆる体験から影響を受けやすいのだ。

 科学者たちは高反応の気質には危険因子がつきものだと知っていた。そういう子供は、両親の不和や死、虐待などに対して、非常に脆弱だ。そんな体験をすると、鬱状態に陥ったり、不安に襲われたり、極端に内気になったりする傾向が標準的な子供よりも強い。それどころか、ケーガンが高反応とする子供たちの四分の一は、程度の差こそあるものの強い不安を主訴とする「社会不安障害」と呼ばれる状態に悩まされている。

―内向型人間の時代(講談社)p142

 

  人間を対象にした実験では、ストレスの多い家庭環境におかれた場合、短いSERTを持つ思春期の少女たちは、長い型のSERTを持つ少女たちよりも鬱状態になる確率が二十%高かったが、安定した家庭環境にある場合には、鬱状態になる確率は二十五%低かった。同じように、短い型の遺伝子を持つ大人は、ストレスの多い一日を送った夜には、長い型の持ち主よりも不安を感じることが多いが、平穏に過ぎた日の夜にはより少なかった。道徳的な価値葛藤(※ルビ:モラルジレンマ)に直面すると高反応な四歳児は他の子供たちよりも向社会的な反応を示す――だが、この違いは、五歳になると、母親に穏やかで厳しくないしつけをされた子供だけに残る。支援してもらえる環境で育った高反応の子供は、他の子供よりも風邪や呼吸器疾患にかかりにくいが、ストレスの多い環境で育つと、そうした病気にかかりやすくなる。

――内向型人間の時代(講談社)p144

 

 「高反応の子供を持つ親は非常に幸運だ。なぜなら、子育てに手間ひまをかければ、かけただけ報われるからだ。わが子は逆境に弱いのではなく、よくも悪くも影響されやすいと考えるべきだ」とベルスキーは言う。彼は高反応な子供に対して、親はどんな態度で接すれば理想的かを雄弁に語った。子供の気持ちを慮り、個性を尊重すること、ことさら厳しくしたり敵対したりはしないが、温かくしっかりと要望を伝えること。好奇心を育て、学業を奨励し、自分の満足を後回しにしたり自分をコントロールしたりする気持ちを育むこと。厳しすぎたり放任しすぎたりせず、一貫していること。これらの助言は、すべての親にとって非常に参考になるが、とくに高反応の子供を育てる親にとっては欠かせない。

――内向型人間の時代(講談社)p145

 

 遺産と性格形成

(中略)その結果、乳児期に高反応だった子供たちは低反応だった子供たちよりも、見知らぬ人の顔写真に敏感に反応したという。つまり"成長しても高反応。低反応の痕跡は消えなかった"。10代後半になって、高反応グループの一部は社交的な若者に成長していたものの、遺伝子の遺産は消え去ってはいなかったのだ。

 シュワルツの研究は重要な事実を示唆している。性格を変化させることはできるが、それには限度があるのだ。年月を経ても、生まれたもった気質は私達に影響をもたらす。遺伝子や脳や神経系によって運命づけられている。とはいえ、高反応の子供たちの一部には柔軟性が見られたことは、その逆もまた真だと示している。私たちには自由意志があり、それを使って性格を形づくれるのだ。

――内向型人間の時代(講談社)p150

 

 ブレインストーミング

 結果は非常に明快だった。二十四組のうち二十三組の人々がグループよりも個人で考えたほうがたくさんのアイデアを生み出した。また、質の点では、個人作業で生まれたアイデアは、集団作業で生まれたアイデアと同等あるいはそれ以上だった。

(中略)

 これ以後四十年以上にもわたってさまざまな研究が続けられたが、結果はつねに同じだった。集団が大きくなるほどパフォーマンスは悪くなることが、研究から立証されているのだ。四人のグループよりも六人のグループのほうがアイデアは質・量ともに低下し、九人のグループではさらに低下する。「科学的な証拠からすると、集団でのブレインストーミングを採用するのは正気とは思えない。

能力とやる気がある人々には、創造性と効率が最優先で求められる場合には単独作業をするよう勧めるべきだ」と、組織心理学者のエイドリアン・ファーンハムは書いている。

――内向型人間の時代(講談社)p113

 

 集団による認知の変化

 思い返してみれば、アッシュが知りたかったのは、被験者が集団の意見は間違っていると知りながら同調したのか、それとも集団によって認知が変化させられたのか、ということだった。もし、前者が正しければ、意思決定を司る前頭皮質で活動が活発化するはずだと、バーンズらは推論した。逆に、視空間認知を司る部分の働きが活発化していれば、集団がなんらかの形で個人の認知を変化せたのだということになる。

 結果はまさに後者だった。集団に同調して誤答した人の脳内では、意思決定に関わる部分ではなく、視空間認知に関わる部分が活性化していたのだ。要するに集団によるプレッシャーは不快なだけでなく、あなたが問題をどう見るかを実際に変化させるのだ。

 これらの初期の発見は、集団がまるで幻覚誘発物質のように作用することを示唆している。集団が答えはAだと考えれば、あなたはAが正答だと信じてしまう傾向が強い。「よくわからないけれど、みんながAだと言っているから、そうしておこう」と意識的に考えるのではなく、「みんなに好かれたいから、答えはAにしておこう」というものでもない。もっとずっと思いがけないことが、そして危険なことが起こっているのだ。バーンズの実験で集団に同調した被験者の大半は、「思いがけない偶然で意見が一致した」から時分も同意見だったと報告した。つまり、彼らは集団からどれほど強く影響されているか、まったく意識していない。

 ――内向型人間の時代(講談社)p117

 

 最適な刺激

一九六〇年代終わりから数十年にわたって、著名な心理学者のハンス・アイゼンクは、人間は強すぎずもせず弱すぎもしない「最適な」レベルの刺激を求めているという仮説を主張した。刺激とは、私たちが外界から受ける力のことで、さまざまな形をとり、たとえば騒音も社交もまぶしい光も刺激となる。アイゼンクは、外向型の人は内向型の人よりも強い刺激を好み、このことが両者の違いの多くを説明すると信じた。内向型の人がオフィスのドアを閉めて仕事に没頭するのを好むのは、そうした静かで知的な活動こそが彼らにとって最適の刺激だからであり、それに対して、外向型の人はチームビルディングのためのワークショップのまとめ役とか会議の司会など、より積極的で明るい活動に従事しているときがもっとも快適に感じる。

――内向型人間の時代(講談社) p156

 

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