猫箱ただひとつ

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言葉にするほど、共有すればするほど作品の価値は失われる。そういう気持ちを覚えることがあるんだよ

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物語とは数百、数千の要素が結合し、複雑な図像を描いているものだ。それは本来とりとめのない漠としたもの。

しかし「言葉」とはその複雑さを切り落としミニマルなものに置き換えてしまう。輪るピングドラムを■の一文字で表したところで、輪るピングドラムが24話かけて走り抜けたものの1ミリも表現できないのにも関わらず、それで納得してしまうかもしれない。

それはきっと、当該作品における要点であるからだろう。

しかしだからといって■が当該作品のすべてを言い表しているわけではないし、当然、その言葉からは抜け落ちた多くの――とても多くの――ものがあるのは言うまでもない。

ならば『輪るピングドラム』は言葉にされえない映像作品こそが『輪るピングドラム』であり、イコール足り得るのはA=Aであって決して言葉にされた"B"ではないのである。もちろんたった一文字に関わらず、何万文字を費やした批評文物も違わない。(当たり前?OKOK)

だが残念ながら私達は「複雑なものを複雑なまま」受け取ることは出来ないのだ。複雑なものを処理するためには、サラダのレタスのようにちぎって、ちぎって、咀嚼できる大きさにしなければならない。

でなければ凄まじい情報量に圧倒され、それを理解することも、記憶し、注意を向けることさえ叶わないだろう。もしかしたらそれが "複雑" であることすら認識さえ出来ないかもしれない。

――それを分かつのが「言葉」だ。

幾億の言葉を用いれるOSを有しているからこそ、我々はあらゆるものを言葉に置き換え、それに当てはまる意味で処理することが可能だ。処理できなければ処理できないというフィードバックを得られるし、"言葉"の枠組みを捉えなおし、拡張し、あるいは言葉自体を増やすことで理解できなかったりモノの理解をより深めることだって出来る。

私はそのように「物語」と「言葉」を捉えており、一辺倒にありのままに受け入れる方がいいとか、言葉にすることが最上だとは思っていない。ただこの2つは切っても切り離せないのだと考えているわけだ。

――言葉にすることでその物語に踏み込むことができ、言葉にしないからこそその物語を直視できる。そのどちらかが良いのかは物語によって、観測者によって、大きく変わることだろう。

私が『うみねこのなく頃に』の猫箱をなんとしてでも開けないように、けれど『去人たち』の心臓を刺し殺すことを決意したように。ね。

 

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でもね、それはどっちを選んでも辛いことなんだよ。

少なくとも私にとっては物語を言葉にすることは、(時に)苦しみであり、嫌になる。あの胸をとろけさせた体験は、涙で明かしたあの夜は、一瞬の美は、決してなにかで言い表せるものじゃない。

にも関わらず、無理やり矮小化し型にはめてしまうわけだ。その物語にあった豊穣さはワードに押し込めた分だけ欠け落ち、やがてはそのワードこそがその物語だと錯覚してしまうことさえある。

――それは、その物語を愛した私が取っていい行動なんだろうか?

――それは、その物語に救われた私が向けていい視線なんだろうか?

 

わからない。

わからないが、してはいけないと思う時がある。

そう感じるほどに「作品の言語化」とは痛みであり、この痛みはブログを開設した時から始まって、未だに消える兆候さえないときた。

だからか、だいすきな物語(の幾つか)は言語化しないまま秘めることだってあるし、他者に解りやすく語ったりはしないのだ。共有なんてしたくない。そうして数年後には言語化していなかったことに激しく後悔するのだから本当に厄介なことこの上ない。

"複雑"な体験は、複雑だからこそ、言葉にしておかないと時間がたてば風化してしまう。そりゃ、大雑把な印象は覚えているよ。けれど微に入り細に入りまでという程じゃない。

「自分がなにか大事なものを忘れているという損失感」

これは私にとって最悪の出来事・・・、だからこのブログを作って感情を、想い出を、体験を記述することを選んだのだよね。記録されたものはその「記録された分」ならば再起し、追認できるから。

あなたは数年前にプレイした『Forest』(Liar-soft)の概要をすらすらと話せるだろうか? トルンガは何を織り、魔女と賢者は何をハナシていたか、アリスの最後の言葉はどうだ? きっと覚えていないんじゃないだろうか。けれどもしもブログや同人誌などで、自分の考えや、物語の描写を言語化していたのならばそのいずれかは淀みなく応えられたかもしれない。

だいすきな物語をちゃんと手元に置けているという"実感"―――それはきっと言語化で得られるものだろうと思うんだ。そんな入り組んだ2つの気持ちを、私は覚えるんだよ。

あなたはどうだろう? そんな気持ちを感じたことがあるだろうか、それともないかな?

(了)

 

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